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検索対象: 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ
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1. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

品のインパクトが失われかけてしまうことかあるものだか、なかなかどうして、作品的に強い のだ。やはり、構成がしつかりしている為だろうと思われる。 なぎ倒されたような柵にリズム感を読みとるとき、この画家は、地震さえも、絵画に仕立て る、描くことへの意志、日常生活での決意のありようが、やはり、同時に画面上に記録された のだととりたい。 この稿をしたためている最中に、私は、岩手県立博物館の、「地震の印象」に会いに出かけ た。萬と松本竣介のコーナーには人影がなかった。 「地震の印象」は、壁にひっそりと架かっていた。以前より、さらに、作品の表面が、乾いて いるように思われた。表面が粉でも吹いたようにパサバサしている。にもかかわらす、「地震 の・印象こは、やはり的 ' に強かっこ。 温和な茅ヶ崎の地で受けた突然の災害を、画家はその恐怖を、美術として、定着させたのだ、 捕というふうな、感既を持った。 不思議なことにこの作品は、見るたび毎に、新しい感動を呼び起こさせるのである。 カ 什田 章 第 163

2. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

一人者となった千葉瑞夫氏 ( 現・同社編集局編集委員 ) の折々に発表されたエッセイから、 多くの教示を受けた幸運も忘れまい 昭和六十三年〈萬鉄五郎祭〉には、萬の愛弟子・原精一展の開催が企画された ( 生前の 原氏には、一度、萬にかかわる想い出をうかがうため、成城のアトリエでおめにかかって 同展にそえたシンポジウム〈原精一作品をめぐって〉の。 ( ネラーは、陰里鐵郎氏 ( 三重 県立美術館長・美術評論家 ) と、千葉瑞夫氏に私で、その中で、忌憚のない、それぞれの 萬観が披瀝され示唆を得たのも幸せなことであった。 原精一少年が、自作をかかえ、雨の日に ( 雨ならば、画家はアトリエに居るはす。少年 かならす写生をしに出かけているもの、と信していた は、画家というものは晴れの日は、 らしい ) 萬家を訪ねた。その日の様子を、ただそのときの場面を、一時間以上もかけて、 昨日のように語ってくれた原画伯は既に亡い この小冊が、茅ヶ崎と土沢を結ぶ、一本の赤い糸であってくれたらと願っている。 なお、本書の執筆にあたり、引用文については、文語体のものは歴史的仮名づかいのま しまとしたが、ロ語体のそれは、現代仮名づかいに直したものを採用した。また年齢・職名 等は、一九八九年現在である。

3. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

宮澤賢治の生家の事情と若干似ていないこともない。賢治の生家環境からくる原罪意識が、後 年の諸文学作品と決定的につながるが、萬の場合は、生家の実情と生を受けたタイミングから か、さほどの影響かないよ、フには見えるか、ど、フだろう・か 少年期・水彩へのめざめ・民俗 さて少年萬は、物質的にはかなり恵まれたイエの環境の中で、のびのびと暮らしていたと想 像される。伝聞によれば、少年は、あまり外出を好ます、六歳ぐらいの頃、絵を描いては、近 所の子供達に分けたりして、人気があった、ようである。「萬記念館」に、当時の図画がのこ されているが、手本としての絵本を、コピーする ( 臨画 ) 能力のようなものプラス、写生 ( 動 物・特に猫が好きだった ) にも、不思議な味を出している。 子息・博輔氏が古老からうかがった記憶によれば个ーー・・六歳の頃にはもう盛んに絵を画いて、 近所の子供に分け与えたりなどしていたが、七歳の折には自由に色彩を施して、年に似合わぬ 立派なものを画いていたと言い伝えられて居る。自ら紙凧を作り、それに昔の武者絵を色様々 に書き、之が子供達に大変に喜ばれ、本職の凧屋が大いに迷惑したと言う昔話も、丁度七歳の 時のことであった。小学校に行く様になって、一一年生になった頃から東京の洋画通信教授を受

4. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

て、写生をしてあるいていたようである。 だからといって、この画家志望少年に、郷土の風景に対して、過大な想い入れのようなもの が託されていたわけではない。ただたんに、故郷または、近くの都市の〈なっかしい風景〉へ の接触の次元でとどまっていたようである。 萬の評価のなかで、誰しもがロにする、いわゆる〈内なる風景〉と、〈現実の土沢風景〉と を重ね、そのダブるようなイメージを形象化させるといったような試行錯誤には、まだまだ時 間かたらない。 こう考えてみると、萬鐵五郎に、風土が、それこそ顕著にせり出され始めてくるのは、大正 三年九月の、家族をともなっての帰郷のときからと判断される。萬の一生をかけた、芸術的開 花の、機がまさに熟したのである。 この時代を述べる前に、美術学校入学後の足跡を追ってみる必要があるだろう。 明治三十七年 ( 一九 0 四 ) 一月に冬休みを郷里で過ごした萬は、上京して北豊島郡高田四十一 萬番地に居住した。十九歳である。さらに下谷区上根岸町一一七番地に転居する。ここは、現在 沢の、台東区根岸一一丁目にあたる。中学に通学のかたわら、伯母タダのすすめがあって、臨済宗 円覚寺派の僧・釈輟翁宗活褝師が谷中で営んでいた両忘庵に、昌一郎とともに通い参褝を行っ 章 一ている。翌年、牛込区矢来町三番地 ( 現・新宿区矢来町 ) に移る。この頃から、本郷菊坂にあ った白馬会第一一洋画研究所に通い長原孝太郎の指導を受けた。

5. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

や、成島地区の、熊野神社に付属する、毘沙門堂の、兜跋毘沙門天 ( 重要文化財 ) に見られる、 大胆な人体解釈などの影響を考察した方が、むしろ納得のいくところではないか。 ともかく、木造日本一とされる毘沙門天のゆかりを、記しておこう。伝えるところによれば、 征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂が、桓武天皇の命により、東北の蝦夷を鎮撫平定し、日 本の北方鎮護の守護神として、毘沙門を祀った、とされている。丈が約一丈六尺 ( 四・八五メ トル ) 、欅の一木調成仏としては国内唯一。平安朝中期の作品と見られている。大正九年に 国宝指定を受け、昭和一一十五年に重要文化財の指定を受けた ( 現在は文化庁の文化財保護の方 針のもと、収蔵庫が造営された ) 。岩手県立博物館にいやらしいほど精巧なレプリカが立って また伝・吉祥天も、欅の木目が顔面や胸の部分に表れ、はからすも抽象彫刻のコンセプトを 持っているように見える。同しく重文指定を受けている。 宮譯賢冶に、おもしろい毘沙門像の詩があるので引いてみよう。 沢アナロナビクナビ睡たく桐咲きて 峡に瘧のやまいったわる 章 第 ナビクナビアリナリ赤き幡もちて

6. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

『明治十五年茅ヶ崎市域地図』 ( 参謀本部陸軍部測量局明治十五年測量同十六年製版 ) なる三 万分ノ一の地図をひろげると、当時の茅ヶ崎村の南湖あたりは、。ハラ。ハラと人家があるにすぎ す、街道すしにやっと人家が捉えられるほか、畑地と、海岸線の砂地が在るのみで、とうてい 今日の市勢を想像できない。 明治四十一年 ( 一九気 ) に戊申詔書の発令があり、地方自治体の再編強化がなされ、いわゆ る地方改良運動が展開された。この運動のなかで茅ヶ崎・鶴嶺・松林の三ケ村の合併が、〈日 露戦争後の国力充実〉に向けて、国の要請を受けた県や郡の指導下に行われ、茅ヶ崎町となる。 萬が移った頃の茅ヶ崎町の人口は、戸数一一三四七で、人口総数一万八二五九人 ( 男・九〇八 二、女・九一七七 ) 『神奈川県統計書』〔大正九年 ( 一九一 (0) 〕という程度であった。その 後しばらくして大正十年十月〈茅ヶ崎町自治会〉が設立される。〈吾々ハ本町永遠ノ平和ヲ確 保シ時勢ニ適応セル町民ノ位置ト利益ヲ助長セシメンカ為メ、茲ニ茅ヶ崎町自治会ヲ創立ス〉 などと、記録にあり、興味深いが、本題からいちじるしく離れる。丁度その頃、一町民になり たての萬はなにをしていたのだろう。 大正十年六月号の美術誌『中央美術』に、〃茅ヶ崎日記〃というようなスタイルの文章を発 表している。「其日々々」と題した冒頭に、わざわざ記している。 僕は日記を付けた事もなし発表するなど猶更きらいの方だが、よく考えすに安うけあい の承諾の返事を出して置いた事を後悔する。気の進まないのを催促されて書くのだから考

7. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

当時の面影の残る、三メートルほど高くなっている台地の一角で、久方ぶりに蝉時雨を聴い た。倉本家の長男・良信さんの一家が、家を建てて住んでいる。 そこに立っと ( つまりかっての桑畑の、盛り上がった土地の位置になるが ) 、手前右手に萬 家、左手に倉本家の茅葺の屋根が在った事になる。 その距離はさしてないので、さすがに、「木の間から見下した町」というわけにはいかない カ はとんど土沢の風景と変わりがない。 潮鳴りかと思ったら、車の走行の音であった。 大根の畑で、葉が水分をほしがっている。 このあたり、あまりにも変わってしまったので、以前は、どんなふうになっていたか忘 れてしまうような事もありますよ。桑の木は一本もありませんし。 マねぎなどさまざまな野菜が植え 家庭菜園風な五十坪ほどの畑には、大根だけでなくトト・ つけられていた。 萬先生は、ときどき、画室から出て来られ、このあたりを歩きまわられました。そして、 ケ近くの散歩に出かけられます。いつもやさしく微笑んでおられ、私は何度も頭をなでてもらい ました。お声もかけていただきましたよ。 章 高名な画家とは父母から聞かされていても、昇子さんには、隣家のやさしいオ工ベスさん 第 ( 萬の顔が、恵比寿の顔に似ているので、誰がいうともなく、オ工ベスさん、と呼んでいた )

8. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

はいしめに 昭和四十五年 ( 一九七 0) に、岩手で、待望久しい国民体育大会が開催された。 国体開催の機を捉えて、地方を再興させる試みが、各地で成功しているのを耳にするにつけ、 岩手でも、これをバネにあらゆる面で一大飛躍をはかりたいところだった。 その上でも、なにか文化的な催事が必要であるとし ( おびただしい来県者を歓迎する意味も 込め ) 、県と地元・岩手日報社の主催で、〈近代美術の先駆者・萬鐵五郎展〉が急遽企画された。 よろず 萬作品が、いまだ公立美術館のない岩手に、全国各地の美術館やコレクターから集められ たのである。 振り返ると、よくもまあこんな大変な冒険をやってのけたものだと、つくづく感心するとと もに、一つの事故も起こらなかった幸運に、感謝したい気持ちだ。私はこの企画の末端に居た 岩手県民会館地下一階の大展示場が、さながら、美術館となった。後に同展が呼び水になり、 関西のコレクター八木正治氏の所蔵する萬作品が、一括して、岩手県に移管されることになる。 それが、岩手県立博物館の近代絵画収蔵品の基礎となった ( 因に同館の近代美術部門とは、萬 を中心に、五味清吉、松本竣介、舟越保武、などの諸作を指す ) 。 また、その後、萬の遺児博輔氏 ( 故人 ) からも、大量の作品寄贈がなされた。したがって、

9. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

このまま茅ヶ崎あたりにびったりとあてはまるような記述をしている。 海は見馴れて居るので、其方には窓もあけす、内輪は農家などよりも安楽であろう とも、見たところはいつも侘しげな生活をして居る。一一三の別荘地や海水浴場、もしくは 家の前を車が走るような、街道に面した場所は別として、他の多くの漁村はルれている。 ( 略 ) 町の賑やかで明るい生活ぶりは、いつでも其対象を農村に取って考えられるが、農 村も平野の交通の便宜を得て居る者は、一部は既に町であり郊外の生活である。そうで無 くても色々の埋め合せのあることを知っている。其収入が幾何か今より豊かであったなら、 必すしも外を羨ますに住む術も知っている。港と縁の薄くなった砂浜の村々こそ、精確に ちょうど町と裏表な生き方をして居るのである。 という具合だ。 明治から大正へ、大正から昭和へと、村の景観が大きく変貌する姿を、鋭い観察眼によって 活写する柳田は、海の眺めとか田園の新色彩、などいうさりげない表題で、淡々と綴る。村誌 や町誌、市誌にはデータが豊富であるが、目に映った「風景」は描写しきれているとはいえま 人々の眼に映していたはすのものは、「風景」であって数字ではないのである。 萬もまた、蔔 月に引いたように文章によって茅ヶ崎を綴っている。〈日記を付けた事もなし発 表するなど猶更きらい〉などといいつも。正確な数字がないぶん、かえって萬の眼がいきいき と動いている。 むら

10. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

第三章描かれた湘南 んでいただきたい。『美之國』大正十五年一月号にこうある。 大正八年頃こちらに移転した頃には随分めすらしく変な気がしました。太く長い大根が 畑からぬけ出して枯れ木に登るからであります。枯木一夜にして花を開くたぐいで、あた かも女人の太ももを連想させるなまじろい太と根が澄みきった青空をかっきりと区切って 自らの空間を占領すると申した丈では、僕の様などん感人にあらすとも田舎通ならざるご みを吸って生きる都会人などには説明がたらぬ様に思いますので、猶少々申上げます。 一体この湘南地方と言うものは大昔には海の底にあったのか、何丈掘るとも出て来るも のは皆砂ばかり、そこで肥やしさえたんとやれば、大根ののびる事いやが上にも長くそう して太い。その質はいいか悪いか僕にはわからないが決してますい事はない。潮風になぶ られて、変に赤黒く乃至黄黒く紅葉 ? した木々の葉が何処かしらへ消えてなくなり、魚 の骨のような枯木が暖かい陽に照らされてわら葺きやトタン屋根の間から青空に突き立っ 頃・・・・ : 十一一月頃・・・・ : 今日はその十一日である・・・・ : となると大根も熟したという訳であろう、 一斉にひっこぬかれて高い木の股へひっかけられるのである。朝陽があたってから起きて 見ると昨日までなかった木の枝一面にひっかけられてあるからびつくりもする。いやはや どこもかしこもこれになる。これを花と見れば花咲爺でもやけた灰をまいたんではないか と思う様な感じである。大きい木なら千本近くもらさがるのがあるようだ。処でこの大 根を直接に買うと百本で一一円位とは吾吾プロには有難いが肥えびしやくの御百姓の先生方 125