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検索対象: 猫に名前をつけすぎると
68件見つかりました。

1. 猫に名前をつけすぎると

そう褒めてやりながら針を引き抜いた。 これは、しかし、大人しいのが当り前だったとあとで判った。なにしろ彼女はその時はもう 死にかけていたのだから。 あくる朝早く、彼女が台所の床の上で死んで行くのを私は見守っていた。おそろしい苦しみ ようだった。私によけい怖ろしかったのは、彼女のもがき苦しむ全身の表情を見ているうちに、 それが人間の女の姿に見えてきたことだ。流産で死んでゆく薄倖な若い女の姿に見えてきたこ とだ。妻も私の横にしやがんで涙ぐんでいたが、彼女は同性として憤ってもいた。こんな流産 の手おくれぐらいでむざむざ死なせるなんて、猫のみならず人間をも含めた哺乳類の雌全体に たいするおそろしい侮辱だ、許しがたい罪だと言って私を非難しはじめた。しかし私が自分に 罪を感じていたとすれば、それはもっと別のことだったろう。私の罪は、自分の猫をまるで大 のように扱ってさんざん辱しめ、猫族の名誉を傷つけたことであるにちがいない・ ところで、久住自身はそのあいだ何度も病院を出たり入ったりしていた。私は話す機会はい くらでもあったのに、彼が世話してくれた猫がそんな死に方をしたことだけはどうしても持ち 出しかねた。久住の病状を知っている私は、そんな話題も彼には悪く作用するおそれがあると 思っていた。病気のために彼はひどく感じ易くなっていて、些細なことにも顔面を紅潮させた り、涙ぐんで声をつまらせたりした。一時的に軽快して出社してももう満足な仕事は与えられ なかった。いまでは久住は、テレビの現場の仕事から外され、庶務課の一隅に追いやられてい はずか

2. 猫に名前をつけすぎると

ゃな世の中になったものだろう。私としては、猫の将来に関して一層暗い見通しを深めるばか りで、それ以上言うべき言葉がなかった。 だから、そんな気持をありのままに書いてさんに伝えるしかなかった。その後さんがど うしているか、私は知らない。 心ぼそくなってきたのは、むしろ私のほうである。 海辺のこの界隈には、まだ僅かながら残っている松林をたよりに、家出した猫や捨てられた 猫が棲みついている。彼等は人間に飼われなくても、結構楽しく暮しているように見える。私 のところの三匹も、もとはと一「ロえば、痩せ細ってふらふらと勝手口を通りかかったものや、人 に捨ててくれと頼まれて捨て切れなかったものや、それが生んだ子であった。 そういう連中をなまじこうして飼ってやっていることが、かえって仇になるかもしれぬ。す ぐ明日にでも、猫を監禁せよ、処分せよ、と迫る隣人が現れないとも限らない。まるでそのロ じるしにというように、彼等は主人の住所や電話番号を記した名札を首にぶら下げたりしてい るのである。 「単純な生活』十三 実のところ、新聞にあの文章を書いた時、私はいささか悲観に走りすぎたような、未来猫の 運命を誇張しすぎたような気がしないでもなかった。だが、そんな心配はいらなかったようた。

