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検索対象: 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ
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1. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

画家の想像力が、人物を離れ 宀目 物て自由に飛翔するためには、描 き手に、ある決意のようなもの か、つ・がされる、とい、つト ( 、つか 岩 次第もあって、次女像は、年齢 が低い分、長女とみ子像に比べ、 レより一記今的ス己的》に・映ってい 一馨る。そして、絵画的な冒険も、 影をひそめているのである。 この二作と、「水浴する三人 放の女」を同じ次元で語ることは できまい。作品の成り立ちが、 た今迄述べたように、まるつきり異なっているからだ。 井田 茅ヶ崎の海 茅ヶ崎の海岸の開放的な空気が、萬の内側に働きかけ、〈画家の自由な身振り〉が制作を一 133

2. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

少しばかり、沖の方向に泳ぎかけるわが子に、危険だからもどれ ! とどなるような細心な 萬は、この災害に、平静で居られたはすがない。恐らく大いにうろたえもし、恐布したであろ 、つ′ しかしながら、唯一描かれた地震の絵は、誠に冷静そのもので、萬にしてはめすらしく、計 算をした構成的な作品になっている。原田光氏が解説するように、〈萬の関心は、画面を縦に 走る細かな線の文節にある〉ようだ。断続的な緑がタッチとなって、画面上部の空の部分や、 山、緑の樹木の表現にも使用されている。それによって、悪くい ってしまえば、作品がバラバ ラに解体される寸前のようで、そのためか、むしろ効果的に緊迫感を持って迫ってくる。そし て作品に脈打っリズム感が、地震の物理現象を形象化させることに成功している。 私事ながら「地震の印象」を最初にみたとき、画家には申しわけないが恐怖感がまったくと いっていいほど感しられなかった。笑いたくなることがあっても、恐怖が直接伝わってこない のである。マンガ的、とでもいったらいいか ところが、永い時間向き合っていると、この作品が、決して軽くないことがわかってくる。 絵具も比較的薄ぬりで、速写的だ。ねちっこい萬ではないが、使用している絵具が茶色のバ エーションに、オリープ・グリーンの、ほとんどその二色だけが選択されていて、なかなか渋 く強いのである。仕上げた当座は油絵具本来の輝きがあったろうが、今は、乾ききっていて、 ッヤがない。表面が粉つばい、とでもいったらいいか。普通なら、これだけ日時をへると、作 162

3. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

だったかも知れない。 正確なデッサンによって、目に映ったままの対象を描くのではなく、井戸端のたたすまいが、 緑を背景に、茶、白茶のストローク ( 木の幹と枝 ) によって大胆に解釈され、こなされて描か れている。かといって、井戸とか樹木であることが分からぬわけでもないのである。つまり半 具象、といえないこともない。むんむんとする夏の緑が匂い、あたり一面に、草いきれがたち こめる。 色感的にはゴーギャンの、タヒチ時代の作品を想起させる。画面の緑と茶のせめぎ合いは、 よくいえば圧倒的な強さで、迫ってくる。一方、見方を変えて、若干斜に構えるなら、少しば かりしつつこくないでもない。どんなにシャレのめしても都会派と切れる田舎者の、ねちっこ さ、なのかも知れない。勿論それが悪いわけではない。だからこそ、萬作品を成立させている、 美術史的な位置づけがあるのだ。土俗と呼ばば呼べ。 「桑野風景」 ( キャンバス・油彩 / 大正九年 ) を見てみよう。 萬アトリエの裏手は、桑畑であることは既に書いた。窓を開ければそこは畑で「其日々々」 ( 前出 ) に書いたような、〈ーー木の新芽はにわかに萌え出した。新緑の色にびつ くりさせられ る。若い緑はあまりにだしぬけで麦わら葺の屋根の死んだ灰色と調和がとれないのも春らしい 若い革命的の気持ちだ。〉 ( 傍点・引用者 ) というような風景であった。〈若い革命的の気持ち〉 とは、圧倒的緑世界と、それに相対している自分の内的な精神のありようの二つを同時に示し

4. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

が神聖視されたという説 ( 菱沼勇・梅田義彦『相模の古社』 / 学生社 ) 、 などなどを総合 にみて〈少なくともサガミ ( もしくはサがム ) とサがが重なっているのは確かではない かと思われる。そしてカワが川か泉かはともかく、水の恵みをたたえるための命名と考えれば、 それほど一一者択一的に問い つめるまでもなさそ、フな気がする〉と納得していた。 萬が「寒川神社」に、特別な関心を抱いたような記録は残ってはいないか、北国生まれの彼 が相模の国で、サムカワという名に、惹かれたに違いないことは想像するに難くない。 茅ヶ崎駅で東海道線から、相模線に乗り換えて、ものの十分もしないうちに寒川駅に着く 駅から徒歩で二十分ぐらい。長い参道の両側には石垣が組まれている。神域の森は、意外に明 るく、萬の故郷の神社の数々にみられるような暗い杜の気配はなく、何故か、海が近いことを 想わせるのである。 ところで萬の、茅ヶ崎時代の後半期は、識者の指摘するように、一口にいって、〈東洋の伝 統画への接近〉という事ができよう。 陰里鐵郎氏も、土方定一の先駆的考察の流れを受け、その研究レポートの中で指摘している 崎 ケように、洋画家としてというよりは、〈近代的な画家〉として、独自の角度と視点から、東洋 の伝統絵画に接近している、とする。おびただしい水墨画の制作、と同時に、萬は江戸期の文 章 二人画家について研究も行っている。 やがて、健康状態も次第に回復し、大正十一年、十二年ころから、再び本格的に、油彩画と

5. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

有隣新書刊行のことば 国土がせまく人口の多いわが国においては、近来、交通、情報伝達手段がめざ ましく発達したためもあって、地方の人々の中央志向の傾向がますます強まって いる。その結果、特色ある地方文化は、急速に中央に浸蝕され、文化の均質化が いちしるしく進みつつある。その及ぶところ、生活意識、生活様式のみにとどま らす、政治、経済、社会、文化などのすべての分野で中央集権化が進み、生活の 基盤であるはすの地域社会における連帯感が日に日に薄れ、孤独感が深まって行 われわれは、このような状況のもとでこそ、社会の基礎的単位であるコミュ ニティの果たすべき役割を再認識するとともに、豊かで多様性に富む地方文化の 維持発展に努めたいと思う。 古来の相模、武蔵の地を占める神奈川県は、中世にあっては、鎌倉が幕府政治 の中心地となり 近代においては、横浜が開港場として西洋文化の窓口となるな ど、日本史の流れの中でかすかすのスポットライトを浴びた。 有隣新書は、これらの個々の歴史的事象や、人間と自然とのかかわり合い、と きには、現代の地域社会が直面しつつある諸問題をとりあげながらも、広く全国 的視野、普遍的観点から、時流におもねることなく地道に考え直し、人知の新し い地平線を望もうとする読者に日々の糧を贈ることを目的として企画された。 古人も言った、「徳は孤ならす必す隣有り」と。有隣堂の社名は、この聖賢の 言葉を由来する。われわれは、著者と読者の間に新しい知的チャンネルの生まれ ることを信して、この辞句を冠した新書を刊行する。 一九七六年七月十日 有隣堂

6. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

前に立って、立体派的思考の萬というよりむしろ、神楽の装束や、嵌め絵としての〈鶏かぶ と〉〈背矛兜〉を想起してしまうのである。一九八七年、ポンピドー文化センター ( パ 開催された「前衛の日本」展の中の「もたれて立つ人」は、ヨーロッ パの美術史のコンテクス トの上で捉えきれないなにかが、あらためて感しられたはすである。 日本神話の、土沢的展開 ? としての神楽を、萬鐵五郎という画家は、さまざまのテーマの もとに、描いていったのだ、と説くと、大いに誤解を招きかねないのではあるが 郷土と画家・勝平得之と萬鐵五郎 土沢と萬から少し離れて、一人の画家のことに触れよう。画家と、その生地の、「風土」に かつひらとくし ついて考えるとき、私は同し東北の、勝平得之のことを想起する。画家と風土のかかわりがご く自然で判りやすいからだ。 とはいうものの、勝平といっても、恐らく、そんなに、一般的ななしみの画家というわけに いくまい。中央でも、場合によっては、生地の秋田に於いてさえ、一部に識られる程度では あ - るまいか 勿論、そんなことはどうでもよろしい。画家には作品があるのだから、長い時間の経過の中

7. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

とり組む。こうした最晩期を、主要作品を発表した春陽会から名をとって「春陽会時代」と呼 ぶことも可能であろう。現にそのように呼んでいる研究者も居る。 文人画や、水墨画から得たもの、南画精神に鼓舞されたものは、陰里氏のことばを借りれば 〈日本の油彩画〉をも生みだす。今迄、試み続けてきた、フォーヴィスムやキュービスム的造 形も、ある種の風格をともなった、自信作としてあらわれてくる。 体力の回復は、健康な日常的好奇心を呼びおこし、行動半径の拡大につながったようである。 南画的モチーフ探しは、遺された多くの作品にあたってみることによって、そのことをうかが 、フことができる。 南湖仲町、下町あたりから、足跡は、さらに西南湖下方面に迄、延ばされているようだ。作 品については、別章で考察するとして、ここでは、健康回復によって急に身が軽くなった現場 主義 ( 現場にたって筆をとる、という程度の意 ) の、行動作家の一面を指摘するにとどめてお きたい。 さながら、土沢帰郷時代の、現場主義のマメな動きが、茅ヶ崎で蘇ってきたかのようである。 平塚よりの相模川沿い杣島。その付近に、すい寄せられるように近づく萬に、なにを見ればい いたろ、フ。 千ノ川と小出川の合流地点は、地元では〈だらだらおり〉と呼ばれていたらしい。現在のた たすまいからは、とうてい想像できないか、 川幅と水量が実に豊富だった。水田地帯もひらけ

8. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

或は小笠原島の方面からコロコロとロールして来る波が砂の岸を洗って居る。〉 ( 「重陰日誌」 傍点・引用者 ) のような風景。コロコロとロールしてくる波とはいい得て妙で、茅ヶ崎の海岸 は確かにそんな日もある。このような、雄大にして、しかも叙情味をたたえた海と画家との取 り合わせは、動機はともかく、なにか運命的ですらある。 約一年間の静養で、萬の健康はほば回復するわけだが、それはやはり、茅ヶ崎の風景が一層 それを早めさせたと思われないわけでもない。なにかこう、あっけらかんと明るいと、食欲だ って湧くに違いない。 数葉の写真に見るこの頃の画家の姿は、小柄で、まるまると太っている。深刻さをたたえて いる「木の間から見下した町」の作者とはとうてい想像できぬ。楽天的で、もの静かな萬の風 貌と砂浜の取り合わせは、そのまま絵になりそうだ。茅ヶ崎時代は、萬の一生にとって、ある 種の、誤解を恐れすにいえば、〈夏休み〉のようなもの、という一面もあったのではあるまい 萬の残したエッセイや画論は、普通の画家達に比べるとはるかに多い。文章など、誠にめん かどうなもので、画家は絵だけを描いておればそれでよろしい、という一般的な風潮は今でもそ 廿田 う変わらないが、萬の時代も、今以上そのように想われていたに違いない。その一方で、展覧 章 三会批評は、同じく絵を描く画家同志が、それぞれ担当し、印象を記述し合うという、習慣であ った。萬も、それを試みている。 、 0 119

9. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

と異なる海の持っ底知れぬ恐さがぬぐいさら れていないところにあるのだろう。親密性と 恐怖とのないまぜの感覚。岸を離れた子供達 を呼びもどそうとする萬の声が、聴こえてく るのである。 後年萬の描く波頭が図像的で、いかにも図 式的であることの意味づけ迄、ここにもって くるのは、虫ー 弓弓かと田心、つ・か、いず・れ海ぎら ) ( 風景としてではなく、海そのもの、波にた わむれ、身をゆだねること ) の一面を知って おく必要がありそうだ。 風をはらんだ二階の窓からでも、海の研究 はできる、と彼は断定する。確かにできない ことはないだろ、フが、ここのところ、少しば 風かり、カラ元気にすぎるのではないか。 ケ「茅ヶ崎風景」 ( キャンバス・油彩 / 大正十 五年 ) を見てみよう。海こそ描かれていない 136

10. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

った。そこには、描いて描いて描きまくるしか、精神的脱出の道はないのである。 さながら、アルル時代の、ヴァン・ゴッホの様にといってしまえば、うがちすぎになるが、 萬に、ゴッホ風な、麦畑と太陽の油彩や、スケッチが遺されている。 ( 大正三年九月 5 五年一 月に使用されたスケッチブック ( 鉛筆素描と着彩 ) は主に風景。同じく大正三、四年頃に使用 されたもう一冊には自画像と裸婦で、形態の誇張、変形などの実験が試みられている。岩手県 立博物館蔵 ) 。起きていれば即ち描いているような生活ーーーとは、画家冥利につきる話だが、 萬の内心は、そんななまやさしいものではなかったかも知れない。 大正四年 ( 一九一五 ) 十一月三日、岩手毎日新聞に「萬鐵五郎画会」を告げる広告が掲載され ている。画会は、肖像、風景、掛軸の三部にわかれ、会費をもって作品を頒つもので、萬の生 活をささえる手段であることは想像に難くない。自らの制作と、わるくいえばパン絵の分裂は、 ないのかあるのか。 前者こそが、土沢時代を代表する静物であり、自画像であり、何冊ものスケッチブックなの だろ、つ。 それら作品の画面上の混沌は、実験的作業をあえて行った結果であるのか、そうではなく単 なる混沌かは、ほとんど見わけがっかない。茶褐色を主体とした、単色調の造形的にはキュウ ヴィックな油彩が示すものは、郷土を一旦離れた者のみが抱く土地に対するさまざまな想念を、 内側に秘めながら、再びその風景の中に戻るとき、はじめて視えてくるだろう風景の奥ゆき、