のほうが、線がぐんと太い。しかも勢いが違う。筆の動きが自信に満ちている。 幕末の京都で商家の次男に生まれ、好きな学問を生かして神官になった。親しく交わった勤王 の志士たちが続々と捕まったとき、逃げられたのは幸運だった。貧苦に追われ、売るために絵を 描き出した。十代の終わりごろ町絵師から手ほどきを受けていたようだが、本格的な先生は一人 もいない。気に人った絵を、徹底的に模写した。それと、身の周りの写生できたえた。 残された模写は、法隆寺金堂壁画。鳥羽僧正『鳥獣戯画』。隆信の名作といわれる源頼朝像。 伝雪舟の富士山図 : : : 。江戸初期の浮世絵美人もある。中国絵画と文人画にはとくに力を人れ、 大雅と蕪村の合作『十便十宜図』は三回も写したほど。鉄斎に深く傾倒している洋画家、中川一 政さんは「鉄斎が筆を離したのは寝る時だけだ ったろう」と見る。 しかし鉄斎は、自分を「学者であり、絵かき ではない」といい続けた。多くの記録にある。 実際、中国と日本の古書を生涯読み続け、一人 い助息子を中国史の学者に育てた。絵は楽しみに描 これが基本姿勢だったという。『羅漢図』 ( 八十七歳 ) は、その楽しみを存分に発揮した 代表作の一つだ。 鉄斎芸術の魅力について桑原武夫京大名誉教 マ ! ョ」授はこう語る。 「鉄斎は〈盗み絵〉といわれるほど、多くの流 を 3
ら藩財政立て直しのお礼として拝領したもの。 所蔵品のうち、重要文化財では木曾義仲や北条時政など、この ぬり 時代前後四百年の要人の文書を集めた「市河文書」。「伊勢物語塗 ごめ 籠本」なども。 本館ではこれら本間家所有であった館蔵品を、月がわりで展示 いたら する。例えばある月は、円山四条派絵画を中心に、応挙「鼬図」 など、といった具合に。古い冷房なしの建物なので、ツュ時は焼 き物中心の展示にするなどの苦心もある。 場所柄、 " 奥の細道ツアー〃もくる。芭蕉が酒田滞在を終える 。礙送別句会で書き残した「あふみや玉志亭唱和懐紙」がある。芭蕉 、「一 ( 山形県内足跡スライドもサービスする。 、、】を、心第〈 0 彎、円本館はお座敷展示室だ。現代版画を並べても案外ピッタリくる。 一をい第ツを、、 ( そういえば、かってフ一フンス絵画展「サロン・ド・メェ」では大 宅壮一氏が " 御座敷美術館〃と得意の新造語のひとつをものした。 昭和四十三年には本館横に延べ六百余平方メートル、冷房もあ る新館ができた。ここは地元の人たちを対象にした企画展が中心。 例えば、独特の戯画で禅の極致を大衆に説いた江戸後期の禅僧 「仙厓」展の次は「能と能面」展とか。 また新館では市民、学生、児童画展を毎年やる。山形県児童画 展は五十六年で三十三回目を数えたが、毎回の人選作二百点を保 せんがい
宴やゲームを楽しみ、別れていく人生ドラマが次々と繰り 広げられる。日本独特の文化が花開いた平安朝。女たちの 生き方は、生まれた家柄や巡り会った男との前生の因縁次 第だったのかもしれない。しかし、その男女の機徴は今に 通じるものがある。原作の日本の四季の美しさや詠み交わ された和歌のリズム感も、絵と文字から伝わってくる。 この絵巻、現在残っているのは四巻 ( 絵十九面、詞書三十 タ 七面 ) で、五島美術館に一巻と徳川美術館に三巻。まとめ の 蔵て一度に見るチャンスは、二館の特別展などでたまに巡っ てくる。「隆能源氏」の魅力について、作家の田辺聖子さ んは、 「年中、図録を見てますが、品のよさがたまらない。原画 は古雅ですね。あの顔が大好き。一見無表情ですが、ジッ と見ているとその人の喜怒哀楽が伝わってくる。どなたの 訳でもいいから原作に触れた上でごらん下さい」と語る。 昭和三十五年開館のこの美術館はなかなかの物持ちで、 蔵品は千五百点。故五島慶太氏が喜寿を迎えた時に寄贈した古写経、墨跡、絵画、古筆、陶磁器、 彫刻をはじめ茶器、刀剣、馬具、古鏡など。これらをテーマ別に年に約八回の展示替えを行う。 学芸員の説明は「気候に合わせて」と前置きがっき、高温や湿気に弱いもの、サビがこわいもの と分類される。企画方針は歴史の縦の流れを重視して足りない分は借りてくる。地味なモノでも
