作品 - みる会図書館


検索対象: 猫に名前をつけすぎると
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1. 猫に名前をつけすぎると

書いている。 私はどうも気分にむらがあって、なかなか大きな仕事に取り付けない。また、小さな仕事で もそうのべつにはやる気がしない。俳句に向いているのかも知れないが、これは作ったことが ない。昔いた会社の同僚で、暫く会っていない古い友人が、最近の俳句ブームでいつのまにか その道に入り、「歯石」だの「甚平」だの「腎臓結石」だのと、年寄り臭いことを詠み連ねて たしな いる、その変身ぶりに驚かされる。来るべき老後に備えて嗜むのだ、という向きもあるようだ。 こ、れは何かいし 思いがけない身の上の不幸や、途方もない災難に遭うと、内心「しめたー ものが書けそうだ」と思う、と正直に打ち明けた女性の職業作家もいる。物書く人間にそうい う心の働きがあることは、否定できない。実際、彼らは四六時中、何を見ても聞いても書くこ としか頭にないような動物だ。しかし、私はだんだんそういう習性も、その種の作品も疎まし く思うようになっている。人間はやはり書くことよりも、生きることが先であろう。喜ぶこと 悲しむことを中途半端にして、これ幸いと書いてしまうというのはさみしい。まして、それが 誰かを少しでも楽しませるのでなかったら、虚しい 『エッセーの楽しみ』より むな 133

2. 猫に名前をつけすぎると

出典リスト 無縁の生活一九七四年一月、講談社刊 父たちの肖像一九七九年四月、中央公論社刊 言葉ありき一九八〇年十一月、河出書房新社刊 みやげの小石一九八一年一月、作品社刊 十二の風景一九八一年九月、河出書房新社刊 散文の基本一九八一年十一月、福武書店刊 単純な生活一九八二年八月、講談社刊 まどろむ入江一九八一一年十一月、作品社刊 緑の年の日記一九八四年五月、福武書店刊 変哲もない一日一九八四年八月、河出書房新社刊 水の優しさ一九八五年九月、福武書店刊 短編小説礼讃一九八六年八月、岩波書店刊 ェッセーの楽しみ一九八七年九月、岩波書店刊 挽歌と記録一九八八年四月、講談社刊

3. 猫に名前をつけすぎると

実を十分に近くから見なかった、おおよそのところで済ませた、「本当らしさ」ぐらいで満足 してしまった、と見るようになる。自分は「観察」する、「おおよそ」ではなく「正確」を、「本 当らしさ」ではなく「本当」を求めると言いたかったのであろう。ついでに、彼は「想像する ものには何の味わいもない」とも言っている。 物を書くとは、ほとんどっねにをつくことだ、という考えは早くからルナールにあった。 自分自身のそれをも含めて、人間の虚偽を彼のように激しく憎んだ作家の目に、世間の多くの 小説が嘘つばちに見えたのは当然であるが、その信念は彼が晩年、父親と同じ村長に選ばれて からいっそう強まった。農民たちのあまりにも遅れた生活を肌で知っていた彼には、農民を 「説」に書くのは彼らを侮辱するようなものだという気持ちがあった。彼の郷土には、小説 になるような目ざましい「物語」はなかったからである。彼がいわゆる小説を拒絶した道徳的 な理山と言っていいだろう。事実、『ぶどう畑のぶどう作り』にある「フィリツ。フ家の流儀』 などを読むと、ルナールが異例の愛情といたわりの気持ちで農民たちに接していたことが感じ で られる。 プ彼が生来小説に向いていなかったのか、年とともに小説が嫌いになって行ったのか、それは はどちらでもいいことである。仮にその小説嫌いの作者が、文学の嘘、小説の嘘を極力排して書 ん れいた子供は、少しも子供らしくなかった。親や兄弟も虚偽の部分を隠し切れなかった。文壇の からくりも同業者の正体もっとに明らかである。そして、それを作品に、日記に書いた本人も 215

4. 猫に名前をつけすぎると

私などが年少の頃まず幻惑され魅了された、初期の鬼才縦横の王朝物やキリシクン物から、 芥川はすでに遠いところにいた。「鼻』 ( 大正五年 ) を褒めた漱石もとうに世を去っていた。志 賀直哉を賛美しながら、晩年の「蜃気楼』など彼の言う「「話』のない小説」は、薄化粧の下 に貧血にあえぐ、痛ましい表情を見せている。追い詰められて書き遺した「歯車』は、葛西善 蔵のような作家からは初めての「小説らしい小説」のようにさえ言われた。 芥川の僚友であった菊池寛は、短編隆盛の気運をいち早く察知したが、同時に、短編小説が 本来の面白さから逸脱しようとしていることにも敏感に気づいたにちがいない。大正十一年、 多くの作者が短編の技術を竸い合っているとき、彼は『文芸作品の内容的価値』という一文を 文壇に投じて、反駁を受けたり失笑を買ったりした。それは、うまいうまいと思いながら心を 打たれない作品がある、かとおもうとまずいまずいと思いながら心を打たれる作品がある、し てみれば文芸作品には芸術的価値の他に内容的価値といったものもあるのではないか、また芸 術的評価の他に道徳的評価や思想的評価も必要ではないか、とあらましそういう意見であった。 菊池寛の意見は、いま読んでも少しも古びていない。彼は俗論とあしらわれるのを承知で、 あえてそれを書いたのであろう。昨今の小説は芸術的か何か知らぬが大人には面白くない、物 足りない、人生を感じさせない、 と言ったのであろう。彼のモットー「文芸は経国の大事、私 はそんなふうに考えたい。生活第一、芸術第二」 ( 同上 ) も「二十五歳未満の者、小説を書く べからず」 ( 『小説家たらんとする青年に与う』大正十年 ) もみな根は一つである。 218

