私の見るところ、大よりも猫のほうが自分の生活を愛しているように思える。これは大事な ことである。 大はとてもそうは見受けられない。あれほど人間の庇護を蒙りながら、辛うじて獣の体面を 保っているところなどは、その苦心の程が察せられる。この点は、野良大と野良猫とを比べて で、私は真正面からサーカスの踊り子か体操選手のように飛んでくる彼女たちを、胸倉で巧 みに受けとめたり、鸚鵡のように肩にとまらせて得意然と家の中を歩いたりしていた。 初めのうちはそれで怪しまなかったが、おいおい私は疑念にとりつかれた。 大のような猫 ! 私の猫はそんな口にするのも憚られるような情ない動物になり下ってしまったらしい 猫として、これは何たる堕落であろう。 これでは大が「お手」だの「ちんちん」だのの注文に唯々諾々と応ずるのを嗤えない。 これでは折角の猫を飼う意味がない。 猫の猫たる所以は、あらゆるサービスの「拒絶」という一点にかかっているのであるから。 そこで私が今更のごとく悟ったことは、猫はあくまでも猫らしく扱わなくてはいけない、そ の原則を冒せば、猫自身はもとより、飼主の尊厳まで損われずにはいな、 ということであっ
もりなど毛頭なかったから、この死に方はしばらく後味が悪かった。 目下出入りしているのは、虎斑の雄の野良猫ぐらいのものである。しかし野良猫というのは、 炬燵の縁などでーー人間なら文字通り大の字になってーー安心し切って寝る位に馴れていても、 戸外で出くわすとさっと隠れる。抱き上げられることを極端に警戒する。といった具合で、 つまでも素性の知れない女をそばに置いているようなものである。とても慙死するどころの話 ではない。 私もこいつは夜は尻を蹴とばして締め出す。 「父たちの肖像』より
実は私共先頃まで三毛のめす猫とその子供の茶ぶちのをす猫 ( 六カ月 ) を飼っておりました。 七月末に当地に引っ越してまいりましたが、転居して四カ月ようやく猫達も新しい家に慣れ ホッとした矢先、ご近所から猫達が砂場やら家のまわりに糞をして困るから縛って飼ってほ しいと抗議の電話があったり、前の家は侵入しないようにと境界線には柵があるのに、その 内側に一米程の塀を立ててしまいました ( 猫は飛び上ることをご存知ないのかもしれませ ん ) 。又我が家の猫といふ確証もないのですが、どこそこの小鳥が猫にやられたらしいなど と耳に入ってまいりました。何しろ新しい団地なので野良猫の姿がとんとないのです。 そんなわけで外へ出せなくなり家に閉じこめて半月ほどたちましたが、前に住んでおりまし た時から三毛は自由奔放に飛び廻り、虫やとかげは勿論のこと、或る時は″雷魚〃のこども を咥えて来た時など一体どこまで行ってつかまえて来たのか、とう / 、わからずじまいでし た。そんな彼女ですから毎日外へ出してと鳴ぎ廻り、鳴きっかれて窓辺で外を眺めている姿 をみると胸が痛み、随分二匹の引き取り手も探したのですが、遂に野良どもにも大変人情の 厚い街といふ話しを頼りに、家族四人泣きの涙の中に置いて来たのでございます。 砂場や家のまわりに糞をするなといふ人間もエゴですが、住み慣れた猫の生活環境を相談も なしに変えてしまった私達もエゴで、その結果このように猫を不幸にしてしまい、毎日家事 も手につかず涙にくれておりました。 その時、貴方様のエッセイを拝読いたしまして、家に閉じこめて飼ふよりは、やつばり彼等
猫の不幸 猫プームだそうであるが、私のところは湘南の海辺でまだ松林も多少残っていることから、 野性の猫が不断に供給される。飼い猫が家出したものや、捨て猫が長じて野良猫と化したもの や、その子孫たちである。彼らはべつに人間に飼われなくても結構楽しく暮らしているようで ある。 私はシャムだのベルシャだの、いわゆる高級な猫を仕入れて血統を竸ったりする余裕もない から、そこらの野良猫を手なずけて満足している。それも、ある日ぶいと出て行ってしまえば それまでで、飼ったり飼わなかったりである。大体、この飼うというのが人間の一方的な言い 分で、猫のほうにわれわれと平和的に共存しようという意思があるとも思えない。 一アノ 1 ー ( 、い のペット用品の売り場をのそいてみると、さすがに猫プームだけあって、猫の日常 生活に必要な商品が揃っているのに感心する。最近は水洗便所に流せる紙の砂まで売っている。 団地やマンションに居住する猫たちの必需品なのであろう。猫の爪みがきというのもある。段 猫の不幸
