く禁無断複写転載 > 永告の眼科病院 発行日平成二年八月二十一日 千葉保次 著者 澤本吉リ 編集総括 千葉彌幸 発行者 発行所永告の眼科病院 〒期千葉県茂原市上永亠一三釁ー一三壽究 加藤寿子 肖像画 , 4 一フス -z- 千葉次郎 カット 澤本あおい 砂田良和 英訳 校閲 桑垣傳衛 押尾禎一 齊藤幸子 岩澤博二 澤本吉 奧田高宏 柳善弘 資斗是北 ( 千葉東彌 にい口相 - 一卩 斤株アルファーライン 版下製作株あど・すりーえーす 角隆一遠藤武男 石井清美 上代朋行 製本所株鈴木製本 写真 編集後記 ◆この本の装幀は、エッセイ集『の糸切れたり』 のそれを、著者・串田孫一先生のご了解を得て参 考にした。先生の、気品のある本の数々を手にす ると、その大半は、装幀も著者と記されている。 ◆「永告の眼科病院」の " の〃には、ラヴェル作曲の 『ポレロ』のような長閑かな響きがある。編集に際 しては、この〃の″の感しを大切にし、仕切り扉の 入る見開きに、充分な間合いをとるようにした。 ◆〔版面〕は、大量の記録写真類を一覧した段階で、 図録に近いものを想定し、本文は三段組みとした。 そしてその〔通し〕は二色刷りが認められたため、 多少グラフィックな試みをすることが出来た。 ◆本文の各ページに〔下柱〕を立て、それを和文で はなく英文にし、外国の人にも大体の内容が分か るよう、英語の見出しの役目をも兼ねさせてみた。 ◆写真のネームは、右ページは〔しりそろえ〕、左 。ヘージは〔あたまそろえ〕で統一した。これは〔英文 の柱〕を少しでも目立たせたかったからである。 ◆写植文字は、二百年の歴史ある病院の雰囲気を 出すため、表題と扉や見出しには隷書体を使い 本文は明朝に、ネームはゴシックと使い分けた。 ◆この病院は今日まで、宣伝らしいことは一切し ない伝統を守り、しかもなおロコミで患者が押し 寄せ、人々の信望を集めている。最後の章に載せ た〃永告の目医者さんに〃の寄稿文は、それを第三 者に語ってもらうため、敢えて掲載をお願いし、 原稿の到着順に配列した。 ◆終わりに、著者・千葉保次院長の寛大なご配慮 で、この有意義な本の編集、総括をする機会が与 えられたことに心より感謝申し上げる次第です。 ( 澤本吉則 ) 128 Co / 0 が〃
旧事務室の展元 ( 品 幵ー葉目艮ト言己会官 人保十三年上寅た月 作州算作氏 眼目秘書 オランダ文典前編 ( 天保ロ年い 842 ) ムロ 永元年八中九月稟准 ャ鬧文典後編 W 0 0 、・朝 E い一、 0 、日Ⅲ日、Ⅲト : ・人し 第い・ 0 日ト、 0 に M A 人 T ( 、日、 p p リ : オランダ文典後編 ( 嘉永元年い 848 ) 家傳内障 撥翳鍼訣 ( 嘉永元年い 848 ) 74 E. ェんあ 0 力を 0 ん g な記 M ぉ夜ィ川 ( 召 00 ん s )
回春堂 永告の眼科病院 千葉保次著 N 〃 g os 〃 os カ / 澤本吉則編 E 市イの , ) の 0 厖 4 川 0 わ
所在地 永吉の眼科病院は、房総半島のほば かみながよし 中央、千葉県茂原市上永告の、豊穣な 田園地帯を望む所にあり、一一百年から とき の歳月を積み重ねております。 外房線茂原駅から南へ六キロメート ル、病院の裏山に続く一帯は、八幡山 ひめはるみ と呼ばれ、天然記念物〃姫春蝉〃の発 生地てあり、八幡湖をも含めて、環境保 全地域に指定されております。ここに 近年、市営の観光施設〃ひめはるの里ん が開発されました。 また当院は、長生郡の長南町坂本か ら長生村七井戸を経て、一宮町に通じ る県道に面し、東西一六〇メートル、 南北六〇メートルの敷地の中に建ち、 千葉本家の母屋や長屋門、医学書庫、 文庫蔵、薬師堂、薬草研究所、墓地、 そして「千葉眼科記念館」などととも にあります 千葉県 Chiba Prefecture 茂原市 M0bara City 0kYOO ・永告の目艮科病院 Nagayoshi Eye Hospital 2
