の仲間に入れてもらったはうがすっと楽しい 夜中、突然にごちそうが : サウジのごちそうは出るまでが花。食べ終わったら皆すぐいとまごいをする。それまでお茶を 飲んだり、デーツ ( なつめやしの甘い実 ) をかじったりしながら、話に花を咲かせるわけである。 だから食事時間が真夜中になることも珍しくない はじめて私がサウジ人の女だけのバーティによばれたときには、まさか食事時間が真夜中の 一二時になるとは露知らす、苦いコーヒーと甘いお紅茶を何杯も飲み、とめどなくおしゃべりに 興じ、 ついには順番に踊りを披露しはじめた女の子たちを見るにおよんで、これはひょっとする と食事なしの集まりだったのかと、不安になってきたものだ。 夜が更けるにつれ、だんだん空腹になるが、手洗いに立ったついでにちらっとキッチンを見て も、食事の支度の気配はまったくなし。そろそろ夫が迎えにきてくれる時間だと思ったとき、突 然手品のように溢れんばかりの食べ物が食堂に出現した。アラビアン・ナイトのランプの精の魔 法である。大きな羊の肉、山盛りの果物の数々、いろとりどりのケーキが部屋一杯に華やかに並 べられていた。狐につままれたような気持ちでいると、周りの人たちは器用に片手で羊肉をむし っては、お食べなさいと、次々に私の目の前においてくれる。彼女たちは、羊の下に敷いてある ナツツやレーズンの入ったごはんを片手だけでくるくると小さくまとめては、ばっと口に放り込 んで食べる。 6
のか、それとも信心深いのか、べールをしたままお茶を顔のべールのなかに入れて飲んでいると の妻の説明である。 また別のとき、私たちの家族はリヤドからかなり離れた町のサウジ人の友人の結婚式に招待さ れた。結婚式を行なう家は、例によって多数の電球で飾られているので遠くからもよくわかる。 家の右側の広い空地では何十枚ものカーベットを敷き詰め、左側で羊を料理していた。 結婚式の。ハーティは披露宴とは言えないかもしれぬ。披露しないのだから。新郎新婦がバーテ 。この結婚式の場合も女性は イの席に揃って出てこないし、男性客は新婦の顔は絶対に拝めない 家のなかで集まり、男性は家の外の席で集まっている。 大きな結婚式には何十頭もの羊が料理される。主人は客が充分食べられるように絶えず気を配 り、客の前の皿に引きちぎった肉を絶えまなく、ポンポン投げていく 。脂の塊、胃やレバーも丸 ごと入っていて、私の目の前に出てくる。解剖学の授業のようであるが、おいしい。食べなけれ ば失礼とばかり、何でも食べる。羊の下顎を目の前におかれ、骨の回りについた肉をかじったら、 羊と人間の歯がガチガチ鳴った。 主人がおもしろがって、私の前にいろいろなものを並べる。他の皿からもわざわざ持ってくる。 親切でやってくれているのだが、 暗いので何かよくわからない。丸いものをガブッとやったら何 だかゴムマリみたいなもので、よく見ると羊の目玉がこっちを見ていた。目玉を飲みこんだ拍子 に、まっ毛が喉にひっかかた 食事が終わると、空き地の片すみに特別設置してある手洗い装置、水道の蛇ロで手を洗い、横 70 イ
だが、現代の都市生活は砂漠のように自然に逆らわないやり方はできにくくなっている。仕事 の相手が外国人であると、主たる睡眠時間の午後にも仕事がくいこむこともある。生活時間が不 規則になって、しかも断食をせねばならぬとなると、はなはだしく疲れるだろうと思う。 断食は、すべての人が行なう、といっても例外はある。病人や老人、子供はしなくてもよい また、妊婦、授乳中の母親もその範疇に入る。また、旅行者と戦士も断食を免れる。しかし、た とえば飛行機のなかでの食事は、旅行者であるなら昼間も当然食べていいはずだが、ほとんどす べての人は日が暮れるまで食べ物に手をつけない。昔と今では旅行の困難さが違うのだろう。 子供とは何歳ぐらいまでをいうのだろうか。断食をするかしないかは、その子の意思と体力の 問題のようだ。