当院の敷地内は、前章の千葉眼科記 念館と後章の新病院のほか、入院棟と して利用されたことのある長屋門や、 江戸から明治の中期に、外来患者の治 療のために玄関の一室が当てられて・い た母屋、更に薬師堂や千葉薬草研究所、 医学書庫、文庫蔵、大工小屋、味噌部 屋、食品貯蔵庫、墓地などによって構 成されております。また、男子の入院 患者を収容した男部屋や女子を収容し た女部屋もありましたが、 前者は形を 変え、後者は姿を消しております。 以下それらへご案内しましよう。な お、下の航空写真は、昭和十六年 ( 1 9 41 ) 当時のもの。さらに右下は旧 とち 診察所の近くにあった〃橡の木みてす。 そして左下は古来、中国ては医家のシ ンホルし」して植、んられたし」い - フ、旧枩 ぎよりゆ - フ 察所横の〃樫柳の樹み ( 現存 ) てす。 Re 豆虎〃ー / Q バ
して飾っていただいた佐伯和子さんの てあって、設計者のせいてはないこと タビストリ ーや、平岡望見氏の版画、 を申し述べさせていただきます。 病院や病棟の雰囲気づくりて、まず勝又節子さんのステンドグラスが、十 二分に院内の上品な雰囲気を盛り上げ 一弔一に老ノ - んることは、 " 明るい炳院 , うれ ・うるおいのある病院。てす。玄関上部てくれたことは、嬉しい限りてした。 の、少し派手なガラスモザイク模様に 嬉しいと一三〔えば、何よりも呆次院長、 は、「この玄関をくぐれば元の明るい世彌幸、次郎両先生を始め、千葉家の人 界に戻れるのだ / 」という願いを込め々のお人柄に触れたことが一番てあり ました。今後のますますのご繁栄を願 また、食堂は先生のご意見もあって、ってやみません。 患者も看護婦も従業員も区別なく、み んなて楽しい食事をとることて、良き 触れ合いの場となることを意図し、あ えて一か所に集約しました。病室の天 井には、シンプルな模様をあしらって ・りよ - フ みましたが、少しは患者の無聊を慰め る , ) し」が、て、さ 4 に、てーしょ - フか 主々にして、建造物とい - フものには △緑▽が不足しがちなものてす。幸い ここの敷地には、裏山に木々の緑が溢 れていて、無機質なコンクリートの建 物も、その前面て大いに映えることか . を、み罸ダ、定 6 ー 0 てきたわけてす。 ( 注ステンドグラスの作者勝又女史は、 旧の . 元成後間もなく逝去されました のて、これは女史の遺作となりました。 ) N03 NO. 2 NO 」 表土 ( 増土 ) シルト 物土 ( 増土 ) ー 置地シルト シルト ーに .0 ー 20.0 地層断面図昭和 58 年調査 ( N 引 ~ 3 の位置は、 p -18 、 P -105 参照 ) A stratigraphic cross-sectlon 知久董氏 M 「 . Tadasu Chiku 1 01
さつかしようとげふみぬきひる っことになった。日本医学史上からも、 擦過傷、棘と踏抜、蛭の血止、精神の持衵 方、肺病の話、婦人と肺病、食物・水・ 近来の快挙てある。 千葉家の中興の祖は、第五代の天夢翁 麦飯・塩・梅干等について、ユニークな てあったといって大過なかろう。翁は明金のいらない手軽な療治方法を教示して 治一一十一一一年、帝国大学医科大学全科卒業、 いる ( 『天夢遺稿』 ) 。 また、翁は同じく五十一一歳、大正一一年 同一一十五年一一月、三十一歳のとき祖業を しらい 十月十四日、千葉県医師会長として第一一一 継ぎ、現在地に眼科を開業した。爾来、 地域医療の一ハイオニ「 / 医療に精励されるとともに、地方殖産興回関東北医師会開会式に出席、祝辞を述 業のリーダーとしても、抜群の業績をあべられた。そのなかて、「顧フニ醫師、 カンケイスコプ げられたことも周知の事実てある。 