しやおふくろなんかに連れてってもらったとき、よく席を離れて、この人が見えるようにずっと前へ 出て行ったもんだ。あんなに優秀な奏者は僕は見たことないね。一つの曲の間にティン。ハニーをたた幻 く機会はたった二回ぐらいしかないんだけど、たたかないときでも決して退屈そうな顔をしないんだ。 そして、いよいよたたくときには、真剣な表情を浮かべて、実にうまくきれいな音を出すんだな。い つか、おやしに連れられて、アリーといっしょにワシントンへ行ったとき、この人にアリーが絵葉書 を出したことがある。もっともその人の手には入らなかったろうと思うけど。宛て名が少々あやしか ったから。 クリスマス番組が終わると、 いよいよ映画の奴が始まった。あんまりいやらしい映画で、僕は目が 離せなかったな。アレックなんとかいうイギリス人の話で、これが戦争に行って、病院で記憶を失っ たりなんかするんだ。ステッキをついて病院から出て来ると、あちこちびつこをひきながらロンドン しゅうを歩き回るんだが、自分が誰だか知らないんだな。本当は侯爵なんだけどね、自分しや知らな いんだ。そのうちにバスの中で、家庭的で誠実な感しのいい娘に会う。娘の帽子が風でとぶと、男が それをつかまえるわけだ。それから二人してバスの二階席へ上がって行って、腰を下ろして、チャー ルズ・デイケンズの話を始めるんだ。デイケンズは二人ともが大好きな作家だったりなんかするわけ さ。男はそのとき『オリヴァ ー・トウイスト』を一冊持っててね、女のほうも持ってんのさ。いやはや、 僕はゲーっていいそうだったね。とにかく、二人は、どっちもデイケンズやなんかに夢中になってる ことから、すぐ恋に落ちる。そして男は娘の出版業を援助することになる。出版屋なんだよ、その娘。
よならを言おうとしたときに、あやまって、尼さんたちの顔に煙を吐きかけてしまったんだ。そんな つもりしゃなかったのに、そうなっちゃったんだ。僕は気違いみたいになってあやまったね。それに 対する二人の態度はとてもていねいで、いい感しだったけど、でもやつばし僕は困っちまった。 尼さんたちが出て行っちゃうと、とたんに僕は、十ドルしか献金しなかったことが気になってきた。 でも、なんといったってサリ ・ヘイズとマチネーに行くあの約束をしてたからね、切符ゃなんか買 うために、 いくらか金を持ってる必要があったんだ。けど、それにしても気になって仕方なかった。 ゅううつ 金の野郎め ! いつだって、しまいには、必ずひとのことを憂鬱にさせやがる。 朝食をすましちまっても、時間はまだやっと昼頃だったし、サリーに会うのは二時だったから、僕 はゆっくり散歩をすることにした。あの二人の尼さんのことが頭から離れなかったな。あの人たちが、 学校の授業のないときに、寄付金を集めに持って歩くあのバスケット、あのチャチな麦わらのバスケ ・ヘイズ ットのことが忘れられなかった。僕は、うちのおふくろか誰か、おばさんでもいい のいかれたおふくろさんでもいし そんな人がどっかのデパ トのおもてに立って、くたびれた麦わ行 らのバスケットを持って、貧しい人たちのために金を集めてる情景を想像してみようとした。しかし、
らな。ほんとだよ、誓ってもいいよ。それから、僕の馬鹿さかげんを披露することになるけど、盛大 うそ な抱擁が終わったとこで僕は、彼女に、愛してるとかなんとか言ったんだな。むろん、嘘なんだけど、四 実を言うと、それを言ったときにはほんとにその気だったんだ。どうかしてんだな、僕は。神に誓っ ても、 しいけど、ど、つかしてるよ。 「まあ、ホールデン、あたしもあなたを愛してるわー彼女はそう言った。そしてその同しロの下か クルー・カットはもうそろそろ ら、こう言うんだ。「その頭の毛はのばすって約束してちょうだい。 イカさなくなったわ。それに、あんたはそんなにきれいな毛をしてるじゃない」 きれいだってさ、くそくらえだ。 芝居は今まで見たのほど悪くはなかった。でも、どちらかといえば、つまんないみたいだった。二 人の老夫婦の一生なんだけど、それが長いの長くないのって、五十万年もあるみたいなんだ。二人の 若い頃の話から始まるんだけど、女の子が男の子と結婚しようとするのを、女の子の両親が反対する。 