レ醫事生 / 功績尠ナカラ平ル - 一依内相。ッ々彰セラル 道族ョリ迭致サレシ此畧歴ヲ ーテモ君 ( 眼科導門ノ旁ラ育英事業並 = 農業經濟 - 一大 = 盡カサレシコト知ルペシ、 れノ先カ眼科ヲ其地 = 開始サ」テ , ジ君 = 至ル迄デ。四代 - 一ナ約 れノ先ア菓東び豸 ! 為秀通稱彌兵部、嘉永七年二月二十五日卒去・安政 : ヰ七月府儒官安 積信ノ撰 - 一山ル ~ 皋表アジ、ソレ - 一依レ ( ( 若年江戸 = 遊 ( レ松浦氏 - 一從ヒ眼科ヲ學 ル三年 - 一シテ鄕里ノ上永↓ / ー - 一歸リ眼科 ヲ以テ開業サレシ - 一四方ョリ患者来ツ大 - 一盛大ヲ極メラレン様也此レ千葉家ガ 總中ノ一富豪トナラレシ始メナルペシ、東 加永七年八十歳デ卒去サレノリト ハ翁ハ千七百七十四年安永三 年 / 出生タルペシ、而テ翁カ故鄕 - 一歸リ 業サレクル ( 千七な九十年前後ナルペシ 本ニ ( 未クシーポルド氏ノ求 朝アラ′ル以前ナレ・ ( 其眼科 ( 初メ専ラ漢方主義タリショ疑ナイ翁ョリ東玄東野ト二代ラ , 彌家氏 - 一至レルナリ家業四代キテ襲 ~ ス家富テ田園多ク、基業ノ盤石知ルベキナリ 天夢への追悼文 ( 大正田年 2 月発行の日本眼科学会雑誌に掲載、筆者は東京帝大眼科の教授で天夢の恩師 ) A eulogy for Temmu by his teacher prof. Jujiro Komoto M. D. 125
れたりしたのて、何というか、沸き立っ直りの勇気づけをされました。大正十一一 2 ような雰囲気があの広い屋敷の中に満ち年は彌太郎先生 ( 江風のこと ) の代てす が、大震災のとき、大きな被害があった ていたように感じています 千葉家は村外にも名家として聞こえて家を助けられました。 また働き手を徴兵された家のことも、 いましたが、足下の上永告地区の人たち 何かと心配してあけていたようてす。当 のこともよく面倒をみてくださいました。 時の番頭さんが生きていれば、橋を架け 国から山林が払い下げになるときも、自 たり、道普請、学校や寺社、駐在所を建 分のものになるのに、郷山として共有林 千葉家と私たち にしてくださいましたのて、屋根材や焚てたり修理するのに、どれほど援助した き物、肥科等を心配することなく暮らすのか聞けるのてすが、〃あらちみや〃根 「千 ~ 崟豕」という一一「ロ葉は、私たちに何 した ことが出来、他部落の人々から随分羨ま田み、〃下ん ( いずれも屋号 ) のお爺さんも か畿かしくまた誇らしい響きを感じさせ 大分前に亡くなってしまいました。 しがられたものてす。 ます。表 ( おもて ) というとき、その思 目が悪くなれば上永告の人は皆無科て 子供が学校に行かずに遊んていると聞 いが一層つのります。それは私たち村民 治療してもらい、代々の奥様方も私たち くと、親を呼んて叱ったり、ひどく困っ が代々いろいろな場面て千豕と係わり、 お世話になってきたことが、体の奧まてている家の子には、鉛筆や帳面などもケや子供たちのことをお心に掛けてくださ いました。そして千葉家の婚礼、戦地か えたりしたようてす。