昭和 - みる会図書館


検索対象: 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ
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1. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

または別の理由によるのかさだかではない。 大正十五年、再び美校入学に失敗する。父親から「最後の学費」として渡された川端画学校 の月謝を額縁代に当て、父や萬に内証で、国画会創作協会 ( 後の国画会 ) に応募した。洋画部 が新設されたのである。この審査会で、梅原龍三郎の眼にとまった。 昭和二年、十九歳の春、第五回春陽会展に、「冬の風景」が入選する。師萬の属した、春陽 会には、たびたび出品を試みたが、この年が初入選であった。同展の会期中の五月一日に、萬 鐵五郎の死にあい、大きな衝撃を受ける。 せつかく入選し、師の後を追うにも、師が居ないのである。昭和五年、協会の第一一回展が公 募制に切り変わったのを機に出品 ( 入選 ) し、会員の野口彌太郎や林武と識り合うことになっ この頃から ( あえて萬の死以降と書きたいが ) 、藤沢の父の許から離れ、横浜や荻窪の友人 達のアトリエに居候を続けるのである。 『美術新論』 ( 昭和三年六月号・槐樹社同人編輯 / 美術新論社 ) の、「月報」という案内欄に、 〈「萬鐵五郎追悼会」四十年社主催で五月一日 ( 萬の命日 ) 南品川三ッ木・妙光寺に於て〉 との記事を見つけた。当日の、出席メンバーは誰だったのだろう。原はこのときの会に出席 したかどうか。 ( 同し。ヘージの一段上に、一九三〇年協会の講演会の記事が載っている。〈五月 一一十日午後一時から講演会を開催、前田寛治、外山卯三郎、児島善三郎、里見勝蔵諸君の講演 114

2. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

があった。場所は代々木山谷一六〇の同協会の研究所。なお第二回は六月十七日に開催の筈に しい時代だったよ、つであ て里見勝蔵、中野和高、林武、外山卯三郎等諸氏の講演がある筈〉。 る ) 。 画家が美術について所信を、自由に語ることができた時代。〈五月十日より、プロレタリヤ 美術展が十五日迄新宿紀の國屋にて〉の記事もある。付記すれば、『美術新論』昭和三年八月 一日発行の八月号の、「噴泉」という囲み記事のページに、東京・物刻という名の人物が、 〈 ( 一 ) 因襲伝統打ち破り無産美術を取り惧ぎ世界普ねく健全な究真美術を樹立せん ( 一 l) それ ママ 伝統は頽廃し無産美術は堕落しぬ旧套を投げ危惧な棄て本然の美に蘇へん ( 三 ) 浪漫主義や古 典主義表現未来派出で来れど今全滅の悲運なり末梢の美に過ぎざりき ( 四 ) 赫灼燃ゆる太陽と 萬象躍る我が大地は無窮荘厳絶大の本然の美を接するなり〉などと書いている。 続いて、大阪の三木貞男は、〈プロレタリア美術実践理論と実践の弁証法的一致に対する諸 問題〉と題したエッセイを投している。 と萬の死後一年の、束の間の、プロレタリア美術運動のわすかな証し、一冊の商業美術誌にき ケざまれた運動の軌跡ととれる。 昭和四年 ( 一九一一九 ) 、二十一歳の原精一は、昭和五年協会第四回洋画展 ( 東京府美術館 ) に 二「あねもね」を搬入し、入選した。四月には、現役として東京目黒の近衛輜重兵大隊に入営す 115

3. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

総じて土沢の桑畑の緑は、土沢風景にとって、とりわけ猿ケ石川両岸の丘にきわめて大事な ミドリ群を形成していたことが十分想像できるのである。 素香 土沢の画人に、菊池素香という人がいた。嘉永五年 ( 一 <ßll) 八月十九日から昭和十年 ( 一九三五 ) 六月十四日迄の人で、名を文次郎、字を遠嗣といった。号を、素香のほかに桑園また は雪翁とした。父菊池勇八の長男として、十二ケ村 ( 現・東和町土沢 ) の農家の屋号「川端」 に生まれている。 「東和の画人たち」展 ( 「萬鉄五郎記念館」・昭和六十三年一月 5 二月 ) で、私は初めて、素香 の「仙峰春色図」を見た。 六十七歳頃のものであるらしい。岩や松のタッチが、どこか萬の南画を想起させて、不思議 に思っていたところ、同館の学芸員の平澤広氏が、こんなふうに話す。 〈あくまで、伝聞ですが、素香は萬の師とされ、少なくとも萬・菊池家の交流はひんばんだっ た事は確かです〉。 素香を少し追ってみよう。菊池素香は、菊池黙堂 ( 天保六年 5 明治三十一一年五月十六日 ) に

4. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

う、とうなすいた次第であった。何故なら田口商店とは盛岡きってのモダンな商店で、いち早 商品にカメラを扱い、現像も行、つよ、つな先端的な店だったからである。店主・田口忠吉 ( 明治十七年 5 昭和一一十六年 ) は盛岡に生まれ、盛岡中学校から早稲田大学商学部に学んでい る。ウインドウに詩とデッサンを、ディスプレイするよ、つな商店主の感覚は、ハイカラ派を自 ソとしな 認する本町の人にも一目も二目も置かれて人気を得ていたようである。今はあまり い本町だが、大正・昭和初期、盛岡でもっともモダンな町であった。 ウインドウに四季派に近い詩人・加藤健 ( 医師・油町 ) の詩をかかげたこともあったとは、 私の父親 ( 葛西千代吉・八十三歳 ) の記憶である。どうやら田口商店は、今でいう企画プロデ ュースにも長けていたのではあるまいか。 萬と、田口との接触は、萬が少年期からカメラをいじっていたことと関係があるだろうか。 それとも、誰かの紹介によるものか、詳かにしない。匕 虹画会 ( オール岩手の、美術・工芸・ 捕図案家のサークル ) の、盛岡メンバーの紹介かも知れない。 いすれにしろ、百五十五名分もの申込みを受けて、萬は、すいぶんと張り切って墨絵を描い いいたいような制作は、翌年の上京後も続いたよう たに違いない。その作業は、あえて作業と 田 である。一言で断じてしまえば、その大半はパン画である。だがそうとばかりはいい切れない 章 三作品も中には遺っている。 三ページ参照 ) は、佳品である。今 大正四年頃の、帰郷時の作品とされる。「土沢風景」 ( 一 165

5. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

第一章土沢と萬 「ササチョウ」の脇を右手に、なだらかな坂を辿 る。左手の丘の上に、土沢中学校が姿を現す。そ のすぐ下の、丘の中腹に、ユニークな形態をした 記念碑が建つ。 昭和四十年五月一日、萬の命日に建立された。 これは東和町安俵に在住していた、故・及川全三 氏の提唱によるものだった ( 及川氏は、柳宗悦の 門下で、柳の諸論をささえに、土沢の地にホーム スパンの工房をもった国画会会員である。一時は 一三ロ 郎仙台に在った三島学園女子大学生活美術学科 鐵 ( 現・東北生活文化大学 ) の客員教授でもあり ホームスパンの普及に力があった ) 。 小菅精一著『萬鐵五郎素描』 ( くさかご社 ) に よれば、趣意書ははば次のようなものであるらし 。〈短い四十二年の生涯を相州茅ヶ崎で絶えて 三十六年、故人への追慕の心いよいよ切なものが ある。 / 近年回顧展が二、三開催され、画集の出

6. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

萬の住居跡、と目されるあたりは、今 ん 日、まったく往時の面影をとどめていな 子 昇いかも知れぬ。といっても、それは建築 倉戸物などによってかもしだされる、たたす 吾のまいに関してである。 出 さて、夏の午後の茅ヶ崎再訪である。 」モ件の住居は、とっくにとりはらわれ、 生酢現在は、小ざっぱりした和風の家が建つ 萬ている。 ここが萬住居の在ったところ、とこと わられぬ限り、茅ヶ崎天王山木村別荘跡とは、誰も気づかない。 ところが、隣家、旧萬住宅に向かって右隣りの倉本家周辺には、往時即ち ( 大正末 5 昭和初 期 ) の雰囲気が、いまだに濃厚に漂っているように思われる。 倉本家の裏手の木々の緑と、園芸の、 ( 大正初期の、家庭的菜園の奨励の伝統を受けついで 居るかのような ) たたすまいがそのように感じさせるのかも知れない。樹木や、野菜や、花の 姿や形は、大正も今も変わりがないのだから。例の番組の際の訪問では、この地に生まれ育ち、 幼児の頃、隣家の、〈萬鐵五郎先生〉の姿を、しつかり瞼に焼き付けている倉本昇子さん ( 現

7. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

萬鐵五郎 ( 一八八五ー一九毛 ) 萬鐵五郎は明治一八年に岩手県東和賀郡に生まれた。油彩画・水彩画・水墨画 ( 南 画 ) ・版画に多数の作品を残した。 大正八年、東京から此の地に移り住んで、南湖の海辺や柳島の風景などを描き、また文 ケ章の中にも折々に当地が出て来る。昭和二年五月一日茅ヶ崎四二七五番地 ( 南湖四の五 ) の自宅において死去した。享年四一歳五か月。 彼の芸術は日本近代洋画史上に大きな足跡を残した。 南湖・柳島の地名も萬の筆によってより広く、また永く知らしめられることになった。 かかわるものであった。だが、この、萬の 再顕彰。ハネルに、肝心の石碑はなかった。故 郷土沢の、土沢中学校の南斜面の木陰にひ っそりと立っているユニークな記念碑を私 は想い浮かべた。 しかし、この、簡潔なパネルも決してわ 雲るくはない。文字を追ってみることにしょ

8. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

萬の弟子・原精一 画家・原精一は、萬の死後、何度か土沢を訪ね、〈海のない茅ヶ崎〉を、土沢に再確認して 萬が折りに触れ語った〈木の間から見下した町〉をわが身で体験するために訪ねる土沢なの だが、林の中を散歩してつくづく想い到るのは、茅ヶ崎の、萬のアトリエ周辺との類似であっ 原は、東京は成城のアトリエで、かって、プランディグラスをゆすりながら、私にいった。 〈土沢は、初めて行ったときに、もう何遍も来たことがあるような気がしてね。懐かしいんだ なあ。ああこれも知っている。ここも。そんな風に感じたものだ〉。 日本の風景は、どこでも似たりよったりだといってしまえば、それまでだが、確かに、土沢 と茅ヶ崎は、一本の赤い糸で結ばれているように見えてならない。私も画家の足跡をそのまま 迪って行くうちに、そのような確信が、ごく自然に湧いてきたのである。 昭和六十三年十月九日から、十一月二十七日迄、岩手県東和町の「萬鉄五郎記念館」で回顧 形式で原精一展が開催された。企画の趣旨を、平野圭一館長のあいさつに拾ってみよう。 110

9. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

その両側に家並が、軒を重ねる街道宿場町 マの、なしみの風景は今でも残っていないこと の 」もないが、薬局の店頭の旗、宅急便の看板な ウ ョど新興広告があふれており、土沢でな サければ見られぬていのものはなにひとつない。 これも御時勢である。 ン なかで、昭和六十一年頃から各専門店の店 頁こ、油彩の、木製パレットの形をかたどっ ザ一口メ : デ がた小型看板をつけたのが目につく程度で、か 当萬 ろうして、画家萬鐵五郎誕生の地のあかしと いうわけだろう。 町の中心部の山側に、高いエントツがつっ立っている。上部に「ササチョウ」の文字と、笹 の葉のマークがあり、「佐々長醸造」と丸ゴシック体でしるされている。 かって、萬の画室があった場所は、醸造会社の駐車場に向きあうようなかたちで、「及川玩 具店」と「クリーニング平野」の店舗となっている。因に、笹の葉を図案化したマークは、友 人である社長の依頼で萬がデザインしたとされるものだ。誠ー こオーソドックスなパターンであ る。

10. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

第一章土沢と萬 した位置と目された場所に、町立の、「萬鉄五郎記念館」が、白亜の姿で建っている。 「記念館」の建物が、ごく近頃の昭和五十六年頃の設計にしては、ちょっとちぐはぐな形をし ていると思ったら、かって、萬の土沢時代に、アトリエとしていた、萬家の本家前にあった電 灯会社の形態を模した為らしい。一つだけ、つけ加えれば、「記念館」前の土手の下に ( とい っても、町からは高台の一角にあたる ) 、弟泰一氏 ( 故人 ) の住まいがひっそりと静まり返っ ている。 「記念館」の話では、生家八丁の蔵は、解体され、町 当局のはからいで、いすれは復元の予定とのこと。 1 三ロ 「記念館」に付属した、ギャラリー棟が計画されてい 鉄ると聞く。余計なことだが、古材が腐らぬうちに、寸 画が実行されることを祈るや切である。 「記念館」に陳列された幼年時代の資料がおもしろい 萬の母ナカが作って与えたと思われる、カラフルでモ ダンな涎掛け。色糸で幾何学模様のパターンを刺繍し た羽織など、どこに、〈閉ざされた東北〉などあるだ 掛ろうか。明るくハイカラな、そして剽軽な民俗をもっ 土沢が、ガラスケースに納まりきれない気分として、