人したアラブ人にも大きな犠牲を払った彼らは、しかしすぐれた芸術的才能の持ち主だった。衣 服、壁かけなど、墓から発掘された染織品は、コプト美術の遺品として最も重要なものだが、こ こでは二階展示室で時代を追っての展示である。 ①ギリシャ、ローマの影響が強かった二ー五世紀。題材はギリシャ神話の神や人物が多い。写 真の作品もビーナスとアドニスか。麻と羊毛を主にした素朴なつづれ織。プレ・インカ、日本の つづれ織などと同じ手法である。そのなかで顔やからだに別糸を織りこむ手のこんだことをみせ ている。 ②六ー八世紀のキリスト教的主題が多くなった時代。 〔一ユ③七世紀に侵人したア一フプけ支配下、 偶像否定のイスラムのおきてから神や人 物が姿を消して模様は抽象化していく。 一般にコプト芸術はとつつきにくいと ~ ~ 5 される。ギリシャに近い具象性、逆に中 一い近東の抽象性、さらにキリ = ト教とその ・ ~ 一 2 ! 異教的なものとの組み合わせ : : : など。 ミ誉つが、生活用具、ことにキレの世界は割に 身近に感じられる。砂ばくのなか、自分 の信仰の力だけで独特の芸術をそだてた コプトの人をちょっぴりしのぶこともで 奓「〉、「、きる。写真のコプト裂は、岡田三郎助の
年後、二〇 x 二〇センチの小品を東京の個 ~ 一展で買った。月給の手取りを上回った。 思い出が深いのはこれだ ( 写真の作品 ) 。 国スイスから買った。日本にあった時はお金 年が足りず作品はスイスのコーンフェルト画 廊に。 " 輸人〃した時のうれしさ。という わけで今は油絵だけで約五十点、常時一一十 き点をこうして鑑賞している。海外勤務時は 第 買小品を持参し、大作は日本の美術館にあず け、近作を知るためにはカ一フースライドを 送ってもらう、と徹底していた。こうして , ( 毎日ながめていて、そのたびに新しい発見 があって飽きないというのだ。一室は「オ ノサト文庫」でオノサトに関する内外の本、 雑誌、カタログ、新聞切り抜きもそろっている。 重なる海外勤務で美術館もうでをした藤岡さんは、自分の目を信じている。そしてオノサトは 後世に残る一人、ということも。決して甘いつもりはない。三月に一度は桐生にでかけて新しい 作品を見てくる。今年は一点も購人していない。ピッタリのものにめぐり合わない、と思う。 : といってサラリーマンですからついでにこの 「幸い抽象画は具象にくらべて安いから私にも・ 一点も、というわけにはいきません。慎重に慎重を期します」。だからこの部屋の絵はただの五
青楓美術館は、甲州一宮町、一面のブドウ畑 の真ん中にポツンと立つ、二階建てのしゃれたン 洋館で、近くの小川で洗いものをしていた老女 に、それと教えられた。 津田青楓は、昭和五十三年夏、九十八歳の誕生日をまぢかに永眠した。その三年前、水墨画の 「富嶽百景」を最後の個展に、日本画家としての後半生をしめくくった形で″今様良寛〃の死と 悼まれたけれど、三十代の初め、。ハリ帰りのこの青楓が、夏目漱石に絵の手ほどきをしたり、一一 科会創立の先達となって活躍した姿をしのんだ人が何人いたろうか。 さらにまた、マルクス主義者・河上肇ら京都の学者たちと親しく交わり、昭和六年 ( 青楓五十 一歳 ) の二科会に、バラック建ての民家を威圧するように新国会議事堂を描いた『プルジョア議 会と民衆生活』 ( 官憲のさしがねで『新議会』と改題 ) を出品するなど、プロレタリア美術への深い 関心を示すかと思えば、河上肇の検挙 ( 昭和八年 ) にからんで警察にあげられ、釈放されたとた ん、こんな時代に洋画は究められぬと筆を折り、今後は日本画の可能性をさぐる、とアトリエに こもってしまう。そんな反骨の人でもあったと知る人は、もっと少なかったにちがいない。 この数少ない一人が、青楓美術館の設立を買って出た「古希をすぎた一歴史学徒」甲州の人・ 小池唯則。たまたま晩年の青楓を訪ねたのが縁で、たちまちそのとりこになり、わずか数年の往 青楓美術館 ( 山梨県 ) まわりは一面のぶどう畑 131
