『雨の中の猫』のホテルの主人も、作中の「アメリカ人の妻」にとってのみならず、読者の目 にもすこぶる印象的である。彼がいなかったら、この作品は生まれなかったにちがいない。 二階の部屋で、雨に降り込められて「夫」はべッドで本を読んでいる。退屈した「妻」が窓 の外を見下ろすと、庭先のテー・フルの下に子猫がうずくまっている。彼女はその猫を連れてこ ようと思う。 「細君が階下におりると、ホテルの主人が立ち上がり、事務室の前を通る彼女に会釈した。 彼のデスクは事務室のいちばん奥にあった。彼は老人で、とても背が高かった。 イル・ビオーヴェ 『降ってるわね』と妻は言った。彼女はこの主人が好きだった。 シ - 一ヨーラ・フルット・テンポ 『ほんとうに、奥様、いやなお天気で。非常に悪いお天気です』 彼は薄暗い部屋のいちばん奥のデスクを前に立っていた。妻は彼が好きだった。こちらの 言い分を何でも聞いてくれる、彼のすごく真面目な態度が好きだった。彼の貫禄のあるとこ ろが好きだった。彼女にサービスしてくれようとするところが好きだった。自分がホテルの 主人であることをちゃんと心得ているところが好きだった。彼の年をとった、立派な顔と大 きな手が好きだった。」 その主人はむろん職業柄、彼女のすることを何でも見ている。彼女がしたがっていることも ただちに見抜く。彼女が猫を探しに外へ出たとき、女中にそっと傘を持たせてやるのも彼であ る。が、行ってみると子猫はもういなかった。そして「アメリカ人の女」 the American girl 240
以来、私は路上でこの夫人たちに出会った時は、いままで以上に丁寧に最敬礼しているので ある。 かと思うと、今度は真裏の、南側の家の奥さんが声を荒らげてうちの猫を撃退している場面 に出くわした。それを私が見てしまったのだから、なお具合が悪かった。相手もばつが悪かっ たと見えて、「お宅の猫がしよっちゅう入ってきて困るんです。これからは入ってきたら遠慮 なく追っ払いますから、気を悪くしないで下さい」と悲鳴みたいに訴えた。はっきりそう言う だけ気性のさつばりした人なんだろうと、私もあまり厭な気はしなかった。そこの家は大きな 犬を飼っていて、彼女はたぶん犬が好きなのだ。 で、このお宅には、いわば猫の通行税として、毎夏庭に生えてくる蕗を差上けている。 例によって話が妙な方向にそれてしまったが、かくのごとく私の猫どもの前途も相当に多難 なのであるーーーわれら人間家族のそれと同じく。 『単純な生活』四十七抜粋 大の男がどうしてまたつまらない雑種の猫を三匹も飼っているんだろうと御近所ではお考え にちがいない。実は、私もそう思わぬでもないのである。 猫なんていやらしい動物ではないか。殺せば化けるのかどうかは知らないが、全身怪しげな ふき
「思想」と化して、跳び上がったり、うずくまったり、眠ったりするのである。 ムールーはしあわせである。 ( 略 ) 彼は遊ぶ、そして遊んでいる自分をながめようとは考え ない。彼をながめるのは私であって、彼がまったくすきのない正確な運動で、彼の役目をは たしているのを見て、私はうれしくなる。・ とんな瞬間にも、彼はその行動において全的であ る。物をたべたいと思えば、彼の目は料理場から出てくる皿をはなれない。その目は非常に はげしい欲求をあらわしていて、彼が食物そのものにのり移ったかと思われるほどだ。そし て、ひざの上で手まりのようにまるくなるときは、そのやさしさのすべてを出しつくすので ある。どこをさがしても、隙間というものが私にはみつからない。 ( 略 ) くなったり、あらわれたり、立ちどまったり、かけだしたりするのを見た。それから、あれ ほどたのしそうに追っかけていたものをわすれ、私が本を読んでいる仕事机の上にとびのる。 私がページをくるのを、その前肢の片方でじゃまをしておもしろがる。またあるときは、書 物の上にねようとする。私の読書は、そうした夏の朝はいつも彼の相手をすることで影響を 受けた。 哲学者も猫とたわむれる点では世間一般の猫好きと変りがないが、グルニエはそこからも彼 の一貫する主題を引き出す。というより、ムールーという名の猫がいまや一個のまぎれもない 174