3. 猫に名前をつけすぎると

とお釈迦さまが言っていなさったらしいんですね。 それが、いましめのようにこの世に残ったという話をききましたんですがね。」 このお婆さんの話もなんていいんだろう ! が、腑に落ちぬ点もなくはない。 蛙こそ大急ぎで駈けつける心算であったものを、途中で横着な蛇に呑まれて、十二支からも 洩れてしまったのは不運というより不公平ではないか。 なる また、雀は釈尊の言いつけを守って、せっせと米を食べに来るのに、そのたびに案山子や鳴 子に脅かされ、舌切雀では舌まで切られてしまうのでは話が違うではないか。 イシさんの描写を信 雀の件では、私はずいぶん余計なことまで考えざるを得なかった。 ずるならば、雀は手拭をかぶって井戸端で鍋か釜を洗っていたものと見える。とすると、その 雀は嫁で、釈迦は姑の代弁をしているようなものであろう。つまり、この「いましめ」は実は、 その嫁に向って暗に「おなか一杯たべたければ、なりふり構わず働け、もっと働け、もっと働 け」と、そう言っているのであろう。 そうやって一生働かされた嫁が、今度は自分が姑になり、「いましめ」を娘や孫娘に伝えると、 ・・と 活やがてその娘や孫娘がまた姑というものになって、新しき嫁を「いましめ」で圧迫し、 純いう具合に民話の教訓は鼠算式に伝播して行く。「動物の食べもの」なんてのんきな題がつい ているけど、本当は笑うに笑えないような話ではないのか。 こ

4. 猫に名前をつけすぎると

。、ツ 短く書くことに骨身を削る短編小説の作者は、もともと非情な性向なしとしない。モー ィールド、も、ヒューマン サンもそうだったし、ルナールもそうだった。チェーホフやマンスフ ほな同情心とともに病者特有の冷血さを持っていた。魯迅も相手を屠るような書き方をした。こ 猫のあとに出てくるヘミングウェーではその非情も極点に達するかに見える。 時代と作者、国情と作者といった観点もむろん興味あるものだが、そのような議論はかえっ あ て作品そのものを読者から遠ざけることにもなりがちである。千年前のものだろうと十年前の 菊池寛の作品の紹介として書かれた「「三浦右衛門の最後」訳後付記』という短文で、魯迅 が日本の武士道の不合理に敢然として鉄鎚を下した作者を称讃したあとで、 「ただし、この作品には不用意に犯したミスがある。右衛門は縛られているのだからーー昔 はかならず後手に縛ったーー命乞いのとき両手をついたとするのは前後あきらかに矛盾する。 きず 頭をさげた、としなくては前と合わない。ごく小さな疵で、全体にどうということはない 力」 と言っているのは面白い。当の菊池寛はこれを知っていたかどうか、人づてにでも知らされ たはずであるが、戦後の版でも訂正されていないところを見ると、そんな「矛盾」は物ともし なかったのであろう。 ほふ 231

5. 猫に名前をつけすぎると

実際このマーが、自分の母親が産みおとした仔をはしから食ってしまった時には、そういう ことを話には聞いていた彼も、人類の立場からして少なからず目をみはる思いがしたものだ。 自分の母親が産んだものといえば、つまりは種違いにせよ自分の第や妹なわけで ( その仕分 けで行くと、年平均二回の発情、交尾、分娩で生じた子孫が全員健在ならば、弟や妹も蛆虫ほ ささ どの数になる勘定だが ) 、それを親に相談もなしにばくばく食ってしまうというのは、い か差し出がましいことのように思えた。それらを孕ましたか、あるいは孕ましそこねた雄が食 うというのならば多少うなずけるとしても。 おまけに、その食い方が生きた腸詰でも食うようなぐあいに食欲旺盛なものだった。 頭からかぶりついて、ばりばりと噛みくだく際には、頭蓋骨か肋骨か脊椎か、骨の音さえち ゃんと聞えた。 一匹食いおわると、またつぎのを段ボールからくわえ出して、かぶりついた。脇目もふらず。 もっとも、ひり出されたばかりで、まだ目も見えずに暗がりをごそっいている連中は、かす かにうぶ毛を生やした、でつかい蛆虫といったしろもので、せい・せい鼠の小さいの程度だから、 殺戮などという感じは起こさせない。鳴き立てるひまもあらばこそ、一と咬みで致命傷を与え 入られて、あとは実におとなしいものだ。ただむしやむしや、くちゃくちややる兄貴の顎の音が どするだけだ。 ちょっと見には、何かうまそうなものを食っているな、という感じだが、それでも相手はま 93