働き先のことやそ 染み込んているためかもしれません。 らの復員、お子様方の誕生など、お祝い 大正の初めごろ、「表」にはいつも数十の他、いろいろお世話になった人が数え ごとは私たち皆の喜びてあり、忌中は地 人から時には百人以上もの、いろいろな切れないくらいおります。 さくおし」こ 0 大正六年の秋だったか、大嵐が吹き荒区内が皆、喪に服すという気持ちてした。 職人、作男、女中たちが働いていました。 思い出すままを取りとめもなく書いて れました。地区内。ても母屋を潰されたり、 真面目に働いている者は、少し頭が足り しまいましたが、これからもずっと私た 柱が傾き屋根をめくられてしまった家が なくても可愛がってやり、物売りに来る ち上永告の人々の心の支えとして、また たくさんありました。女中奉公に来てい ようならば買ってやり、用事もさせてや っていました。人がからかったりしても、 た他村の人の生家も壊されました。そん誇りとして、千 ~ 崟豕が繁栄していってく な家々には米やその他の援助をして立ちれるよう願っております。 あまりひどくなければ先生も一緒に笑わ 主婦、近所の農家 高橋いせ
創造に生きてーわが生涯のメモー千葉三郎著カルチャー出版社発行四ー一二ページ 昭和年Ⅱ月 1 日 千葉四郎遺稿集千葉四郎刊行会編集日野正一編集委員長千葉四郎刊行会発行 昭和年Ⅱ月日 喜寿回想終りなきわが歩み富塚八十一著株式会社金剛出版発行六四ー八三ページ 昭和年 3 月日 千葉本の由来東洋医学古書コレクションの紹介千葉大学附属図書館十二号前整理係長・昭和年 5 月引日 高橋喜一郎記 千葉彌次馬氏 ( 天夢先生 ) 千葉日報新房総ガス事情 ( 7 ) 伸び悩む資源王国明治四十一一年昭和年 1 月日 に一号井、県内初の条件て工場誘致 千葉東壽の墓表図録日本医事文化資料集成第五巻日本医史学会編株式会社三一書房発行昭和年 4 月日 永告の眼科第十五回関東甲信越眼科学会特集号三一ページ 昭和年Ⅱ月日 茂農の歴史県立茂原農業高等学校八十五周年校舎落成記念事業推進委員会 昭和年Ⅱ月跚日 千葉県歴史散歩千葉県歴史散歩編集委員会編二四三ページ 昭和年Ⅱ月日 千葉彌次馬氏 ( 天夢先生 ) 〃県立茂原農誘致合戦に私財はたき〃朝日新聞二一ページ 昭和年月 8 日 鴇田惠吉郷土史研究に輝く人々房総の郷土史第八号大室晃述 昭和年 3 月引日 盟板倉忠蔵先生千葉県の教育に灯をかかげた人々 170 千葉教育 276 号田中治述昭和年 6 月日 千葉彌次馬氏 ( 天夢先生 ) 〃千葉にゆかりのある先覚者″毎日新聞 昭和年 7 月川日 盟旧家千葉家〃タイ国の映画に〃 読売新聞千葉版 昭和年 8 月 8 日 千葉家「ソテッ八つの花」読売新聞千葉版一六ページ 昭和年 8 月日 千葉邸を舞台にタイ国のテレビロケザ・サン四ページ 昭和年 9 月 8 日 千葉大百科事典千葉日報社五九一一、六二四ページ 昭和年 3 月日 千葉天夢氏茂原の天然ガスサンケイ新聞一七ページ 昭和年 9 月日 茂原高小史県立茂原高等学校創立八〇周年記念誌豊文堂印刷所印刷六ページほか 昭和年Ⅱ月日 祖父としての天夢先生〃千葉家にうかがう〃道表タイムス ( 一六四号の 2 ) 県立茂原高等学昭和年Ⅱ月日 校創立八〇周年記念特集号 石原忍先生の生涯財団法人一新会発行第一印刷所東京支社印刷一六六ページ 昭和年 6 月川日 永告の目医者さんも近代化 ( 茂原 ) 朝日新聞カメラスケッチ歴史刻んだ診療棟引退新病昭和年 9 月日 院完成後記念館て保存二〇ページ 