それでも女の子はその男の子と結婚しちゃうんだな。それから二人は、だんだん、年をとってゆくわ けだ。亭主は戦争に行くが、細君にはのんだくれの弟がある。どうもおもしろくなかったな。つまり、 その家族の誰かが死のうとどうしようと、僕にはどうでもよかったんだ。どうせ、みんな俳優がやっ てることしゃないか。亭主と細君とはなかなか感しのいい老夫婦だったーーーすごくウィットがあった りなんかしてーーーでも、その夫婦にもあんまり興味はひかれなかった。一つには、その老夫婦、芝居 の間しゅう、お茶ゃなんかを飲んでばかしいるんだよ。見るたんびに、執事が二人の前にお茶を出し
かっちゃいけない人間もいるんだよ、それがたとえ、からかわれたって仕方のない人間であってもだ。 こつけい ところが、それから、すごく滑稽なことがあったんだな。テープルに戻ると、マーティの奴が、他 ハーが出て行ったと、そう言ったんだよ。いやあ、それを聞いたとき の二人に、いまゲー のラヴァーンとバ ーニスといったら、自殺でもしかねないようすだったね。すっかり興奮しちゃって さ、見たのかどうしたのかって、マーティにきくんだ。マーティは、ちらとだけ見たと言ったね。こ れには僕も参ったな。 ・、ーはそろそろカンバンに近づいたので僕は、その前に、みんなに二杯ずつ酒を取りよせ、自分 の分としてコカ・コーラをもう二つ注文した。テープルはグラスでごちやごちゃになっちまった。顔 のまずいほうの一人のラヴァーンは、僕がコーラばかし飲んでると言って、しよっちゅう僕をからか ったけど、全くごりつばなユーモアのセンスだよ。彼女とマーティの奴はトム・コリンズを飲んでた んだーーー十二月のさなかだというのにさ。それだけの頭しかないんだよ。プロンドの・ ーニスの奴 ーポンに水をわって飲んでいた。それもまさにグイ飲みという奴だったな。そして三人が三人 とも、しよっちゅう映画スターばかし捜してやがんだよ。ろくに話もしないでさーー・お互い同士もだ ぜ。マーティの奴が中では一番しゃべってた。でも、トイレのことを《おトイレ》なんて言ったりし て、やばで退屈な話ばっかしなんだ。そして、バディ・シンガーの気の毒みたいなやつれた年よりの クラリネット吹きが立ち上がって、へなちょこのアドリプを二回ばかし吹いたときに、そいつをほん とにすてきだと思ってやがんだな。おまけにそのクラリネットのことを、通ぶりやがってまあ、あ 118
もしないんだからな。これには僕も参ったね。ふだんなら笑いだすとこだ 0 たけど、笑ったらまた吐 きたくなるんじゃないかと思って、笑わなかったけどさ。「ミイラはどこにあるの ? 」その子はまた そう言うんだ。「あんた知ってる ? 」 「ミイラ ? ミイラって、何だい ? 僕はこの二人の子供を相手にちょっとばかし冗談を言った。 そう僕は一人にきいたんだ。 トウーンやなんかに埋められてんの」 「知らないの ? ミイラだよーーあの死んでるやつ。 トウーンだってさ。これには参ったね。トウーム ( 墓 ) のつもりで言ってんだよ。 「君たちは二人ともどうして学校へ行かないの ? 」僕はそう言った。 うそ 「今日は学校がないんだ」最初から一人でしゃべ 0 てるほうの子供が言 0 た。嘘を言ってんだよ、 それはもう間違いっこないんだ、イタズラ坊主めが。しかし、僕には、フィービーが現われるまで何 もすることがなかったんで、彼らといっしょにミイラのある場所を捜してやることにした。昔の僕な ら、ミイラがどこにあるか、ちゃんと知ってたんだけど、なにしろ、ここの博物館には、何年も来て なかったんでねえ。 「君たちはどっちもそんなにミイラがおもしろいの ? と僕は言った。 「うん」 「君の友達はロがきけないの ? 」 「この子は友達しゃないよ。弟だよ」 315
