短編小説のほうが、たとえ愚作であっても、読者にそうした被害を及・ほさないだけでも勝っ ていると思う。」 サローヤンと同じことを、菊池寛はその五十年も前に言っていたのである。その年、彼は 「恩讐の彼方に』と『藤十郎の恋』を発表して文名も上がったところで、そのロぶりも自信あ りげである。右に名前を挙げた短編作者の中で、文字どおり最も「話」に富んだ一人が彼であ る。講談とか浪花節とか、勧善懲悪とか割り切り過ぎとか言われるが、彼の短編はやはり面白 。面白い話を、さばさばした調子で、単刀直入に語ったものとして類がない。 しかし一方には、気の利いた話術、しゃれた文体を持ち合わせながら、面白い話には用がな くなって行った芥川のような例もある。芥川は最後の年 ( 昭和二年 ) に谷崎潤一郎と、「話」 のある小説か、「話」のない小説か、というような論争をしている。そのとき志賀直哉の『焚 火』などと並んで彼の頭にあったのは、当時岸田国士によって初めて翻訳、紹介されたばかり のルナールの小品であった。ただ、それも彼の目にはせいぜい「最も純粋な小説」としか映ら で 下 の ず、ルナールという作者もセザンヌが絵画の破壊者であったように「小説の破壊者」である、 ル プというぐらいにしか見えなかったのである ( 『文芸的な、余りに文芸的なし。気の弱くなった病人 テ が言っていることではあるが、無残な誤解と言うべきであろう。当のルナールからすれば、芥 ん ん川は何は信じなくても小説と小説家の文壇だけは信じていたのだから、のんきなものだとも言 に えたであろう。 217
すでにそうであった。・ トーデの『風車小屋たより』ですらそうであった。その後、アンダーソ ンの「ワインズバーグ・オ ( イオ』やジョイスの『ダ・フリンの人々』の例もあった。小は一家 のアル・ハムのようなものから、大はさまざまな建物が集まって一つの市街を成すようなもので あろう。しかし、すでに見てきたように、短編というのはやはり一つずつの「話」であり、お のずから長編とは異なる。読者は作者の芸術的意図などは無視して、覚えている話を好きな時 に思い出して読むものである。 確証はないが、「われらの時代に』の第六話にあたる非常に短い話』はおそらく世界最小 の短編小説だろうと思う。題名どおり極端に短く、四百字にしてちょうど四枚である。それも 単なるスケッチの断片ではなく、長編にすれば同じ作者の『武器よさらば』 ( 一九二九年 ) ぐら しにはなったであろう話の中身である。 主人公「彼」の戦傷と三か月の入院生活、その間の看護婦「ルズ」との恋愛、「彼」の退院 と前線復帰、恋愛の空白、休戦 ( 一九一八年十一月 ) 後の二人の再会と離別と「彼」の帰国、 現地に留まった「ルズ」の「少佐」との恋愛、「ルズ」と「彼」のその後。 物語の期間は特定しがたいが、一年近い経過である。七つのパラグラフを四枚に書けば、平 均して二百字ずつぐらいにしかならない。したがって、小説とはいっても警察の調書みたいな 書き方になっている。書き出しの数行からして何か超難度の曲芸を見るようでもある。 「パドウアでひどく暑いタ方、彼らが彼を屋根に運び上げてくれ、彼は街の一番高い所が見
とお釈迦さまが言っていなさったらしいんですね。 それが、いましめのようにこの世に残ったという話をききましたんですがね。」 このお婆さんの話もなんていいんだろう ! が、腑に落ちぬ点もなくはない。 蛙こそ大急ぎで駈けつける心算であったものを、途中で横着な蛇に呑まれて、十二支からも 洩れてしまったのは不運というより不公平ではないか。 なる また、雀は釈尊の言いつけを守って、せっせと米を食べに来るのに、そのたびに案山子や鳴 子に脅かされ、舌切雀では舌まで切られてしまうのでは話が違うではないか。 イシさんの描写を信 雀の件では、私はずいぶん余計なことまで考えざるを得なかった。 ずるならば、雀は手拭をかぶって井戸端で鍋か釜を洗っていたものと見える。とすると、その 雀は嫁で、釈迦は姑の代弁をしているようなものであろう。つまり、この「いましめ」は実は、 その嫁に向って暗に「おなか一杯たべたければ、なりふり構わず働け、もっと働け、もっと働 け」と、そう言っているのであろう。 そうやって一生働かされた嫁が、今度は自分が姑になり、「いましめ」を娘や孫娘に伝えると、 ・・と 活やがてその娘や孫娘がまた姑というものになって、新しき嫁を「いましめ」で圧迫し、 純いう具合に民話の教訓は鼠算式に伝播して行く。「動物の食べもの」なんてのんきな題がつい ているけど、本当は笑うに笑えないような話ではないのか。 こ