天職甚ダ重ク、関係頗ル大ナル故ニ任務 天下に名高い「永告の眼科」 ( 千 ~ 崟豕 ) アルヒクンドク ちなみに翁が五十一一歳のとき、大正一一 ノ遂行容易ナラズ、或ハ單獨ニ或ハ協同 は、地元ては永告がなまって「なげえし くんたん ヒンべン シテ黽勉 ( 努め励むこと ) 努力セザルべ の眼科」て人々に親しまれている。開業年の著『天理農法燻炭栽培』 ( 実業之世界 社発行 ) のなかて、講演の記事として、 カラズ」 ( 『天夢遺稿』、読点筆者 ) と指 は今から百九十七年前、現当主て七代を かぞ 算える輝かしい伝統を有する名家てある。農業衛生に言及されておられる。それに 摘されている。右の一、二の事例をもっ てしても、翁はつねに自己にきびしい医 よると、医者の世話にならないて、多少 「永告の眼科」は、単に茂原地方、ある いったい いは千葉県内のみにとどまらず、広く日 効力のある救各治にふれ、「一體、今療道の模索者てあり、かっ卓抜なる実践 われわれいしゃ お 日吾々醫者仲間に於きましても、職業が者てあったことが明白てあろう。 本的な医療機関の先達てあり、郷上の最 以上は、あえて千葉家第五代天夢翁の 大の誇りの一つてある。このことは、同多少商賣的になって居るのて、餘儀なく やくリようも、り 患者から藥科を貰はなければならぬのて非凡なる才幹、優れた仁徳の・端を紹介 家の門をくぐる患者が、全国的な規模に どいっ これやは したにし J い J ・まる。願わ \ 、は、即・ =-: のム眄る ありますが、是は矢張り獨逸の悪い風を 及んていることにも端的に示される。 0 「永吉の眼科」が優れた伝統の上に、ま 輸入したのて、醫は仁術なりと云ふ東洋 最近、現当主の保次氏の才腕と英断に ふしん 0 の美風が忘れられたのてあります」 ( 原すます多くの人々に愛され、天下の医療 より、同家第四代千葉東野翁が普請した 旧病院は増改築され、旧診療棟はそのま文のまま ) として、蝮に咬まれた時の心 のメッカとして、より輝かしいご発展を冖 0 ま艮科記念館として、永久にひかりを放 昇、稲て眼を突いた賑の心得、切傷及びとげられるよう切望してやまない 歴史学者 九十九里総合文化研究所長 まさる 川村優 ましし
上第蔘←・一 旧正門 ( 右は母屋 , 左に女部屋と旧診察所が見える ) An 0 旧 view of Nagayoshi Eye Hospital 旧正門と看板 The front gate of the 0 旧 hospital 旧正門 昔は、長屋門の手前を左へ折れると かぶきもん 冠木門があり、これが患者用の門にな っておりました。 やがて、明治三十五年 ( 1902 ) 、村 道が改修された結果、道路に面して新 たに門が造られ、これが患者用の正門 として、新病院がてきるまて久しく使 われておりました。 - トレ、 旧泊まり部屋 昔、長屋門を入ると、その右側に独 立した家屋がありました。入院棟の七 号室と呼んて、畳敷き八畳二間、 遠来 の患者の宿泊所に当てられておりまし 。交通不便な時代、患者の病院到着 か夕方になることもあり、また雨と悪 路のため怩だらけになり、当院へ到着 後すぐに入浴し、衣類を借りて休むと いう必要からの施設てした。この建物 は戦後、他へ移されて現存しません。 旧泊まり部屋 Former Lodging Quarters SO 〃 0 Scenes 94