成なんかするもんか。その点は、ペンシーだって、他の学校とおんなしさ。それに、頭脳明晰にして 優秀なる、とかなんとか、そんなのには、あそこしや、お目にかかったことないね。いや、二人はい たか。でも、二人しやどうしようもないだろう。それに、その二人だって、ペンシーへ来る前から、 頭脳明晰にして優秀だったんだよ、きっと。 とにかく、サクソン・ホールとフットボールの試合をやった土曜日のことだ。サクソン・ホールと の対校試合はね、ペンシーじゃ、重大事件ということになってんだな。そいつは一年の中の最後の試 合で、もしもペンシーが負けたら、首でもくくらなきゃなんないみたいなんだ。今でも覚えてるけど、 その日の午後の三時頃、僕は、トムソン・ヒルのずっとてつべんまで登ってさ、独立戦争かなんかに 使ったイカレタ大砲のそばに立ってたんだ。そっからは、競技場の全体が見えたし、両方のチームが 猛烈にぶつかり合ってるのがよく見えた。観覧席はあんまりよく見えなかったけど、叫んでる声は聞 こえたな。ペンシーの方は底力があってすごいんだ。なにしろ、僕をのぞいた全校生徒が集まってた んだからな。サクソン・ホールの方は細くってカワイソみたいだった。遠征するほうしや、大勢の生 徒を引っぱって来るわけにいかんだろう。 、つだって、女の子はゼンゼン少ししかいないんだな。四年生しか女の フットボールの試合には、、 子を連れて来ちゃいかんっていうんだよ。すげえ学校さ、どう考えたって。僕なら、たまには女の子 はな の姿がちらちら見えるっていう、せめてそれくらいであってほしいと思うよ。腕を掻いたり、洟をか んだり、あるいはただくすくす笑ったり、なんかそんなことをしてるだけでもいいんだな。セルマ・
かしゃなくてさ。とにかく、彼女たちがシアトルのどこで働いたりなんかしてるのかを聞き出すのに 半時間ばかしもかかっちゃった。彼女たちは、三人とも、同し保険会社に動めてたんだ。僕は仕事が おもしろいかってきいてみたけど、そんな馬鹿ぞろいだからな、知的な返事がきけるはずなんかない ゃね。顔のまずい二人、マーティとラヴァーンは姉妹だろうと僕は思ったんだけど、そうきいたとこ ろが二人ともひどく憤慨しちゃってね。お互いに、こんなのに似ててたまるかと思ってんだな。それ も無理ないことだけどさ、それにしてもなかなかおもしろかったぜ。 僕は彼女たちみんなとーーー三人全部とーーー踊ってやった、 一人一回ずつね。顔のまずいほうでも、 ラヴァーンのほうは、そう下手でもなかったけど、もう一人のマーティってのは、まさに殺人的だっ たな。まるで《自由の女神》を抱いて引きずり回してるみたいなんだ。彼女を引きずり回しながらい くらかでも楽しい気持を味わおうと思えば、自分で楽しむ工夫をするしかなかったね。それで僕は、 いま向こうに、映画スターのゲー ーの姿を見かけたと言ってやったんだ。 「どこに ? 」と彼女は言うんだなーー・すっかり興奮しちゃってさ。「どこによ ? 「ああ、ちょっとのとこで見られなかったな。いま出て行ったんだ。僕が言ったとき、なぜすぐ見 なかったんだい ? 」 彼女はてんでダンスをやめたみたい ( こしちゃってさ、ゲー ハーが見つからないかと、み んなの頭ごしに捜しはしめたんだな。「ああ、くやしいッ ! 彼女はそう言 0 た。まるで失恋でもし たみたいなのさ ほんとだよ。僕はからかうんしゃなかったと思ってすごく後悔した。中にはから へた きようだい
年よりの先生がいてね。奥さんはいつもホット・チョコレートやなんかをごちそうしてくれるんだ。 二人ともほんとにいい人たちなんだけどね、校長のサーマーってのが、歴史の時間に教室へ入って来 みもの て、後ろの席に腰を下ろしたりしたときのスペンサー先生のようすが見物なんだな。校長は、いつも、 入って来ちゃ、三十分ばかし教室の後ろの席に坐ってんだよ。おしのびの視察とかなんとかいうもの のはずなんだけどね、しばらくすると、後ろの席でそっくり返ったまんま、スペンサー先生の授業の 途中に口を入れて、イカサない冗談をいつばいとばしやがんだ。するとスペンサー先生は、サーマー にこにこケタケタ死ぬほど笑いやがんだからな、 の野郎がまるで王子様かなんかでもあるみたいに、 クソッタレメ 「そんなにキタナイ言葉を使わないでよー 「あれを見たら、君だってへどを吐くぜ。誓ってもいいね , 僕はそう言った。「それから《先輩の アメリカ独 ) の頃にペンシーを卒 日》だ。《先輩の日》っていうのがあ 0 てね、その日には、一七七六年 ( 立 業したトンマどもが、全部、細君や子供や何から何まで引きつれてやって来て、そこらしゅうを歩き 回るんだ。一人、五十ぐらいの年とった奴がいたけど、あいつなんか見せたかったな。何をやったか しいかって、きく というとね、僕たちの部屋に入って来て、ドアをノックしてね、洗面所を使っても、 だから、よりによって僕たちになぜきいたのか、 んだな。洗面所は廊下のはしつこにあるんだよ 僕にはわけがわかんないんだ。そして、そいつがなんて言ったと思う ? 自分のイニシアルがまだ便 「いい先生が二人いたけどね、この人たちまでがインチキ野郎なんだな。スペンサー先生っていう、 261
