お便り、ありがとう。ビュフェの「アナベルの像」の絵はが込 きも、すてきでした。もう二十年の昔、神田の古本屋で買った フラ = 版の『ビフ画集』を取り出したり、あなたの絵は一、 [ がきを机のガ一フスの下に人れたりしているうち、一度訪ねてみ一 たかった「ビフ = 美術館」行きを思い立ったのでした。あな 4 ~ 物 " ' ' 、一 たのおかげです。 「ビ = フだけの作品を収蔵、展示する世界最初の美術館」。、 ( 一九七三年開館 ) を誇るだけあって、小ぶりですが立派な美術 ~ 第、 館ですね。建物の中心を三角形の大展示室が占め、それを丸く 2 とりまくように回廊ふうの展示壁 ( 設計・菊竹清訓 ) 。もちろん見どころは大展示室で、正面の壁 の「キリストの笞刑」 ( 一九五一年Ⅱ二八〇 x 五〇〇センチ ) の大作にしばらくは見とれていました。 キリストを囲んだ六人の男女のそれぞれの怒りや悲しみが凍りついたような画面に、渇をいやす 思いでした。 この右隣が例の「肉屋の少年」 ( 一九四九年 ) 、左手に「青い闘牛士」 ( 一九六〇年 ) 、どちらも画 集ではおなじみの絵ですが、ホンモノの力にはかないません。正面の壁に向かっている僕の目に、 いやでも左の壁の半分を埋める「死の海を渡る」 ( 一九七六年日二五〇 x 五八〇 ) が人ってきます。 ベルナール・ビュフェ美術館 ( 静岡県 ) ビュフェの誕生日 ( 7 月 10 日 ) は人館無料
その紅は第一一部「火」、第八部「救出」、第 十一部「母子像」に使われている。半数が墨 絵ですべて屏風。縦一・九メートル、横七・ 二メートルの大作だ。 終戦後、画家たちの多くは平和であかるい 熏、、 ( 、】一紜をかこうとしていた。でも二人にはかけな 、かった。位里画伯は広島で父やおじを失った。 部現地で救援活動の手伝いもした。無理をする 1 より暗ければ暗いなりに描くのが自然だ・ と思いたったのだ、という。 「原爆の図」はよく外国巡回展にでる。昭和 二十八年から三部作が英国など九カ国へ。第 十部「署名」が公開された三十一年から七年 間は十部作として世界をまわった。さらに四十五年はアメリカ巡回展、五十三年はフランス ( 。 これほど外国人にみられた日本の絵はないのではないか。 館内には、その後の作品「アウシビッツの図」「南京大虐殺」もある。夫妻の絵は被害者の 絵から告発の絵と変わる。そして五十五年「水俣の図」。不知火の海にただよう苦もんの群像が 三 x 十五メートルの大画面に墨で描かれている。水俣は、ゆっくりやってくる原爆だと夫妻はい 「本当にいま平和だといっていられるのか。公害、原発、私はますます不安だ。私たちは絵かき
オノサト・トシノブと片かなで作品を発表するこの画家は、 間もなく七十歳になる。ごらんのような絵を描いてきた。一、【 「円」。最も基本的なこの形を中心に、幾何形態が組み合わされ = ていく。 毎日国際美術展最優秀賞、グッゲンハイム、ベネチアビエン。 ナーレなど国際展出品。内外の有名美術館が作品をもつ。小野 里利信は故郷の桐生に住みついて五十年、コッコッと自分の世 界を築いてきた抽象画の。ハイオニアだ。多くの美術教科書に作品が載っている。 そのオノサトに、藤岡さんはほれた。藤岡時彦さんはある商社の課長。都内マンション六階の 藤岡宅がつまり「オノサト・ギャ一フリー」でもある。人り口すぐ左右の壁にもうあの朱色の作品 が。ダイニングを抜ける両側にも。左手一室は小作品室。