フランス語 - みる会図書館


検索対象: 猫に名前をつけすぎると
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1. 猫に名前をつけすぎると

団体の一行十数人の中では、とにもかくにもフランス語を口にするのは男では最年少の私一 人だったが、私のそのフランス語とて二十何年も前に習ったフランス語である。御多分に洩れ ず、私も日本では英会話すら億劫なほうだ。フランス人などとはロをきいたこともない。しか し、私は今回はこいつを試してやろうと思っていた。 もちろん、フランスでも観光地なら英語で一応用は足せる。なかには、ホテルの小僧が気味 悪いほど巧みに日本語の単語を口走ったりする場合もあった。トウールーズの観光バスの運転 手で、最近までアメリカで働いていたという米語べらべらの青年 ( スペイン系だったが ) がい で たりもした。 のまた、こんなこともあった。 ルルドへ向う汽車で六十年配の紳士と同室になり、話しか ス けられるままに私もおぼっかないフランス語でやりとりをした。彼はわれわれがルルドへ行く トウリスム と知って、「あなたがたはカトリックか観光旅行か ? 」などと訊き、案内書「ミシュラン一九 フランスの田舎で

2. 猫に名前をつけすぎると

しかも、それはフランス文学の所謂原書でさんざん苦しめられたような小むずかしいフラン ス語ではない。 「おはよう」「さようなら」から始まって、こみ入ったところでせいぜい「あな たがたは犬をとても可愛がるようだが、猫はどうか、猫をあまり見かけないが ? 」だの、文房 具屋に入って「私にも日本にこれ位の ( と、手で大きさを示して ) 小学生の息子がいる。彼に おみやげを探している。フランスの小学校ではどんな文房具を使っているか ? 」だの、日本の 何処に住んでいるかと訊かれて「東京の南五十キロ、海のほとりに住んでいる」だの、そんな 程度のことが伝わればいい初級フランス語である。 相手はたどたどしい私の言葉を真剣に聞いている。が、老婆から小学生に至るまで、彼等は 実に呑み込みが早い。おおむね愛想はないが、すこぶる的確に答えてよこす。必要以上に熱心 に説明してくれることもあるし、につこり笑ってこちらのアクセントの誤りを言い直してくれ るのもいる。 ( もっとも、これは田舎だからかもしれない。 ) そんなわけで、こちらの言うことは百パーセント通じることがわかったが、私が少しばかり フランス語を喋ると見るや、むこうはたちまちその何倍もの言葉を早ロでまくし立ててくる。 残念ながら、そうなると半分位しかわからぬことが多かった。 たかがこれしきのことで強烈な体験とは、また笑止な、と読者は言われるかもしれない。し かし、いくら観光とはいえ、景色にも名所旧蹟にもいずれは飽きてしまう。私などはことにそ うで、興味があるのはやはり人間、知りたいのは彼等庶民のしがない暮しである。その生活そ

3. 猫に名前をつけすぎると

さて、猫であるが、 私としては、是非ともフランスの猫にお目にかかりたいものとずい ぶん注意していたが、なかなかめぐり会えない。一度、北部のセルフサービスのレストランで、 真っ黒な猫が足もとに近よってきたのを撫でてみたが、これは灰だらけの汚ない猫だった。そ うして、つぎに南仏で同族を見かけるまでには、不思議なほど時間がかかるのである。 それで、ある日、 ・フルターニュの港町でのことだったが、ーーー猫をあしらった土産物を 買ったついでに、店のマダムにわが初級フランス語で、 「このあたりには猫が沢山いますか ? 」 と試いてみた。 , 彼女は首をかしげて考えていたが、。 とうもそうではない、というより、そん んなふうに猫の未来を描きながら、たえず私の念頭にあったのは、もちろんわれわれ人間の未 来である。地球最後の日々に、かすかな日だまりで猫を膝にのせて、おたがいに辛うじて暖を とり合うーーそんな光景である。 きようも、私は、窓いつばいに海辺の太陽をあびながら考えた。いまのうちだ、いまのうち に大急ぎで日に当っておかなくてはならぬ、ついでに猫も外へ出して十分に日光浴をさせなく てはならぬ、生き延びるために : ・ 「単純な生活』十四 四 だん

