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検索対象: 猫に名前をつけすぎると
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1. 猫に名前をつけすぎると

いたように言うけれども、そうではない。外へ出て見物できるものなら喜んでそうしたろうが、 事実は一歩も家から出られぬ状態であった。 拙宅裏手の隣家との境になっている細い通路が、いわば迷い込んだ嵐の通りみちになり、ま ず勝手口の木戸を吹きとばした。そこらに積んであったビール壜や何かがつぎつぎと砕け散る 音がした。よそから飛んできた物体も、その風のトンネルをまっしぐらに転がって行く気配で ある。痛い目には会いたくないから私は家の中でただ聞き耳を立てていた。何がどうなったか、 どこがどうなったかは、つぎの日起きて見ないことには見当もっかない。 天から降って来たものの中には鳥の巣もあって、おやおやと思った。嵐の最中には、「いま ごろ鳥はどうしているだろう ? 」などとは考えもしなかったから。そして鳥の巣が落されたか らには中にいた鳥の雛も落ちたのである。現に雀の子が二羽、地上に投げ出されていた。一羽 はすでに冷たかった。もう一羽はかすかに息があるようだったので水を含ませたりしこ : 、 れも駄目だった。いくらなんでも水気はもう沢山だったかもしれない。猫が何匹もいることだ し、死骸は家の者が大急ぎで庭の土に埋めた。 子を置き去りにして親はどこへ行ったのかと思うが、これもあの風では戻るに戻れなかった のだろう。巣へ帰る途中でどこその屋根か窓に叩きつけられて死んだか、あるいは墜落して気 を失っているところをいち早く猫に食われたかもしれない。雀一羽落ちるのも神の摂理だそう だから、人間が考えたって仕方のないことだ。 2

2. 猫に名前をつけすぎると

猫と手袋 みても分ることである。獣としては、どう見ても大のほうが生活の基盤が薄弱であり、愛大家 はその見地からもいよいよ大をいとおしく思い、猫をうとましく思うのであろう。 ところで、私はもう何年も猫なしで暮している。正確には、自分の猫なしで、と言うべきか もしれない。野良猫ならしよっちゅう出入りしており、なかには十分に馴れて飼猫同然のもい るからである。 そして、ときに私は考える。 作家は大を飼うべきであろうか、猫を飼うべきであろうか。 運動不足の解消のために大と一と歩きした後では、猫を膝にのせて毛皮を愛撫しつつ、その化 けて出るほどの精妙な魂のはたらきをひそかに観察すべきであろうか。 しかし、どうやら猫も仕事の妨げになる場合があるようである。先刻から二階の炬燵でこの 文章を書いている私のところへ、例の野良猫が寄ってきて、原稿用紙の上にとびのり、失敬に も私の顔に尻尾をビンと立てた尻を突きつけ、ペン持つ手を冷い鼻面でぐいぐい押して、執筆 をやめさせようとする。そうして私の膝に割り込もうというのである。 勝手なやっ ! だから、私のほうでも断然そのように扱ってやる。つまり、手袋か何かのように。日によっ て手袋をはめたり脱いだりするように、私は猫もその時の気分次第で抱いたり、突き放したり 「父たちの肖像』より してやるのである。