奥の十五畳ほどのフロアに今は百号な どの大作一二点が照明に映えている。勤めから帰った時彦氏は英子夫人とこのように鑑賞していた。 ケンプのべート ーベンが部屋に流れている。 「こんな丸や四角な箱みたいなものがぎっしりつめこまれた絵をだれが : : : 」。藤岡さんもはじ めはそう感じたのだ。十八年前だった。一年後、転勤先のニ = ーヨークでみたオノサトで、その 良さを知った。何度もみているうちに、小品なら一点持ってもいいという気になってそのまた一 オノサト・ギャ一フリー ( 東京都 ) 7 見れば見るほど新しい発見が・・・と藤岡さん
なかなか風格のある建物だ。明治三十五年、陸軍将校のクラ プとして建てられたものを十二年前、修復して博物館にした。 北方民族関係資料の豊富なことでは群を抜くが、この館は一二 室に彫刻室を持ち、「若きカフカス人」「平櫛田中像」など中原虹」声 悌一一郎の作品十点が置かれている。中原は日本の近代彫刻のれ、、 ( 一 い明期に優れた作品を残して大正十年、三十三歳で早世した。 = を 自作にきびしく、現存する作品は少ないが、そのほとんどがこ一 の彫刻室にある。彼が旭川で少年期を過ごしたことからここに 4 ー、 , 収集されている。 さらにこの部屋には西常雄、柳原義達、佐藤忠良、吉田芳夫、流政之 : : : と現代実力派彫刻家 の作品が並ぶ。ちょっと手狭な感じが惜しい。すべて「中原悌一一郎賞」を受けた彫刻家の作品群 ヾこ 0 中原賞は彼の仕事をたたえ、さらに日本彫刻界の振興を目的に、旭川市が創設した。第一回は 昭和四十五年に木内克氏「婦人誕生」の仕事に。一昨年までで十回を数え、現在、彫刻家におく られる賞としては最も権威ある賞のひとっとされているが、それを北海道の一地方自治体が主催 しているのもめずらしい。 市立旭川郷土博物館 ( 北海道 ) 緑に囲まれた美しい建物
青楓美術館は、甲州一宮町、一面のブドウ畑 の真ん中にポツンと立つ、二階建てのしゃれたン 洋館で、近くの小川で洗いものをしていた老女 に、それと教えられた。 津田青楓は、昭和五十三年夏、九十八歳の誕生日をまぢかに永眠した。その三年前、水墨画の 「富嶽百景」を最後の個展に、日本画家としての後半生をしめくくった形で″今様良寛〃の死と 悼まれたけれど、三十代の初め、。ハリ帰りのこの青楓が、夏目漱石に絵の手ほどきをしたり、一一 科会創立の先達となって活躍した姿をしのんだ人が何人いたろうか。 さらにまた、マルクス主義者・河上肇ら京都の学者たちと親しく交わり、昭和六年 ( 青楓五十 一歳 ) の二科会に、バラック建ての民家を威圧するように新国会議事堂を描いた『プルジョア議 会と民衆生活』 ( 官憲のさしがねで『新議会』と改題 ) を出品するなど、プロレタリア美術への深い 関心を示すかと思えば、河上肇の検挙 ( 昭和八年 ) にからんで警察にあげられ、釈放されたとた ん、こんな時代に洋画は究められぬと筆を折り、今後は日本画の可能性をさぐる、とアトリエに こもってしまう。そんな反骨の人でもあったと知る人は、もっと少なかったにちがいない。 この数少ない一人が、青楓美術館の設立を買って出た「古希をすぎた一歴史学徒」甲州の人・ 小池唯則。たまたま晩年の青楓を訪ねたのが縁で、たちまちそのとりこになり、わずか数年の往 青楓美術館 ( 山梨県 ) まわりは一面のぶどう畑 131
