感謝している。奇談のヒーローたちの生きたあかしの断片は、まだまだ、あちこちに散在しているの でほないかと思う。あわせて、今後のご教示をお願いしたいところである。 古い時代の著作、新聞記事などの引用は、とくにことわらなくても、常用漢字、現代かな遣いに改 めたものが多い。もっとも、短い引用は、味を残すために原文どおりとしたものもある。 私が、「甦る幕末」展で、初めて清水清次の獄門首の写真を見たのは、昭和六十一年春のことであ った。異様な衝撃を受けた。見る人によって、感想はさまざまであろうが、不 ( ムこは、清水の表情はい かにも攘夷の志士のそれらしく、潔く思われた。百二十三年もたってク里帰りみし、故国の人々にこ んな表情を見せている男の人生を調べてみたいと思った。 図書館で、岡田章雄著「鎌倉英人殺害一件」を見つけ、なるほどと、一応は納昇しこ。 彳オただ、この 本は、事件発生などの前半が、不必要とも思われるほど詳しく、後ろになるにしたがって簡単になり、 最後は脱兎のごとく、あっけなく終わってしまう感し ( この事件に関するすべての資料がそうであ る ) なのが、ちょっと物たりなく、すっきりしないようにも感じられた。といっても、それ以上、積 極的に調べようとは思わなかった。それでも、出版元に注文して、この本を入手し、手元にとどめて おいたのは、ある種の予感があったからであろうか。 その年の八月十九日のことである。夏休みをとっていた。本棚が溢れてきたので、少し整理しよう かと、手にした本の一冊に「青木弥太郎懺悔談」の載っている「幕末明治実歴譚」があった。その日 の日記には、こう書いてある。 「ふと気が動いて『幕末明治実歴譚』などを手にとってパラバラとめくったら、驚いたですね。例の 226
申し合わせて外国人を殺害したのは、不届きこのうえもないことであり、引き回しのうえ獄門に処す る」 罪状を書いた立て札は、吉田橋のたもとだけではなく、鎌倉など、外人遊歩区域内の数か所に掲げ られたようである。川島老は、おそらく、まったく個人的な興味から、これを筆写したのであろう。 公式ルートのものでないからこそ、後世に残ったとも考えられる。 罪状の内容を要約すると、井田晋之助と間宮一は英人殺害の共同正犯である。間宮一は、すでに共 犯として処刑された清水清次を知らないといっている。しかし、年齢、格好が似ているので、井田晋 というのである。 之助と清水清次は同一人物に違いない、 川島老も、この判決の論理を素直にうのみにして、その談話のなかで、「その年の十一月初旬にな って、井田晋之助と申す者を捕縛致しましたが、この者は畠山郷之助、または平田鬼之助などと変名 致しておったもので、同月下旬、横浜在の戸部村刑場において清水清次と名乗って、斬罪につき獄門 首 に処せられました」と語り、めでたく、一件落着としている。しかし、事件一か月後に捕縛されたの 獄は、あくまで「清水清次」なのであって「井田晋之助、と名乗る男ではない。清水清次と井田晋之助 が同じ人物であるという証拠はどこにもなく、慕府が後になってわすかに持ち出した根拠は、「いす れにも晋之助年齢格好等清水清次にも引き当たり」という、ただそれだけである。年齢、格好が似て 志 いるから同一人物だというのなら、この世に同一人物がごまんといることになろう。 夷 / し子′し 人が偽名変名を使うときは、一定のパターンがあるのであり、とくに意識したはあいは 一別として、どうしても、本名と似た感じのものになってしまう。ここでいえは、井田晋之助が、畠山 第 郷之助、平田鬼之助などと名乗るのは、なるはど、とうなすけるが、清水清次は明らかに、そのパタ