3. 猫に名前をつけすぎると

うだけである。無ロなのにはちがいないが、どうも作者はルビック氏を出し惜しみしているよ とうび うである。切り札をとって置く気持ちもあるかもしれない。事実、掉尾を飾る『結びの言葉』 で父親は一挙に劣勢を盛り返す。そこでの父と子の対話こそは「にんじん』のクライマックス である。 父親に連れられてタベの散歩に出たにんじんが、この時とばかり母親の不当な仕打ちを訴え、 首吊り自殺までしかけたと打ち明ける。だが父親は取り合わず、重い口を割っていきなり「そ れじゃあなにか、このわしは彼女を愛してると思うのか ? 」と怒ったように言う。戯曲『にん じん』には同じ台詞の他に、「実際、お前が生まれてきた時には、お母さんとわしの間はもう 駄目になっていた」「一人の女を、自分の女房を知るにはな、にんじん、何年もかかるんだ。 で、それがわかった時はもはや手遅れなんだ」という深刻な告白もある。むろん世間にはいく らもある話であるが、ノ レ。ヒック氏の茶の間での異様な沈黙が、ただ無ロだからというだけでは ないらしいことはわかる。 そんたく 作者の心中を忖度すれば、彼はまだこの時期には、ル。ヒック氏のモデルでもある父親への思 いやりから、自分の両親の不和をあからさまに表に出すことを控えたのではないかと思う。な ぎず るべく父親を引っ込めておくことで、父親の肖像に疵をつけることを回避したかったのではな いかと思う。だが、最後にはやはり書いてしまう。そうでもしなければ、にんじんの物語とし て収拾がっかない。非情な作者は作品のほうを選んだのである。『にんじん』が出版された年

4. 猫に名前をつけすぎると

が、駅周辺の八店からそれそれ二十五人前乃至四十三人前という数で来たから、合せて約三百 人前にもなった。なかには大量の注文に気をよくして必勝祈願の日本酒をおまけにつけて来た 店まであり、狭い事務所は一時すし屋の出前持ちでごった返した。藤沢署では悪質ないたずら と見て調べているが、どのすし屋も「午後四時から四時半の間に届けてくれ」という電話を受 けて配達したもの。三百人前のすし折は各店に事情を話して引き取ってもらったので実害はな かったが、革新事務所では「保守のいやがらせか」とビリビリ神経を尖らしている云々。 八軒のすし屋が食い手のいないすし折をせっせと三百人前も作らされた事実を前に「実害は なかった」と書く新聞記者の神経はどうかと思うが、とにかく私は読んで笑いが止まらなかっ た。その後、贋電話の犯人がっかまったかどうか、私は知らない。選挙妨害でこれがよくある 手なのかどうかも知らない。念のため断っておきますが、犯人はむろん私ではないし、私の知 人でもなさそうだ。 私はすし屋にはまずめったに入ることはないが、天気のいい昼間にときどき散歩がてらその 辺のそば屋に寄る。ついせんだって、そこの店の若い職人ともう一人、学生ア化ハイトみたい のが手持ちぶさたで世間話をしているのを聞くともなく聞いていたら、面白い日本語が耳にと び込んで来た。どっちかがこんなことを言った。 「 : : : あの弟はダメだけんど、兄貴のほうはまちょうだ : マチョウ ? 私はとっさに懐しい土地の言葉を聞くものだと思った。小学校か中学の時以来

5. 猫に名前をつけすぎると

黒猫ばかりふえた時代があるかと思うと白猫ばかりの天下があった。両統対立の時代もあ った。現在は、捨猫ばかり収容して悪い民主時代となった。家の中にいる猫の名を私はもう 知らない。覚え切れないからである。一匹の猫なら可愛らしいが、十五匹ともなるともう可 愛らしくない。 こういう著者の文章だから、言葉のすみずみまで猫の死霊生霊が染みついているようで、通 読するのがいささか気ぶっせいなのである。 それはともかく、作家と猫、などという題目で書けるのは、まさに大佛次郎のごとき人物で なければなるまいと思う。私も、まあ、猫好きのはしくれだとしても、とてもそんなに沢山の 猫を構いつける情熱も余裕もなし、猫学の蘊蓄も欠く。 実は、猫のことを書くのはそろそろやめにしようと思っていたところだ。書く、というほど 書いているわけでもないのだが、くだらない人類に関する仕事のほうが忙しく、仲々猫にまで 手が回らない。仮にも猫について物そうというのであれば、猫と戯れつつ、あくまでものんび 二りと筆をやるのでなくては、つまらない。第一、猫に申訳ない。 のそれに、猫に関しては、すでに名作名文、名論卓説がどっさりあるので、いまさら私などが 9 書くにも及ばぬという弱気にとりつかれがちである。内田百閒などという人の猫への妄執ぶり、