猫と手袋 みても分ることである。獣としては、どう見ても大のほうが生活の基盤が薄弱であり、愛大家 はその見地からもいよいよ大をいとおしく思い、猫をうとましく思うのであろう。 ところで、私はもう何年も猫なしで暮している。正確には、自分の猫なしで、と言うべきか もしれない。野良猫ならしよっちゅう出入りしており、なかには十分に馴れて飼猫同然のもい るからである。 そして、ときに私は考える。 作家は大を飼うべきであろうか、猫を飼うべきであろうか。 運動不足の解消のために大と一と歩きした後では、猫を膝にのせて毛皮を愛撫しつつ、その化 けて出るほどの精妙な魂のはたらきをひそかに観察すべきであろうか。 しかし、どうやら猫も仕事の妨げになる場合があるようである。先刻から二階の炬燵でこの 文章を書いている私のところへ、例の野良猫が寄ってきて、原稿用紙の上にとびのり、失敬に も私の顔に尻尾をビンと立てた尻を突きつけ、ペン持つ手を冷い鼻面でぐいぐい押して、執筆 をやめさせようとする。そうして私の膝に割り込もうというのである。 勝手なやっ ! だから、私のほうでも断然そのように扱ってやる。つまり、手袋か何かのように。日によっ て手袋をはめたり脱いだりするように、私は猫もその時の気分次第で抱いたり、突き放したり 「父たちの肖像』より してやるのである。
族 猫 五匹いた猫の一匹が、この五月に死んで、雌ばかり四匹になってしまった。私の経験では、 どうも雄は飼いにくい。家を明けることが多いし ( 長い時は半年も ) 、帰ってきても厭な病気 にかかっていたり、怪我をしていたりする。無事であっても、汚れすさんで、野良猫然として いる。人間でいえば、家出して悪の道に走ったせがれが、ある日突然帰宅して、親に妻むよう なものであろう。 しかし、私はそんな不出来な奴を少々偏愛しすぎたようだ。永年手こずらされただけに、何 か相棒に死なれたようなさみしさで、他の四匹もその埋め合わせにはならない。猫とっき合う 張り合いもめつきり失せたようなあんばいである。可愛いのは雌も同じだが、雄猫の面白さと いうのはまた格別である。もっとも、私の「飼う」だの「相棒」だのいう言い方は、これは当 方の便宜上の表現で、先方は別に飼われているとも主人だとも思ってはいなかったにちがいな 5 猫族
な質問自体にとまどった風で、今度は怪訝そうに、 「ニホンには猫が沢山いるんですか ? 」 と逆に訳かれてしまった。 「ウイ」 と私は確信をもって答えた。少くとも、日本には野良猫はまだまだいる。 「私の家には三匹います」 と言うと、なんだかひどく感心したような、また腑に落ちぬような表情で、ゆっくり首肯く のみであった。ひょっとすると、彼女は大の猫嫌いであったのかもしれない。面白かったのは、 彼女は Japon と言わず、 Niphon と言ったことで、この単語を聞いたのは旅行中あとにも先に もこの時一回きりであった。 やがて、私はニームだのアヴィニョンだの、南のほうへ来てから、れつきとしたフランス産 らしい猫を見たのである。一匹は道ばたで小さな男の子が連れているのを、もう一匹は町角で 若い細君らしいのが抱いて行くのに出会った。 二匹とも似たような柄で、つまり、日本なら黒と灰色の縞模様の、いわゆるキジ猫のタイプ 活なのであるが、それらとも明らかに違って、もっと淡い、うるんだようなだんだら縞で、とも Ⅲかく私は初めて見るおかしな猫であった。 おまけに、二匹とも首に紐をつけてあった。紐をつけて連れ歩くのが普通なのか、紐をつけ