「誰かがドアをノックした。 アヴァンティ 『どうそ』とジョージが言った。彼は本から目を上げた。 戸口に女中が立っていた。彼女は大きな三毛猫を抱きすくめるようにぶら下げていた。 「失礼します』と彼女は言った、『主人がこれを奥様にお持ちするようにと中しました』」 読者の目に、あの事務室の奥のデスクにいる「ホテルの主人」の存在が一挙に浮かび上がり、 圧倒する大きさでこの短編全体をおおうように感じられる瞬間である。猫そのものを書いたの ではなく、また猫を単なる小道具にしたのでもなく、チェーホフが言った「生きたイメージ」 ないしは「シンポル」として使って、これほど人間の心の動きを鮮やかにとらえた作品はない。 これだけうまく生かされれば猫も本望だろうと思う。 愛猫家なら、それはどんな猫だったろうと気になるところである。原文では a big tortoise ・ shell cat となっている。 tortoiseshell は「甲」のことで、三毛猫をそう呼ぶらしい。なにし ろイタリアの猫だから、日本の三毛猫とは多少毛皮の模様も違うかもしれない。 いっか写真集で見たことがあるが、フロリダ州キーウエストにあるヘミングウェーの旧居の 一つは、現在「猫の家」になっていて、数十匹の猫が仕合わせに暮らしているそうである。へ ミングウェーは一時六十二匹もの猫と暮らしていたことがある山で、猫好きも上には上がある ものである。 ちなみに、あのマンスフ ィールドが猫の小説を残していないのは痛恨事に思われる。彼女も スドローネ べっこう
私は猫専門の写真家山崎哲氏の「〈ミングウ = イの家と猫たち』 ( グラフ社、昭和五十四年十月 刊 ) というカラー写真集が出たことを新聞で知り、人に頼んで買 0 てきてもら 0 た。 これは山崎氏がフ 0 リダ州の最南端キー・ウ = ストの〈ミングウ = イの旧居を訪ね、現在は 約五十匹の猫が仕合せに暮しているという猫の楽園のごときその屋敷の内外を撮 0 てきたもの で、猫好きにはむろんのこと、猫好きでなくても〈ミングウ = イのフ , ンには実に楽しいアル バムである。 猫を愛した〈ミングウ = イは、一時六十二匹もの猫と暮していたことがあるそうである。そ して、この家にいた一九三一年から四〇年までの九年間に、「午後の死』から「誰がために鐘 。る』に至る名作の数々を書いた。 その割には〈ミングウ = イの小説にはあまり猫が出て来ないので、意外の感なきにしもあら ずであるが、連作『われらの時代に』の中の「雨のなかの猫」などを読むと、やはり猫好きで 舞文曲筆について 184
のも言語道断だ。 それから、彼はいつものように考えた。 : ・要するに、あいつらは少しばかりうまくやっただけの話だ。あの頃にはまだ選択の自山 があったのだ。広島でも長崎でも好きに選んで、好きな分量だけこっそり楽しめたのた。そう して事実、早いとこうまくやったと思い込んだ。 、まではそんなものは珍しくもない。誰だって持っているのだし、少しばかり持 ところがし といって小出しにするわけにも行かず、おいおい抜きさしな っていたって自慢にもならない。 らなくなって、「今度やればお前らもいっしょだ、みんな巻きそえにしてやる、それでもボタ ンを押す勇気のあるやつがいるかい ? 」と、高をくくりはじめたのだ。相手にそう思わせたい より、自分でそう思いたいのだ。人類全部を人質にとったつもりだ。ありふれたギャングの手 ロだ。 しかし、物事は公平の観点からも見なくてはならない。あいつらは ( 持っている連中は全部 ひっくるめて ) その高価な発明品を広島長崎以外ではまだ一発も使っていないのだから、連中 はわれわれにヒ = ーマニズムを説教する資格はない。オイロシマなどという駄じゃれをとばす 入権利もない。 いまからでもけっして遅くはない。まずニ = ーヨーク、つぎにモスクワでも北京でも好きに ま 選んで、おたがいに上手に実験し合ってみるべきだ。各国ごとに百万人ぐらいずつを瞬時に炭 101
の家長的精神には面白くなかったのであろうと想像される。もっとも、この「猫』では猫好き に対してもなかなかの理解を示し、その考察も具体的で的確である。 といふ猫好きの友達が膝の上に円くなってゐる猫を両掌で愛撫しながら、「大は下っ腹 に毛が生えてゐないから厭だ」と云った事がある。成程と思った。のやうな愛撫の仕方を するのに下腹に毛が生えてゐなかったら、成程具合が悪いだらう。さういへば猫の下腹には 柔かな毛が密生してゐる。愛撫するにはこれでなくては困るわけだ。それに犬は猫よりも骨 が固く、毛が荒い。その上、体臭も強い。文字通りの愛撫を楽む猫好きにとっては猫の方が しいといふのは、たしかに理由のある事だと思った。 じっさい、愛撫という二字は猫のためにあるような言葉で、梶井基次郎がこの題名で人間と 猫との逸楽の秘密を解き明かしているのがただちに思い出される。「愛撫』 ( 昭和五年作 ) もわ ずか七、八枚のスケッチであるが、猫というものを観察描写してこれくらい精妙な日本語の文 章が他にあるだろうか。猫の耳と爪の構造機能に関する諧謔にみちた所見にはじまり、猫の前 その半ばは梶井の 肢で白粉用の化粧道具をこしらえるというエロチックな夢に至るまで、 ト田 科学者らしい頭脳を思わせ、半ばは彼の詩人としての資質をしのばせるに足るものだが を愛撫するたびに、また猫について書くたびに、私などはあの一行一行が頭にちらついて悩ま