6. 猫に名前をつけすぎると

の家に死にかけた老猫がいる。「もう今夜か明日の命で御座んしよう」と主婦は言い、猫とい うものは畳の上では死なぬ、どんなに弱っていても、必ず人の目につかぬ所まで行って死ぬる ものだ、という話をする。果たせるかな、夜半近くに猫はそっと主婦の膝を離れて、障子の穴 から外へ出て行く。追おうとする娘に、主婦が恐ろしい声で「見るもんじゃない、開けてはい けん」と言う。二十一ぐらいで百閒はこんなことを書いていたのだ。 では、いっから百閒の猫は人間に口を利くようになったのか。手近に調べてみると、「旅順 入城式』の「木蓮』で猫が主人とお喋りしていた。「さっき、玄関でことこと云わしてたのは、 君かね」「いいえ、ちがいますわ」「何だか云ってたのじゃないかい」「中しませんわ」「じゃ何 処から這入って来たんだい」を。 「ままま」等々。やがて主人は彼女に顔を舐められて目が覚める。 もっとも、これは夢だから特別かもしれない。 ついでに調べたら、漱石の「猫』では猫は猫同士でしか会話していなかった。「御めえは一 体何だ」「吾輩は猫である。名前はまだない」「何、猫だ ? 猫が聞いてあきれらあ。全てえ何 うち こに住んでるんだ」「吾輩はこの教師の家に居るのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いや はに疥せてるじゃねえか」「そう云う君は一体誰だい」「己れあ車屋の黒よ」といった具合で、猫 のが人間にも口を利くのは、たしかに百閒の新機軸の一つにちがいない。 セ 百閒の猫は、時には狸に変身して、主人のお酌をつとめたりしているようだが、しかし、や 工 はり今にも口を利きそう、くらいのほうが格段に猫らしい。私が覚えているのは、二十年ほど ぜん 245

7. 猫に名前をつけすぎると

に猫を見て、「 ( 膳のものを ) 何かやったほうがいいんじゃないでしようか ? 」としきりに心配 する。やらないと飛びかかってくるんじゃないかと思っているのだ。君が便所に立った隙に、 温まった席を猫が乗っ取る。すると、彼はもう自分ではどうすることもできない。猫をどかそ うにも手を触れるのがこわいらしい もちろん、私は君の動物嫌いの権利を尊重するから、女の子にゲジゲジやトカゲをくつつ けて追い回すような真似はしない。が、彼の不安につけこんで、ちょっぴり言葉で脅かすぐら いのことはしたくもなる。「そりや君、何ていったって、猫は猛獣だからね、ライオンや虎の 仲間だからね。なりは小さいけど、ほら、こんな牙、こんな爪をしている」と、牙や爪をむい て見せてやる。「このロでもって相手の喉笛に食らいつくんだね。飢えた猫が人間の赤ん・ほを かじったっていう話があるけど、本気でやられたら大人だってかなわないよ。いっか野良猫を 捕まえようとして、風呂場で格闘したことがあるけど、この手の甲をばっくり噛まれて一と月 の重傷を負わされた : ・ 君は感に堪えたように、「へえ、そうですか、そうでしようねえ」と心もとない相づちを し 打って、傍らの猫にいや増さる疑惑と嫌悪の視線を注いでいるが、そんなとき彼の目には、猫 ら 必が人間と相撲をとるくらい大きな、凶悪な獣と映っているのかもしれない。もっともその君 物も、近頃ではおそるおそる猫の頭を撫でたりしているから、本当は動物嫌いではなく、動物に 動 近づく機会が無さすぎただけであろう。 123