国産オートレフラクトメーターの比較千葉彌幸第期回千葉眼科集談会 昭和年川月日 書庫になった目医者さんの蔵くらは見てきた ( 四十五 ) 森田一筆日本ファイリング株式会昭和年Ⅱ月 1 日 九十九里の人々サンタイムス ( 野々山保雄 ) 発行一一四ー一一五ページ 昭和年肥月日 永告の眼科増築完成週刊上総通信四べージ 昭和年 1 月 1 日 永告の眼科面目を一新〃明治二十五年いらいの改築みザ・サン ( 月刊 ) 七九号三べージ 昭和年 1 月 1 日 永告の眼科病棟落成と天夢の子について週刊上総通信 昭和年 1 月 8 日 114 113 112 Ⅲ 133 んⅳ可 e な Do 翩川のホ
「なげえしの目医者」一九〇年の歴史展示千葉日報新館完成を機に旧診察所を眼科資科館に昭和年 1 月Ⅱ日 昭和年 1 月に日 「永告の眼科」新装茂原朝日新聞一一一ページ 昭和年 1 月燔日 「永告の眼科」装い一新読売新聞タウン一八ページ 昭和年 1 月日 永告の眼科旧診察所を史料館に週刊上総通信 昭和年 3 月川日 石原忍の生涯須田経宇著株講談社発行一六 昭和 / 平 3 月日 千葉県郷土資料総合目録千葉県公共図書館協会編集発行一七八べージ 昭和年 4 月新日 珍らしい長屋門千葉家週刊上総通信萱屋根の葺きかえ 昭和年 4 月 千葉本家の設計図と関連写真集知久董 ( 大成建設設計部長 ) 昭和年 5 月 1 日 くり社団法人・日本病院会学術委員会編集中和印刷株 Ⅲ信頼される我が病院づ 眼科治療の歩みを示す貴重な資料総合テレビ番組午後六時三十分よりサンケイ新聞昭和年 5 月 6 日 眼科博物館へ旧診察所修復読売新聞日曜トピックス " 眼球模型、薬研、古書など独自保存。昭和年 5 月日 昭和年 5 月日 剏永告の眼科記念館ザ・サン年内にも文化財に指定三ページ 昭和年 7 月 偉心伝心千葉県農業協同組合のポスター県の先覚者の一人として五代天夢が載る 昭和年 7 月四日 点眼瓶、・往診用点眼瓶箱週刊上総通信 永告の眼科資料館蔵品紹介 昭和年 8 月日 検眼用石油ランプ週刊上総通信 昭和年 9 月幻日 千葉彌一郎氏の銅像再び千葉日報来秋には復元一 昭和年川月 4 日 千葉天夢先生をたたえ銅像再建へ募金活動読売新聞一八ページ 昭和年川月日 よみがえる天夢翁の銅像再建運動ザ・サン明年秋を期して発起人会二べージ 昭和年川月日 眼科記念館〃江戸末期の眼鏡、茂原市ても発見〃読売新聞一一一ページ 昭和年川月引日 ふるさとの想い出写真集ク茂原・明治大正昭和み海保四郎編図書刊行会発行 昭和年Ⅱ月 % 日 ( 昭和年月日 ) 眼科の博物館千葉テレビ放送千葉県提供 ( 再放送 ) 昭和年肥月 5 日、昭和年肥月跚日、 眼科の千葉家日医 ( 日本医師会 ) ニュースその一その二その三 昭和年 1 月 5 日 眼科記念館展示品千葉日報キンストレーキ ( 南蛮渡来の眼球模型県内唯一、江戸時代 ) 昭和圓年 6 月日 輸入 ) 文化財指定も検討中一三ページ 千葉県を築いた人々千葉県教育研究会・社会科教育部会編株旺文社発行一五六、九ページ昭和年川月 1 日 日和圓年川月日 千葉のお医者さん読売新聞薬師如来の七代一八ページ 昭和圓年に月 1 日 房総の先覚者千葉彌次馬関進 ( 長生農業改良普及所長 ) 農業千葉第三十九巻第十二号 農業改良にも情熱をかたむけた名医五二ー五三ページ 昭和年月燔日 千葉天夢先生の思い出著者 / 星野正発行者 / 天夢先生銅像原型保存会 年ぶり「天夢の像」再建読売新聞医業教育の先駆者茂原高の初代校長天然ガス掘り当て昭和圓年に月新日 134 ん Re を〃″〃尾〃