4. 猫に名前をつけすぎると

八〇』の引き方を手を取るようにして教えてくれたりした。アタッシェケースから大きな定期 入れみたいなものを出して、娘や息子の写真を見せたりもした。 私は彼の恰幅、風格から大学の先生か聖職者かしらと想像したが、訊いてみると、どこかノ ルマンディの銃砲火薬商で、これから商用でロワイヤンへ行くところだと言う。私が意外だと いう顔をして見せると、すかさず「 Pas pour la guerre. ( 兵器じゃないよ ) 」とつけ加えた。 そこで、私はこの機会に、「あなたがたは英語が嫌いなのか ? 」と質問してみた。すると彼 は「では一つ、私の英語で説明してみよう」と言って、ぶっ切れの、しかし明快な英語でフラ ンス人と英語の旧縁について長々と説明を始めた。 たしかにそのほうがいくらかでもわかりやすい。ところが、それではなんとなく物足りない、 向うがというよりも、こちらが物足りないのはなぜだろう。英語とフランス語では、物を頼ん でも相手の反応が明らかに違うのは当然だが、単に用が足せるというだけではこちらも物足り ないのである。おもうに、話し言葉というものは単なるサインでもなければゲームの道具でも なく、血と風土に養われたその人間の肉体そのものだからではないだろうか。 私は別の場所では、「フランス語を喋るっていうことはとっても難しいことなのよねえ」と はたち いった風な、もっともらしいせりふを吐いて、わざわざ英語を使って見せたがる二十位のフラ ンス娘にも出会ったが、・ とうやら彼等が自己の国語に抱く自負心乃至独善主義には並々ならぬ ものがあるようだ。

5. 猫に名前をつけすぎると

0 、 だが、それでも私は頑として英語は使わなかった。のつけに、 リの地下鉄で紙幣を出して 切符を買う時、女出札掛に頭ごなしに喚き返されたが、それは目 billet の数詞の un が 私は発音したつもりだがー・ーー相手には聞きとれなかったのである。冠詞や数詞などすっとばし ても構わぬと思っている日本語の神経では通用しないということだろう。 また : フルターニュの港町サンーマロで、私は土産物屋のウインドーにあった猫の恰好をし た栓抜きが欲しくなり、おやじに ce décapsuleur en form de chat と伝えた。そして、亭主 がおかみに出せと言うのを聞いていたら、ただ chat でなく téte de chat ( 猫の頭 ) と言ってい る。こんなものは日本語だったら「あの猫の栓抜きをくれ」で十分である。それをわざわざ、 猫の頭、などと分解して言うところが、連中の論理的というか分析的なところなのであろう。 彼等は言うにちがいない。なるほど猫を形どった品物ではあるが、正確に猫らしいのは頭部 だけで、下半身は猫に似ていない 、と。そんなことを考えて、私はなんだかおかしくなった。 連中の論法で日本語の文章を綴ったとしたら、およそ最低の文章が出来上がるだろうからであ る。 でそれにしても、私は自分がこんなふうにフランス語を口にする、時には同行者たちの通訳ま のがいの役まで買ってのけるとは予想もしていなかった。では、どうしてそういうことが出来た ス かといえば , ーー他でもない、 日を追うごとに、二十何年前に習ったフランス語を、否応なしに 少しずつ思い出したからである。

6. 猫に名前をつけすぎると

フランスの田舎で のものを覗くのは無理な注文だとしても、せめてちょっぴりとでも気持が触れ合うぐらいのこ とは、と欲が出てくる。そして、そうなると、もう言葉しかないのである。 「十二の風景』より「フランスの田舎で」八

