関 玄 な モ しゃれたガラス張りの美術館の前庭は、白大理石を敷いた野 外小劇場風になっていて、浅く水をはった " 展示水面。が小さ一 大 なステージを囲んでいる ( 設計・川崎清 ) 。時折、ここが音楽や舞 踊の会場になるということだが、美術館の雰囲気作りには申し 分あるまい。この本館につなげて、開館十年目の五十六年秋、 念願だったという常設展示館もお目見えした。これまでは、年 数回の企画展のあいまに、収蔵作品 ( 四六〇〇点 ) の展示に苦 労してきたわけだから、こんどの常設展示場開きが、どんなに館の人たちを喜ばせたか。「普通 ならせいぜい百数十点のスペースに、ざ 0 と千点 ( も 0 とも半数以上が小さな版画類ですが ) の作品 を見ていただけるよう工夫しました」という言葉にもよくうかがえる。 新館一階が日本画、工芸、書の展示で、県にゆかりの画家といえば、古くは江戸南画の高久靄 、江戸から明治 ( の橋渡し役だ 0 た文人画家・田崎草雲、くだ 0 ては小堀鞆音、荒井寛方らの 作品が並ぶ。工芸では、何とい「ても益子の主、浜田庄司の重厚な陶芸作品が目をひく。二階は 洋画、版画ー清水登之 ( 栃木市出身 ) の大作「トレド郊外」から、川島理一郎 ( 足利市 ) の「パリ・ セーヌ河畔」と多彩だが、そんな中に青木繁の「わだつみのいろこの宮」 ( 下絵 ) と小品「幸 彦像」がまじる。青木は九州の人だが、県人・福田タネと恋仲で、タネとの間に生まれた幸彦 栃木県立美術館 ( 宇都宮市 ) あい
ら藩財政立て直しのお礼として拝領したもの。 所蔵品のうち、重要文化財では木曾義仲や北条時政など、この ぬり 時代前後四百年の要人の文書を集めた「市河文書」。「伊勢物語塗 ごめ 籠本」なども。 本館ではこれら本間家所有であった館蔵品を、月がわりで展示 いたら する。例えばある月は、円山四条派絵画を中心に、応挙「鼬図」 など、といった具合に。古い冷房なしの建物なので、ツュ時は焼 き物中心の展示にするなどの苦心もある。 場所柄、 " 奥の細道ツアー〃もくる。芭蕉が酒田滞在を終える 。礙送別句会で書き残した「あふみや玉志亭唱和懐紙」がある。芭蕉 、「一 ( 山形県内足跡スライドもサービスする。 、、】を、心第〈 0 彎、円本館はお座敷展示室だ。現代版画を並べても案外ピッタリくる。 一をい第ツを、、 ( そういえば、かってフ一フンス絵画展「サロン・ド・メェ」では大 宅壮一氏が " 御座敷美術館〃と得意の新造語のひとつをものした。 昭和四十三年には本館横に延べ六百余平方メートル、冷房もあ る新館ができた。ここは地元の人たちを対象にした企画展が中心。 例えば、独特の戯画で禅の極致を大衆に説いた江戸後期の禅僧 「仙厓」展の次は「能と能面」展とか。 また新館では市民、学生、児童画展を毎年やる。山形県児童画 展は五十六年で三十三回目を数えたが、毎回の人選作二百点を保 せんがい
( 尺八の福田蘭童 ) としばらく県下で暮らしたし、「わだつみの : : : 」など一連の名作の構想も、 タネとの数年で終わった交情のときという縁でらしい。一つの壁画を「コンポジション」「画 房小閑」の大作一一点で占める阿以田治修の魅力もなかなかのものだ。 版画の収集はこの美術館の自慢で、なかでも川上澄生の「顔、偽版 GIPANG 古地図、南蛮ぶり ほか、絵本書票など約四〇〇点」は圧巻だ。川上は横浜生まれだが、宇都宮で中学・高校の英語 教師生活が長かった。版画や水彩画は光にあたると色があせやすい、見たいときだけ明るい所に 引き出せるように、大きなス一フィディング・。