一〇歳ぐらいになれば断食をする子はかなりいる。たとえば、うちの子がラマダ ースデー ーティに招かれたことがある。親は子供のことだからいいだろうと、 ン中に友達のバ 考えていたらしいが、なんと招待された子供のうち三人までが、断食をしていた。夕方、迎えに しノ、と 「日が沈んだらバースデーケーキにナイフを入れるから、もう少し待ってね」と一言う。子供たち は断食中の三人を尊重して、誰ひとり食べたり飲んだりしないで、ただ遊んでいたらしい ラマダン・プレックファースト 断食のあとの最初の食事の内容は重要である。体力の消耗をすみやかに補い、 いた胃を刺激して食欲をおこすことを、無理なく行なわなければ、体をこわす。 しかも、眠って 244
子供たちの一部は、アメリカ人のジープに乗り込んだ。次男は発疹と熱で顔の形が変わっていた が、それでもこの非情な親は砂漠の長距離ドライプを強行した。 砂漠ではまったく方向感覚が狂ってしまう。どんどん地平線の山に向かって一直線に走り、そ れを越えたら、次の地平線までまっしぐら。何もないような砂漠だが、よく見ると羊やラクダが にペドウインのテントが見え隠れする。カリドのおとうさんの説明によ 放牧されていたり、遠く れば、マジマのサウジ人は、はとんどが今の季節、砂漠にテントを張っているのだそうだ。 遠くに黒い点々が見え、近寄ると羊だった。頭だけが白く、身体全体が黒い羊が、百頭ほど忙 しく草を食べている。ナジドの砂漠の今の季節、砂漠にうっすらと生えているやわらかな草を無 我夢中で食べている。これらの羊はナジディーと呼ばれる特別の羊である。ナジディーはナジド の草を食べて育った羊だけに使われる名前で、ほかの羊肉とはおいしさがちがう。値段も一〇倍 する。ナジディーは羊の " 松阪牛 , である。私たちが羊の群に近づいて止まると、羊の群の所有 トヨタの小型トラックで姿を見せて、静かに私たちの動静を見ていた。 者が、 かなり走って私たちのお尻にトラックの荷台の床板の波板の型がついてしまったころ、砂漠の本 レ」 平坦で、うっすらと緑が広がっている場所で停止した。ア。フダラハキームとおとうさんがドライ 人 ア ーを一本持って、地面を眺めまわして何かを搜している。砂漠のキノコ ( アラビア語でファッ ガという ) を見つけようとしているのだった。二月から三月にかけて、砂漠に松露に似たキノコ ア ができる。キノコは雨の降った後、急速に大きくなって、砂漠の地面の堅い表面を割って盛り上 がってくるのだ。私がこの砂漠のキノコのことをいつもカリドに尋ねていたが、これを食する期
戻しにいくと言っていた。 国境を闇夜に無断で越えても、ペドウインにはまったく罪の意識はない。砂漠はどこも道なの 夜。昼間の厳しさに比べて、夏の夜の砂漠には包み込むような優しさがある。昼間の熱気は透 いったん体を浸すと動けなく 明な空に去ってしまっている。夏の夜の砂漠はぬるま湯のごとく、 なる。私たちは一時期、毎週のように夜の砂漠に出かけていたことがあった。夕方、リヤド市を 出発して、四〇キロほど北へ走るともう広々した砂漠だった ( 現在はそのあたりまで、新大学都 市になってしまっている ) 。国道の脇に廃棄された一台の事故車 ( これも今はない ) を目印にし て、そこから道をそれて砂漠のなかに入り込む。丘をふたっ回り込み、数キロ走って、車や人家 の光のまったく見えない平坦な場所に車を止める。 絨毯を敷き、炭をおこして肉を焼く準備をする。クールポックスの冷えた飲み物を飲む。ステ ーキを食べたあとは、果物をつまんだり、ケーキを食べる。香り高いモカコーヒーがうまい みんな絨毯の上で寝そべってくつろぐ。絨毯は砂漠の小石のごっごっを吸収してくれる。やが て、ガス灯や懐中電灯の明りをすべて消すと、満天の星である。この瞬間、日本から出張してき て、初めて砂漠の夜の食事に参加した人は、 「オー、すごい」 と声を上げる。 「プラネタリウムみたい」と言った人がいた
