みなまで聞かず、振り向きざまに必殺の回し蹴りをくれた。手かげんしたつもりだった が、前任者から受け身のコツを聞いていなかったとみえて、新人は書棚まで吹っ飛び、諸橋 大漢和の角に頭をぶつけて昏倒した。 呆然自失している青年を尻目に、私はこの原稿を書き出したのである。 彼が私の暴挙にどれほど衝撃を受けたかは知らんが、あの日私が受けた、世界中がまっし ろになるような衝撃とは較べようもあるまい 三島由紀夫はわれらの時代の知的シンポルであり、同時に知的アイドルであった。つまり 深く研究するにしろ、うわっつらを鑑賞するにしろ、どうしてもわれらの青春とは切り離す ことのできないほど、大きな存在であった。 彼は世代から言えば明らかな後派に属するのにも拘らず、文学史的には戦則の文豪巨匠 と同位置にあった。つまり、「吉行・遠藤・三島」ではなく、「谷崎・川端・三島」と言った 方が収まりが良かった。 死してのちそう定まったのではない。生前からそうであったのだから、たいしたものだ。 私がその日をとりわけ衝撃的に受けとめたのは、「面識」があったからである。三島由紀 夫は四十五歳で、私は十八歳であった。ということは、私はたぶん、生前の三島由紀夫と会 った最年少の現役業界人だろうと思う。 出会いはこういうものであった。
私は高校生の時分からセッセと小説を書いては、あちこちの出版社に持ちこんでいた。こ ういう図々しさ身勝手さは、四十一一歳の今も変わらない。 たまたま神田にある大手出版社の奇特な編隹杢名が、私をたいそう可愛がってくれた。世の 中の書物という書物を、すべて読みつくしているのではないかと思われるほどの、立派な方 であった。その編隹杢名が三島由紀夫の担当だったのである。で、「近いうちに三島先生のお 宅に伺おう。紹介するから」という有難いお誘いをうけた。 欣喜雀躍である。あの三島由紆夫と会えるのだ。私は天にも昇る気持で、添削をしてもら ったぶ厚い原稿の束を小脇に抱えたまま、夕まぐれの街をさまよい歩いた。何だか自分の未 来が約束されたような気分だった。 そしてその帰途ーー・偶然では説明のつかぬことが起こったのである。 ニタニタとしながら歩き呆けた私は、水道橋の交差点に立っていた。どこをどう歩いたも て のか、なぜそこにいたのかはわからない。 っ 信号を待ちながら、ふとビルの半地下のガ一フス窓を覗きこむと、すぐ足元に三島由紀夫本 紀人がいたのである。記憶によれば、思いがけずに小さな体の、そして異様なほど顔の大きい 島人物であった。 ーベルを持ち上げて そこは後楽園のボディビル・ジムで、彼は長椅子に仰向いたまま、 新いた。路上から覗きこむ私とはほんの二メートルの距離で、私たちは確かに目が合った。
こうなった経緯について : ・ ディフェンス 防御について 猜疑心について タイトルについて 喫煙権について 無礼者について 破産について 嘔吐について 生命力について 拳銃について ふたたび拳銃について Z について 三島由紀夫について 41 35 29 23 17 83 77 71 65 59 53 47
圏私は余り深く考えずに、たぶん考えようとはせずに、他の k 員たちと重い、立派な応接 セットを運び出した。 連隊長室の清掃は伝令である私ひとりの任務であった。その日の掃除は深夜まで続いた。 方面総監室から払い下げられた応接セットは思いのほか汚れていたからである。 消灯ラッパが鳴り、ものみなまった営舎の一室で、私は變叩に立派な椅子の脚にしみ ついた薄黒い汚れを、洗剤で洗い続けたのだった。 いま、我に返った新人編隹杢右が、おそるおそるコーヒーを運んできた。 「あれつ、浅田さん。ナニ書いてるんですか」 と、不本意そうに言った。学習効果があがって、やや半身に身構えている。首を絞めるか わりに、この原稿を読ませてやろう。 三島由紀夫は、彼の否定した戦後社会を生き続けることに「眄を感じていたと もしそれが彼の偉大な生涯を自ら閉さす理由であったとするなら、私は彼の魂に対して、 それはないだろう、と言いたい。なぜなら私は、彼の手から托された一冊の「罪の意識」と ともに、私自身の「罪の意識」をも背負って生きねばならないのだから。 あの日、半地下のジムのガラス越しに三島由紀夫を目撃した私は、「眄識」を知ら ぬ、十八歳の少年だった。
今年もまた彼の命日がめぐってきた。 あれは昭和四十五年十一月一一十五日のことであったから、はや四半世紀の歳月が経とうと している。存命であれば六十九歳になる彼の、老いた姿ゃなしたであろう業績が、どうして も想像できないのは、やはりあの日あの時に死すべきさだめだったからなのだろうか。 て てなこと考えながら、原稿を督促にきた新卒編隹杢に、 っ 「ああ、きようは三島の命日だねえ」 夫 紀と、しみじみ言ったら、一瞬キョトンとして、 島「やっ、そーでしたか。そりやお忙しいところすみません」 「いや : : : だからどうというわけじゃないんだがね : : : 」 「そーですか。浅田さんのご実家はミシマですか。実はボク、ヌマヅなんですけど 三島由紀夫について
