楽しみ - みる会図書館


検索対象: 猫に名前をつけすぎると
28件見つかりました。

1. 猫に名前をつけすぎると

ただ、血のつながりがあるからとか、同じ屋根の下にいるからとかいったことが、どうやら あまり大したことではなさそうだとの見当はついてきた。 例えば、私に息子が三人いる。彼等もたしかに世間で言う家族にはちがいない。しかし、家 族という事実ではなく家族という気持の上では、年とともに彼等が父親たる私にはだんだんか け離れた存在となってくるのは致し方のないことである。身体も心も別々なのだから、これは 当然すぎることである。 形の上では親子であっても、結局のところ、私には彼等の「気が知れない」のである。もち ろん、私とて彼等の幸福を願いはするが、彼等の今後の人生における愛や憎しみ、苦しみ楽し みを私が自分のものにすることはないだろう。彼等もまた、私のそれを理解はすまい。 私の死んだ父親も、息子の私どもに対してきっとこうだったのだろうと、いまでは察するよ うになった。 将来とも、私の楽しみを楽しみとするかもしれないという意味では、もともと赤の他人の妻 のほうが、よほどっながりが濃いだろう。彼女のほうが、子供らよりもはるかに私の家族であ り得るだろう。 その点、子供といえども犬や猫と同等、もしくは以下であり、私としてはむしろ家にいる猫 のほうに人間的な感情を強く抱くことがあるくらいである。 べつだん、犬や猫が人間の相談相手になってくれるわけではなし、むこうはたぶんなんとも 149

2. 猫に名前をつけすぎると

己のこんなざ あらぬ一点を凝視して、無念無想といった面持ちは、貴族的と形容してもいい。 まを見世物にされて、抑えかねる憤りを抑えているのか、諦め切って久しいのか、それとも全 くの無表情なのか。 リルケは「豹」という詩を書いている。豹の目はどこまでも続く檻の鉄棒の列に疲れて、も う何も見ることができない。その向こうにある世界は消えてしまったと。若く貧しく孤独なリ レケま、。、 / リでよく動物園に通ったのかもしれない。大方、今で言う鬱病か、軽いノイローゼ でもあったかもしれない。 どの獣の檻にも、彼らの種族についての説明の札が出ている。棲息の分布だとか習性だとか。 だが、それは檻の中の一匹にとってはもはや無用のものである。それは彼が本来の自山の身な らば、今ごろどこでどんな生活を楽しんでいたか、人間がやましさから忘れたふりをしている、 そのことを思い出させるにすぎない。 そして獣の目には見えない空 詩人ならずとも、心が疲れた人はたまに動物園に行くといい、 を仰ぐといし 「エッセーの楽しみ』より 120

3. 猫に名前をつけすぎると

書いている。 私はどうも気分にむらがあって、なかなか大きな仕事に取り付けない。また、小さな仕事で もそうのべつにはやる気がしない。俳句に向いているのかも知れないが、これは作ったことが ない。昔いた会社の同僚で、暫く会っていない古い友人が、最近の俳句ブームでいつのまにか その道に入り、「歯石」だの「甚平」だの「腎臓結石」だのと、年寄り臭いことを詠み連ねて たしな いる、その変身ぶりに驚かされる。来るべき老後に備えて嗜むのだ、という向きもあるようだ。 こ、れは何かいし 思いがけない身の上の不幸や、途方もない災難に遭うと、内心「しめたー ものが書けそうだ」と思う、と正直に打ち明けた女性の職業作家もいる。物書く人間にそうい う心の働きがあることは、否定できない。実際、彼らは四六時中、何を見ても聞いても書くこ としか頭にないような動物だ。しかし、私はだんだんそういう習性も、その種の作品も疎まし く思うようになっている。人間はやはり書くことよりも、生きることが先であろう。喜ぶこと 悲しむことを中途半端にして、これ幸いと書いてしまうというのはさみしい。まして、それが 誰かを少しでも楽しませるのでなかったら、虚しい 『エッセーの楽しみ』より むな 133

4. 猫に名前をつけすぎると

の穂先がかちかちになったような代物である。それが捨てるのも惜しいような気がして、いま だに置いてある。 ときどき本人 ( ? ) が遊びに来て、机に跳び乗った拍子に匂いをかいだり、くわえたり転が したり、玩具にしている。自分の身体の一部であったことは、思い出しているのかどうか。 「エッセーの楽しみ」より おもちゃ

5. 猫に名前をつけすぎると

ル記挽 ナ ル録歌 釤り 162 18 ルじ、 小 解 Ⅲ 猫のいる短篇 猫の名著二冊 舞文曲筆について 宝石のような 日本の名随筆『猫』あとがき にんじんはテー・フルの下で ェッセ 1 の楽しみより 「あたし、猫がほしい 177 167 163 220 197 194