愼齋から六代・江風まてが収められて帝国大学の医科大学に通わせ西洋医学 おり、当時三歳だった江風が、下の写を研修させました。こうして、明治二 真ては五十四歳、それから三年後の昭十五年 ( 1892 ) から当院の眼科治療は 和二十一一年には故人となりまし 1 たこ医術、施設とも近代的な方向へと転換 こに千葉家の歴史の流れがあるように 思われます。 六代・江風は、歴代の人々のなかて 初代・東壽が眼科を始めたのは、単特に、医家としての自覚と責任感を持 に農業を営むだけてなく、広く世の人ち、眼科医療を天職としたようぞす。 を救い、世の人に尽くしたい考えから しつも在宅を心掛け、余り旅行に出掛 たったと推察いたします。特に当時の けませんてした。時に体調をくずして 農民の間には、稲の葉先て眼球を突く 母屋て安静中ても、代診が治療の要請 ことて起こる〃突き目みが多かったか にくると、下男に背負ってもらって診 らてす。悪くすると失明します。それ察所〈行き、患者を診るという程てし ら目を患った人々に救いの手を差し伸 た。そして大正から激動の昭和戦前、 べたいと考えたこと、そして名主の家戦中を生き抜き、七代目の後継者に は年貢米の収納などの役務て年中忙し静岡市の齋藤家より、眼科医・保次を 往診のまれな眼科なら医療が続け 婿養子として迎え入れました。 られる、との判断があってのようてす。 当院は、初め回春堂と称していまし この選択は今ても卓見てはなかったか た。しかし患者や世間一般からは土地 と思われます。 の名を上につけて「永告 ( なげえし ) の 初代・東壽から四代・東野まて、約目医者」と呼び慣わされてきましたの 百年間の眼科治療は、いわゆる東洋医て、「回春堂・永告の眼科病院」を正式 学によるものてした。しかし、時代のの名称としました。これは七代・保大 推移を洞察した東野は、五代・天夢を になってからのことてす。 長 代欽齋 文政 3 年 (1 820 ) 天保 4 年 (1 833 ) 代愼齋 天保 4 年 (1 833 ) 嘉永 6 年 (1 853 ) 四代東野 五代天 明治 25 年 Q892 ) 大正 9 年 Q920 ) 大正 9 年 ( 円 20 ) 大正田年 ( 円 2 1) 高橋謙 、代風 七代保次 余 期年年年年年年年 っこっっ乙 在 7 2 F 川川ム / ん / 〃 / 尾 c バ
ッパの音が今ても耳の底に残っています。 私の生家は東隣にあって、生母が小さ な雑化只屋を開いていました。主に入院さ 茂原駅と目医者を結ぶ唯一の交通機関 れる方々の、日用品を置いていました。 てしたから、汽車の発車時間に合わせる 病気が全快された方や退院される方が店 ために、これ以上侍てない時間があった のてしよう、その時の合図のラッパの音 に来て、ノボリ旗を買われます。一一尺程 に切ったさらし布に墨て「大願成就」と は、緊迫した響きをもって耳を叩きまし 書かれたものて、竹に通してお堂に供え た。患者さんはかけ足て馬車に向かって 目医者の上を られるように作られたものてす。 走り、桶屋さんという下男に背負われて 踏 . む」ロる 十月一一十九日は年に一度のお祭礼て、 とんて行く姿など見うけられました。 「永告の目医者の上を踏むと目が治る」 この日は母屋の裏から山の中腹の社まて、 大勢の患者さんたちのために、先生ご と今てもいわれています。それは薬師様 いろいろな絵あんどんを立てたり、お堂 自身のお食事も田 5 うようにならなかった まっ が一加ってあるからたとたけ、 幼いころか の中に安置してある子供用の小さなお神 と伺っておりました。出 5 者さんへのお心 ら信じ切っていた私てした。 輿二基が、八幡様あたりまて練り回りま遣いが、永告の目医者さんの繁昌につな 目医者さんには、「男部屋」と「女部屋」 がっているのてしよう。 した。帰ってくると赤飯や甘酒を振舞っ という一一つの入院棟があり、それぞれの ていただき、鉛筆や帳面などをもらって、 患者さんが治療室へ出入りする様子は、 病棟の真ん中に神棚をお配りしてありま とても嬉しく楽しい一日を過ごしたもの 一一一ⅱ , 戸の前 ( し 」こ、るし」 ) 十にし」るトま - フに一分か した。昼食前には大勢の患者さんたちがてす。 りました。治療室へ入る時、廊下と敷居 たた その前に集まり、拍子木を叩き、お題目 そのころは、茂原の駅から目医者さん のところて手をついて挨拶してから、や をあけてお参りしていました。 