252 を平和公園にしてしまえば良かったと思う。それこそが「伝統の市ヶ谷台」に最もふさわし い継承方法にちがいない つねづね不思議に思っていたことであるが、世界中どこの国に行ってもある「無名戦士の こうむ 墓」が、有史以来最悪の戦禍を蒙ったわが国にだけないのはなぜであろう。 靖国神社というものはある。そのすぐそばに何だか対抗するような感じで、千鳥ケ淵の戦 没者慰霊碑も立っている。だが、他国の無名戦士の墓のように、それらがわれわれ子孫を生 かすために死んで行った、尊い父祖の霊場であるという認識を、今や多くの人々は持たな 私は戦を知らない世代であるが、職業柄さまざまの戦史を綿ぐ。全ての戦は愚行である。 しかし戦で死んだ兵士たちゃ、犠牲となった人々が歴史の中に忘却されて良いものだとはど うしても思えない。したがって、戦を忘却してはならないと思う。大本営から発表されたい まわしい戦時用語のうち、唯一われわれが嗤ってはならないものーーそれは「英霊」という 言葉である。 かってフィリピンでは約四十六万六千の投入兵力中、三十六万八千七百の兵が死んだ。東 部ニューギニアでは十四万人中、十一万人が、ビルマでは一一十三万人中の十六万人が、また ほとんどの戦史には書かれることもないジャワ東方の小スンダ列島では、六万九千百人の総 員のうち、五万一千六百人が飢餓と熱病のために死んだ。第一一次大戦における我が国の戦死
日頃から偏屈で通っている三十六歳の係長は全社員から白い目で見られ、ことに埼玉県下 を走る西武線や東上線の通勤電車内は、けっこう恐々としていたのではあるまいか。 こうして考えてみれば、犯人がヘルニアの傷痕に対して抱いた妄想と、私たちが隣人の誰 かれかまわず抱いた妄想の間には、たいした違いがないような気がする。 仮に妄想などとは縁遠い気丈な綿の持ち主でも、長らく人間をやっていれば殺してやり たいやつの一人や一一人はいて当然である。私の場合、どう懃疋しても三人いる。要は彼がト カレフを持っており、私が持っていないだけなのである。拳銃というものの安直な凶器性、 そして青物横丁事件の真の恐布性は、まさにこれであろうと思う。 ところで、私は純然たる趣味として、しばしば裁判の傍聴に行く。少々不謹慎ではある が、事実は小説より奇なりとはよくぞ言ったもので、お定まりのサスペンスドラマや下手な 推理小説よりもはるかに面白く、かっためになる。もっともつまらないものは薬物関係の裁 判であり、もっとも興味深く、まずハズレのないものは殺人事件である。 殺人事件の亠荻に際して、弁護人が必ず一一一一口うセリフがある。 「被告人は犯行当時、極めて劣悪な生活環境により重大な心神耗弱の込北 ( にあり : : : 」 または、 「飲酒酩酊のため心神喪失の込態にあり : : : 」 というようなもので、いわば殺人事件の弁護における一種の成句のようなものである。 こうじゃく
204 「競馬は当たってもゼッタイ儲からないからね。たいがいにしときなさいよ」と私が一一 = ロう理 由は、つまりこういうことなのである。 さて、読者の周辺にも競馬で儲けていると自称する馬キチはおいでになると思う。しかし 真に受けてはならない。年に一度か二度とか、レ 1 スだけ、とかいう趣味のファンなら いざ知らず、毎週何がしかの馬券を買いながらプラス収支を計上するということは数理上あ りえないのである。もしそれが本当だとしたら彼は、「千円と七百五十円を交換し続けても なおカネの増える奇蹟の人」ということになる。 私のかなり確信的な推測によれば、毎週馬券を買い続けていながら「俺は勝っている」と 豪語している人でも、年間百万円は負けている。だが、それでも彼は名人である。 「ま、トントンだね」と答える人は、一一百万ぐらい負けている。これがごく一般的なファン であろう。はっきりと「俺はハマッている」と自覚できる人は、三百万以上は負けている。 幸い競馬ファンの中に正確な収支明細をつけている人はおらず ( そういう律義者は最初か ら競馬なぞやらない ) 、また馬券を買うカネというものはふしぎとどこかしらからか出てく るものであるから、みなさんことほどに被害者意識はない。しかし年間数百万円のカネとい えば、人生を変えうるほどの大金である。 さらにこれに加えて、競馬をやるには存外経費がかかる。私の昨年度の税務申告によれ ば、新聞、メシ、交通費、入場料、炬疋席代その他モロモロの必要経費が約百万円支出され