7. 猫に名前をつけすぎると

迷子になり、ただひとり帰宅することなどもあったが、それがあまりにも賢いので、われ ことば われは、歓声をあげた上、さらに加えるべき尊敬の辞を探すほどであった。 そりや、いくら人間がその気になったって犬に話ができるものではない。むなしくお嬢は 大に言う。「ほんの少しでも話ができないなんて変だわ」と。 大は彼女の顔をみつめた。ふるえているところは、自分もまた彼女と同じく変だと思って いるのだ。しつぼでうまく動作をしてみせ、両顎を大きくあけてみせもした。でも、吠えな ちゃんと、お嬢が、吠える声以上のものを望んでいるのがわかっていたし、しかも言葉 は心にあり、舌や唇まで上りかけていた。それがついに出すじまいだったのは、まだ年たら ずだったのかなあ。 月のないある夜のこと、人里はなれた街道でデデシュが友を求めていると、まだ見たこと もない、密猟者のものらしい大きな大が姿を現して、このいとけない、やわらかい頭をばく っとやり、ゆさぶり、歯を立て、吐きすてたまま逃げてしまった。 フランス語に限るまいが、私などが手が出せないと思うのは、誰にしろ作者の文章の調子、 呼吸、気合いといったものが皆目掴めないということた。その上、名作には何通りもの訳があ 2 って読者はいよいよ迷わされる。 この大久保訳も、もちろん大久保調そのもので、ふだんの会話における氏の言葉ぐせ、呼吸 189

8. 猫に名前をつけすぎると

短篇猫 猫と手袋 冬ごもり 蜘蛛ぎらい 猫の没落 猫の不幸 フランスの田舎で 変哲もない一日より 単純な生活より 短篇まどろむ入江より燗 緑の年の日記より

9. 猫に名前をつけすぎると

るほど貴重な猫なのかは、知らない。しかし、かくも戸外で彼等を見かけること稀なのは、や はり猫たちも家族同様に室内で大事に大事に飼われているからなのかもしれない。 フランスの猫ーーという私の思い込みは、実は、フランスほど猫を大事にする国はなく、フ ランス人以上に猫を献身的に愛してきた国民はいないということを、物の本で読んだことがあ るからである。そういえば、あのペローも童話の『長靴をはいた猫』を書いたし、品よく清潔 で、身づくろいがきちんとしていて、育児の上手な猫は、子供たちのよいお手本であり、かっ ての猫は、慎重と倹約と秩序という中産階級の美徳のシンポルでもあった、というふうなこと も書いてあった。 してみると、やはり時代は変ったのかもしれない。少くとも猫に関しては、私はいくぶん期 待外れの思いで帰ってきた。 もっとも、私があの国で人間と動物とのつき合い方にも心を惹かれたのは、他でもない、大 や猫に対してだってあんな風なのだから、親たちが自分の子供に対しては、それ以上に情愛こ まやかで、かっ躾に厳しいのは至極当然だろうという気がしたからであった。 『単純な生活』一一十八抜粋 五 私がこれを書いている今、外はまだ暗い。午前三時を回ったところで、しとしとと陰気な雨

10. 猫に名前をつけすぎると

昭和三十年六月ニ十七日 降ったり止んだり、またぐっと寒く ( ? ) なって、約三ヶ月逆戻り。気温は十度下降。 久しぶりに鶴見でニュース映画を見た。世界スポーツ史上未曾有というフランスでのオ 1 ト レースの惨事 ( 八十余名即死 ) の = 、 1 スには呆れた。他に式場精神病院の同じく火災の惨事 のニ = ースもあったらしいが、さすがにこれは見る気がしなくて途中で出た。陰惨な世の中だ。 人が死ぬことをなんとも思わなくなって行く。世界中の惨事を文明のお蔭で即座に提供されて、 記 冷ややかに傍観している。この断絶、あんぐり口をあけた深淵。いたるところ虚無の匂いある の ばかりだ。兇暴無慙な二十世紀。 緑の年の日記より