あとがき 鎌倉外人始末の清水清次は、自分でやったわけではないのに、罪を引き受けたのであり、真犯人はあ とで処刑されたとある。こういうのは、何か『天啓』という感じであり、困難だけれど導かれるよう な気がして : : : 気が動くー 「天啓」はわれながらおおげさだとは思うけれども、本来、他人に見せるものではないので勘弁して もらおう。翌日、さっそく「鎌倉英人殺害一件」を読み返してみた。清次の供述は矛盾に満ちている。 」こ売んですっきりしないと感じられた部分も、それなりに納得でき 清次が真犯人でないとすると、前 : 言 る。 一日ではたりなかったけれども、吉田橋、外人墓地、願成寺、開港資料館、 数日後、横浜に行った。 に間宮の罪状が載っている 県立図書館、文化資料館などを大車輪で回った。そこで「横浜どんたく」 のを見つけた。この罪状は、青木弥太郎の話を十分裏付けるものであった。青木弥太郎懺悔談と間宮 一罪状の二つを主要な根拠として、この年の秋、「週刊読売」に「獄門首、百二十三年目の真実『お れは : : : 英人殺害犯ではない』」を、載せてもらった。私は、もちろん、清次にせ犯人を確信してい るし、これを読んだ人も共感してくれたようであった。しかし、弥太郎談のような、いわば、民間か ら出てきた〃証拠んでは、専門家はなかなか納得しない。 その後も、この事件に関する資科をばちほち集めていた。「続通信全覧」を読んだのは六十三年秋 のことである。この本は、その前年に出版という運のよさであった。こういう形で出版されなければ、 果たしていつ、原本を求めて外交史科館に行くことになったか、正直のところ、わからない。 ともあれ、このれつきとした公文書のなかに含まれている「本罪人間宮一逮捕の風説書」と「八月 ークス公使対話書」、それに、この公文書集の " 編集。の仕方そのものが、私に 三日水野和泉守・ 227
茶店のせい、戸塚宿の市兵衛に、ひそかに面通しをさせたところ、二人とも、「見覚えはありません。 この人たちではありません」ということであった。 それでも、役人は、牢屋敷で、この二人をはとんど拷間とでもいうべきやり方で締めあげた。二人 とも、調べに耐えられないほど衰弱してしまった。それなのに、確証はなにも出てこない。役人は、 五月になって、処分保留のまま、一応、二人を釈放した。のちに、春岱は、「清次から聞いたことを すぐに届けなかった」というので遠島になった。 崩れていく犯人像 幕府の探索が手詰まりになったところで、これまで出てきた材料によって、清水清次の犯罪を検証 してみよう。 清水を、英人殺害の犯人とする積極的根拠は、第一に源八、丑次郎の証言、第二に清水の自認、第 志 三に、目撃者三人の証言ということになる。これに、事後的ながら、田中春岱の証言を加えてもいし 獄 これらは、果たして信用できるものであろうか。 の 源八、丑次郎は、清水自身から「鎌倉の英人殺害は、おれのやったことよ」と聞いたのであろう。 田中春岱が聞いたのと同じことである。ところで、清水が真犯人でないことは、田中への話そのもの 志 によっても明らかなのである。 夷 清水は、最初、「五人ほどの外国人に、六人の武士が襲撃」と話した。真犯人なら、最初から、加、 一被害者数とも間違えるということはないだろう。清水は、いち早く英人殺害のうわさを聞き込み、そ 第 れを田中に話しただけなのではなかろうか。一一人とも、攘夷気分は濃厚なので、この手の話題には、
人」とされている。 しかし、さらに詳しく本文を読んでいくと、なぞは解ける。本文には、こうある。「ここに載せた 銅版画は、べアト君撮影の写真からとったものである。第二十連隊の不運なポールドウイン少佐とバ ード中尉を殺した犯人の一人である松平の首は、同しやり方、同じ場所でさらし首にされた」。 つまり、さし絵リストの説明は間違っており、②の写真は鎌倉事件の犯人ではない。鎌倉事件の犯 人もこのようにさらされたという説明のために掲載されたものである。ただ、間違いにきまっている が、鎌倉事件の犯人として「松平」という名前が、どこから紛れこんできたのかはわからない。ある いは、②のさらし首の本人が「松平」なのかもしれない。 