教育的で、すぐれて啓発的なオリエント美術館を誕生させた、その面白さを味わうのだった。 ガラス玉やガ一フスの小つぼ、小びんの美しさ。護符や土偶の、あの小さなものにこめられた古 代人の心にひかれる。「先ごろ参観に来られた谷川徹三さんが、あのお守りや土偶を全部見たい とおっしやって、何百点とある収蔵品をお見せしましたが、長い間、ほんとうに楽しそうにご覧 になっておられました。これ、みんなほしいな、などと笑われて : : : 。開館一二年目の人館者は年 間八万人ほど、県内県外、半々というところです」と、詩人としても知られる山本遺太郎館長の 話だった。 〈主な収蔵品〉 ミルフィオリと呼ばれるモザイクガ一フス坏 イラン、テペ・シアルク出土の山羊流水文彩文土器 ( 前正倉院宝物と同器形の円形切子ガラス碗や突起のあるガ 三五〇〇年 ) 一フス碗 わが国で一点しかないアッカド時代の粘土板文書 ササン朝ベルシアの銀製十一一曲長坏 ルリスタン青銅器の轡や剣 ( 前一〇〇〇年頃 ) イスラム陶器では、作者銘のある三彩鉢ゃ一フスター陶器 シリア、。ハルミュ一フ出土の男子像石彫 の鶏頭壺。金製装身具や連珠文の裂など。 〈メモ〉岡山市天神町九ノ三一。国鉄岡山駅表口から東 ( 徒歩十五分。電車なら 駅前から「東山行き」に乗って三つ目の停留場「表町人り口」下車マ開館時間 午前九時ー午後四時半マ人館料一般一一百円。六十五歳以上の老人、身障者 ( そ の介護者一人 ) は無料マ休館日月曜日 ( 月曜日が祝日の場合はその翌日 ) マ 電話Ⅱ〇八六二ー
1 つる 教会風、赤レンガ造りの本館。一面にツタがッ ~ ン回 からまって、何年も前に初めて訪ねた時よりま チ日 た風格を増していた。 ス 開館は昭和三十 = 一年。穂高が生んだ日本近代 ~ 彫刻の先駆者・荻原碌山の業績を残そうと民間にい気い「 の人々や学生らの手で造られた。敷地は穂高中学校の校庭のすみ。当時の中学生がレンガ運びを 手伝った。 「二十九万九千余人のカで生れたりき」と刻んだ記念メダルが大とびらの内側にかかっていて成 立の事情を物語っている。 中に人ると、天井の高い部屋には「坑夫」や絶作「女」 ( 昭和四十二年重文指定 ) など十五点の プロンズ像が並んでいる。「坑夫」は明治四十年、二十九歳の時。ハリでの習作。時々、ロダンを 訪ねたころのもので、まず友人の高村光太郎を感動させ、彼のすすめで石こうにとり、日本に持 ち帰った。碌山の作風は大胆で躍動的。翌年帰国したが、日本の展覧会ではなかなか理解されな いまま、明治四十三年吐血して亡くなる。その生涯わずか三十二年。 壁に目を転ずると年表、デッサン、油彩、水彩、エンピッ画の数々が彼の人生ドラマを物語る。 十八歳までは中農の五男坊だった彼の運命を変えたのは、地元出身の相馬愛蔵・黒光夫妻 ( のち 碌山美術館 ( 長野県 ) い一、叮
した。昭和五十四年、フランス国立ロダン美術館など主催のロダン展が北海道では旭川だけで開 かれたが、予想に反した黒字。それを基金に。「小中学生が多かったですね。彫刻が街に出ても う十年、小さい時から見慣れて、興味のわくものなんですね」 ( 遠藤徹夫博物館長 ) 五十五年夏には市内で中原作品、賞審査員のもの、受賞作品計五十点を集めて「中原賞十回記 念展」が開かれた。 同賞審査員の一人匠秀夫氏 ( 神奈川県立近代美術館長 ) は、 : これが刺 「彫刻家が、いちばんもらいたい賞でしようね。それを北海道の旭川が持っている : 激になって、彫刻を屋外に展示する市とか美術賞を持っところもいくつか出てきました」という。 