まて、「テト馬車」というのが通ってい おら立ち上がって部屋へ入っていく姿を ほろ 裏山の中腹には薬師様を祀った大きな ハッとしたものてす。その ました。屋根に幌をかけ、中央に向き合度々見ては、 お堂があって、中にはノホリ旗がたくさ ころ私は、もう年ごろになっていました。 う形て両側に長い椅子をとりつけ、五、 ん掲げてありました。者さんたちはこ 六人程度のお客のすわれる座席があり、 そのころになって、薬師様の有難さや、 こても拍子木を叩き、お題目を唱えて信それを馬が引くのてす。馬方さんの吹き上を踏めば治るといわれている事柄の一 、いーし一しい 6 ー」、、 0 らす、テトーテトーというのどかなラ 切が分かったような気がしたのてす。 主婦 宗安たみ 1 1 7 ' S なん〃 e ぉ Ca 〃召 Cu 尾
は現代科学の粋を集めたレーザー光な 新病院の設計にあたって どが駆使されております。 明治一一十四年建造の瓦葺きの診察所 と明治三十一年改築された千葉家の母 = = 言にたすさわった医院や病院はも屋とを初めて見たときから、それに並 う例を越えますが、幾つこなしてもび立つ新病院も、やはり瓦葺きとはい 隹しいものだと田 5 います。特に、専ド かないまても、同様に屋根をかけた形 て行くべきだと田 5 われました。また、 の私立病院は、時として大学病院より も高度な医療施設が備わっているだけ 眼科病院の性格上、 2 階に病室をとる に、、の ~ 度ごし」に 一から勉強し直さな ことを避けるため、 2 階は必然的にサ ければなりません。 ービス部門の一部て構成せざるを得ず、 今回、ご縁があって設計を担当する これて平屋の上に小さな 2 階がチョコ ことにわなり・ました本 ~ 炳院も、まったく ンと乗った現在の基本スタイルが決定 その例に漏れず、私としては大変貴重したわけてす。 な設計経験になりました。 眼科の患者は、病人というより健康 戦後、医療技術の発達とともに、あ人に近く、老人や子供が大部分て、内 らゆる診療科目が変貎を遂げましたが、 科などに比べると患者数が圧倒的に多 くなります。待合室は、充分に広さを こと『眼科』ほど昔と様相を異にした 科目は、ほかに見当たりません。眼科 とり、畳敷きの部分ももうけました。 というの 診療技術は、検査法と手術法の進歩発しかし、現在はそれても狭い が実状のようてす。しかしながら、こ 展て、昔日の姿をまったくとどめない まてに変わってしまいましご。。 オカってれはもう先生方、保次院長とご子息の の洗眼施設等は見当たらず、多くの光彌幸、次郎両先生のお人柄と腕の良さ が、患者をいやが上にも吸収するもの 学機械が所せましと並べられ、手術に 吉の既料か 新病院バース ( 完成予想図 ) An architect's conceptlon 1 OO の es な刀 g ル肥〃 os. カ / '
これらの習農は、当院側の強制によ るものてはなく 〃部屋長んの合図て行 われていたようてす。 ' 部屋長。とは、 その病室て最も長い入院患者てあり、 室内全員の世話役もしていました。 やがて退院に際しては、薬師和讃を 墨文字て写して、このお堂に供えると ともに、晒の布に『大願成就』と墨書 きした幟旗や、その文字を板に書き、 立派に額装したものなどを思い思い ( 供えて一何くことになっていました。 秋の季節になりますと、石段に合っ て灯籠が立ち並びました。これらの灯 籠は、木の枠に紙を張り、泥絵具を使 って漫画を描き、それに , 柳や狂歌な どを書き加えたものてす。中にロウソ クをともし、一同はその絵を見たり歌 を読んだりしながら参詣する楽しい行 事てした。 また薬師堂の中には、三基の神輿が あり二基は小型、一基は大型ぞ、それ ぞれ当院周辺を練り歩いて歓迎された ものてす。これらの催し事の費用は、 すべて賽銭によって賄われました。 さいせん のばりばた さらし 手拭い ( 白鳥省吾詩、石川宣俶画 ) A towel painted with a poem 患者の退院御礼の幟旗 ClOth banners written after a recovery 手洗場 A basin for washing hands 5 8 んん・ S / げわ尾
