の出会いとなる。秋田の田舎画家の作品が、急にヨーロッパ最先端の審美眼にさらされるので ある。 タウトの著書に差し入れたオリジナルな版画が、ヨーロツ。ハの各美術館、博物館の眼に止ま った。ケルン博物館に、約六十点余の作品が収蔵されている。興味をお持ちの方には、秋田市 の加賀谷書店が出版元の、『勝平得之版画集』か、市内の「赤レンガ郷土館」 ( 秋田市大町三丁 目三ー二一 ) 勝平得之コーナーを訪ねることをすすめたい。 勝平は、一時的な出稼ぎは別として、終生秋田を離れることがなかった。アカデミックな技 術とは、勿論のこと無縁であった。洋傘のホネに細工をしてオリジナルな彫刻刀を案出したり、 他の道具も、手に入れにくいものは自らが造ったようである。 まさに、郷土美術としか名づけようがない独特の分野で、思う存分に生きた。それは地方に 生まれた美術家の、一つの運命のようなものだ、といってしまえばそれまでだが、〈地方美術〉 の限界迄、ぎりぎりの肉迫をした勝平の生き方はそれなりにわれわれを打つ。そして、決して 肩肘を張らないのである。まるで暗さがない。根っこのところから楽天性がにしみだすような、 ある種の爽快さ。そこで私は、美術家と風土を考えるときに、萬の一方に、はとんど最近まで 無名に近いといっていい勝平を、置きたい気持ちがどうしてもある。 萬鐵五郎が、はじめて郷土土沢を離れたのは、明治三十六年のことであった。 その間、夏休みや冬休みなどには帰郷し、土沢や、盛岡の、八丁の別荘などを足掛かりにし
前に立って、立体派的思考の萬というよりむしろ、神楽の装束や、嵌め絵としての〈鶏かぶ と〉〈背矛兜〉を想起してしまうのである。一九八七年、ポンピドー文化センター ( パ 開催された「前衛の日本」展の中の「もたれて立つ人」は、ヨーロッ パの美術史のコンテクス トの上で捉えきれないなにかが、あらためて感しられたはすである。 日本神話の、土沢的展開 ? としての神楽を、萬鐵五郎という画家は、さまざまのテーマの もとに、描いていったのだ、と説くと、大いに誤解を招きかねないのではあるが 郷土と画家・勝平得之と萬鐵五郎 土沢と萬から少し離れて、一人の画家のことに触れよう。画家と、その生地の、「風土」に かつひらとくし ついて考えるとき、私は同し東北の、勝平得之のことを想起する。画家と風土のかかわりがご く自然で判りやすいからだ。 とはいうものの、勝平といっても、恐らく、そんなに、一般的ななしみの画家というわけに いくまい。中央でも、場合によっては、生地の秋田に於いてさえ、一部に識られる程度では あ - るまいか 勿論、そんなことはどうでもよろしい。画家には作品があるのだから、長い時間の経過の中
のぞいて、すべてがこちら側に顔を向けた構図である。誠に親切な、サービスのゆきとどいた 画面構成であるとは思えまいか。これでは芝居の一場面のようで、生活感覚もなにもあったも のではない、が、しかし、このオプチミスムは、ほほえましくはあっても、決していやみでは ないのである。 たしかに、画面は甘いかも知れないが、これが勝平の眼なのだ。萬なら、こうした場面を描 くとすれば、どう描き、どう表現するだろう。萬には、少なくとも、大正三年ー四年の帰郷時 期に、このような性質の、鑑賞者に対するサービスなどはこれつばちもない ( ただし画会の頒 布作は別 ) 。ひたすら風景画にのめり込み、または、アトリエの鏡を突き抜けて混沌に達した 灼熱の自画像をものにする。 萬、勝平は、それぞれのフィルターを通す事によって、郷土を描いた。勝平の小型のスケッ チブックを繰るとスケッチに走り書きや、データの記述がこと細かに書きとめられている。