6. 猫に名前をつけすぎると

猫にも一匹ずつ性格というか個性みたいなものがあ 0 て、複数だとそれが一層よくわかる。 猫ばばなどと言われ、ポーカーフ = ースのように見えるが、表情も実に豊かである。病気の時 は顔つきががらりと変わる。もちろん、鳴き声も必要に応じて微妙に使い分ける。今いる一匹 に、人間用のトイレや風呂場の流しロの真上で上手に小便をするのがいるが、「ネ = の¯・・ テスト」とかいう絵本で検査したら、これが最も高得点を獲得した。 「エッセーの楽しみ』より 127

7. 猫に名前をつけすぎると

モンテ 1 ニュのエッセーは、いまだに全部読み切れない書物の一冊だが、そこに不思議なこ とが書いてあったのを思い出す。古代の神々が治めていた黄金時代には、人間は動物と話し合 うことができて、動物から聞いたり学んだりすることで知恵や分別をたくわえ、後代の人間よ りもずっと幸福な生活を送っていた、というような一節である。 最近、旅行先の新潟県ではぐれた三毛猫が、一年七カ月かかって神奈川県の飼い主のもとへ 帰ってきたという新聞記事を見たが、そういう猫にも聞けるものならいろいろ話を聞いてみた いものである。 「エッセーの楽しみ』より 4

8. 猫に名前をつけすぎると

そうしてムールーは、「ラファイエット百貨店のポール箱」に寝かされ、「庭の一隅の大きな 月桂樹のあしもとに」埋められる。 「猫のムーレ ノー』が教えるのは、犬や猫にかぎらず、どんな虫けら一匹にしても、それを書く ということは、単に彼等の姿態や動作を写すということではなく、その魂までも書かねばなら ぬということであろうか。いやむしろ、一行の文章によってそのものに瞬時に魂を与えるとこ ろまで行かねばならぬということであろうか。 ところで、猫のいる短篇、しかも正真正銘の短篇らしい短篇の題名を一つ、最後に忘れずに 書いておこう。それはヘミングウ = イの『われらの時代に』の一篇で、この小文の冒頭にも記 した『雨のなかの猫』である。あのヘミングウェイなら猫よりも虎かライオンのほうが似合い であるが、この短篇の猫はすばらしい。特に最後の四、五行がすばらしい。翻訳で五ページぐ らいの小品だが、猫のその役割、そのシンポルとしての見事な効果に私はいつも感歎久しうす る。しかし、短篇小説の筋書きを書くなどという野暮なことはしたくないから、それにまた実 に何でもないような話だから、これ以上は未読の方々の楽しみのためにそっとしておくことに する。 「父たちの肖像」より 176

9. 猫に名前をつけすぎると

出典リスト 無縁の生活一九七四年一月、講談社刊 父たちの肖像一九七九年四月、中央公論社刊 言葉ありき一九八〇年十一月、河出書房新社刊 みやげの小石一九八一年一月、作品社刊 十二の風景一九八一年九月、河出書房新社刊 散文の基本一九八一年十一月、福武書店刊 単純な生活一九八二年八月、講談社刊 まどろむ入江一九八一一年十一月、作品社刊 緑の年の日記一九八四年五月、福武書店刊 変哲もない一日一九八四年八月、河出書房新社刊 水の優しさ一九八五年九月、福武書店刊 短編小説礼讃一九八六年八月、岩波書店刊 ェッセーの楽しみ一九八七年九月、岩波書店刊 挽歌と記録一九八八年四月、講談社刊

10. 猫に名前をつけすぎると

章 ばならぬと反省する。ストープを出すのはまだ早いと思いつつ、 いつの間にかひどく着ぶくれ ていることに気づく 十二月雌の老猫も死んで、残り三匹となる。いささか淋しい師走のはずが、やはり世間の テンボにあおられてせからしく、浮かれ気味に越年、除夜の鐘を聞き終わった途端「なあん カつかりした気分にさせられる。 以上、なんともあなた任せの私の暦である。来るべき一年もおおむねこんな風であろうと、 大体予想がつく。そんな心がけだから一年があっという間に過ぎるのかもしれず、そう言われ れば言葉もない。 『エッセーの楽しみ』より「私の暦」抜粋 さて、楢重鑑賞後の私は、一ばし鎌倉観光客らしくよそおって、境内の蓮池のほとりの茶店 に入り、縁台に腰を下ろして冷や酒を一杯飲んだ。膳の脚に一匹の白茶ぶちの雄猫が紐でつな がれていて、新聞紙を丸めたおもちゃ ( ? ) で遊んでいた。給仕の女に「な・せ猫をつないで置 くのか」と質問したら、「連れて行かれちゃうから」という返事だった。観光地では猫も盗ま れるのか。しかし、猫本人 ( ? ) の顔を見たら、そう簡単には連れて行かれそうもない、客ず 157