こうして見ると、間違いは間違いでも『図会』の写真説明は、ちょっとした間違いとして納得でき る。納得できないのは『鎌倉英人殺害一件』の説明である。べアトが清水清次のさらし首の写真を撮 ったことは、リンドウの著書にも書いてあるので、「べアト撮影」「鎌倉暗殺者の一人」の二つの要素 志 首 から、この首は清水清次と速断したのだろうが、し 、くら著者が、そうだろうと思ったからといって、 獄読者に向かって「清水清次」と固有名詞を断定するのは、どうかと思われる。 『鎌倉英人殺害一件』には、このような思い込みによる積極的な誤りカ ゞ、はかにもある。間宮一の供 述について、この本は「十月一一十二日、同志の者 ( 清水清次 ) と連れ立って鎌倉にいったのです」と 士 儿書く。「続通信全覧」によると、この部分は「同年十月二十二日同意之者同道宿元立出、である。清 水清次の名前はでてこない。実際、リ 宮罪状によると、間宮は、清水清次という名前を知らないとい っているのだから、清水清次の名を口にするはすはないのである。読者の理解を助けようとの善意を 第 疑うものではないが、逆に誤断に導くものであり、いらざる配慮による挿入といわざるを得ない。
使館書記官代理マーチン・ドーメン ) と見た人もいる。実際、二十五歳で死んだこの男の人生は、あ るときは攘夷の志士のように見えるかと思うと、あるときは単なる盜賊のように見えることもあった ようで、まことにもって、一筋繩ではいかない。 イギリス人襲撃事件とは 被害者は同じイギリス人だが、事件そのものが、その二年前に起こった生支事件はどには有名でな いので、まず、そのアウトラインを、ごくごく散文的に紹介しておく。この事件に関するまとまった 平易な著作は、東京大学史料編纂所にいた岡田章雄氏 ( 故人 ) の「鎌倉英人殺害一件」のみなので、 以下、おおむね、これによる。日付は日本暦である。 ード中尉 ( 二三 ) は、騎馬で江 元治元年十月二十二日、英陸軍のポールドウイン少佐 ( 三四 ) とバ の島、長谷の大仏を見物したのち、午後三時すぎ、鎌倉八幡宮前の松並木にさしかかった。躍り出た 一人の浪人が、先を行く中尉に斬りかかり、中尉はひざを切られて落馬、そのあと、頭、背中、ひし、 指などを切られた。ほとんど同時に、もう一人の浪人が少佐に斬りかかった。致命傷は背後からの第 一撃であったが、そのはか、はお、左腕、右ひしなどを切られた。少佐はほとんど即死、中尉も夜十 時ごろ、息を絶った。犯人の二人は、すぐ姿を消した。 十一月三日、戸塚近くの羽鳥村の名主宅に三人組の浪人が押し入り、「攘夷の軍資金を出せ」と百 五十両を強奪。犯人の蒲地源八 ( 二六 ) 、稲葉丑次郎 ( 二三 ) はやがて捕まったが、「逃走中の主犯清 水清次は、鎌倉英人殺害の犯人の一人である」と供述した。 同十八日、横浜・戸部の刑場で、源八、丑次郎の二人を処刑 ( 打ち首 ) 。
筑摩書房 ) 掲載の写真②である。この本は、のちに 改題され『鎌倉英人殺害一件』になるわけだが、そ の写真説明に、「さらされた清水清次の首 ( ジェフ ソン、エルムハ ースト『日本在留記』より ) 」と、 はっきり書いている。確かに、この二枚の写真は、 どう見ても同一人物ではない。第一、首を支える粘 土のようなものが、①では二つのまくらを並べたよ うなのに、②では輪を作って、その上にほんと載せ ① 真たようである。 そこで、綱淵氏は、どちらかの写真は、「十八歳 の少年の間宮一ではないのか」と推理されるのだが、 さらに氏を混乱させたのは、池田政敏編『外人の見 た幕末・明治初期日本図会』が、『日本在留記』か らの転載として、②と④の写真を並べ、「これも鎌倉 事件による処刑者の一人松平某の最期とさらし首 . との写真説明を載せていることである。 これについて、氏は「これらの疑問についての結 ②論を提示できないのが残念だが、『清水清次の首が 写ちがう』という驚きが現在のわたしの関心の一つで