。ひとっすつ手で アラビア・バンはお盆のように丸くて平べったい形。あつあつを買いに、 焼くので、店が混んでいると並んで待っこともある。 混んでいる時間帯には、並ぶ列はふたつできる。つまり、たくさん買う人と、一枚、二枚と買 う人とを分けているのだ。これはなかなか合理的なシステムである。そうでないと、ほんの少し 欲しい人がなかなか買えない。 アラビア・ ハンを買いにいく時は、新聞紙か袋、もしくは買いものカゴなどが必要。焼きたて は熱くて、とてもそのまま持てない。 小さなバン屋だと包む紙の用意などしていないのだ。一度、 夫はあわてて買いにいったものの、なにも包むものがなくて、しかたなくシャツにくるんで帰っ てきたことがあったくらいだ。 買ってきたばかりのアラビア・バンは、そのままちぎってたべるととてもおいしいし、中を開 いて ( ちょうどいなり寿司のお揚げのように開くようにできている ) 、肉でも鶏でもはさむと、 アラビア風ホット・サンドイッチで、これまたいける。 ホモスという豆のペーストにちぎったパンをつけて食べるのはきわめてアラビア風。ホモスに レ」 一見似ているが、ナスの。ヘーストもこれまたおいしい これは、日本でいうとお漬けものとごは 味 んの関係、フランスでいうとフランスパンとチーズの関係のようなもの。おいしくてつい食べすの ギ、てし士ま , つ。 ア あつあっはおいしいアラビア・パンも、冷めるとたちまちカチンカチンになって、猫でも見向 きしないほどまずいものになる。オープンで温めなおすという手もあるが、やはり最高においし
しかし、ごはんは脂でべとべとしているし、米粒がばらばらなので、これは置れるまで相当難 しい。第一、ごはん粒と脂でギトギトした手をなんとかしたくてしようがないが、食べている途 中で手をぬぐうことができない またたくうちに食べ終わると、みんないっせいに洗面台へ向かい石鹸で手を洗った。 そのときようやく私は気がついた。なぜサウジの家には洗面台があんなにやたらとあるのか。 その理由はこれなのか。当時私の住んでいた家には各バスルームのなかに手洗い所があるうえ、 トイレの外にも洗面台が二つ並べてある。台所を別にして、ひとつの家のなかに洗面台が合計五 つもあるのは不思議だなあと、かねがね思っていた。掃除もけっこう面倒である。だがあれは、 お客がいっせいに手を洗う時の便宜を考えて作ってあるのだ。 ところで、アラビアン・ナイトの魔法の食事の正体だが、これは何のことはない、カプサから フルーツやケーキに至るまで、いっさいを仕出し屋さんに注文してあっただけのことだった。カ プサを料理するにはかなりの時間がかかる。羊を丸ごと料理するなら、まず一日仕事である。町 では羊一頭の分の料理は自宅では難しいため、たいてい仕出し屋に頼んでしまう。朝、生きてい と る羊をこれがいいと選んで示すと、夜にはめでたくご飯の上に鎮座して届けられるというわけだ。 味 砂漠では料理は男の仕事だ 0 たようだ。そのせいか、サウジの女性たちはあまりこまごまと料の ーテイや多人数の食事は、こうして注文してしまうのが最も手軽である。 理 ~ はし、な、 ア ある若いサウジ人の友だちが、私たちともう一家族の日本人を故郷の家に遊びに連れていって くれたことがある。年老いた父親とたくさんの兄弟たちの家族に紹介され、お昼をごちそうにな