5. 猫に名前をつけすぎると

「にんじん』から三年後に猟銃で心臓を撃って自殺する。ルナールは自分でも三十代を半ば過 ぎた頃には、長年狩猟に親しんできたが無益な殺生が嫌になった、もうやめよう、小作人にも やめさせたい、と述懐している。理解のなかったフェリ ックス役の兄も職場で頓死する。悪役 ルビック夫人として君臨した母親が、故意でか不注意でか井戸に落ちて死ぬのは、作者自身の 死の十か月ほど前である。 ルナールとヘミングウェー、それにサローヤンも加えて、父と子の絆という永遠の主題につ きまとわれた作家の一生は、あたかもそれ自体が人間的感動を呼ぶ物語のようである。ヘミン スノップ グウェーもサローヤンも、それそれ息子が率直な思い出を綴っている。五十代で「俗物」とな り「偽物」と化し、六十歳を過ぎて老いることに失敗したと書かれているヘミングウェーとは 反対に、ルナールは四十六までしか生きなかった。また、作品ではあのように美しい家族愛を 謳いながら、実人生ではついに一個の父親たり得なかったというサローヤンとも違って、ルナ ールはどうにか家庭の建設をやりおおせた。彼の悲劇はあまりにも早く老年がやってきたとい で のうことであろう。 ル →「にんじん』「博物誌』以後も、ルナールは短編や戯曲を書き、文壇での活動を続けはする。 テ はだがそれにもまして彼が精力を注ぐのは、二十三歳の時からつけてきた日記である。とりわけ ん父と兄と母の死を記録したくだりなどには、鬼気迫るようなものがある。結局、この『日記』 が彼の最大の作品になるが、その代償として彼の創作の息の根を止めることにもなった。日記 213

6. 猫に名前をつけすぎると

なりようがないのが作品の正しい寸法である。 短編では、「この物語を始める前に」だの、「先刻もちょっと触れておいたが」だの、「これ は余談であるが」だのと悠長なことはやっていられない。長編の読者は途中で少しぐらい注意 力が眠り込んでも、作者がそのつど揺り起こしてくれるから安心であるが、短編はそれができ ない。説明や注釈にも頼れない。となると、残るはイメージしかない。具体的な物の形や印象 こ焼きつけなくてはならない。 を、手早く読者の脳裏冫 チェーホフが、彼に恋した作家志望の人妻アヴィーロワに語ったという「生きた形象から思 想が生まれるので、思想から形象が生まれるのではない」という言葉は有名である。長編と短 編を器用に書き分けている現代イタリアの作家モラヴィアが、短編を抒情詩に近いとし、長編 を評論や哲学論文になそらえているのもその辺を衝いたものであろう。 もっとも、私のこういう言い方は実は本末転倒で、短編の作者はもともとイメージで語るの が得意なのだ、その反対は苦手なのだ、と言うほうが本当かもしれない。彼の書くものが短い のは、イメージというものはそうそう引き伸ばせないからである。ルナールなどは、「十語を 超える描写はもうはづきり目に見えない」と極端なことを言っている。 イメージという言葉を言い替えようとすると、どうもびったり行かなくて不便である。影像、 映像、形象、物の姿、心象などと並べてみるが落ち着かない。とにかく網膜にうつるものも、 心に浮かぶものも、ともにイメージであろう。絵や写真やテレビの画面もイメージであり、フ 円 3

7. 猫に名前をつけすぎると

『雨の中の猫』のホテルの主人も、作中の「アメリカ人の妻」にとってのみならず、読者の目 にもすこぶる印象的である。彼がいなかったら、この作品は生まれなかったにちがいない。 二階の部屋で、雨に降り込められて「夫」はべッドで本を読んでいる。退屈した「妻」が窓 の外を見下ろすと、庭先のテー・フルの下に子猫がうずくまっている。彼女はその猫を連れてこ ようと思う。 「細君が階下におりると、ホテルの主人が立ち上がり、事務室の前を通る彼女に会釈した。 彼のデスクは事務室のいちばん奥にあった。彼は老人で、とても背が高かった。 イル・ビオーヴェ 『降ってるわね』と妻は言った。彼女はこの主人が好きだった。 シ - 一ヨーラ・フルット・テンポ 『ほんとうに、奥様、いやなお天気で。非常に悪いお天気です』 彼は薄暗い部屋のいちばん奥のデスクを前に立っていた。妻は彼が好きだった。こちらの 言い分を何でも聞いてくれる、彼のすごく真面目な態度が好きだった。彼の貫禄のあるとこ ろが好きだった。彼女にサービスしてくれようとするところが好きだった。自分がホテルの 主人であることをちゃんと心得ているところが好きだった。彼の年をとった、立派な顔と大 きな手が好きだった。」 その主人はむろん職業柄、彼女のすることを何でも見ている。彼女がしたがっていることも ただちに見抜く。彼女が猫を探しに外へ出たとき、女中にそっと傘を持たせてやるのも彼であ る。が、行ってみると子猫はもういなかった。そして「アメリカ人の女」 the American girl 240