志 首 附、三つの獄門首のナゾについて 獄 の 朝日新聞社主催「甦る慕末、展で、日本初公開となった清水清次のさらし首の写真①は、見る人そ 十 儿れぞれに、それなりのショックと感銘を与えたようである。 攘 ところで、この写真を見て「おや ? 」と首をかしげたのは、作家の綱淵謙錠氏である。「清水の顔 話 が優しすぎるのである。清水清次の顔はもっとふてぶてしく、どっしりとした悪党づらではなかった 第 か」というのである。綱淵氏の記にある清水は、岡田章雄著『幕末英人殺傷事件』 ( 昭和三十九年、 田原落城後は、徳川家康に召され、大坂冬の陣で戦死した人もいる。寛文のころ、下総印旙に転封に なり、笹下陣屋は廃城となった。このとき、城門は成就坊に移され、時に修理を加えながら、いまに 残る山門になったといわれる。 僧侶の家に生まれながら、外夷を憎み、武士にあこがれた一少年が、わが身を武士らしく整えよう としたとき、まっ先に思い浮かべたのは生家とは山門によって結はれ、しかも武勇をもって鳴る地元 の名家間宮一族であったに違いない この一族は、名前に「信」の字をつける者が多い。こうして、 願成寺の墓標「間宮一信成」は、おそらく、少年が、生前、誇りをもって自ら名乗った名前であろう、 とい、つことになる。 間宮一とは、そういう少年であったらしい
同十九日、千住の遊廓で、三人組強盜の主犯、清水清次が捕まる。まもなく、英人殺害を自供。共 犯者は、当日たまたま初めて会「て意気投合した高橋藤次郎という浪人者で、犯行後すぐ別れたとい 同一一十九日、清水を、江戸から戸部の牢屋敷 ~ 移送。すぐに証人の面通し、市中引き回しが行われ たが、あまり遅くなったため処刑は延期。 同三十日、清水を処刑 ( 打ち首、獄門 ) 。 慶応元年一一月九日、老中諏訪因幡守忠誠らは、英蘭公使に「高橋藤次郎は実在しない、と報告した。 その一方、一月末に、清水の捕縛直後に京都に行「た知人の医師田中春岱を捕まえた。さらに、春岱 はじめ の供述から、やはり清水の知人の天方一 が共犯者らしいとわかり捕える。だが、天 方は頑強に否認した。春岱、天方とも、か なりの拷間を受けたが関係を認めす、数か 月後、身体を害してともに釈放される。 同年七月十八日、老中水野和泉守忠精は、 ークスに、真の共 イギリス公使ハ はじめ の墓 志犯者として間宮一という十八歳の少年を 地の 墓尉 人中 捕えた。少年はすでに自供しているし、刀 にそのあとも残っているので、間違いない と明らかにした ( 捕縛は、七月十一日らし
建白書を読んだ権令は、しばらく黙っていたが、やが ら て静かに口を開いた 刀「藩政時代とは異なり、いまの世の中は、日本国中が同 グ一の方策にしたがうことになっている。租税のことも同 囲しで、わが茨城県だけで、どうこうすることはできない。 城どのような建白をしても、とても採用することはできな 権そこで、本橋は、強訴以外に農民を救う道はない、と 信確信したのだった。 中二人の働きかけによって、一揆の中心となる農民が、 ぞくぞくと結集した。上小瀬村からは、大町の弟の小村彦右衛門、岡崎新八、その兄初田源八、小森 太郎衛門、大町寅吉、小舟村からは、内田三郎衛門、小森銀次郎、藤田常次といった人々であった。 彼らは人目につかない山中や河原に集まって策を練った。 生活に苦しんでいるのは農民だけではない。士族のなかにも賛同する人がいて、「水戸で百余人の 士族が助力するだろう」と約束して本橋らを喜はせた。だが、いざ、ふたを開けてみると、士族で一 揆側についた人ははとんどなく、逆に、県庁の呼びかけに応して士族隊を結成し、得意の白刃を振る って、一揆切り崩しに活躍した者ばかりが目についた。 門村 ( 現・明野町 ) に農民一千人 十一月二十七日、那珂郡より先に、真壁郡で騒動が起こった。吉日 が集まり、金納をめぐって副戸長宅に強訴したのである。一波が一波を呼び、三十日から十二月一日 108