始めて食べる人にも、なかなかおいしいと評判であった。食べ終わると、モハメッドの使用人 が離れたところに、手洗いの水と石を用意して待っていてくれる。たしかに紙ナプキンで拭く だけでは、脂のべタベタが取れない。手を洗いにいくと、一人ひとりのために水をちゃんとかけ いたれり、つくせりのサービス。 てくれるという、 ひろびろとした砂漠でサッカーに興じていた男の子たちも、砂遊びに夢中になっていた幼旧丿 ちも、カプサのまわりに座って食べはじめた。 四歳になる三男はごはんが気に入ったとみえる。ふだんは食が細い子なのによく食べた。十一 歳の長男は、なんでも好ききらいなく食べる子なのにカプサだけは苦手。以前どこかで食べたカ どうなるか心配したが、「これはおいしいね」と、ばくばく食べ プサがひどい味だったらしい てくれた。 最後まで「食堂」のカーベットに残って食べていたのは、先生がたとその家族。「おいしいで すな」と、異文化体験にひるまないところは立派なもの。設立されたばかりのリヤド日本人学校 でこれから三年間過ごしていただくのに不足のない、度胸のすわった先生がたである。 こうして、相当食べたはずなのに、見回すと、どのお皿もまだ山ほど残っていて、いっこうに これなら三〇人といわず、百人はゆうに食べられたかもしれない。 減っていない。 「あれ、目玉はどこにあるのだろう」。誰かが言った。羊の目玉は主賓が食べるもっとも美味な ところとされている。 「そういえば、頭の部分がなかったそ」と、夫が言った。すると、モハメッドが、 768
鍋に入れた。これが私たちが今夜食べるお米だ。二〇キロぐらいありそうだ。これで、四皿分だ という。「どんなお皿 ? 」と聞くと、棚に並べてある直径一メートルある一番大きなホーローの 大皿を示してくれた。棚にはいろいろなサイズの鍋と皿がきちんと積み上げてある。仕出し用で ーティ・サイズである。 あるから、最も小さなものでも、かなり大きい。ハ この「マトバハ」は、全体に素気ないほどシンプルで、しかも能率的にできている。たとえば、 四台ならんでいるガス火の上にはそれぞれ水道栓が壁から伸びてきているので、鍋を火にかけた あとで上から給水できる。なんでもないようだが、水を運んできて入れるのとでは、労力は極端 に違う。水道設備のないお風呂に、バケツで水汲みをする手間を考えると、わかるだろう。煮込 み部屋の壁には、カギ棒と、大スプーンと、巨大穴じゃくしがかかっていた。これが調理三つ道 具である。 米洗い場は米の保存部屋の近くに作ってある。料理人は全部で五人いたが、それぞれ役割分担 が決まっているようである。炭焼きバ ーベキューの設備も整っていた。別室の大きなかまどには、 すでに炭が入っていた。 「これだけ設備の整ったところで作るものを、砂漠でやるのは大変だ」と、一同納得して外へ出 初々しい第ニ夫人 五時の待ち合わせ場所に行くまでまだ時間があるので、かねて約束のとおりモハメッドの家へ 764
というのも、イスラムの断食は太陽の出ている間はいっさいの飲み食いをしないからだ。もっ とも、夜間は食べてもよい。空腹はともかくとしても、夏の暑い日に一滴の水も飲ますにいるこ とは、ちょっとやそっとの我慢ではすまない。 なせ断食を守るのか なぜ、体力的にも相当の覚悟のいる断食を守るのだろうか。 これは、ハッジと同じく、宗教的気分の高揚に効果がある。富める者も貧しい者もいっせいに 空腹をがまんするという公平さ、ともに神に従うという満足感が大切なわけだ。さらに、飲み物、 食べ物が手近にあっても、あえて手をつけないという確固たる意思を養う。つまり、欲望をコン トロールする方法を学ぶのだ。生きていく基本となる食欲がうまく制御できれば、人生に起こる その他のさまざまの欲望に身を任せることなく、破滅の道をたどらなくてすむ。それがイスラム の考え方なのだろう。 こうして、個々の精神を重んじるイスラムでは断食は大きな役割を演じる。イスラム社会では、 断食をしない外国人でもこの一カ月は人目につくところで飲食はしない。オフィスでもお茶や煙 草はむ。ラマダンを機会に禁煙をはじめる人が案外多く、それなりの効果をあげているところ を見ると、非イスラム教徒にとってもラマダンは案外、有効かもしれない ラマダンの昼間は町全体が静かだ。なるべくひっそり体力を消耗しないように過ごす。勤務時 間もふだんとは違う。働くのはだいたい午前中少しだけで、午後なし。その代わり、夜九時をま 242