6. 猫に名前をつけすぎると

ら、一ばんいいのは猫を二匹飼うことですね」と忠告する、という書き出しである。雄と雌、 一匹ずっということらしい そうだ、猫を二匹である。できるならば、シャム猫がよい。猫の種族の中でも、シャム猫 が一ばん「人間的」だからである。シャム猫はまた、一ばん風変りで、一ばん美しくはない の仮面をか までも、一ばん気まぐれで人を驚かすこと間違いないからである。黒いビロード ぶったようなその顔には、何とい ( う不安そうな青白い眠が光っていることであろうか ! そ の体は、生れた時は雪のように白いが、しだいに黒ずんでつややかな黄褐色になる。その前 肢は、イヴェット・ギルバ ' ラ ) のはめる黒い革の長手袋のような手袋を、ほとんど 肩まではめている。その後肢には、フ = リシアン・ロップス ( ・ ~ ー ) が真珠色の裸婦にはか せて倒錯的な淫らな効果をあげたような、あの黒い絹のストッキングをびちっとはめている。 ( 略 ) シャム猫はまた、何と奇妙な声をだすことか ! 時には幼児の泣き声のような、また時 には小羊の啼き声のような、また時には地獄に落ちた魂の狂ってほえるような声をだす。こ の風変りなシャム猫にくらべたなら、ほかの猫は、いかに美しくかわいらしくとも、退屈な 短ものに見えてしまうのも致し方ない の そうして猫を飼ったら、あとは毎日々々彼等の生活する様子を観察しさえすればよろしい 171

7. 猫に名前をつけすぎると

を敷いて寝かしておいた。 死んだのは朝の十時だった。あとで新聞を見ると干潮が九時半だ。動物でもやはりそんなこ とがあるのかと思ったが、息を引き取った時にきっかり十時が打った。たまたま日曜日で私は 寝坊していたが、最期には間に合った。 とりわけいやだったのは顔の形相だ。死ぬ前に二、三度前肢を突き出し、首をもたげて泡を 吹いた。苦痛を訴えているのに、なんともしてやれなかった。猫は後肢をひとしきりかたかた 言わせて徴かな息をしていたが、次第に動きがなくなった。急いで目薬のスポイトを持ってき て水を飲ませてやった。・ : カ水はただ喉を伝って下りて行くだけで、舌を動かす気配もない。 それでも心臓の辺だけは小刻みに動いていた。そして、死んでしまった。おかしなことだが、 もう終りという時に、その雄猫がな。せか自分の不幸な恋人かのように私には思えたことだ。 軅はしばらく暖かったが、だんだん硬くなり、冷たさが増してきた。しまいには板のように なった。目はつむり、肢はきちんと前に揃えていた。腹のあたりがペこんとへこんでいた。死 んだ動物に用はないとばかりに、蚤がそろそろ這い出してきたのは、憎らしいというより、さ みしかった。年をとって頑固な皮膚病にかかり醜く禿げていた軅も、ここ数日は癒りかけてい たようだったのが、毛の薄い、肌のほんのり赤く見えるところがことさら哀れであった。動物 の 年 を飼うとこれだからいやだ。線香と水を供えてから、私は便所に入って、涙が止まるまでじっ の としていた。