愼齋から六代・江風まてが収められて帝国大学の医科大学に通わせ西洋医学 おり、当時三歳だった江風が、下の写を研修させました。こうして、明治二 真ては五十四歳、それから三年後の昭十五年 ( 1892 ) から当院の眼科治療は 和二十一一年には故人となりまし 1 たこ医術、施設とも近代的な方向へと転換 こに千葉家の歴史の流れがあるように 思われます。 六代・江風は、歴代の人々のなかて 初代・東壽が眼科を始めたのは、単特に、医家としての自覚と責任感を持 に農業を営むだけてなく、広く世の人ち、眼科医療を天職としたようぞす。 を救い、世の人に尽くしたい考えから しつも在宅を心掛け、余り旅行に出掛 たったと推察いたします。特に当時の けませんてした。時に体調をくずして 農民の間には、稲の葉先て眼球を突く 母屋て安静中ても、代診が治療の要請 ことて起こる〃突き目みが多かったか にくると、下男に背負ってもらって診 らてす。悪くすると失明します。それ察所〈行き、患者を診るという程てし ら目を患った人々に救いの手を差し伸 た。そして大正から激動の昭和戦前、 べたいと考えたこと、そして名主の家戦中を生き抜き、七代目の後継者に は年貢米の収納などの役務て年中忙し静岡市の齋藤家より、眼科医・保次を 往診のまれな眼科なら医療が続け 婿養子として迎え入れました。 られる、との判断があってのようてす。 当院は、初め回春堂と称していまし この選択は今ても卓見てはなかったか た。しかし患者や世間一般からは土地 と思われます。 の名を上につけて「永告 ( なげえし ) の 初代・東壽から四代・東野まて、約目医者」と呼び慣わされてきましたの 百年間の眼科治療は、いわゆる東洋医て、「回春堂・永告の眼科病院」を正式 学によるものてした。しかし、時代のの名称としました。これは七代・保大 推移を洞察した東野は、五代・天夢を になってからのことてす。 長 代欽齋 文政 3 年 (1 820 ) 天保 4 年 (1 833 ) 代愼齋 天保 4 年 (1 833 ) 嘉永 6 年 (1 853 ) 四代東野 五代天 明治 25 年 Q892 ) 大正 9 年 Q920 ) 大正 9 年 ( 円 20 ) 大正田年 ( 円 2 1) 高橋謙 、代風 七代保次 余 期年年年年年年年 っこっっ乙 在 7 2 F 川川ム / ん / 〃 / 尾 c バ
初代東壽 こあざ 安永三年 ( 1774 ) 生まれ、小字は秀 松、通称彌兵部、千葉家三十代・政胤 たわちか ( 1750 ー 1810 ) の長子、韋は糺見、 かみはぶ 号が東壽、母は上埴生郡 ( 現、茂原市 ) 下永告、林庄左衛門の娘おそめ。 寛政四年、江戸、両国久松町の杉浦 げんせき 元碩に入門、眼科を専攻、一一年後に開 業を許され、故郷の上永告村に帰り目 医者「回春堂」を開きました。東壽、 時に一一十一歳。杉田玄白が『解体新書』 を刊行して二十年後の開創てすが、眼 科はまだ漢方て『眼科全書』が座右の 書てした。 まじめな性格て「君子日三省吾身」 をモットーに眼科医療を行いました。 嘉永七年 ( 1854 ) 八十一歳て永眠、慈 眼院として埋葬されております。 ドクトク 潜思精察、超然トシテ獨得ノ妙有 クビス スナハ リ。ロラ明フ者、踵ラ相接ス、乃 チ館ラ開イテ病者ラ延ク、兩總常 とうじゅ 男チ日ム省身 7 東壽の肖像 A portralt 0f TOju 東壽の書 A calligraphy by TOju 8 2 7 わノ″ . ・ lst D / 尾の・