ハネル十余台 の両面に作品を収めた館の創意工夫のおかげだ。工夫とい えば、一階から二階へ上がる吹き抜けの大きな壁面いつば いに二十点近い作品を掲げ、それを二階の手すりに寄って 見渡す趣向が面白い。右端に豊道春海の、タタミ何畳敷も 引ありそうな書「精神」を置き、隣り合って靉嘔の油彩「レ ー・レイン」、その上に久里洋二の「女優アルレッ 面インポ : と、抽象、具象と 大ティ」、下に菅井汲の「まちの祭」・ 抜りまぜの壁面の作品紹介の横にこんな文句があった 亠吹「現代の世界の絵画は、技法、方向、思想など、どの面か 、ら見てもきわめて多彩、かっ混とんとしております。それ : この大壁面展示は鑑賞者 を鑑賞者がどう受けとめるか・ が自由な立場で作品を見、考え、ディスカッションしてい ただくコーナーです」
楽しく刷られた版画の年賀状を、毎年もらう人がいるだろ ' う。愛好家がふえた。芸術家も、進んで版画を創作し、日本版一 画は国際展でも高い評価を受ける。 明治末期、生気を失っていた日本の版画を改革し、新しい生′ かなえ 命をふきこんで今日の基を築いたのが山本鼎だった。「版画」 という一言葉も彼の創作という。 明治一一十五年、小学校四年を修了した山本は、十歳で東京の 西洋木版工房の住み込み小僧になる。人の描いた原画を印刷用を の木ロ木版にきざむ仕事だ。一人前の職工になったが、年期とお社奉公を終えると美校に人る。 人の描いた絵をそのまま彫るという職人がいやになったのだ。 在学中「明星」に発表した木版画「漁夫」が評判になる。それまでの浮世絵版画と異なり、作 画から製版、刷りまでを作者一人で行う自分のような板の絵を、山本は「創作版画」と命名した。 そしてお得意の木ロ木版の手法を用い、西欧リアリズムをその仕事に取りこんだ。職人時代、 伝統的手法と様式化におちて精彩をなくしていた浮世絵版画に対する批判を込めたのだ。 ハンテン姿で、キセルをもってなぎさに立っ二色刷りの「漁夫」は、生命感にあふれている。 失恋して渡仏、版画を制作する。五年後帰国、北原白秋の妹と結婚。日本画、油彩画と並ぶべ 上田市山本鼎記念館 ( 長野県 ) 現代の農民美術作品も展示してある
赤いシャツの永瀬さんが、温かい笑顔で迎えて くれる。人り口の壁の彼は、今から七年前、生前 八十四歳の写真である。年をふやすごとに、赤を シックに着てみせる人であった。 日本版画史とともに生き、詩情豊かな作品を残した永瀬義郎は、晩年をここで暮らし、制作し た。美術館になった部屋は今も訪れる人を夢の宮殿 ( と運んでくれる。 明治一一十四年、茨城生まれ。美校彫刻科から京都の絵専 ( うつる。日本画も学ぶ。が、「白樺」 に載ったムンクに魅せられて版画を。大正一一年、文芸誌同人として創作版画を試み、長谷川潔ら と日本版画倶楽部を結成、日本ではじめての創作版画展。 同人誌「仮面」で西条八十、日夏耿之介らを知った永瀬だが、多彩な交友と持ち前の好奇心は 舞台美術も手がけ、俳優も。高田保とは人形劇団を作る。俳優といえば、遊学したフランスでは シャルル・ボワイ工と映画「ラ・バタイユ」で共演、東郷元帥を演じた。沢田正二郎、金子光晴、 広津和郎、宇野浩一一、北原白秋、芥川龍之介、井上靖・ : ・ : 自伝「放浪貴族」に登場するよき時代 の、よき友の名は、画友よりも多いのではないか。 だが、生涯を通じて信頼し合った友は、「仮面」でその表紙、装丁、カットなどを共に担当し た長谷川潔だった。すたれていた西欧の銅版画技法、マ = エルノワールをフランスで日本人とし 永瀬義郎の館 ( 東京都 ) 館の人り口の永瀬さん母子