三島由紀夫は稀有の小説家であったと同時に、名コピーライタ 1 であった。 もちろん彼の時代には、コピ 1 ライタ 1 などという安直な職業はなかったが、おそらく今 日まで存命であれば仮に小説のネタが尽きたとしても、その卓越した一一一一口語咸覺だけで一家を 成したであろう。 まずポキャプラリイが豊富である。小説に使用しうる語彙の総量においては、谷崎潤一 て 郎、永井荷風の両大家に匹敵する。構文の豊かさについては、明らかに両者を凌いでいる。 っ つまり的確な品詞を実夂万化の言い回しで用うる結果、あの一見してそうとわかる絢爛豪華 絶な文体がつむぎ出されるのである。 それが果たして名文の最たるものであるかというと、趣味の問題になるが、文学を志す者 すべからく三島を読むべし、ということは一一一一口えるであろう。 禁色について
る。 などと考えながらあたりに目を配れば、心なしかどのポックスの客も、かってどこか で見覚えのある顔に思えてくるのであった。 男は講談社のを差し出した。少しホッとしたが、たちまち私が以前逆の立場から伊藤 忠商事のを差し出したことなんぞを思い出し、まだ油断はならぬと考えた。 すっかり警戒心を解くまでには、しばらくの時間が必要であった。 さて、私のことを全然知らないほとんどの読者のために、ここで私個人について多少の説 明を加えねばなるまい 一言でいえば、、 て 月説家になりたい一心で小説のような人生を歩んでしまった気の毒な男で ある。 っ 緯 子供のころからどうしても小説家になりたいと思いつめ、その他の未来などただの一度も 経考えたことはなかった。私自身の名誉のために、まずそれだけは言っておく。 「勉強はあまりしなかったが、読み書きの修業はおさおさ怠りなく続けていた。ために大学 受験を失敗し、浪々の身であった折しも、当時われらの偶像的作家であった三島由紀夫が市 ヶ谷で腹を切った。 しかし、私がその翌春に自衛隊に入隊したことと三島の死は、いつけん関係があるようで
輒の教育隊で基礎訓練を受け、三カ月後に日本甲のどこへ行っても良かったのだが、な りゆきに任せていたらなぜか市ヶ谷に配属された。三島由紀夫が決起をうながしたという、 あの連隊である。 営内班長は親しく三島の薫陶を受けたという人物であり、ことあるごとに彼の人柄を語 り、嘆いた。そういう遺されたシンパが大勢いた。私は一一年の間、ずっと彼の亡霊と会い続 けていたことになる。 けっこう成績の良かった私は、選ばれて連隊長の当番兵になった。正しくは「連隊長伝 令」という、たいへん名誉な任務である。 新しく着任した連隊長ドノは、片手が不自由だった。どこに行くにも影のように付き従う 私は、物を手渡すときとか、日常の擎護の位置にもひどく気を遣った。何かの折にふと、そ れはかって連隊長が東部方面総監部の幕僚であったころ、あの事件に遭遇して白刃を ' 。で て 受けたためだと知った。つまり、三島事件における自衛隊側の唯一の怪我人なのだった。 っ また、こんなこともあった。 夫 あるとき、連隊長室に応接セットが払い下げになるということで、同じ駐屯地の中にある 島東部方面総監部に受領に行った。 大理石の階段を昇り、赤い絨毯を踏んで、私はとうとうあの部屋に入ったのだった。バル コニーからは夕日があかあかと差し入っていたと記憶する。 くんと、つ
先日、たまりにたまった仕事を担いで、温泉にこもってきた。 上越線の水上から少し山の中に入った谷川岳のふもと、谷川温泉という古い温泉宿であ る。何でも私の世界一きらいな小説家、太宰治がしばしば訪れ、しまいには心山耒遂をした とかしねえとかいうところで、そんなことはどうでもいいけど、死に場所に選ぶぐらいだか てらさぞかしいいところであろうと思って出かけたのである。 6 私が多感な文学少年であった十六、七のころ、太宰治はちょっとしたプ 1 ムになってい た。思えば八百万人の団塊世代が青春のまっただなかに集結した時代で、その綿的拠点と 宰 するところはほとんど無数にあった。つまり、ちょうど「この指とまれ」というような感じ 太 ノンが同時 で、大江健三郎や吉本隆明や三島由紀夫やマルクスや毛沢東や北一輝やマクル 1 、 にプームになったふしぎな時代であった。 太宰治について
306 「三番の馬、いいですねえ」 「そうかね。ちょっと太くはないかな」 「気合は入ってますよ」 「うん。そうだね、いい気合だ」 と、そんな短い会話も何度か交わした。 山口さんはあまり長くパドックを見ない。東スタンドのゴンドラ席から毎レースごとには るばるやって来るせいもあるのだろうが、ひと通り馬を見ると、また小走りに去って行く。 そのあわただしい素振りがとても印象深かった。 一般のファンでは入れないゴンドラ席から下りてくるし、しばしば著名な競馬饌硎家の赤 木駿介さんとご一緒だったので、特別な人だとは思っていた。だがまさか、あの山口瞳さん だとは気付かなかった。 考えてみればふしぎなことだ。私は若い時分から小説家に憧れていたので、偶然に作家と 出会った瞬間のことはいちいち鮮明に覚えている。見逃したこともまずないと思う。 三島由紀夫を後楽園のボディビル・ジムで目撃したときのことはかって本稿にも書いた。 中学生のころ日比谷で吉行淳之介と出くわしたときは心臓が止まりそうだったし、井上ひ さし先生と青山の鰻屋で隣り合わせたときも、胸がドキドキしてウナギが喉を通らなかっ