さらにはまた、 葉遣いをする奴に顔をしかめるぐらいの教育しかない人間にならないともかぎらない。 しまいにはど 0 かの会社におさま 0 て、身近にいる速記者に向か 0 てクリップを投げつけるような人 間にな 0 てしまうかもしれない。そこのところはわからないんだ。が、僕の言おうとしてることは、 わかってもらえるだろう ? 「ええ。よくわかります」と僕は言 0 た。事実また、よくわか 0 たんだよ。「しかし、その、僕が人 をきらうというのは先生の誤解です。フットボールの選手やなんかを憎悪するということです。それ は本当に先生の誤解です。そんなに多くの人間をきら 0 てるわけしゃありません。そりや、ちょ 0 と の間は憎むかもしれない。ペンシーで知り合 0 たストラドレーターという奴だとか、もう一人のロ・、 ト・アク リーとかいう奴なんかですね。こういう連中のこと、たしかにときどきいやな奴だと思い ました・ーーそれは認めます , ・・ーーでも、そういう気持はそんなに長く続かないんです。そこを僕は言い たいんですよ。しばらく二人に会わなか 0 たり、向こうが僕の部屋に来なか 0 たり、食堂で食事のと きに二、 = 一回顔を合わせなか 0 たりすると、なんだか二人がなっかしいような気がしてくるんです。 こう、なっかしくなってくるんですよ」 ほ′ルとに、 かたまり カ立ち上がって氷の塊をとって アントリーニ先生は、しばらくの間、なんとも言わなかった。 : 、 カ僕は、この話の グラスに入れると、また腰を下ろしたね。しきりと考えてるのがわかるんだな。 ; 、 続きは、今でなく、明日の朝にしてもらいたいものだと、そればかりを願 0 てた。ところが先生は、 いやに熱中してやがんだよ。とかく、こ 0 ちの気のすすまないときにかぎ 0 て、相手は話し合いをし 291
頭がいいか、みんなに知らせたくて、今の芝居のことを聞こえよがしにしゃべるんだな。僕たちの近 くに、間抜け面した映画俳優が一人、煙草を吸いながら立っていた。名前は知らないけど、戦争映画 でいつも、 いよいよ攻撃というその直前に腰抜けになっちまう役をやる奴さ。豪勢なプロンドを連れ ててね、周囲の注目の的になってることにも気がっかないみたいなふりをして、二人ともいかにも味 気なさそうな態度を無理してとってんだよ。涙が出るほど控え目なのさ。おかしくてたまんなかった。 サリーの奴は、ラント夫婦を激賞するばかりでほかにはあまりしゃべらなかったけど、それは何しろ、 あちこちを見回したり自分をきれいに見せたりするほうに忙しかったからなんだ。そのとき彼女、思 いがけなく、ロビーの向こう側に、ある知り合いの顔を見かけたんだな。ダーク・グレーのフラノの やっこ スーツにチェックのヴェスト。アイヴィ・リー グそのものさ。たいしたもんだよ。奴さん、壁際に立 って、退屈でたまんねえって顔をしながら、死ぬほど煙草をふかしてやがった。「あの人どっかの人 よ、あたし知ってるわ」サリーの奴はいつまでもそんなことを言ってるんだ。サリーときたら、どこ へ連れてっても、必ず誰かを知ってるんだな。あるいは知ってると思うんだ。いつまでも同しことを 言ってるもんだから、そのうちに、こっちも、 しいかげんうんざりしちゃってさ、彼女に言ってやった んだ、「そんなに知ってるんなら、こっちから出向いて行って、あいつのロに舌をつつこんで盛大に 接吻してやったらいいしゃないか。向こうも喜ぶぜ」ってね。それを言ったら、彼女、おこったねえ。 あいさっ でも、しまいに男のほうでも気がついてね。そばへ寄って来て、挨拶をしやがった。二人が挨拶をす るとこ、いや、見せたかったねえ。二十年ぶりにでも会ったみたいなんだ。まるで、子供の時分、 づら 196