方志功など収蔵。 子 企画展示室。ュニークで 時機的な企画を心がける。 い 「平面絵画ーその多様化 を展」とか「明日への造形ー な九州」など、前衛的な企画 ルで館の学芸員が勉強し、ま でた腕をふるえる部屋でもあ 堂 る。この館の主要な目的の 0 沁ひとつに国際、特にアジア 諸国との美術交流がある。 すでに二度大きな「アジア 美術展」をやったが、この部屋では適時、収蔵コレクションからアジアの美術家作品を展示する。 さらに当館や新聞社、美術団体が主催する大規模展のための特別展示室、市民利用の四室の市 民ギャ一フリーがあって、このフロアは実ににぎやかだ。 階下はがらりと変わって古美術だ。 黒田記念室。当地の殿さま、黒田家に伝えられた武具、書画を常設展示している。が、この部 屋のお目あては国宝「金印」。約二百年前、近くの志賀島でお百姓が掘り出した金のハンコ。日 本と中国の文化交流を証明する歴史的遺品として、年代が確定した最古の文化財ということにな っている。国宝に指定されていて、開館とともに、東京国立博物館からここにきた。記念室中央
上り下りでいそがしい人の目になかなかとまらない。もったいない。 書院から下ったところにある学芸館の見ものは、まずわが国洋画界の先達・高橋由一の部屋。 洋製石版画の写実表現に感動して日本画から洋画を目指し、慶応二年ワーグマンの指導も受けた のち、画学校をつくって洋画普及につとめた。 同館のもっ二十八点の油絵は、全国にある由一の半数をしめる。明治十二年、当地で催された 琴平山博覧会に、絵画学校の資金援助を受けるため奉納、 たくさんの絵がここに残った。「なまり節図」「豆腐」な どは、近代リアリズムに触れた由一をしのぶ作品。由一 研究には欠かせない美術館だ。 ここの古絵馬を集めた部屋もおもしろい。山頂、本宮 近くの絵馬殿は、日本の五指に人る大きなもの。ここに 図 節 有名画家が奉納した絵馬を選んで学芸館に保存展示する なことにした。 江戸後期の文人画家谷文晁、サルを描く名手森狙仙、 高幕末大和絵派の冷泉為恭、勝川春章の美人画など。 社務所横にある宝物館は宮に伝わった絵馬、書、刀剣、 考古資料 : : : とそれはもりだくさん。朝廷から町人、百 姓まで、幅広い宮の神徳をあがめる奉納物だ。後嵯峨帝 の恋物語を書いた「なよ竹物語絵巻」 ( 重文 ) なども、 時期をわかっての展示となる。
関 玄 な モ しゃれたガラス張りの美術館の前庭は、白大理石を敷いた野 外小劇場風になっていて、浅く水をはった " 展示水面。が小さ一 大 なステージを囲んでいる ( 設計・川崎清 ) 。時折、ここが音楽や舞 踊の会場になるということだが、美術館の雰囲気作りには申し 分あるまい。この本館につなげて、開館十年目の五十六年秋、 念願だったという常設展示館もお目見えした。これまでは、年 数回の企画展のあいまに、収蔵作品 ( 四六〇〇点 ) の展示に苦 労してきたわけだから、こんどの常設展示場開きが、どんなに館の人たちを喜ばせたか。「普通 ならせいぜい百数十点のスペースに、ざ 0 と千点 ( も 0 とも半数以上が小さな版画類ですが ) の作品 を見ていただけるよう工夫しました」という言葉にもよくうかがえる。 新館一階が日本画、工芸、書の展示で、県にゆかりの画家といえば、古くは江戸南画の高久靄 、江戸から明治 ( の橋渡し役だ 0 た文人画家・田崎草雲、くだ 0 ては小堀鞆音、荒井寛方らの 作品が並ぶ。工芸では、何とい「ても益子の主、浜田庄司の重厚な陶芸作品が目をひく。二階は 洋画、版画ー清水登之 ( 栃木市出身 ) の大作「トレド郊外」から、川島理一郎 ( 足利市 ) の「パリ・ セーヌ河畔」と多彩だが、そんな中に青木繁の「わだつみのいろこの宮」 ( 下絵 ) と小品「幸 彦像」がまじる。青木は九州の人だが、県人・福田タネと恋仲で、タネとの間に生まれた幸彦 栃木県立美術館 ( 宇都宮市 ) あい
( 尺八の福田蘭童 ) としばらく県下で暮らしたし、「わだつみの : : : 」など一連の名作の構想も、 タネとの数年で終わった交情のときという縁でらしい。一つの壁画を「コンポジション」「画 房小閑」の大作一一点で占める阿以田治修の魅力もなかなかのものだ。 版画の収集はこの美術館の自慢で、なかでも川上澄生の「顔、偽版 GIPANG 古地図、南蛮ぶり ほか、絵本書票など約四〇〇点」は圧巻だ。川上は横浜生まれだが、宇都宮で中学・高校の英語 教師生活が長かった。版画や水彩画は光にあたると色があせやすい、見たいときだけ明るい所に 引き出せるように、大きなス一フィディング・。ハネル十余台 の両面に作品を収めた館の創意工夫のおかげだ。工夫とい えば、一階から二階へ上がる吹き抜けの大きな壁面いつば いに二十点近い作品を掲げ、それを二階の手すりに寄って 見渡す趣向が面白い。右端に豊道春海の、タタミ何畳敷も 引ありそうな書「精神」を置き、隣り合って靉嘔の油彩「レ ー・レイン」、その上に久里洋二の「女優アルレッ 面インポ : と、抽象、具象と 大ティ」、下に菅井汲の「まちの祭」・ 抜りまぜの壁面の作品紹介の横にこんな文句があった 亠吹「現代の世界の絵画は、技法、方向、思想など、どの面か 、ら見てもきわめて多彩、かっ混とんとしております。それ : この大壁面展示は鑑賞者 を鑑賞者がどう受けとめるか・ が自由な立場で作品を見、考え、ディスカッションしてい ただくコーナーです」
