こと萬に関しては、岩手県立博物館は、松本竣介作品とともに第一級の収蔵内容を誇っている。 前出の、萬展の際、カタログの他に、記念画集『萬鐵五郎作品集』が刊行されている。『作 品集』は、麻布ばりに、墨と朱の押しの、上製本の美装で、カラーが八べージ、モノクロ図 版が三十一べージ、関係写真十一ページ、総一〇四べージの中型のものである。 部数に限りがあって、今ではなかなか目に触れることがなくなってしまったが、編集作業の 関係者の一人として、手元のそれを繰るとき、さまざまな感慨が湧くのを禁じ得ない。 その折りである。 はじめて、数々の南画作品に接したのである。私にとって、まさに異貌の萬であった。 大正八年以降に描かれた、この躍動感豊かな、気楽な気分の、水墨画はなんだろう。 「島」「シコの大漁」「タ景」「海辺の人」「水浴の図」「太陽と裸婦」「少女」「小川」「浜人」 「風景・夏の日」「浜」「釣り人」「荷運ぶ人」「漁村」「柳島風景」 ( いすれも『作品集』に掲載 ) は、今迄の萬作品の常識とされているものを、くつがえすようなものばかりである。茅ヶ崎時 代は、精神の休暇 ? それらは、総て、神奈川県の茅ヶ崎で描かれていた。 後でも触れるが、故・土方定一氏は、〈萬・第三の時代〉をこんなふうに位置づけている。 茅ヶ崎時代を、誤解をおそれすにいえば、南画の時代といっていいだろう。ここで南画 といっているのは、萬鐵五郎がこの時代に日本画Ⅱ南画を描いたことをいっているのでは
画会の作品 萬の南画 ( 墨画 ) は、茅ヶ崎で突然花開いたのだろうか。そうではあるまい 故郷の土沢で、少年期素香あたりから、既に手ほどきを受けていたに違いないことは書いた。 またその後、水彩に転じたことにも触れた。 大正四年、萬鐵五郎 ( 三十歳 ) は、帰郷した土沢にあって、盛んに制作活動をし、墨画も描 いていた。 それは主に、画会の配布のためと推察される。 第一章後半部で触れたように、画会は、肖像、風景、掛軸 ( 山水 ) の三部に分かれていたら しく、会費を分納し、一定満額に達すれば、作品が得られる仕組みだったようである ( 満期は 大正五年八月で頒布開始 ) 。 驚いたのは、申込所が、盛岡の本町の、田口商店美術部となっていたことだ。私事を記せば、 私の生地は、その田口商店のある本町に、丁字型に接する油町横丁で、田口商店と知って、は その南画 ( 墨画 ) を中心に 164
なく「自分は写実を行きつめた、又は写実の意味を卒業した処から反対に自分の内部生活 に返って精神的自然を握ることが出来、そこから南画の主義に共鳴」とか「自分の進んで 来た洋画の傾向は絵画的諸条件の詩的構成である処から」とか、「谷文晁」のはしめに 「東洋画を按するに、その内容は或種類の表現主義、其の手段としては構成主義」といっ ( 『萬鐵五郎画集』 / 日動出版 ) ているところの南画である。 とまれ、茅ヶ崎の萬は、その温和な風景に接することによってのみ、初めて生みだされた 〈視点の獲得〉、であり、茅ヶ崎風景をヒントとした南画であることは、読めそうに思われる。 この伸びやかな筆触と、自由闊達な精神的振幅がもたらしたものはなにか 「茅ヶ崎と萬」の章と、「描かれた湘南」の章を通し、往時の湘南に、ますは想いを走らせて みたい。 ところで、同じく東北は宮城県柴田郡大河原町出身に、画家にして詩人の尾形亀之助がいる。 丁度萬の茅ヶ崎時代の最盛期の、大正十一年当時は、一一十一一歳で、未来派美術協会会員となり、 第三回展 ( 三科インデベンデント ) の準備運営にあたり、自ら出品している。 翌十二年、マヴォ (*>0) の結成に参加し、第一回展 ( 於・浅草伝法院 ) に作品五十点 を発表した。異能の芸術家尾形には、萬との接触の機会はなかった。あったらどうか。 しそれはともかく、尾形評伝の、勝れた著者である秋元潔氏 ( 詩人 ) の考察によれば、海の近 くで生活したことがあるにもかかわらす、尾形には海のことを書いた文章も詩も、まったくな