賭場の習わしに従い、時間の経過とともに人々の興奮はいや増し、投資金額は上積みされ て行く。かくてメインレース、第五十五回皐月賞の締切に際しては、馬番連勝馬券で一一百五 十三億円余、枠番連勝で六十七億円余、その他単勝とか複勝とかはあいにくデータ不足でわ からないが、ともかく四百億円ぐらいのカネがファンのポケットから放出され、うち百億円 ぐらいのカネが煙のごとく消えてしまったのである。 布ろしい話である。しかも、仲間うちのバクチならトイレに立っフリをして勝ちけ、と いう手もあるが、競馬場の雰囲気はまずそれを許さない。つまり一日のなかばで運良く勝ち に回っているファンも、結局は勝ち分を上乗せして馬券をさらに買い続けるハメになる。 で、最後はどういうことになるかというと、十万人のファンが競馬場に持ち寄ったカネの ほとんどが、煙のように消えてなくなってしまうのである。よおく考えてもらいたい。控除 率はたしかに二五パーセントであるが、まさか四人に一人が勝って帰れる話ではない。七五 ーセントが配当されるといっても、四人のうち三人が元金を保全できるという話でもな 。すべてのファンがたまさかの勝ち分をさらに一日中馬券と換え続けるのだから、最終的 に保全される金額は、最終レ 1 スの配当総額プラスアルフア、ということである。 ちなみに皐月賞当日の最終レースの払尿し金額は、馬番連勝式で十七億円余、枠番連勝式 テ で四億三千万円余であった。まあこのぐらいはお車代として持って帰らせてもよかろうとい う胴元の呟きが私には聞こえるのであるが、はたしてどうであろうか。
104 人はもっともっと布いのだろうとサチコは思った。 拳銃が暴発して、サチコの頭を撃ち抜いた。とっさに「大丈夫か」と、強盜は言った。 やつばり本並ョはやさしい人なんだ。やさしさが貧乏に負けただけなんだと思うと、サチコ は痛みをこらえ、マスクをかけた顔に向かって微笑んだ。「だいじようぶ」と笑ったつもり が、声にはならなかった。 救急車が来たとき、サチコは床の上に倒れたままもう動くこともできなかった。きっとこ のまま死んでしまうのだろうと思った。店長さんやバイト仲間や、母や妹や、信販会社の人 たちに申しわけないと思った。絨毯も汚してしまった。強盗さんやその家族の人はかわいそ うだと思った。 覗きこむ救急隊員に、最後の力をふりしばってサチコは告げた。言いたいことはたくさん あったのだけれど、ひとことしか一一一一口えないとすると、それしかなかった。 それは母と妹の住む家の住所と、父からもらった大切な則だった。 「ナガヌマ・サチコ」 と、少女は血を吐きながらはっきりと言い、それきり動かなくなった。 私はサチコを知らない。無責任にサチコの人となりとその最期を、こんなふうに想像 しただけである。
わが国の自殺者は毎年一一万人を数える。 ということは、ほば六千人に一人の割合で自殺をする計算になる。この数字が交通事故死 の倍であることを考えると、何だかの渇く感じがする。 さらに咽の渇く計算を試みれば、本誌の読者のうちからも毎年百名以上の自殺者が出てい ることになる。そこで、今回はこの百数亠↓のために稿を起こそうかと思う。 て 私は相当にみじめな人生を送って来たので、確率以上に大勢の自殺者を知っている。だか にら先日、例の自殺の方法を解説した奇書が発売されたとき、何という節操のない書物であろ 命うと呆れた。 一一万部の売り上げははなから見込めるのである。潜在的願望者は、おそらくその十倍はい るであろう。つまり、その書物は発則からベストセラ 1 を約束されていたようなもので、 生命力について