本館を目ざして庭をたどる。地方の私立美術館は、きれいな ~ 庭園をもっところが少なくない。それにしても、この回遊式の 六千坪は手人れがゆき届いて、すばらしい。みどりが暑い日ざ しに、ますますその濃さを増している。あの俗謡を思い出す。 「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿さまに」 江戸時代、本間家は回船業から大地主に。そして財政硬直化 の殿さまはここからお金を借りた。終戦時は、日本一といわれ る大地主だった。 この庭と建物は百六十年ほど前、本間家が要人をもてなすために造り、明治以後も酒田の迎賓 館であった。戦後、ここを使って、所有の美術品を公開した。 " せめてなりたや。の一部が美術 館になったわけだ。 その本館では「館蔵品展・南画」が開かれていた。絵画では近世を多くもつ。上方の画人が多 い。一、二階を通して展観中のこの企画でも、池大雅、田能村竹田、岡田米山人、与謝蕪村、福 原五岳 : : : などが並ぶ。江戸時代、酒田港は東北一の良港で、関西との交流が盛んだったのだ。 だから京びなもたくさん持っていて、春にはその展示もある。 二階には茶道具類の展示があったが、これは当地庄内藩をはじめ、米沢、水戸などの殿さまか 本間美術館 ( 酒田市 ) 広い庭園の奥に本館がある
ミナト神戸。『ポートピア』に協賛して「南 蛮紅毛美術展」が開かれていた。 三階建ての古びた洋館。人ると正面に大びよう一」一 ぶ「泰西王侯騎馬図」 ( 四曲一双 ) があった。カト リックと回教国の王侯四人の雄姿を描いたテン。ヘラ画。和紙を張り合わせた上をつややかな赤や 緑、金ばくが彩って、和と洋の調和がみごとだ。 こぢんまりした室内は、異国情趣たつぶり。左右の壁も「世界地図及び四ヶ国都市図」のびよ うぶ ( 八曲一双 ) で占められている。三点とも重要文化財。作者不明だが、日本人が描いた初期 の洋風画である。 南蛮美術は、キリシタン美術とも呼ばれる。十六世紀半ば、イエズス会は日本での布教活動の 一環としてセミナリオ ( 神学校 ) を建て、その絵画教室ではさまざまな西洋画法を伝えた。やが て聖画像が描かれ、キリシタン画家は腕をみがいていく。テンペラ画、油彩、銅版画 : : : 。仏教 伝来の中国文明とはまた異質のヨーロツ。ハ文明を目にした時、人びとはどんなに驚いたことだろ まだ見ぬ国への夢とあこがれを込めたように、世界地図と都市図はカラフルに描かれている。 当時の有力四都市はコンスタンチノープル、ローマ、いすはにや ( スペイン ) の都、リスポン。 神戸市立南蛮美術館 緑の多い高台
お堀をはさんで、皇居・東御苑と向かいあ 0 た都心の一等罇 地。白亜のモダンな東京国立近代美術館を訪ねたら、休館日でを もないのに「本日休館」。 電気工事や展示替えのため、一カ月半も休館とのこと。内外 ~ 2 一一 ( 〔 から見にくる人も多い国立美術館である。あまり長い休館は避、、一 け、休館の断わり書きをはっきり出してほしい、と思った。 昭和二十七年、文化国家をめざす日本に、国立の近代美術館 がなくてはと、東京・京橋の旧日活ビルで開館したが、長い間、展示品が集まらなくて苦労した。 現在地に移ったのは四十四年。 明治後期から現代までの日本画、油絵、版画、水彩、素描、彫刻など三千百余点。主な作家の 作品は一応そろえており、美術史の流れにそって鑑賞できる。 ″看板。は、まず横山大観の「生々流転」 ( 重文 ) 。全長四十メートルにおよぶ水墨の大絵巻。深 山に降ったひとしずくの雨が、川になり、海にそそいで、天に帰る。水の一生になぞらえて、人 間の一生の生々流転を語ろうとした絵画詩ともいわれる。 大正十一一年、院展に出品されたとき、会場に大観がいるのも知らずに、だれかが「絵はまずい が、ねらいがいい」といった。そばにいた婦人がすかさず、「値段の安いへッポコ絵ですもの」 東京国立近代美術館 皇居のお堀に影をおとす白い城