日本にいつごろから猫がいたかは、はっきりしないそうである。それでも「枕草子」には猫 の話が出てくるから、日本の随筆ということであれば本来はその辺から始めなくてはならない。 いかな猫好きの編 だがそうなると猫のアンソロジーだけでも厖大な巻数を必要とするだろう。 者刊行者といえどもこれは断念せざるを得まいと思う。とにかく、わが国においても猫は清少 納言以来約一千年の長きに亙って、愛撫とともに観察され、畏怖とともに語られ、微に入り細 を穿っ筆で描き継がれてきたものだ。しかも人は猫が存在する限り、猫について書くことをや めそうもない。 ごらんのように本書でも、内田百閒の変幻自在にして摩訶不思議の猫文章から、吉田知子さ んのなぜか猫を見ると気が狂うというサイケデリックな告白まで、また、一時は二十数匹の猫 に囲まれて暮らし、家に住んだ猫は通算五百余匹を数えるという大佛次郎の報告から、行くさ きざきで野良猫に慕い寄られるという天与の超能力にめぐまれた鴨居羊子さんの記録まで、あ 日本の名随筆『猫』あとがき 194
にんじんがそのままルナールではない。だがルナールの心にも、にんじんのように他人や動 物に対して残酷な、嘘つきで、早熟な、ひねくれた、卑怯な振る舞いも平気ですゑ野蛮な少 年が棲んでいたにちがいない。しかも、彼は作家であった。子供というものが天使どころか、 我慢のならぬ汚い動物であるなら、その真実の姿を書かねばならぬと考えた。「猫のほうがよ っぽどヒューマンだ」と彼は言っている。 ( 一々注記しないが、ルナールの小説以外の引用は すべて『日記』からである。 ) で 下『にんじん』の第三十一話『猫』などは子供の残忍の見本である。ルナールが是が非でも短く ル プ書こうとする彼の本性を最も発揮するのも、こういう場合である。その「一」では、にんじん ざりがに テ が蛄釣りの餌には猫の肉が一番と聞いて、近所の老いた野良猫を自分の隠れが、すなわち家 ん 畜小屋におびき入れ、牛乳をやって安心させ、その隙に猟銃で撃つ。それも額に銃口を押つつ けてぶつばなす。 には、母親はもちろん父親もまだ生きていた。 しかし、ルナールの人物の会話を楽しむには、そんな議論も無用であろう。ふところの深い 笑いと、丁々発止のスリルに満ちた、無類に面白い会話である。とにかくこうして一家の顔が 揃う。『めんどり』は四百字にして五枚足らず、非の打ちどころのない見事なスケッチである。 207
に猫を見て、「 ( 膳のものを ) 何かやったほうがいいんじゃないでしようか ? 」としきりに心配 する。やらないと飛びかかってくるんじゃないかと思っているのだ。君が便所に立った隙に、 温まった席を猫が乗っ取る。すると、彼はもう自分ではどうすることもできない。猫をどかそ うにも手を触れるのがこわいらしい もちろん、私は君の動物嫌いの権利を尊重するから、女の子にゲジゲジやトカゲをくつつ けて追い回すような真似はしない。が、彼の不安につけこんで、ちょっぴり言葉で脅かすぐら いのことはしたくもなる。「そりや君、何ていったって、猫は猛獣だからね、ライオンや虎の 仲間だからね。なりは小さいけど、ほら、こんな牙、こんな爪をしている」と、牙や爪をむい て見せてやる。「このロでもって相手の喉笛に食らいつくんだね。飢えた猫が人間の赤ん・ほを かじったっていう話があるけど、本気でやられたら大人だってかなわないよ。いっか野良猫を 捕まえようとして、風呂場で格闘したことがあるけど、この手の甲をばっくり噛まれて一と月 の重傷を負わされた : ・ 君は感に堪えたように、「へえ、そうですか、そうでしようねえ」と心もとない相づちを し 打って、傍らの猫にいや増さる疑惑と嫌悪の視線を注いでいるが、そんなとき彼の目には、猫 ら 必が人間と相撲をとるくらい大きな、凶悪な獣と映っているのかもしれない。もっともその君 物も、近頃ではおそるおそる猫の頭を撫でたりしているから、本当は動物嫌いではなく、動物に 動 近づく機会が無さすぎただけであろう。 123