0 治療室 上の写真、右手のガラス戸を開けて こ、れには 患者は治療室へ入りました。 偏品が写っておりませんが、診察所全 体に補修、保存工事が施され、眼科記 念館へ移行する時点てのものだからて す。 ( 下の一一枚は往時の治療室内の状況 ) 前述のガラス戸の左手には暗室が見え、 その前には呼び入れられた患者用の長 椅子が置かれてありました。 中央にある出入口は、薬室や事務室 への通路てす。柱時計の左下には、壁 にそって棚があり、更に左端 ( 階段下 ) にも戸棚があるというように空間を無 駄なく利用しておりました。そして床 より一段高く見える台の上には、かっ て、天然ガス用の器具類が置かれてい この部屋は天井も壁も漆喰塗りて、 亥力施され、それの 天井の中央には彫リ、、、 中む部にランフが吊り下げられるよう な取っ手があります。腰は板張り、床 は縁甲板張りてす。 ( ロ絵写真参照 ) ■画 7 備品が撤去された治療室 ( 向こうは薬室 ) The former consultation When equipment were removed for repairing 1 治療中の七代・保次院長 ( 右端 ) Director Yasuji at work on the right 以前の治療室内観 The inside of the 「 00m 6 F の・川の・ C の ts ″″厩あ〃火 00 川
には、診察所全体を、大きく改造する 科てはべッドての治療は少ないのて、 必要が生じましたのて、私はそれを断支障ありません。 念しました。つらつらみるに敷地の西四、従前の畳敷きの病室 ( 旧男部屋 ) けんばなしけやき 側には一一本の大樹、玄圃梨と欅とが程 はそのまま使用し、新たに特別病室 よい間隔て立っていて、自然の門柱を にも四畳半の畳敷きの部屋を設けま 成していたことに気付き、心を牽かれ した。畳敷きの病室を希望する患者 ました。そして、私はそちら側を新病 が多かったからてす。 院の玄関とすることに決めました。 五、病室の天井には木目や模様入りの やがて、東急建設の清水誠氏の指揮 壁紙を用いて、患者自身が視力の状 のもと白井久雄氏、関東電気工事の田 况を判断し得るよ - フにしました。 中満夫氏など有能なスタッフにより、 六、論暖房は、各部屋ごとに別々に設 気品あり、かっ機能的にも申し分のな 置してあります。 い病院が完成したことに感謝する次第七、熱源は、天然ガスより電気を多用 てす。 亠 9 る一 ) し J にた 6 り・↓ーしわ」。 以下特色を述べてみますと 八、診療部門は、すべて一階にまとめ、 スロープや手すりを多用しました。 一、外来待合室は、約半分を畳敷きと し、横に寝たりすることも出来るよ九、色彩は、落ち着いたものを使用し 格調を高めるようにしました。 二、待合室まては土足て入り、診療室 IO' 旧手術棟と旧「男部屋」とを、従前 に入るときにスリツ。、に履き麸日えま の作りのまま防火構造を施し、新病一 院に編入、その一部を病室にしまし す。これて乱雑になり易いスリッパ の整理整頓が容易になりました。 三、入院室のべッドは低いものを用い 二、駐車場は、道路の南側の畑を整地 上り下りが楽になっております。眼 新病院起工式当日 ( 昭和 58 年 5 月図日 ) On the day of the ground-breaking ceremony 千葉保次院長 Yasuji Chiba M. D. 9 9