百三十点、日本人作家四百十点が集められている。 " 現代の人間像。とともに作家の全容をできるだけとらえるため、一作家一点主義を避け、その 作家の複数の作品収集につとめているのもこの館の特色。ピカソ八十五点、ダリ四十一一点。日本 人では、現代版画で国際的に注目される野田哲也三十六点、情熱的な人間像を描く大町糺十五点 など。こうして世紀に制作された作品だけを収集した現代美術館という特色が鮮明になった。 常陳できるスペースは二百点までなので、三カ月に一度展示替え。しかし希望者には収蔵庫も 開放して、展示していない作品も見せる。 建物は、ここに作品も展示されている彫刻家井上武吉氏の設計。天井は自然採光で人り口から 出口まで三つの展示室を自然に通れる空間造型になっていて鑑賞しやすい。くつろげる、といえ ば、展示場に警備の人がいない。サクもガラスケースもないせいだろうか。それでいて警報ブザ ーが鳴ったのはこれまでたった一度。ウォーホールの「マリリン・モンロー」に強くタッチした 人がいたらしい。 「監視の中で緊 か張して鑑賞する のは : : : ま、絵 が好きな人はい 扨たずらなんて、 リと思うのです。 万一、といって も公開ですから
教育的で、すぐれて啓発的なオリエント美術館を誕生させた、その面白さを味わうのだった。 ガラス玉やガ一フスの小つぼ、小びんの美しさ。護符や土偶の、あの小さなものにこめられた古 代人の心にひかれる。「先ごろ参観に来られた谷川徹三さんが、あのお守りや土偶を全部見たい とおっしやって、何百点とある収蔵品をお見せしましたが、長い間、ほんとうに楽しそうにご覧 になっておられました。これ、みんなほしいな、などと笑われて : : : 。開館一二年目の人館者は年 間八万人ほど、県内県外、半々というところです」と、詩人としても知られる山本遺太郎館長の 話だった。 〈主な収蔵品〉 ミルフィオリと呼ばれるモザイクガ一フス坏 イラン、テペ・シアルク出土の山羊流水文彩文土器 ( 前正倉院宝物と同器形の円形切子ガラス碗や突起のあるガ 三五〇〇年 ) 一フス碗 わが国で一点しかないアッカド時代の粘土板文書 ササン朝ベルシアの銀製十一一曲長坏 ルリスタン青銅器の轡や剣 ( 前一〇〇〇年頃 ) イスラム陶器では、作者銘のある三彩鉢ゃ一フスター陶器 シリア、。ハルミュ一フ出土の男子像石彫 の鶏頭壺。金製装身具や連珠文の裂など。 〈メモ〉岡山市天神町九ノ三一。国鉄岡山駅表口から東 ( 徒歩十五分。電車なら 駅前から「東山行き」に乗って三つ目の停留場「表町人り口」下車マ開館時間 午前九時ー午後四時半マ人館料一般一一百円。六十五歳以上の老人、身障者 ( そ の介護者一人 ) は無料マ休館日月曜日 ( 月曜日が祝日の場合はその翌日 ) マ 電話Ⅱ〇八六二ー
張 ル チ ス ルノワール、マチス、ピカソ、ダリ : : : 巨匠の作品に囲まれ テ て、いま、このフロアにいるのはあなた一人かも知れない。な の 。池田世紀美術館は んだかぜいたくな気分になってきて : 本 都会を離れて静岡県の一碧湖畔にある。一日の平均人場者は百 は 人、シーズンによってはそんな鑑賞も現実にできる、静かな美 : 、 外 の 館 術館なのである。 一小 ここは「世紀に制作された絵画、彫刻で〈人間〉を主題に した作品を重視して」九百四十点を収集している。 「人間を扱ったものに心ひかれて」集め 館の創設者は池田英一氏 ( 日瀝化学工業相談役 ) 。 てきたコレクションをもとに、昭和五十年この地に館を建て、さらに「自分が生きる同時代の人 の作品」とテーマを明確にして「世紀」美術館が設立された。 外国作品では印象派に始まって、ポップアートまで各派巨匠の作品が少なくない。ポナール ミロ「海の前の人」、ピカソ「近衛兵と鳩」、ダリ「キリン」シ 「洪水の後」、マチス「ミモザ」、 リーズなど、国際的に評価される秀作も含まれる。「ミモザ」はワシントン国立美術館での展覧 会に貸与され好評だった。イギリス、フランスでのダリ回顧展に行っていた「ヴィーナスと水 兵」は常陳中だ。さらにデ・クーニング、シャガール、ココシ力、べーコンなど外国作家は五 池田世紀美術館 ( 伊東市 )
「おほてらのまろきはしらのつきかけを / っちにふみつつも のをこそおもへ」 この春、奈良の唐招提寺の、会津八一 自筆の碑のまえで、それこそ一字一字、舌でころがすように 読んできかせ、さて、同行の学生たちに「会津八一」をたず ねたが、一人も知らなかった。『南京新唱』の、平仮名ばか りで書かれた歌で名高いこの作者も、昔の人になってしまっ たのだろうか ハスを降りて海岸の方へ行く道をしばらく歩くと、突き当 たりの松林の手前に「会津八一記念館」があった。昭和五十年春、開館。あかぬけした新しい建 へんがく 物だ。展示室は二階で、ガラス張りの三方の大きな壁に、およそ三十余点の、幅や扁額、柱かけ、 屏風などが並べられ、部屋の真ん中のショーケースには、あの大柄の会津八一には不似合いな、 手のなかに人りそうな草稿、覚書ふうの手帳、それに扇面、書簡の類が収められている。 「おほらかにもろてのゆひをひらかせて / おほきほとけはあまたらしたり八一」 真っ先に目に人ったのは、東大寺の大仏をうたったこの歌で、「作者が自筆のままにこの歌を 刻したる石碑は、大仏殿の中門の西に当る木立の中にあり、高さ一丈五尺」 ( 『自註鹿鳴集』 ) とあ る大きな幅だ。ゆっくり左右を見回す : ・ : ・「園林落葉多」と「相見呵々咲」 ( 相見テ呵々トシテ咲〈わ 会津八一記念館 ( 新潟市 ) 松林の向こうはすぐ海だ 月 9