勝 平の、誤解を恐れすにいえば、徹底的に素人的に発想し、手作業を通過して生じたすがすがし い気品、のようなものが、貴重だ。まさにひとつの様式の誕生を告げている。 「民俗」をごく自然に生みだした風土からそれこそ自然体で、顕著な影響を受けた萬の一面に ついてはすでに述べた。それは、勝平のように、眼前の祭りや市場、農作業、一家団欒をてい ねいに記録する姿勢ではない。 くつきりしためりはりによって、手にとるように形象化されて いるわけではない気圏に向けて試みる、暖簾に腕押しのような徒労の後、やっと視えてくるだ
第一章土沢と萬 第二章茅ヶ崎と萬 茅ヶ崎南湖 : 桑畑 ( 茅ヶ崎 ) ・ 八雲神社柳島あたり : 《目次》 土沢 : ・ 少年期・水彩へのめざめ・民俗 : 郷土と画家・勝平得之と萬鐵五郎 : 桑畑 ( 土沢 ) ・ 素香・ : はト ) めに
で、評価されもし、数に限りはあるかも知れないが、人々の心に、印象づけられていくのであ る。 勝平は、萬に後れること約二十年、明治三十七年、秋田の大町六丁目で生まれている。元は、 鉄砲町。例によって町名改悪行政のため、今日では大町などと呼ばれている。家業は、紙漉業 であるが、しかし、萬の生地土沢の、嘉祥年間 ( 八哭ー五 l) の創始とされる「成島和紙」ほど の勝れた伝統を持っているわけではない。 藩政時代に、藩札の用紙を漉いたらしい、と伝えられるが、それも細々としたもののようで ある。明治になって機械製紙法の発達にともない、たちまち仕事が減った。したがって、冬期 の紙漉以外の季節は、左官業を兼ねていたようである。近所には、大工職人が多く住んでいた。 つまり、このあたりは職人町であった。 勝平は、壁塗りの手伝いのかたわら独学で水彩を学んでいる。このへんが、萬の少年時代と、 よく似ている。浮世絵の実物や、当時圧倒的人気を誇った竹久夢一一の雑誌ロ絵などが「教科 萬書」となった。やがて、家業が紙漉業のため、紙に対する極度の愛着心の芽ばえからか、木版 沢画制作にかけることになる ( 勝平家には、得之の父が制作した和紙に摺りあげた版画作品が遺 されている ) 。 章 一その後、日版展・国画会展・日展入選というかたちで中央画壇とかかわっている。そして、 やがて運命的な、ドイツの建築家 ( プルーノ・タウト Bruno Taut 一八八〇 5 一九三八 ) と
第一章土沢と萬 ( 上 ) 萬鐡五郎「うしろむき」 1922 年 3 厚みのようなもの、なの かも知れない。 年 一方、秋田の勝平得之 が描く人物達は、一様に、 火 楽天的な笑みを浮かべ、 花 大らかな、こだわりのな 物い表情を示しているもの かおもしろい。例、疋ば、 左 「橇」という作品がある。 十七人の登場人物が、に ぎやかに描かれている。 湯台場に出かける寸前の、 女達の、はなやいだ表情 かいきいきと表現された 佳品である。ただし、お どろくべきことに、十七 人の人物のうち、一人を
第二章茅ヶ崎と萬 したときに始まる。若葉が萌える里、茅ヶ崎である。 その当時の茅ヶ崎は、「町是」ともいうべき町の〈方針〉として、米麦・養蚕・漁業という 従来の三本柱に加え、果樹・蔬菜園芸という四番目の柱がうち建てられ、成果が見えはしめた 頃のようである。その背景には、畑勝ちの地勢、荒蕪地の存在、京浜地区との接近といった点 への考慮であろうか。 大正四年の「高座郡茅ヶ崎町外一町二カ村組合立園芸試作場」の試みもそうした「町是」の 具体的なあらわれと見ていい ( 昭和六年解散 ) 。試作場の試みとは、大規模な果樹園の奨励だ けでなく、月 、空地・垣根を利用した家庭的園芸の奨励を含む。