8. 猫に名前をつけすぎると

縞模様や斑点入りの毛皮を着ていて、歩いている時よりも坐った時のほうが背が高く、闇中に ぎらりと光る眼は緑色で、あくびをした時の貌つきなんかはまるで悪魔のようである。こんな 恐ろしいものにミミだのルルだの ( この二つは昔いたシャム猫の名であるが ) なんとかちゃん だの、新人歌手か風邪薬みたいな名前をつけて、抱いたり頬ずりしたりしている。そんな中年 男のほうはもっといやらしいかもしれない。 しかし、私は世に言う絶対の猫派でもなく、犬は犬で憎からず思っているし、子供の時から 何匹も飼ってきたので、いずれは犬もと考えているのである。あまり大きいのではなく、ビー グルなどというのを飼ってみたいものだ。 しかしまた、猫と違って大となると、私が躊躇する理由はいくらもある。第一に、どうやっ て運動をさせるか。私自身が連動不足なのだから、一緒に散歩すれば飼主の健康にも益するか と思うが、そう簡単には行くまい。雨の日も風の日も、私が犬の相手をしてやれるかといえば、 とてもその自信はない。 はたから見れば気儘ほうだいにやっているようだが、私もこれでなかなか疲れる。文章を書 くという仕事は、決して頭だけ手先だけの仕事ではない。本当に気合いの入った文章は、頭で 活も胸でもなく、臍のあたりに力をこめて書かなくてはならぬ。だから、ほとんど肉体の全身の 労働なのだ。重い荷物を運ぶのや、深い穴を掘るのと同じである。読者に少しでも楽に読んで もらおうと思えば、私はそれだけへとへとになるのである。 ( かつまた、楽に書いたように見

9. 猫に名前をつけすぎると

思っていないのだろう。そんなことは承知の上で、人は呼べば飛んでくる犬だの、 った椅子の上なんかに丸くなっている猫だのに家族という名を与えているのだろう。 とすると、これはもうほとんど創作の領分、詩の世界である。 「散文の基本』より「心の家族」抜粋 私は目下、原稿を書くのがたいへん辛い。書くのが楽な仕事でないのは今更始まったことで 。なしが、この苦しさはまた格別である。煙草をやめたからだ。 もっとも、この断煙 ( という言葉があったかどうか ) 、少しも自主的動機からでない。四月 にちょっと心臓がおかしくなり、八日ほど地元の市民病院に入っていた間に、絶対に吸うなと 言われたわけではないが、悪いことは重々わかっているし、なんだか急に命が惜しくもなって、 やめるなら今だと思ったから、やめてしまったのにすぎない。 はなはだ横着な決心であるが、こんなことでもなければ永らく愛飲してきたものをとても断 念出来ぬであろう。まあ仕方がない、三十年近くもたっぷり吸ったんだからもう十分だろう、 などと考えて自らなぐさめている。 しかし、そうなると、ついでに原稿書くことも一切やめてしまわねばならぬくらい、私は執 いつも決ま 150

10. 猫に名前をつけすぎると

とに引き寄せて梶井の文章を実地に確かめたくなるにちがいない。 ところで、『愛撫』の結びはこうなっている。 「私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげてくる。二本の前足を招んできて、柔 あしのうら らかいその蹠を、一つずつ私の眼蓋にあてがう。快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れ た眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わってくる。 仔猫よ ! 後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだか 本来なら私も、この見事な小品にふさわしい見事な締めくくり、と世の梶井ファンに追従し ておいてもよかった。もしも、作者が『愛撫』を書く前年に北川冬彦への手紙で同じことを別 なふうに書いているのを知らなかったら、こんな不平は言わないだろう。私は短編の気どった 書き方よりも、こっちの文章のほうが好きである。 「僕は猫で誰もおそらくこんなことはやったことがないだろうと思うことを一つ君に伝授し よう。それは猫の前足の裏をあらかじめ拭いておいて、自分は仰向けに寝て猫を顔の上へ立 たせるんだ、彼女の前足が各々こちらの両方の眼玉の上を踏むようにして。つまり踏んで貰 うんだな。もちろん眼は閉じている。すると温かいような冷やっこいようななんとも云えな い気持ちがして、眼が安まるような親しいようなとてもいい気持ちになるんだ。」 いたすら 第一、手紙の文章のほうが生色がある。友人にこっそり悪戯を打ち明けるような愛敬もある。 224