お便り、ありがとう。ビュフェの「アナベルの像」の絵はが込 きも、すてきでした。もう二十年の昔、神田の古本屋で買った フラ = 版の『ビフ画集』を取り出したり、あなたの絵は一、 [ がきを机のガ一フスの下に人れたりしているうち、一度訪ねてみ一 たかった「ビフ = 美術館」行きを思い立ったのでした。あな 4 ~ 物 " ' ' 、一 たのおかげです。 「ビ = フだけの作品を収蔵、展示する世界最初の美術館」。、 ( 一九七三年開館 ) を誇るだけあって、小ぶりですが立派な美術 ~ 第、 館ですね。建物の中心を三角形の大展示室が占め、それを丸く 2 とりまくように回廊ふうの展示壁 ( 設計・菊竹清訓 ) 。もちろん見どころは大展示室で、正面の壁 の「キリストの笞刑」 ( 一九五一年Ⅱ二八〇 x 五〇〇センチ ) の大作にしばらくは見とれていました。 キリストを囲んだ六人の男女のそれぞれの怒りや悲しみが凍りついたような画面に、渇をいやす 思いでした。 この右隣が例の「肉屋の少年」 ( 一九四九年 ) 、左手に「青い闘牛士」 ( 一九六〇年 ) 、どちらも画 集ではおなじみの絵ですが、ホンモノの力にはかないません。正面の壁に向かっている僕の目に、 いやでも左の壁の半分を埋める「死の海を渡る」 ( 一九七六年日二五〇 x 五八〇 ) が人ってきます。 ベルナール・ビュフェ美術館 ( 静岡県 ) ビュフェの誕生日 ( 7 月 10 日 ) は人館無料
楽しく刷られた版画の年賀状を、毎年もらう人がいるだろ ' う。愛好家がふえた。芸術家も、進んで版画を創作し、日本版一 画は国際展でも高い評価を受ける。 明治末期、生気を失っていた日本の版画を改革し、新しい生′ かなえ 命をふきこんで今日の基を築いたのが山本鼎だった。「版画」 という一言葉も彼の創作という。 明治一一十五年、小学校四年を修了した山本は、十歳で東京の 西洋木版工房の住み込み小僧になる。人の描いた原画を印刷用を の木ロ木版にきざむ仕事だ。一人前の職工になったが、年期とお社奉公を終えると美校に人る。 人の描いた絵をそのまま彫るという職人がいやになったのだ。 在学中「明星」に発表した木版画「漁夫」が評判になる。それまでの浮世絵版画と異なり、作 画から製版、刷りまでを作者一人で行う自分のような板の絵を、山本は「創作版画」と命名した。 そしてお得意の木ロ木版の手法を用い、西欧リアリズムをその仕事に取りこんだ。職人時代、 伝統的手法と様式化におちて精彩をなくしていた浮世絵版画に対する批判を込めたのだ。 ハンテン姿で、キセルをもってなぎさに立っ二色刷りの「漁夫」は、生命感にあふれている。 失恋して渡仏、版画を制作する。五年後帰国、北原白秋の妹と結婚。日本画、油彩画と並ぶべ 上田市山本鼎記念館 ( 長野県 ) 現代の農民美術作品も展示してある
昭和五十一年六月二十日」ーーそして、その 翌年の八月一日、熊谷さんは九十七歳で亡く なった。 記念館にはとうとう来られなかった熊谷さ 、 ( ( んだが、その人り口には、等身大の写真が飾 。。はられている。写真家の藤森武さんの作品だ。 熊谷さんが亡くなる前年まで、三年間も、東 ~ 。京都豊島区の家に特別に出人りを許され、熊 顰谷さんの絵仕事から暮らしのすみずみまで、 、三千枚の写真を撮りまくった人で、「藤森君 ~ , 「の写真は気に人っています」といわせた、そ ・総の一枚だ。熊谷さんと合作のような、藤森さ んの写真集『独楽ー熊谷守一の世界』 ( 講談 3 社 ) で、新しく熊谷ファンになった人も多い はずだ。 開館のときには、三尾さんの収蔵品だけで はと心配して、恵那の画家のさんらが手持 【」ちの熊谷作品を十点ほど貸してくれたほどで、 あの大きな熊谷守一の記念館としては、お世 辞にもすばらしいとはいえないけれど、「裸