8. 猫に名前をつけすぎると

。、ツ 短く書くことに骨身を削る短編小説の作者は、もともと非情な性向なしとしない。モー ィールド、も、ヒューマン サンもそうだったし、ルナールもそうだった。チェーホフやマンスフ ほな同情心とともに病者特有の冷血さを持っていた。魯迅も相手を屠るような書き方をした。こ 猫のあとに出てくるヘミングウェーではその非情も極点に達するかに見える。 時代と作者、国情と作者といった観点もむろん興味あるものだが、そのような議論はかえっ あ て作品そのものを読者から遠ざけることにもなりがちである。千年前のものだろうと十年前の 菊池寛の作品の紹介として書かれた「「三浦右衛門の最後」訳後付記』という短文で、魯迅 が日本の武士道の不合理に敢然として鉄鎚を下した作者を称讃したあとで、 「ただし、この作品には不用意に犯したミスがある。右衛門は縛られているのだからーー昔 はかならず後手に縛ったーー命乞いのとき両手をついたとするのは前後あきらかに矛盾する。 きず 頭をさげた、としなくては前と合わない。ごく小さな疵で、全体にどうということはない 力」 と言っているのは面白い。当の菊池寛はこれを知っていたかどうか、人づてにでも知らされ たはずであるが、戦後の版でも訂正されていないところを見ると、そんな「矛盾」は物ともし なかったのであろう。 ほふ 231

9. 猫に名前をつけすぎると

ほしかし、猫をよく知るには愛撫するだけでは十分でない。子供がやっているように、猫をい 猫じめることも猫を認識する有力な手段であろう。わが国で梶井基次郎が猫の耳の実験を行う何 し 年か前に、隣の中国では猫嫌いの魯迅が猫いじめの話を書いていた。彼の最初の小説集「吶 あ ちょうかせきしゅう 喊』に入っている『兎と猫』 ( 一九一三年 ) や、自伝的回想記『朝花タ拾』の一編『大・猫・鼠』 そして猫のばかりか筆者の体温、体臭、部屋の空気までがじかに感じられる気がする。梶井も マンスフ ィールドと同じで、たぶん完成された作品に数倍する書簡を残しており、手紙を書く ためにあまりに時間と精力を費やしすぎたことを惜しまれているくらいである。 「愛撫』を書いてから二年もしないで梶井基次郎は死ぬが、病状悪化していよいよ外出がまま ならなくなってからも、猫を観察する機会だけはいくらもあったようである。『愛撫』と同じ 年の『交尾』には、「ほしいままな男女の痴態を幻想させる」二匹の白猫のからみ合いが描か かじか れている。後段の河鹿の求愛の場面とともに、現代の文学に類を見ない性の描写である。また、 絶筆「のんきな患者』 ( 昭和四年起稿ー同六年脱稿 ) では、ふだん猫を寝床に入れる習慣だった主 人公が、今になって病室から猫を遠ざけるのに苦労しているのがおかしい。 大急ぎで書くべき原稿など持ち合わせなかったこの作者は、数枚の作品にもつねにたっぷり と時間をかけた。『愛撫』もそういう贅沢の見本の一つである。 かん とっ

10. 猫に名前をつけすぎると

英語には = 円 0 cu 」 a long 0 ( 0 「 0h0 「」 ' ( かいつまんで話すと ) とか、 = P 】 0 目 0 make ou 「 0 ( 0 「 y sh 。「 (. ・ ' ( 手短かに言 0 て下さい ) とかいう言い回しがあるらしい。日本語の感覚からす ると身も蓋もないような言い方であるが、それだけ明快でもある。 しかし、ただ長い物語を短くしたものが短編ではない。サーヤン式に言うならば、鯨をい 。くら細かく切り刻んでも鰯にはならない、それは鯨の切り身である。短いというのは、話の長 →短よりもむしろ文章の性質から来る。書き出しの一行が、あるいは一節がその作品のスタイ ~ テ を決定するとよく言われるが、十枚で完結すべき物語はすでにその分量に相応した文章の調子 《を持 0 ている。調子というところを呼吸、リズム、間合い、密度等々、いろいろ好きなように に を短くせよ」と言われなくても、それ以上長くも短くも 、、。「汝のストーリー 言い換えてもしし にんじんはテーブルの下で , ー・ルナール 円 7