であったかは、過去にわが国でもあれほど多くの模倣者を生み出したことでもわかる。今から 見ると、日本の小説におけるヘミングウェーの応用はかなり滑稽なものであった。 しかし、魅力とともに無縁のものを感じる読者もいるにちがいない。たしかにそれは美しい が、いかにも空虚である。たしかに統制がとれている。が、何か過剰な力が働いている。たし かに作者は自己に忠実である。が、そのことに捕らわれすぎている。これは完璧という名の一 つの頽廃ではないだろうか。チェーホフやマンスフ ィールドがあんなに繰り返した「人生」は どこへ行ってしまったのか。いっから小説の人物たちは「人生」を口にしなくなったのか。そ んなふうに問う読者が、実は私の中にもいる。 そのヘミングウェ 1 も猫を書いている。同じ『われらの時代に』の十番目に置かれた『雨の 中の猫』である。これはむろん『非常に短い話』よりは長い。といっても八枚ぐらいである。 私がこれが好きなのは、軍隊の話でないこと、猫が出てくること、その上、実に何でもない話 だからである。今度は前者と反対で、たったこれだけの話を八枚にも書くのは大変なことだと 思わせる。 し 場所はイタリアのどこか海辺のホテル、季節はこれから冬に向かうのであろう。戦火は遠の い、ハネムーンかもしれぬ、 猫き、公園の戦争記念碑が雨に濡れている。登場するのは旅行者らし し 若いアメリカ人の夫婦と、ホテルの主人と、部屋係の女中の四人である。宿のあるじが重要な あ 役まわりで出てくるのは、国木田独歩のあの『忘れえぬ人々』もそうであった。そして、この 239
ほどである。 しかし、油断してはなるまい。猫はペットか野獣かといえば、これはもうはっきりと野獣だ。 彼 ( もしくは彼女 ) は決して「猫ちゃん」だの「ニャンニャン」だのいう生やさしい代物では ない。他の動物もそうかもしれぬが、彼等の顔の表情の瞬間的な複雑微妙な変化は人間の肉眠 ではとらえられない。いっか私は自分のカメラで、何百分の一秒かのシャッターで猫の顔をい ろいろ撮ってみて、そのことを痛感した。あくまでも柔和可憐な置物かのように ( 思いなし て ) 安心して眺めていたその貌が、振り向いた刹那など、レンズを通して兇悪極まる悪魔の相 に写っているのに驚いた。一事が万事、われわれは身辺のどんな物体をも習慣的な見方でしか 見てはいないのである。自分では見ているつもりでも、全然見てはいないし、見ることも出来 ないのである。 ところで、このごろ私は話相手がいないので、というより人間同士の会話があまりにも衰弱 してしまって文字通り話にならないので、猫と話をすることが多くなった。もちろんこちらが 物言いかけるだけで、相手は「ニヤア」と答えるぐらいが関の山であるが、それでもこのやり とりは掛値なしである。本音も建前もあるものかというわけで。 『変哲もない一日』四十九
それは、大と本とでは何となく見た目の取合せがまずいからでも、猫のほうが気むずかしい 学者然とした貌をしていて前肢で本の頁でもめくりそうだからでもない。 うるさ 大というものは、そもそも煩いものだからである。 誤解のないように断っておくと、私が大は煩いというその意味は、単に彼等が吠え立てたり じゃれついたりするから、というだけではない。ス。ヒッツがうるさいという、また一日鎖で繋 がれた欲求不満の駄犬が啼いてうるさいという、そういうのは論外である。 大は、そこに黙って坐っているだけでも私には煩く感じられるのである。犬は、ロをつぐん でいても、何か喋りかけてくるようで、気を散らされるのである。相手をしてやらなければい けないような気がして、負担に感じられるのである。 つまり、彼等の存在そのものが煩いので、吠える吠えないは二次的な問題である。 愛犬家はよく自分の大と「お話」などしているようだが、もっともなことである。大はいっ でも何か話があるといった顔をしている。そこで、人が誰とでもいい、是が非でも話がしたい のに適当な相手がそばにいないという時などは、大のあの物言いたげな表情は、それこそ大い に物を言う。彼等を飼っている連中もきっと話好きなのであろう。 これに反して、私は猫が人間に物を言うとか言いかけるとかいう場面は想像することができ ない。猫が喋るなど、考えただけでも怖しいことだし、万一そんなことが起ったとしても、そ れは何かの間違いであろう。大の言葉を深く研究すれば、あるいは人間同士の場合と同程度の