く、。ハウル・クレーの「緑の中庭」ほかの小品が目をひいたが、とりわけ、″抽象絵画の父〃 ワシリー・カンディンスキーの油彩、デッサン、版画など、館の手持ちの三十点余を、一室に集 めて特集「カンディンスキーの世界」なども開く。 もっとも、この美術館のミソは、ここを「あなたの自己発見の場にーとうたっているところに あるらしい。一、二階にわたる「展示室」 ( 一三〇〇平方メートル ) に負けぬ規模で、二つの「創 作室」や「造形遊戯室」、多くの美術書を集めて自由に閲覧させる「図書室」やレスト一フンなど にたつぶりスペースをさいている。つまり、木工・金エ・陶芸・版画用具などをゼイタクにそろ えて、「どなたでも自由に使えます」と看板を出した創作室 で、あなたが手をよごし、モノをつくっているうち、また、 レストランで芸術論に花が咲くうち、図書室で美術史の勉強 途中、ふと、ホンモノの作品が見たくなったといったとき、 れ 初めて観覧料一一〇〇円ナリをはらって展示室 ( : : : という仕 ~ る組みなのだ。 日曜日の「創作室」は、電動ロクロを前に粘土をこねる小 を 粘学生の顔があり、銅版画用プレス機のわきの作業机で、少女 にたちが熱心に版画の下絵を描いていた。「造形遊戯室」も、 作満員の子供たちゃお母さんが、折り紙の先生の指導で、備え つけの色紙や絵本をひろげてたのしそうだった。地方美術館 のひとつのモデルを、そこに見たような気がした。 「創作室」や「造形遊戯室」のアイデアがすばらしい。
家ん のさ 普市 ばっ れ立 けに 愛媛県松山市郊外の住宅地。県庁勤めの市川 な前 あぜち がの 武秀さん ( 四十三歳 ) が自宅の玄関に『畦地梅 板関 看玄 太郎松山館』の看板を掲げたのは、昭和五十一 年だった。近所の人に「お宅、骨董品屋でも始 めたの ? 」と聞かれたというその看板、よく読めば『版画・素描・書籍・その他観覧料無料 : 』と続く。 畦地梅太郎。″山〃の版画家として知られるが、明治三十五年、同県北宇和郡の農家に生まれ た。船員や新聞発送係、看板書きなどを経て印刷工時代に版画に関心を持ち、二十八歳で内国美 術展覧会の国際賞受賞。のちに国画会展の国画奨励賞受賞、サン。ハウロ・ビエンナーレ展出品。 現在は日本版画協会名誉会員で、日本の木版画界の長老の一人である。 そんな畦地作品が約三百点。市川さんが好きで集めたものばかりだが、興味がある人には見て もらおう、と 6 のうちの二室とサンルームを展示室にあてている。勤めが休みの土・日曜 だけの″私設週末美術館〃だ。 六畳の洋間のピアノの上に、本だなの上に、おなじみの山シリーズが並ぶ。やさしいカープの 山々はふるさとの山なのか。ひげ面の山男、黒と白のしま模様がユーモラスなライチョウ、白い 雪の精。テーマは一貫して自然と人間だ。「親子の水ーのように原画と版画を並べたものもある。 畦地梅太郎松山館 ( 松山市 )