げた。第一回展は、東京美術学校倶楽部が会場で、「庭の花」「少女」を出品する。この年大作 を予定したが、赤痢にかかって中断した。 大正十年 (l?lll) 二月、風国美術協会展に、「かな切声の風景」を出品する。三月に第八回 日本水彩画会展、五月第一一回四十年社展 ( 京橋・星製薬会社 ) に「窓」を出品するなどの小き ざみな発表の後、十月の第三回帝展に、応募した。しかし、前にも書いたように、一五〇号の 大作の「水浴する三人の女」は、落選し、既に書いたように萬の手で破られ残されていない。 大正十一年 ( 一九一三 ) 一月、春陽会が設立され、森田恒友の勧めもあって客員で参加する。 後十一月に制度が変わって会員となる。一一月、第四回創作版画協会展に「うしろむき」 ( 木版 ) を出品し、同月に、第五回岩手県芸術展覧会 ( 盛岡・岩手県商品陳列所 ) に水墨三点と、油彩 の「海ぞいの別荘地」を出品した。七月には、後援者の、野島熙正 ( 康三 ) 邸で、「萬鐵五郎 日本画展」を開催し、「タ立っ浜」「砂丘の冬」「桑柴行人」「早春」「郊外の初夏」「水に戯れる 捕女達」など、茅ヶ崎で得たモチーフの作品を出品した。 この頃からは、かねてからの南画の研究がさらに一段と深められ、南画をめぐる論争を行っ かたりする。 ( 文芸評論家・本間久雄と、南画家菅原白龍をめぐる論争「純正美術」第二巻八号 ) 廿田 大正十一一年 ( 一九一一三 ) 一月、円鳥会を結成する。小林徳三郎、児島善三郎、林武、前田寛治、 章 三恩地孝四郎、松本弘一一、鈴木亜夫、などの二科会の若手作家と、後に、 1930 年協会、独立 美術会の設立に参加した画家が中心で、萬が素質を認めた若い作家たちの集団と目されている。 171
I S B N 4 - 8 9 6 6 0 - 0 9 8 ー 5 C 0 2 71 P 9 2 0 E 萬鐵五郎 萬鐵五郎 キュビスムとフォービスムを日本の土壤で独自に消化し、近代美術史に画期的な画業を残したとされる萬鐵五郎 だが、晩年の八年間を過ごした神奈川県茅ヶ崎で描きまくった南画は、一体なんだったのか この異貌の萬に出会って以来、盛岡生まれの著者は、風土が画家の中に形成するものを追い求め、 萬の郷里・岩手県土沢の ^ 気圏〉を、同郷人の感覚で捉え、茅ヶ崎へも何度か足を運ぶ。そして、 ^ 桑園のある風景〉という共通項を探り当て、両地がこ本の赤い糸″で結ばれていた、と確信するに至る 本書は、美術家・村上善男が。ヘンで描き出した、もうひとつの萬鐵五郎像である ーー土沢から茅ヶ崎へ 村上善男 有隣新書 ( むらかみよしお ) 村上善男 一九三三年、岩手県盛岡市に生まれる。 現代美術の第一線作家として、個展・美術館企画展に作品を発表する一方、 奥羽地方の風土に根ざした美術評論にも健筆をふるっている。 現在、弘前市に在住。弘前大学教育学部教授。専攻は構成及び理論。民学の会会員。 著書に「津軽北奧舎一一〇一』「盛岡風景誌』『仙台起繪圖』「北奧百景』ー以上用美社、 『色彩の磁場』ー ZO>< 出版、『松本竣介とその友人たち』ー新潮社、などがある。 , ー主沢から茅ヶ崎へ村上釜ロ男 有隣堂 マーク“サモトラケのニケ ( ギリンヤ神話の勝利の女神 ) 有隣新書 Ⅱ萬鐵五郎「水着姿ズ岩手県立博物館蔵〉 よろす 定価 = 920 円 ( 本体 893 円 )
とり組む。こうした最晩期を、主要作品を発表した春陽会から名をとって「春陽会時代」と呼 ぶことも可能であろう。現にそのように呼んでいる研究者も居る。 文人画や、水墨画から得たもの、南画精神に鼓舞されたものは、陰里氏のことばを借りれば 〈日本の油彩画〉をも生みだす。今迄、試み続けてきた、フォーヴィスムやキュービスム的造 形も、ある種の風格をともなった、自信作としてあらわれてくる。 体力の回復は、健康な日常的好奇心を呼びおこし、行動半径の拡大につながったようである。 南画的モチーフ探しは、遺された多くの作品にあたってみることによって、そのことをうかが 、フことができる。 南湖仲町、下町あたりから、足跡は、さらに西南湖下方面に迄、延ばされているようだ。作 品については、別章で考察するとして、ここでは、健康回復によって急に身が軽くなった現場 主義 ( 現場にたって筆をとる、という程度の意 ) の、行動作家の一面を指摘するにとどめてお きたい。 さながら、土沢帰郷時代の、現場主義のマメな動きが、茅ヶ崎で蘇ってきたかのようである。 平塚よりの相模川沿い杣島。その付近に、すい寄せられるように近づく萬に、なにを見ればい いたろ、フ。 千ノ川と小出川の合流地点は、地元では〈だらだらおり〉と呼ばれていたらしい。現在のた たすまいからは、とうてい想像できないか、 川幅と水量が実に豊富だった。水田地帯もひらけ