8. 猫に名前をつけすぎると

「爆発音でにんじんはぼうっとなる。小屋まで吹っとんだかと思う。煙が散ったあと足もと を見ると、猫が片目でじっと彼を見ている。 頭が半分どこかへ行ってしまっている。そして、血が牛乳の茶碗に流れ込んでいる。 『死んでないな』とにんじんは言う、『ちきしよう、ちゃんと狙ったのに』 彼は身じろぎもしない、なにしろ黄色く光るその片目が気になる。 猫は身体を震わせて、生きていることを示す。しかし場所を変えようとはしない。 血を一 滴も外へこ・ほすまいとして、わざわざ茶碗の中に流し込んでいるものと見える。」 この牛乳の茶碗と血のイメージから、私はチ = ーホフの馬鈴薯と血のイメージを思い出す。 同じこの時代にチ = 1 ホフは彼の『殺人』という短編で、茹でたジャガ芋が血の海に漬かって いる光景を描き、主人公にとってそのジャガ芋ぐらい恐ろしいものはなかった、と書いている。 いずれも前出の「生きた形象」という言葉を裏づける好例であろう。 さて、にんじんのやり方は第十話の『もぐら』と同じで、さんざん玩具にしてからでなけれ ば相手に死ぬことを許さない。獲物をなぶり殺す時の細心さ、執拗さは、猫も顔負けというよ うなものである。 「まず、何回か用心深くちょっかいを出してみる。つぎに尻尾をつかんで、首の辺を銃床で 思いっきりぶちのめす、そのたびにこれが最後か、これが止めの一撃かとばかり。 瀕死の猫は、もつれる四肢で空を掻き、丸く縮かんだり反りかえったりする、声は立てな

9. 猫に名前をつけすぎると

猫のいる短篇 動物を飼うのはいいけれども、死なれたあとが辛くて、とよく言われる。まことに月並みな台 詞であるが、大や猫を飼った人なら誰でも知っている普遍的な真実の感情であろう。にもかか わらず、われわれが彼等を手許に置きたがり、一緒に暮すように仕向けたがるのは、人間の思 い上がりだろうか、それともあるやみがたい本能の欲求だろうか。 死にゆく老猫の姿を描いて実に忘れがたい感銘を与える文章に、ジャン・グルニエの「猫の ールー』 ( 一九三三年刊 ) というェッセイがあるのを御存知の読者は少ないかもしれない。グ ルニエはあのカミュの高校時代の恩師であり、彼が終生敬慕してやまなかった哲学者である。 事故死した昔の生徒を偲ぶ『カミュ回想』 ( 井上究一郎訳、竹内書店 ) という本もあるが、グルニ 工自身も先年物故した。ムールーの話は彼の初期の哲学的随想集とでもいうべき『孤島』 ( 同 上 ) ーーー・その新版にはカミュが熱烈な序文を寄せているーーの一篇で、いわゆる短篇小説とい うのではないが、私はそれ以上に愛読している。 田舎ずまいのグルニエ先生は大も好きだったようだが、研究のあいまに自分の相手をしてく れる動物としては猫がいいと考えていたらしい。そんな時に、近所の墓掘り人が一匹の子猫を くれる。うす墨色の虎猫で、平凡な雑種の雄である。 猫は午前中私といっしょこ 冫いた。紙をまるめて投げつけると、それをつかまえ、さらに遠 トの下へもぐったり、見えな くへ自分で投げた。なんというたのしい竸技 ! 私は彼がべッ 173

10. 猫に名前をつけすぎると

その程度に戯れているうちょ、 をしした力いい気になって狎れ合っているうちに、ある瞬間、 不意にこちらの喉笛に襲いかかることがないとは一一一口えない。 猛獣つかいにも似たこの危うさを思えば、言葉を匕首のように用いて人を刺すことなどはな んでもないことだ。立ちどころに、刃物よりもたやすく、言葉は刺す。言葉に刺殺された死体 が、いくらでもその辺に転がる。しかもなお、人は刺すことが面白くて刺すのでもない。 首尾よく斬り捨てたかと思いきや、案に相違して、斬ったと見えたほうがばったり倒れる。 チャイハラ映画の果し合いさながらの光景が、「文学」でもちょいちょい見られるのである。 剣と剣とが渡り合うようには、言葉の勝負は目に見えない。 言葉が立ち向うべきは、実のところ、言葉ではない。言葉の最も手ごわい相手としては、た だ沈黙あるのみである。しかも、沈黙の前には、言葉はおよそその敵ではない。 「言葉ありき』より「沈黙」抜粋 家族とはなにか。 そ、つい、つことよ、 をいくら考えても私の頭ではわからない。だから、めったに考えたことはな く、ほとんど忘れて暮らしているようなものである。