旭川は、ひと味違うくらしの空間を持った街である。 〈中原悌ニ郎に関する収蔵資料〉 「憩える女」 ( 一九一九年 ) 作品 ( いずれもプロンズ ) 「若きカフカス人」 ( 一九一九年 ) 「女の顔」 ( 一九一〇年 ) 「平櫛田中像」 ( 一九一九年 ) 「保田龍門」 ( 一九一五年 ) 資料として中原悌一一郎の書簡 ( 婚約中の伊藤信あて封 「三宅伊三郎」 ( 一九一六年 ) 書四十八通、葉書三通 ) 、中原信の遺稿 ( 『中原悌一一郎の 「乞食老人像」 ( 一九一八年 ) 想出』日動出版刊原著者遺稿 ) 〈メモ〉旭川市四区一条一丁目。旭川駅より・ハスで三十分。マ人館料“おとな十 円こども五円マ休館日“月曜と国民祝日に年末年始マ時間日平日午前九時半ー 午後四時半、日曜は開閉館とも三十分くり上がりマ電話日〇一六六ー五一ー七七 八 ~ ハ。 3
年後、二〇 x 二〇センチの小品を東京の個 ~ 一展で買った。月給の手取りを上回った。 思い出が深いのはこれだ ( 写真の作品 ) 。 国スイスから買った。日本にあった時はお金 年が足りず作品はスイスのコーンフェルト画 廊に。 " 輸人〃した時のうれしさ。という わけで今は油絵だけで約五十点、常時一一十 き点をこうして鑑賞している。海外勤務時は 第 買小品を持参し、大作は日本の美術館にあず け、近作を知るためにはカ一フースライドを 送ってもらう、と徹底していた。こうして , ( 毎日ながめていて、そのたびに新しい発見 があって飽きないというのだ。一室は「オ ノサト文庫」でオノサトに関する内外の本、 雑誌、カタログ、新聞切り抜きもそろっている。 重なる海外勤務で美術館もうでをした藤岡さんは、自分の目を信じている。そしてオノサトは 後世に残る一人、ということも。決して甘いつもりはない。三月に一度は桐生にでかけて新しい 作品を見てくる。今年は一点も購人していない。ピッタリのものにめぐり合わない、と思う。 : といってサラリーマンですからついでにこの 「幸い抽象画は具象にくらべて安いから私にも・ 一点も、というわけにはいきません。慎重に慎重を期します」。だからこの部屋の絵はただの五
「人の生活と結びついた美をとらえよう」 「自然と人を大切に生きていくことを呼びかけよう」 老画家は、郷里・岩手にあるべき美術館の姿を頭に描い た。ひらめきはスケッチされ、構築途中に臨機に生かされていっ一、一 た。だから五年がかり。設計図はない。たくさんのスケッチから一 ( 生みだされた一大作品、手づくりの「盛岡橋本美術館」は昭和五、、 十年秋、岩山の中腹に完成した。 創設者橋本八百一一氏は明治三十六年、岩手県に生まれた。盛岡 農学校から東京美校。昭和五年、六年と帝展特選。当時、労働者をテーマにして " アカデミック な帝展では異例。といわれた。戦後は郷里に帰り、県議会議員、同議長、教育委員。県立美術館 づくりを運動したが、道遠きを思い、個人でつくることを決意した。 。、ヾレビゾン派の絵が二十数点。十九世紀中ごろ、。ハリ交 ミレー、クーレベ、。 ト 1 ビニーなとノノ 外の生活と自然を共感をこめて描いた画家たち。産業革命による自然破壊 ( の批判をこめた彼ら 「自然と人間の生活の調和について反省させられる現代、この派の絵画のもつ意味は重い」 と八百二氏は考えた。空と山と水と人、それは岩手の人たちが共感するものでもあろう。氏自身 はクールべが好きだった。その「海ーもある。 盛岡橋本美術館 ( 盛岡市 )