十二年 - みる会図書館


検索対象: 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ
174件見つかりました。

1. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

第三章描かれた湘南 翌大正十四年 ( 一九一一五 ) にさらに引き続く。二 1 萬官 が月に、第十二回日本水彩画会展 ( 上野・竹之台 る郎陳列館 ) に「風景」一一点。三月、第三回春陽会 0 展 ( 上野・竹之台陳列館 ) に、「窓外風景」「羅 持布かづく人」「宙腰の人」「男」「水衣の人」 画「雪」を出品する。こうした制作と発表の一方、 この年の末頃から長女登美が健康を害し、萬に ら生活上の心労が重なってくる。 第友大正十五年 ( 一九 = 六 ) 二月の、第四回春陽会 族展 ( 上野・竹之台陳列館 ) に、「ほほ杖の人」 「風景 ( 湘南風景 ) 」などを出品する。九月には、 集第六回四十年社展 ( 日本橋・三越 ) に「海岸風 景」「 e 子像」「椿」など二十数点を出品した。 儀 葬 十二月十六日、病床にあった登美が自宅で死 一太去 ( 膀胱結核、享年十六歳 ) 。萬は非常に落胆 して、精神的に疲労の極に達する。 昭和二年 ( 一空七 ) になった。 一三ロ 173

2. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

( 現・藤沢市西富一丁目五番三二号 ) に生まれている ( 誠に運命的でさえある至近のところに、 萬が移って来る ) 。そこは、時宗・真浄院で、父悦道、母政の長男であった。真浄院は、時宗 総本山藤沢山無量寿院清浄光寺・通称「遊行寺」の山内にあり、父は同寺の住持職であった。 明治四十四年、精一三歳のとき、母政が病歿した。やがて藤沢尋常高等小学校尋常科に入学 し、十二歳の大正九年、藤沢中学校 ( 後に藤嶺中学校に改称、現在の藤嶺学園藤沢高等学校 ) に入学する。そして十五歳、前述の経過により萬に師事。 大正十三年十六歳で、既に、僧籍にあったけれども、美術への志が強く、止むなく父は、東 京美術学校に入学することを条件に、美術の道を許可しても、 しいというところ迄妥協する。受 験準備は、川端画学校に於いてである。第三回円鳥会は、大正十三年十一月、上野公園竹之台 陳列館で開催されたが、原精一の風景 ( 水彩 ) が入選している。 大正十四年三月、十七歳の原は、中学を卒業し、東京美術学校に受験をしたが失敗する。そ のあげく父から激しく叱責されたという。入学失敗は、美術団体展の出品制作に没頭のため、 ととされているが、そればかりかどうか。入試技術をまるつきり無視したためかも知れない。翌 ケ年再び美術学校受験をしたものの失敗する。 おもしろいのは萬で、原の美校進学も、団体展の出品も厳しく禁した、とされる。理由につ 章 二いて、知るよしもないが、美校という存在が、美術にとっていかなる存在かをおもんばかって、 反アカデミズムへの立場から自分の経験をふまえてそう忠告したのか、原家の立場を考えたか、 113

3. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

総じて土沢の桑畑の緑は、土沢風景にとって、とりわけ猿ケ石川両岸の丘にきわめて大事な ミドリ群を形成していたことが十分想像できるのである。 素香 土沢の画人に、菊池素香という人がいた。嘉永五年 ( 一 <ßll) 八月十九日から昭和十年 ( 一九三五 ) 六月十四日迄の人で、名を文次郎、字を遠嗣といった。号を、素香のほかに桑園また は雪翁とした。父菊池勇八の長男として、十二ケ村 ( 現・東和町土沢 ) の農家の屋号「川端」 に生まれている。 「東和の画人たち」展 ( 「萬鉄五郎記念館」・昭和六十三年一月 5 二月 ) で、私は初めて、素香 の「仙峰春色図」を見た。 六十七歳頃のものであるらしい。岩や松のタッチが、どこか萬の南画を想起させて、不思議 に思っていたところ、同館の学芸員の平澤広氏が、こんなふうに話す。 〈あくまで、伝聞ですが、素香は萬の師とされ、少なくとも萬・菊池家の交流はひんばんだっ た事は確かです〉。 素香を少し追ってみよう。菊池素香は、菊池黙堂 ( 天保六年 5 明治三十一一年五月十六日 ) に

4. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

描かれているのは三階建ての気象台であって、 ( 中略 ) 松林のなかに在った。原田光氏は〈 大きな屋根を傾けて、緑地の上に屋根だけみせているのが、何棟かあった療養所のうちの一つ、 地震のために倒壊した一棟であったかもしれないが、南湖院の被害の程度がどれほどであった かは、わからない。大正十二年頃に描かれた水彩画に「南湖院」というのがある。写実的で、 療養所や気象台の建物の形、位置関係がよくわかる。〉としている。 ( 生誕百年記念「萬鐵五郎 展」カタログ ) 萬も、気が動転したと思われる地震は、茅ヶ崎方面で、どのようなものであったか、大正十 三年十月に記された河合辰太郎の、「大震災の思い出」という文章にのぞいてみよう。 「 ( 前略 ) ーーーそれが正に十一時五十八分なのであった。大地が搖れる。足元はよろける。畑 には波が立つかと感じられる。覚さす尻餅をつく間もあらせす前面の大地が決裂して濁水が 滔々と湧きだした。是は大変と思うて家の方を見ると早や屋根瓦が土煙を立てて崩れ落ちると 共に、物凄い音響を立てて家全体が南に傾くよと見る間に瞠と音して大地に倒れてしまった。 ( 後略 ) 」 ( 『茅ヶ崎市史 2 』 ) 河合はこの後、搖れる大地を自宅に向かう途中、〈前面の大地が決裂して濁水が滔々と湧き だした〉のを見ている。また、岩谷莫哀の「茅ヶ崎日記」に、こんなくだりがあった。 ( 因に 岩谷莫哀は明治二十一年 5 昭和一一年迄の人で、尾上柴舟門下の歌人。大正九年から『水甕』の 経営に従事し、南湖院入院後、茅ヶ崎日記をしたためた。 ) 160

5. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

を私にも繰り返されたものだった。 大正十二年 ( 一九一一三 ) 六月の、東京・京橋の星製薬の社屋に特設した、第一回円鳥会で、わ すか十五歳の原精一少年が萬鐵五郎作品に接したらしい。〈これが絵なのか。これでも絵なの 、ト林徳三郎、児島善三郎、林武、前田寛治、恩地孝四郎、 だ。〉 ( 一月に結成された円鳥会には 松本弘一一、鈴木亜夫などの、一一科会所属の画家達 ( やがて一九三〇年協会、独立美術協会設立 に参加する画家達 ) が、萬のオ能を認めて参加をうながした。萬はそのとき三十八歳である ) 。 作品の発する熱気に、少年の私は金縛りにあって、震えて立ちすくんだ、と原は方々で語って 茅ヶ崎のアトリエを訪問したとき、風呂敷に包んで持参した作品は、どうやら水彩だったら しい。雨ばかりではなく風も強く、作品をとりだした玄関先で、風にあおられ画用紙は宙に舞 った。高名な画家は、自分と一緒になって作品を追いかけてくれた。そして、あろうことか、 カルタ取りのような仕草の末、萬の髭が原少年の頬に触れたらしい。電流に打たれたようなそ 一語一語かみ下すように繰り返す の瞬間のことを語る原は、まるで昨日のできごとのように、 のである。 唯一無二の師の萬は、わすか四年後の、昭和一一年にこの世を去ってしまう。原は呆然とする。 しかし、萬は、死後も生涯を通し原に強い影響力を持ち続けるのである。 原は、萬のアトリエのあった茅ヶ崎にほど近い神奈川県高座郡藤沢大坂町西富二一七番地 112

6. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

明治三十九年 ( 一九実 ) 三月、早稲田中学校を卒業し、 官小石川区白山御殿町一二七番地 ( 現・文京区白山四丁 盟目 ) に転居した。五月になって、宗活褝師に従い、両忘 引贏庵の布教活動に、昌一郎と共に加わり、布教先のアメリ 校 3 力にむけ神奈川丸で発つ。萬にと 0 て、ともかく最初に して最後の外国旅行である。 美 京 信徒一行十数名は、新たなる土地で開拓農業に従事し、 その地で褝を伝導することを目的としていた。バ ー近郊に入植したが財政的に失敗し、萬は半年後サンフランシスコに移り、米人家庭にポーイ として住み込む。しかし、美術へのあこがれは一向におとろえす、東部の美校を志望するが、 送金を求めた伯母タダの反対にあって、やむなく単身帰国した。その後、東京美術学校への入 学をめざし、再び研究所に通うことになる。 明治四十年 ( 一九 0 七 ) 美校の西洋画科の予備科に入学し、同年九月に本科生となった。十月 に開催された第十一回白馬会展に出品。 翌四十一年に、浜田よ志 ( 通称淑子 ) と結婚し、小石川区宮下町十六番地 ( 現・文京区千石 三丁目 ) に居住した。因に、浜田家は根津で、琴の桐材などを扱う家業で、よ志は一一人姉妹の 次女にあたる。姉は女医である。

7. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

こうした動きとは別に、淡々としたスケジュール的な発表が続く。即ち、一一月の第十回日本水 彩画会展、五月に第一回春陽会展、六月は第一回円鳥会展といった具合である。この間三女多 津子が生まれる ( 四月 ) 。 この年あたりから、茅ヶ崎のアトリエに、原精一、森田勝、鳥海青児らがひんばんに訪問す るようになる。原との交わりは、さきに書いた通りである。 大正十三年 ( 一九一一四 ) 三月、第十一回日本水彩画会展 ( 上野・竹之台陳列館 ) に、「海へ行く 道」と「裏道」を出品し、四月の第二回円鳥展 ( 帝国ホテル・ホール ) に「海岸」など、もっ ばら、茅ヶ崎の日常的モチーフを絵にした作品を出品した。五月には、「萬鐵五郎裸体十題木 版画会」なる画会を、野島熙正、石原雅夫、山口久吉を世話人として興す。取扱者は、石原求 龍堂であった。七月に、「鐵人邦画展」なる個展 ( 京橋・村田画房 ) を開催し、これまた茅ヶ 崎の日常から、「農舎の夏」「砂丘万松図」「江村行舟図」「海」「傾いた納屋」などの水墨画と 水彩画三点を含む三十点余を出品し、にぎやかな会場となった。 「七光会洋画展覧会」 ( 盛岡市商品陳列所北館 ) に合 一方、郷里岩手に対しても義理がたく、 わせて、南館で作品展を開催し、油彩十八点、日本画十点、水彩十点を特別出品している。十 一月には第三回円鳥会展 ( 上野・竹之台陳列館 ) に、「少女 ( 校服のとみ子 ) 」「椿とリンゴ」 「夏の服」「海岸風景」などを出品し、さらに十二月になると、第四回四十年社展 ( 京橋・丸 善 ) に水墨による「海岸」など数点を出品する。このような、あきれるばかりの発表意欲は、 172

8. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

三十一年二月、和賀郡役所の庶務課長から十一一鏑村長及川新之助にあてた文書 ( 要旨 ) によれ ばこ、フた。 明治二十九年県令によって蚕種取締規則が、同三十一年三月三十一日限り廃止されるので、 従来下付されている蚕種製造及販売鑑札を返納するように照会があり、十二鏑村の菊池佐市外 十二名の蚕種製造鑑札と梅原弥蔵ら数名の販売鑑札がその対象とされた。ついで「蚕種掃立蛾 数及製造予算届」なるものが県に提出され、蚕種の製造業に従事した者として、十二ケ熊谷巳 代治、北成島熊谷弥蔵外三名、安俵平野恭三等村内すべての十四名と報告されている。外に 自家用組が熊谷直美外七名。計二十三名で、 以下から察して、相当量の生産額に上ってい た事が知れる。 したがって、蚕種製造のことと、それにともなう桑苗木の成育は急務であった。生糸は、初 ざぐり 歩屑繭や、玉繭を素朴な坐繰で紡毛し、技が熟すと、本格的な生糸づくり、 更に絹織物へと発 展して行く。記録によれば、土沢の、萬タダ ( 萬鐵五郎伯母 ) という人は、いち早く機織を志 し、〈勧工場から五台の長織機を借り入れ、自宅において機織を行った〉らしい。後年、その 機織が無償払下げになった記録もある ( 同『東和町史』下巻 ) 。 明治期の総括として、同四十三年十一月「蚕糸業ニ関スル調査」について、郡役所に報告し た文書の中に、次のような記録があるので引いておく 0

9. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

高架の下は、旧・矢沢駅である。今は、新花巻駅との。ハネルがかかげてある。花巻から発って、 矢沢、土沢、遠野、釜石とつながる釜石線が、新花巻駅と接しているのである。 駅を正面に降り立って、左手に、こんもりとした、ひときわ緑の濃い山が胡四王山で、この 山頂に、「宮沢賢治記念館」が在り、賢治研究のさまざまな成果が盛り込まれている。一度訪 ねてみられることをおすすめしたい。徒歩で十五分も行くだろうか。胡四王山周辺は、四季 折々の花々が誠に嬉しく、散策が楽しい 「賢治記念館」を、再び新花巻駅方向にもどりかけ、なだらかな坂の途中で、ふと気づかれる むきもあるかも知れない。 確か、近くに、萬鐵五郎の生地、土沢という町があったはすと記慮するが 土沢地区は、現在は総して東和町と呼ばれ、まさに花巻市に、隣接している。ところが、ど うしたことか、「賢治記念館」周辺に、それと気づかせるような看板や表示がない。花巻市と、 和賀郡に属する東和町の軋轢 ? まさか。 ひえぬき 花巻は、稗貫郡で、地図であたってみなければ、外からこられた人達は、東和町も稗貫郡内 と思われがちで、現にそうした誤解もたびたびあるらしい 決定版ともいうべき、萬鐵五郎年譜 ( 生誕百年記念「萬鐵五郎展」カタログ所載、中谷伸 生・牧野研一郎編・昭和六十年。以下年譜関係は同年譜を参考としたい ) の生年にこうある。 明治十八年 ( 一会五 ) 十一月十七日、岩手県東和賀郡十二ケ村一一七番地 ( 現・和賀郡

10. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

『明治十五年茅ヶ崎市域地図』 ( 参謀本部陸軍部測量局明治十五年測量同十六年製版 ) なる三 万分ノ一の地図をひろげると、当時の茅ヶ崎村の南湖あたりは、。ハラ。ハラと人家があるにすぎ す、街道すしにやっと人家が捉えられるほか、畑地と、海岸線の砂地が在るのみで、とうてい 今日の市勢を想像できない。 明治四十一年 ( 一九気 ) に戊申詔書の発令があり、地方自治体の再編強化がなされ、いわゆ る地方改良運動が展開された。この運動のなかで茅ヶ崎・鶴嶺・松林の三ケ村の合併が、〈日 露戦争後の国力充実〉に向けて、国の要請を受けた県や郡の指導下に行われ、茅ヶ崎町となる。 萬が移った頃の茅ヶ崎町の人口は、戸数一一三四七で、人口総数一万八二五九人 ( 男・九〇八 二、女・九一七七 ) 『神奈川県統計書』〔大正九年 ( 一九一 (0) 〕という程度であった。その 後しばらくして大正十年十月〈茅ヶ崎町自治会〉が設立される。〈吾々ハ本町永遠ノ平和ヲ確 保シ時勢ニ適応セル町民ノ位置ト利益ヲ助長セシメンカ為メ、茲ニ茅ヶ崎町自治会ヲ創立ス〉 などと、記録にあり、興味深いが、本題からいちじるしく離れる。丁度その頃、一町民になり たての萬はなにをしていたのだろう。 大正十年六月号の美術誌『中央美術』に、〃茅ヶ崎日記〃というようなスタイルの文章を発 表している。「其日々々」と題した冒頭に、わざわざ記している。 僕は日記を付けた事もなし発表するなど猶更きらいの方だが、よく考えすに安うけあい の承諾の返事を出して置いた事を後悔する。気の進まないのを催促されて書くのだから考