ミナト神戸。『ポートピア』に協賛して「南 蛮紅毛美術展」が開かれていた。 三階建ての古びた洋館。人ると正面に大びよう一」一 ぶ「泰西王侯騎馬図」 ( 四曲一双 ) があった。カト リックと回教国の王侯四人の雄姿を描いたテン。ヘラ画。和紙を張り合わせた上をつややかな赤や 緑、金ばくが彩って、和と洋の調和がみごとだ。 こぢんまりした室内は、異国情趣たつぶり。左右の壁も「世界地図及び四ヶ国都市図」のびよ うぶ ( 八曲一双 ) で占められている。三点とも重要文化財。作者不明だが、日本人が描いた初期 の洋風画である。 南蛮美術は、キリシタン美術とも呼ばれる。十六世紀半ば、イエズス会は日本での布教活動の 一環としてセミナリオ ( 神学校 ) を建て、その絵画教室ではさまざまな西洋画法を伝えた。やが て聖画像が描かれ、キリシタン画家は腕をみがいていく。テンペラ画、油彩、銅版画 : : : 。仏教 伝来の中国文明とはまた異質のヨーロツ。ハ文明を目にした時、人びとはどんなに驚いたことだろ まだ見ぬ国への夢とあこがれを込めたように、世界地図と都市図はカラフルに描かれている。 当時の有力四都市はコンスタンチノープル、ローマ、いすはにや ( スペイン ) の都、リスポン。 神戸市立南蛮美術館 緑の多い高台
のほうが、線がぐんと太い。しかも勢いが違う。筆の動きが自信に満ちている。 幕末の京都で商家の次男に生まれ、好きな学問を生かして神官になった。親しく交わった勤王 の志士たちが続々と捕まったとき、逃げられたのは幸運だった。貧苦に追われ、売るために絵を 描き出した。十代の終わりごろ町絵師から手ほどきを受けていたようだが、本格的な先生は一人 もいない。気に人った絵を、徹底的に模写した。それと、身の周りの写生できたえた。 残された模写は、法隆寺金堂壁画。鳥羽僧正『鳥獣戯画』。隆信の名作といわれる源頼朝像。 伝雪舟の富士山図 : : : 。江戸初期の浮世絵美人もある。中国絵画と文人画にはとくに力を人れ、 大雅と蕪村の合作『十便十宜図』は三回も写したほど。鉄斎に深く傾倒している洋画家、中川一 政さんは「鉄斎が筆を離したのは寝る時だけだ ったろう」と見る。 しかし鉄斎は、自分を「学者であり、絵かき ではない」といい続けた。多くの記録にある。 実際、中国と日本の古書を生涯読み続け、一人 い助息子を中国史の学者に育てた。絵は楽しみに描 これが基本姿勢だったという。『羅漢図』 ( 八十七歳 ) は、その楽しみを存分に発揮した 代表作の一つだ。 鉄斎芸術の魅力について桑原武夫京大名誉教 マ ! ョ」授はこう語る。 「鉄斎は〈盗み絵〉といわれるほど、多くの流 を 3
五十二年七月開館以来、とりわけ近代ガラスのコレクション で知られてきているこの美術館は、北大植物園と大通り公園に 近い一画を占める白磁タイルの三階建てだ。モダンな建物と調 ~ 和して、前庭に点在するカラフルな、風で動く彫刻 ( モビール ) が、まず近代美術館らしい雰囲気を演出している。 この美術館はサントリー、山種両美術館づくりに参画した倉 田公裕氏が情熱と信念で創設に加わり、今も館長として取りし き「ている。施設、設備、活動とも「待ち受け型美術館」でな ) ~ く「行動型美術館」を考えているという。 玄関ホールは吹き抜けの広い空間。その左側が常設展示室 ( 一、二階合わせて約二千平方メート ル ) 、右側が特別展示室 ( 一階のみ、千百平方メートル ) にあてられ、正面は二百四十人収容の講堂 の人り口になっている。このように年間一二十万人を軽く超す観覧者にとって、目的別の動線が明 確にされている。 収蔵品としては①北海道関係②日本近代③海外の近代と現代の作品が三本柱となっている。総 点数は千五百点で、そのうち絵画・彫刻六百点、版画五百点、工芸四百点。工芸の多くはガラス 作品で、フランスを中心にした海外二百三十点、日本百五十七点と充実している。常設展示は平 北海道立近代美術館 ( 札幌市 ) 一 1 1 合掌づくりを思わせる屋根の北海道立近代美術館