アトリエと写生の日々 : 萬の弟子・原精一・ 第三章描かれた湘南 その油彩を中心に : 茅ヶ崎の風景を描く 大根木に登る その水彩を中心に : 水彩の萬 南湖院 地震の印象 その南画 ( 墨画 ) を中心に : 画会の作品 茅ヶ崎の春夏秋冬 後記にかえて 茅ヶ崎の海
総じて土沢の桑畑の緑は、土沢風景にとって、とりわけ猿ケ石川両岸の丘にきわめて大事な ミドリ群を形成していたことが十分想像できるのである。 素香 土沢の画人に、菊池素香という人がいた。嘉永五年 ( 一 <ßll) 八月十九日から昭和十年 ( 一九三五 ) 六月十四日迄の人で、名を文次郎、字を遠嗣といった。号を、素香のほかに桑園また は雪翁とした。父菊池勇八の長男として、十二ケ村 ( 現・東和町土沢 ) の農家の屋号「川端」 に生まれている。 「東和の画人たち」展 ( 「萬鉄五郎記念館」・昭和六十三年一月 5 二月 ) で、私は初めて、素香 の「仙峰春色図」を見た。 六十七歳頃のものであるらしい。岩や松のタッチが、どこか萬の南画を想起させて、不思議 に思っていたところ、同館の学芸員の平澤広氏が、こんなふうに話す。 〈あくまで、伝聞ですが、素香は萬の師とされ、少なくとも萬・菊池家の交流はひんばんだっ た事は確かです〉。 素香を少し追ってみよう。菊池素香は、菊池黙堂 ( 天保六年 5 明治三十一一年五月十六日 ) に
萬の茅ヶ崎時代を、〈誤解をおそれすにいえば〉とことわりながらも、南画の時代と位置 づけたのは、前にも書いたように土方定一氏である。精神的な自然への接触、その地として の、まるで選ばれたような茅ヶ崎である。 『日本風景論』 ( 志賀重昂全集第四巻・昭和三年 / 志賀重昂全集刊行会・講談社学術文庫 に再刊 ) の志賀重昂は、日本の風景の美について、〈気候、海流の多変多様なこと〉、それに よってもたらされる生物・松柏科植物・禽鳥類・昆虫類・蝴蝶・花などをあげ、また、〈日 本には水蒸気の多量なこと〉、によって、日本の水蒸気現象を具体的にあげている。 たとえば、東海道の水蒸気の章はこんな具合だ。 東京城中の春光まさに尽く。あたかもインド洋上の季節風はこの時より北進し来り、その 感化として眼前の風物はまさにこれ 浅茅原上雨濛濛。浅茅原の上雨濛々たり。 班女廟前草接空。班女の廟前草空に接す。 杜宇声々啼不歇。杜宇声々啼いて歇ます。 鏡池一面落花風。鏡池一面落花の風。 ( 亀田鵬斎 ) のごときあり。すでにして藤花、燕子花をはる。すなはち去りて東海道に上らんか、六郷、 鶴見河畔、沖積層平地十里、季候風北進の感化いよいよ顕著に、梅雨冥々、河水平常より 108
る。 私見だが、タッチも色も、似てはいないが、躍動感は、ラウル・デュフィを想起させる。し かし、この奔放さは、デュフィの整然とした色彩管理とは、異なっているのだが。 一方、茅ヶ崎の作とされる「砂丘の富士」 ( 大正十二年 ) になると、雰囲気がまるで違い 前者に比べかなり抑制のきいたフォルムで、すべて整っている。ただ砂丘の小屋や、船数艘は、 いかにも南画風に処理されている。単に写実的なのではない。気楽に画面で遊んでいる。 同時期に描かれた「暖日」、「照りつつ降る日」の二作は、かなり写実的だ。『水彩画之栞』 で勉強した時代の名作というべきか。旧作の、水彩画の名作「雨の風景」 ( 明治三十七年 ) の タッチにむしろ近い。今日アメリカで人気の、アンドリュウ・ワイエスばりの写実力を、萬が 持っていたのを知ることは、誠に嬉しい。写実力が嬉しいのではなく、萬の幅と、奥行きが、 実に新鮮に感じられるのである。 「暖日」は、手前左に、細長い三角形の葱畑らしい青緑の一角が、赤茶色の土に囲まれるよ うに配されて、二つの色彩の対比が実に鮮やかだ。もう一つ、色彩に工夫が見られるのは空で、 ここは、薄い黄緑つばい色で解釈されている。よく見ると、農家のすぐ隣に、丁度画面中央に とさか なるが、鶏小屋があって赤い鶏冠が覗けている。めずらしく細部にこだわっている。まさに暖 日そのもので、のどかだ。萬の画風の再発見とでもいおうか。 それにしても、この二作、「土沢風景」としてもおかしくない。なるはど、農家の造りが、 144