これが自分の家のれつきとした商売なのだといやでも思い知るかもしれない。だがそれにして も、何でも小説に仕立てるとは言い過ぎだ。私にはとてもそんな力はないし、根気もない。 現に私はこうして子供と遊んでいるほうが性に合っている。四年ほど前にはほんものの猫を 飼っていた。それもシャムの雌猫を二匹飼っていた。だからあの頃は、子供よりもむしろ猫と のつき合いにかまけていた。その後三番目のこの息子が生まれたので猫は危険でもあり、遠ざ ける必要を生じた。ところが、まことにタイミングよく二匹とも息子の出産前後にいなくなっ てしまった。一匹は失踪し、もう一匹は病死したのだが、 , 彼女たちがいまも健在だったとした ら、私は子供と猫の両方で、もっともっと時間をむだにしていたにちがいない。 あの時、二匹も飼う気になったのは、当時勤めていたテレビ局の同僚だった久住の家で二匹 のシャム猫を見たのがきっかけだった。普通の雑種の猫なら私は子供の時分から自分でも飼い、 その他にも沢山の猫がいつも家のまわりを徘徊していたから、めずらしくもなかった。それに うから それほど猫好きというのでもなかった。むしろ私は彼等の族にはいろいろひどいことをした男 として記憶されていただろう。とにかく私はもう永いこと猫なしで暮らしていた。 それが久住のところでシャム猫を見てから、私はぜひともそいつを手に入れたいと思いはじ めた。久住のは二匹とも雌で、チョコレート・ポイントのシャムだった。眺めるほどに触れる ほどに、私は彼女たちの魅力に抵抗しがたくなった。風変りな毛皮の地模様、顔の面積のかな りの部分を占めている大きなアメンドー形の青い眼、それ自体がのたうつ別の生き物のような、 くすみ
「吾輩は猫である』から「猫と庄造と二人のをんな』まで、「黒猫』から「雨のなかの猫』ま で、主役にしろ傍役にしろ、猫が登場する小説は数えきれないだろう。私はそのごくほんの一 部を読んでいるだけで、せいぜい印象に残っているものを思い起しながら書くしかない。それ も自分の好みで、どうしても短篇乃至ェッセイになる。その点は、あらかじめ世の嫉妬ぶかく、 疑ぐりぶかく、気むずかしい愛猫家諸兄姉にお断わりしておかなくてはならない。 志賀直哉が戦後すぐに書いた動物小品の一つに『猫』 ( 昭和二十二年作 ) というのがあり、そこ 短で作者は、自分は四十年間に猫の事は二度しか書いていないから、やはり猫好きでない証拠か 以もしれないと言っている。動物好きのこの作者は犬のことはたびたび愛情をこめて取り上げて 猫 いるから、おそらく猫特有の、気まぐれで、ぶいと出て行ってしまうような不安心な性質がそ 猫のいる短篇 167
猫 しなやかな長い尻尾、草が風になびくように流れる背筋の線の妖しさ等々。しかも私は久住の 感化で、手なずけるなら雌がいいし、飼うなら一匹でなく二匹飼いたいものだと思い込んだ。 で、一匹はいち早く別の方面からかなり成長したシャムを調達したが、もう一匹は久住にたの んでおいたのだ。ところが、それからまもなくして、久住は発病し、都内の大きな病院に入っ てしまった。 その知らせを聞いて私は勿論びつくりしたが、あとから考えてみれば思い当るふしがないで もなかった。久住は大の猫好きというところからも窺えるように、日頃はあまり目立たない、 大人しい男だった。いまでもまず私の目に浮かぶ久住は、彼の家で私ども同僚が客好きな彼の 細君もまじえて飲んだり歌ったりしている最中に、ふっと気がつくと彼一人はうっ向いて膝の 上の猫をひっそりと愛撫している、そんな物静かな姿だ。そういう時、彼はよく涙ぐんだよう な、腫れぼったい、おかしな眼をしていた。そして年上の細君ばかりがいやに威勢よくしゃべ りまくっていた。昔どこかの放送劇団にいたとかいう美人の細君だ。久住は私どもに彼女との なれそめを誇らしげに話して、「恋女房なんです」と公言したこともあるし、細君のほうでは 「この人はあたしがいなかったら生きて行けやしないわよ」などとロ走ったこともあった。私 はその時はただのおのろけなんだろうと思っていた。 しかしその大人しい細君おもいの久住が、ある日、街なかで突発的に兇暴な振舞いをしでか して私どもを驚かした。彼が会社の近くの交番に捕まっているという照会の電話が私どものデ