パリジェンヌと結婚し、奥さんは翌年 い変哲もない話はなし 、。ルナールは二十四歳で十七歳の 彼の郷里で長男を生む。その際、実家の母親が愛妻につらく当たるのを見ているうちに、自分 の子供時代のことを少しずつ思い出して行ったらしい。早くも次の年には、いずれ「にんじん』 に収まる話をいくつか雑誌に発表している。 その第一話「めんどり』は、この本を一度でも読んだ人、読みかけた人なら、あの風変わり なヴァロットンの版画の挿絵とともにすぐに思い出されるであろう。にんじんが母親に鶏小屋 の戸を閉めにやらされ、寒いのと怖いのとで震えながら闇を突っ切って行き、無事任務を果た こも褒めてもらえない。 どころか、母親に「これから毎晩、お前 して凱旋の気分で戻るが、誰冫 が閉めに行くんだよ」と言われる。 『にんしん』という この章は長編小説ならば満を持して書き起こすところであろう。だが、 作品は今も言ったように、あちこちに書いた小品の寄せ集めである。『めんどり』以前に書い たものすら入っていて、全然執筆順ではない。作者が巻頭には次の「しやこ』でも、その次の 「犬のやっ』でもなく、是非ともこの『めんどり』を配したいと考えたのは、彼一流の計算が あってにちがいない ルナール自身は「にんじん』を「不完全で、構成のまずい本」と言っているが、それでも 『にんじん』一巻が「めんどり』で始まるのはいかにも適切で、作者のアレンジの妙であり、 かつまた読者への親切である。それは一編の挿話でありながら、要領のいい人物紹介を兼ねて 8
ところで、「猫が十二支に入らぬわけ」には他の説もあって、 「きようはお釈迦さまが亡くなられたんだから、魚をたべるのはやめましようよ」 と他の十二支の者が提案したのに、猫は、 「お釈迦さまが死んでも、わたしやかまいませんよ、好きだから食べますよ」 と言って平気でたべた。それで、 「おめえみてえな物を知らねえ奴は仲間に入れるんじゃねえ」 ということになってしまった山。 釈迦の入減はどうやら動物たちの食生活を決定する一大事件でもあったようで、同じ本で青 木イシさんという明治三十五年生れのお婆さんは「動物の食べもの」という話を披露している。 活「ご臨終のときには、人はもちろん、あらゆる動物がかけつけたってわけらしい話でございま 齟すわね。そのとき雀は、 『これは大へんだ、ご臨終のお話だから』 られたら最後、世の終りまでも剥がされることはなさそうだ。 十 「単純な生活』八十三
前に初めて文庫本で読んだ『山高帽子』の猫だ。芥川竜之介らしい顔の長い同僚教師が出てき て、顔の大きい「私」といろいろ問答を重ねるうちに、終わりでは自殺している。筋というほ どのものはなく、外を雨がざあざあ降っていたり、猫が爪でそこらをがりがり掻いたりする様 子が、その音が現に耳のはたでするように書いてある。挙動不審の猫を「私」が「一寸待て」 という気合でとがめると、 「すると、猫が立ち止まって後を向いた。私の方を見ながら、二三歩返って来た。 「何だ』と云った様に思われた。」 「随筆新雨』に入っている「青炎抄』の第三話「二本榎』で、「僕」なる人物が「私」の枕元 に坐って語り聞かせる猫の話も凄い。座敷に追い詰め、閉じ込めた野良猫と、「僕」が柄の長 ほうき い箒で渡り合う必死必殺の場面だ。絶体絶命の猫が、恐怖でびつびっと細い小便をとばしなが ら、鴨居から鴨居へと飛び移り、ほとんど天井一杯に大きな輪を描いて、びゅうびゅう飛び廻 る、というのは本当である。こんなふうに書ける書けないは別として、やった者でなければ分 からない この猫の話をしたあとで、「僕」なる人物は三人の人間を殺してきたことも告白す る。これが随筆であろうか、随筆であり得ようか。 小説と、随筆と、どこがどう違うか。百閒はそんな質問は受け付けなかったろうが、英国に もチャールズ・ラムのような文人がいた。ラムの『エリア随筆』の『幻の子供たち』や『古陶 器』などから、生涯の大半をサラリー マンの身で過ごしながらも、詩を愛し芝居を愛し、純情 うしろ
迷子になり、ただひとり帰宅することなどもあったが、それがあまりにも賢いので、われ ことば われは、歓声をあげた上、さらに加えるべき尊敬の辞を探すほどであった。 そりや、いくら人間がその気になったって犬に話ができるものではない。むなしくお嬢は 大に言う。「ほんの少しでも話ができないなんて変だわ」と。 大は彼女の顔をみつめた。ふるえているところは、自分もまた彼女と同じく変だと思って いるのだ。しつぼでうまく動作をしてみせ、両顎を大きくあけてみせもした。でも、吠えな ちゃんと、お嬢が、吠える声以上のものを望んでいるのがわかっていたし、しかも言葉 は心にあり、舌や唇まで上りかけていた。それがついに出すじまいだったのは、まだ年たら ずだったのかなあ。 月のないある夜のこと、人里はなれた街道でデデシュが友を求めていると、まだ見たこと もない、密猟者のものらしい大きな大が姿を現して、このいとけない、やわらかい頭をばく っとやり、ゆさぶり、歯を立て、吐きすてたまま逃げてしまった。 フランス語に限るまいが、私などが手が出せないと思うのは、誰にしろ作者の文章の調子、 呼吸、気合いといったものが皆目掴めないということた。その上、名作には何通りもの訳があ 2 って読者はいよいよ迷わされる。 この大久保訳も、もちろん大久保調そのもので、ふだんの会話における氏の言葉ぐせ、呼吸 189