秘法とはいえ、これはけっこう知られているらしい。大書店の専門書コーナーに行けば、 たいてい何人かの男女が立ち読みに疲れたフリをしてひそかに木を挽いている姿を目撃する ことができる。 いずれにせよ、大書店はトイレの設備をもっと充実させて欲しい。ことにいつ行ってもハ ルマゲドン級の便意に襲われ、専門書の量に比してトイレが少く、とっさに退店することも 難しい構造の渋谷堂に対しては熱望してやまない。 話は変わる。いや、舞台は変わるが話は変わらない。 私が人間のアイデンティティーを賭けねばならぬ場所がもうひとつある。他ならぬ競馬場 である。そこは本屋と同様、人間が強い精神的プレッシャーを感じる場所で、しかも朝早う からメシもクソもそこそこに飛び出して来るものだから、一般席のトイレはいつも満員であ る。ことに午前中から午休みまでの盛況ぶりといったら、五人待ちなど当たり前で、よほど の苦労人もしくは長編作家、禅僧といった種類の人々でなければ耐えること能わざるほどで て ある。競馬場に禅僧はいないが、幸い、ほとんどが身から出たサビの苦労人であるから、こ っ とほど悲劇は起こらない。 我私が本拠地とする示競馬場の場合、いつでも空いている秘密のトイレがあるのだが、こ れだけは誌上にて公開するわけには行かない。 さて、競馬場での便意といえば、生涯忘れ得ぬ痛恨事を思い出す。まあ聞いてくれ。
裁判官がそうした事情をとりあげるかどうかはともかくとして、もちろん嘘ではない。っ まり弁護上の成句と思われるほど、殺人者のほとんどは「心神耗弱」「心神喪失」の状態で 人を殺すのである。 多くの市民が知っている殺人犯は、テレビドラマや犯罪小説の中の亜 0 漢、すなわち冷酷非 情な確信犯であるが、現実には「殺す気で殺した」犯人など、まずいない。その多くはある 程度の恒常的な思考停止込もしくはとっさの恐荒状態で人を殺す。 つまり、青物横丁事件の犯人が精神病歴を理由に社会から保護されるのであるとするな ら、殺人者の大多数は多かれ少かれ正常な綿の持ち主とはいいがたいと私は思う。 少くとも殺人を犯したその瞬間においては、正常な理性では制御できない綿の舐があ ったはずであり、それに至る経緯においては相応の心神耗弱があったはずなのである。 て こうした場合、公判廷では被告人の「通院歴」「入院歴」が病者の証明として物を一一一一口う。 っしかし現実には、綿病患者が必ずしも病院の診断を受けているとは限らず、むしろ医者に 銃かかるのは家族や友人が心配をしてくれる、一部の恵まれた人々であろう。したがって、通 び院歴や入院歴が、それだけで彼の行為を免責する理由にはなるまい いわんや彼の犯意や病歴が未だ不明確な状況下で、人権擁護の立場上、氏名も写真も公表 ふ しないというのは誠に理解に苦しむ。病と犯行の因果関係は十分想像されることだが、人を 撃ち殺した男が実弾入りトカレフを握ったまま進けていたのはゆるぎようのない現実だった
136 てて、「よしわかった。今日からおとうさんもハゲを恥じずに堂々と生きるから、おまえも プスを恥じずに堂々と生きなさい」と、言える父親が果たしているであろうか。 自己管理を怠った結果であるデブは、ダイエットを心がければ容易になおる。しかし日々 の精進の結果であるハゲは、どれほど強い意志を持とうが永久にハゲなのである。ハゲの悲 劇性、ハゲの不条理性はこれにつきる。 蓼食う虫も好きずきとは = 一〔うが、私はかって、私の ( ゲを魅力的だと言った女に出会った ことがない。ごくたまに、若い男よりゼッタイ中年がいいという娘はいるが、対象となりう るのは生えぎわにメッシュ状の白髪をたなびかせているようなオヤジで、ハゲは論外であ る。 ハゲがなぜ悪い だいたいハゲが醜いものだなどと決めつけるのは、一種の偏見である。偏向せる美意識 が、娘たちをしてそう罵らせるのである。 まなよ この偏見の根拠は甚だ明確で、ただ彼女らの初恋の人が誰一人としてハゲてはいなかった からに他ならない。 そんなことは当たり前だ。 , 彼女らの愚かしさは、その初恋の人もいずれはハゲるのだとい うことを、ちっとも想像しないところにある。 さあ、そうと決まれば潔くハゲよう。
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