因に試作場の栽培は、栗・無花 果・スグリ・木苺、蔬菜では甘藍・茄子・馬鈴薯・西洋苺・三つ葉などであった。 この移転の動機を、田中淳編「万鉄五郎年譜」 ( 『鉄人画論』萬鐵五郎・編者土方定一、陰里 鉄郎 / 中央公論美術出版 ) は、次のように識す。 大正八年 ( 一九一九 ) 三十四歳一月第一回一月会展 ( 略 ) 三点出品。同月第一回創 作版画協会展 ( 略 ) 出品。一一月第十六回太平洋画会展 ( 略 ) 「顔の研究」「風景の印象」 「風景」「風景」出品。このころ、昼間は友人達の訪問が繁しく、その応接や議論で費され、 制作はもつばら夜になることが続き、そのうえ子供雑誌の依頼で附録の考案に熱中し、そ のため過労と睡眠不足を重ねて、神経衰弱気味となる。三月十四日病状を案して上京し た父勝衛のすすめもあって、 ( 略 )
第三章描かれた湘南 茅ヶ崎時代に描かれた水彩、のいくつかを見てみよう。その前に、前年の「裸婦」に触れる。 厚紙に水彩で描かれた二作は、年代的には、大正七年頃とされ、恐らく、東京在住の最後の時 期にあたるものではあるまいか。一一作とも後年、萬にとって大きなテーマとなった、人物の立 体派風な解釈が、ほんの少し感じられるものの、まだ未整理で、どことなく、心もとない。弱 いのである。このテーマでは、水彩に向かないのかも知れない、とするような、作者のとまど いか、にトしんでいるレよ、つに 9 もとれ 宀呂 る。 ところが、大正十一年 5 十二年 頃の作と目される「飛び込む」は、 岩 実に楽しいものである。水墨で得 たはすの大どかな筆づかいか、ノ 崧彩という画材によって生かされて いて、色の重ねが魅力的でおもし ろい。子息の手記によれば、萬は む海で泳げなかったらしいが、そう 入一 いとは思わせないような、水遊びの 木ーレさか、し 、きいきと描かれてい 143
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科に籍を置く。萬の名作「裸体美人」が、外部に発表されたのは、五月の山中恕亮主催美術展 であった。同展の主体は原人会といし 、白馬会研究所出身の青年画家たちによって、三月に結 成された団体である。 ( 戸籍を岩手県和賀郡十一一鏑村大字十一一ヶ村一七四番戸から、東京府東 京市小石川区宮下町十六番地に転籍 ) 。 九月頃、フュウザン会の結成に、斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎等と参加し、十月の旗上 展に「女の顔」 ( ボアの女 ) 、「赤マントの自画像」などを出品した。この頃、萬は生活費を得 るため郷里から木炭を取りよせて販売をしたり、浅草の映画館の看板を描いたりし、生活的に かなりの悪戦をしいられた。 大正二年 ( 一九一三 ) の、第二回フュウザン会に「日傘の女」などを出品する。三月に、短期 現役志願兵として、北海道旭川の第七師団に輜重兵として三箇月間入営をした。七月の、フュ ウザン会解散後、斎藤与里、小林徳三郎らのすすめがあり松井須磨子の劇団芸術座で、メーテ ルリンク作「モンナ・ヴァンナ」 ( 三幕 ) の舞台装置を手がけた。 大正三年 ( 一九一四 ) 三月に、一時帰郷し、日本画の画会を開く。また、肖像画の画会を興す。 この間、長男博輔が生まれた。九月に家族とともに土沢に帰り、萬家本家にほど近い家で、電 灯会社代理店を営む。 土沢にもどった萬の生活は、友人の小林徳三郎にあてた手紙にも綴ったように、〈僕が目を あけているときには、即絵をかいている時だ〉というような、制作一二昧の棲まじいものだった。