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検索対象: 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ
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1. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

きからながめた隣家の、萬鐵五郎家は、どのように映り、また画家の姿はどんな印象を与えて いたのか、しばらく昇子さんの話を聴こう。 萬さんのお宅の手前に、つまり私の家と萬家の間に、茅葺の物置小屋がありました。農 具とか、ガラクタをしまい込んでいるような ( ですから、正確にいえば、萬家と倉本は、まっ たく軒を接した隣り同志というわけではないことになります ) 。十五坪ぐらいの物置で、勿論 わが家のものでした。 この小屋は、道路端に沿っていたので、ひとっ下がった倉本家からは、萬家の様子がよく見 えていたらしい 『鉄人画論』 ( 前出 ) に載っている当時の写真 ( 萬の撮影か ? ) に目をこらすと ( 「大正八年以 後に萬鐵五郎が住んだ茅ヶ崎の家」とキャプションがふられてある ) 、確かに萬家の隣に茅葺 の小屋がある。手前が畑で、道路は狭い。現在でも狭いが、その三分の一もないのではないか。 なんの樹木だろう、両家の間 ( 小屋と萬 ) に大きな幹が伸びている。 「重陰日誌」というェッセイの中にこうある。 七月 x 日窓の外が騒々しいので、のぞいてみたら、僕がいつも窓から書く榎に子供が 鈴なりにたかって居る。木に登っては枝伝いに枝の先の方へと下りて来るのもある。途中 から落ちて尻餅をつく奴もある。幹からはい上がるもの、枝にぶらさがるもの、上から小 便をするもの等仲々面白そうである。丁度北宋風の古画によくある、「猿猴図」の様であ

2. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

て、画面に、見る側の想像力をうながすような、そんな気分の人物達であったが、「海辺」 ( キ ャンバス・油彩 / 大正十四年ー十五年 ) では、むしろ描かれている主体は人物そのものだ。 左手に渚。一一隻のポート。右手に漁船の先端が、ぬうっと頭を出している。その下を、白捩 鉢巻の男が大またで歩いて行く。その瞬間を、シャッターチャンスよろしく撮ったようなタイ ミングの画面である。もとより、速写の名手萬にしてみれば、さしてむすかしいことではない のだが、 ここはやはり、画面の上で、何枚かのスケッチを手元にゆっくり構成したのだと解す べきだろ、つ。 人物の顔や形が、かなり身近に感じられる一方で、この距離では、今ひとっ完全な手元に引 きつけた人物画といえないような、そんな海辺の風景である。 萬鐵五郎の作品がちっとも理屈つばくないのに、見る側が、懸命に〈読みすぎる〉のはよく ない。あっさり見てみよう。 それにしても萬の作品は、外来の画材である油彩の技法を、ねしり伏せてしまおうとするよ うな気迫がある。闘っているのである。その闘争心が、とき折、観る者を威圧することがある。 140

3. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

ち 川 ん 迎 疋 寒 さ ん へ 全 ま る の あ る っ し て 浜 り と 称 し 川 さ 第二章茅ヶ崎と萬 に格 。神はか砂は第玩き集 々屋長て砂で 昱か ノレに ホ押色着 暗の 々物 い御十記 う祭五憶 がる べて にな ては、 の屋 っき 川の五実 ぶた ハで 。の はれ どて の居は減 かが 部そ内 / は平を浜 集れ に里寒やよ小洋出にん であ四川 女良う ば島 明 , の約 し習 よ慣 で約十あ へも ケる ケ神凡此江島面実五見 に里世か形き そ社 谷て ばか神は ねオ ら其 ロ砂掛他 み神 社御 。る り御 て夜来な すり 寒中 日右真来下人 の正るす達子他人 つあ寒方面波 る 寒で其社伊 の ′つ ま り ハ 里 四 。方五 。神社て は、 り 下 ; お川斉は の が家り と た さ斉訳 に を御多 お祭分 り と る あ る そ か り し の つ 川 の 御 り と っ も がが里 の寒一位近 に の で の は祭山見洗 々 く さ て る に社す か ら 処 社二す あ ろ つ は す に ズー 言薄筈居ア だ か左天 の 方 る方神かれ原夜 ん の が ぐ く に み ぇ の : 岸 を っ て る 「気 の に加イ ぇ け だ大方 の の迄島三ら雄四 山 カゞ を き な が ら キ ヤ は ワ 薄さ或太世 笠 か ロ コ ロ と し にが或次の行が 々 せ て 。或る物集 あ る コ大方 い 山 て見る と 目 な、 か 。見 のすは 、のけ処屋手 だ位す 出 ルかて菓・ ク ) のを赤 ま つ 、、来た る 。果 其物に を 出 け駄男 ら来子女方 屋 つ る た着坊けち を お し さ を ひ れ オこ じ い さ のんま 、皆ら が供所間皆 と 浜 い来山朝社 。出 掛 て 。み続仕妙 た に と を の っ の訳川 に 行起日 る 蟻で頃 い方一 な く に う起馴 そむ家 い 目 を にこ達 八す力 、かこ祭 り 彳申 り の の 田 本 の ら さ 、れ の も の だ と 寒七事 月 X 日 日 た の フ ち に 残 ′つ て 居 る 事 を く と し ま 89

4. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

とり組む。こうした最晩期を、主要作品を発表した春陽会から名をとって「春陽会時代」と呼 ぶことも可能であろう。現にそのように呼んでいる研究者も居る。 文人画や、水墨画から得たもの、南画精神に鼓舞されたものは、陰里氏のことばを借りれば 〈日本の油彩画〉をも生みだす。今迄、試み続けてきた、フォーヴィスムやキュービスム的造 形も、ある種の風格をともなった、自信作としてあらわれてくる。 体力の回復は、健康な日常的好奇心を呼びおこし、行動半径の拡大につながったようである。 南画的モチーフ探しは、遺された多くの作品にあたってみることによって、そのことをうかが 、フことができる。 南湖仲町、下町あたりから、足跡は、さらに西南湖下方面に迄、延ばされているようだ。作 品については、別章で考察するとして、ここでは、健康回復によって急に身が軽くなった現場 主義 ( 現場にたって筆をとる、という程度の意 ) の、行動作家の一面を指摘するにとどめてお きたい。 さながら、土沢帰郷時代の、現場主義のマメな動きが、茅ヶ崎で蘇ってきたかのようである。 平塚よりの相模川沿い杣島。その付近に、すい寄せられるように近づく萬に、なにを見ればい いたろ、フ。 千ノ川と小出川の合流地点は、地元では〈だらだらおり〉と呼ばれていたらしい。現在のた たすまいからは、とうてい想像できないか、 川幅と水量が実に豊富だった。水田地帯もひらけ

5. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

に点々と、草が生えている。はるかに、一線に視える町があって、一本の煙突から煙がたなび いている。それが、横に一直線になっているところを見れば、風の強い日なのかも知れない。 画家が一人、ばつんと、砂丘に立っている。下駄と素足の間に、砂がまとわりつく。心地よい 孤独感がひたひたと寄せてくる。 図柄からいって、ほとんど同じ角度からの「高麗山の見える砂丘」 ( 大正十二年頃 ) は、や や前作よりダイナミックなものになっている。煙突の大きさもだいぶ大きめに扱われているの で、画家が町の方向に歩みはしめたのかも知れない。左手に、防砂林らしきものが見えてくる。 筆触が、ゴッホ調に、めくれあがって、画面が活気づいている。 「タ陽の砂丘」 ( 大正十二年頃 ) もすてがたい作品だ。斜めに走る海辺の砂地に、小屋と、引 き上げられた船が、しばし休息している。風がある。タ陽の刻が来た。淡彩といっていいほど の色の濃さが、ひかえめにはどこされているため、見る側は、多少、自ら色味を加えて作品の 中に入ってしまう。そんな感しの水彩である。〈油彩に疲れたとき〉の萬なのかも知れない。 薄くぬるため、絵具の彩度が、かえって高められ、〈鮮やかな色を軽く出す〉ことができるの だろう。萬は、水彩を楽しんでいる。美術論をたたかわし、理詰めで画面を構成した闘う画家 の姿はここにない。 さながら、郷里の土沢、スケー 茅ヶ崎の海岸の自然は、萬をすつばりと受け入れてしまい ルの大きな土沢として包み込んでしまったに違いないのだ。ここしばらく、画家の休暇を共に 154

6. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

層うながしたのではないか、と、既に書い 萬と、茅ヶ崎の海は、どのように係わっているのだろうか。 別章で引いた詩人尾形亀之助を再び登場させるなら、〈ーー鎌倉・逗子の印象を一言で要約 すれば、それは海である。海の耀き、潮鳴り、松籟、磯の香、山巓の木暗い僧房から望む小さ くかぎろう海。「海」という字から、冫と ( をとると「母」 ( 略 ) 、亀之助は肉親と縁遠く ( 略 ) 、鎌倉で暮しながら海を見なかった。鎌倉にいて、鎌倉にいなかったも同然だと、私は思 う〉 ( 『評伝尾形亀之助』 ) との秋元潔氏説の亀之助と違って、萬は、海とよく親しんだが、こ れは一風変わった接し方だったように思われる。 どこがどんな風に変わっていたのか。萬と茅ヶ崎の海の接触をみてみよう。 八月四日僕は海水浴には冷淡の方である。それは色々と煩雑で困るからでもあるが、 時間も損だと思うので殆んど行かない。毎年幾人かの水死人がある様だ。昨日も一人死ん だということである。そんな事から散歩の序に一寸海の方へ廻って見る。東海岸の方は大 分新しい家も建った様である。バラック風の洋館もある。二階の窓から風をはらんで居る。 あの窓から海の研究が出来る。窓に海を取入れたマチス風の構図なども出来るだろう。浴 場は此の頃大分賑って来た。砂丘を歩くと焼けた砂は足に火ぶくれでもでかしそうである が、水ぎわに立っと流石に凉しい。生き返った気がする。流行の海水着で入っている人も 可なりある。赤いの、青いの、そして白粉は厚い程よく、眉は濃く引かれた程よいだろう。 134

7. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

少しばかり、沖の方向に泳ぎかけるわが子に、危険だからもどれ ! とどなるような細心な 萬は、この災害に、平静で居られたはすがない。恐らく大いにうろたえもし、恐布したであろ 、つ′ しかしながら、唯一描かれた地震の絵は、誠に冷静そのもので、萬にしてはめすらしく、計 算をした構成的な作品になっている。原田光氏が解説するように、〈萬の関心は、画面を縦に 走る細かな線の文節にある〉ようだ。断続的な緑がタッチとなって、画面上部の空の部分や、 山、緑の樹木の表現にも使用されている。それによって、悪くい ってしまえば、作品がバラバ ラに解体される寸前のようで、そのためか、むしろ効果的に緊迫感を持って迫ってくる。そし て作品に脈打っリズム感が、地震の物理現象を形象化させることに成功している。 私事ながら「地震の印象」を最初にみたとき、画家には申しわけないが恐怖感がまったくと いっていいほど感しられなかった。笑いたくなることがあっても、恐怖が直接伝わってこない のである。マンガ的、とでもいったらいいか ところが、永い時間向き合っていると、この作品が、決して軽くないことがわかってくる。 絵具も比較的薄ぬりで、速写的だ。ねちっこい萬ではないが、使用している絵具が茶色のバ エーションに、オリープ・グリーンの、ほとんどその二色だけが選択されていて、なかなか渋 く強いのである。仕上げた当座は油絵具本来の輝きがあったろうが、今は、乾ききっていて、 ッヤがない。表面が粉つばい、とでもいったらいいか。普通なら、これだけ日時をへると、作 162

8. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

また山のアカデミズムを嫌ったのだろうか ) 。 再び「照りつつ降る日」にもどる。この作品は第二回春陽会展に出品された作品である。大 正十二年夏の作ということははっきりしているので、茅ヶ崎移住直後なのだろう。淡彩をはど こし、エンピッのあとを残したような作品に比べ、どちらかといえば、水彩で描いた油彩画と いう印象を与えて、カ作である。三一 x 四七センチの小ぶりなものなのに大きさを感じさせる 土土ロロ、、こ。 ・イーロ / 照りつつ、ときどき降りしきるので、周辺の色が深く濃い。画家は、すばやくスケッチし、 晴れ間をぬって彩管をにぎったのだろうか。 右手に一一股に道が分かれる。角に農家の屋根。手前左手の畑の土の色が濃く、雨あがりの、 水気を含んで沈んでいる。 「雨後の道」 ( 大正十一年頃 ) も、カ作だ。この二点の作品には人影がない。点景として、人 捕物を入れることの多か 0 た萬の作法に、なにか見えてくるものがある。独断的にいえば、人物 たを登場させぬ分だけ、造型に力が入っているのではないか。そのように解したいような以上の か一一点である。 井田 ましめすぎるぐらいきまじめな、萬の水彩を見てきたが、どこかとばけた味わいの、ほのば 章 三のとした画家の姿をのぞかせる作品も、ないわけではない。い や、数の上からいえば、半々ぐ 7 らいかも知れない。それらは、多くの場合、家屋がゆがみ、人物は戯画化され、場合によって

9. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

その両側に家並が、軒を重ねる街道宿場町 マの、なしみの風景は今でも残っていないこと の 」もないが、薬局の店頭の旗、宅急便の看板な ウ ョど新興広告があふれており、土沢でな サければ見られぬていのものはなにひとつない。 これも御時勢である。 ン なかで、昭和六十一年頃から各専門店の店 頁こ、油彩の、木製パレットの形をかたどっ ザ一口メ : デ がた小型看板をつけたのが目につく程度で、か 当萬 ろうして、画家萬鐵五郎誕生の地のあかしと いうわけだろう。 町の中心部の山側に、高いエントツがつっ立っている。上部に「ササチョウ」の文字と、笹 の葉のマークがあり、「佐々長醸造」と丸ゴシック体でしるされている。 かって、萬の画室があった場所は、醸造会社の駐車場に向きあうようなかたちで、「及川玩 具店」と「クリーニング平野」の店舗となっている。因に、笹の葉を図案化したマークは、友 人である社長の依頼で萬がデザインしたとされるものだ。誠ー こオーソドックスなパターンであ る。

10. 萬 鐵五郎-土沢から茅ヶ崎へ

第三章描かれた湘南 んでいただきたい。『美之國』大正十五年一月号にこうある。 大正八年頃こちらに移転した頃には随分めすらしく変な気がしました。太く長い大根が 畑からぬけ出して枯れ木に登るからであります。枯木一夜にして花を開くたぐいで、あた かも女人の太ももを連想させるなまじろい太と根が澄みきった青空をかっきりと区切って 自らの空間を占領すると申した丈では、僕の様などん感人にあらすとも田舎通ならざるご みを吸って生きる都会人などには説明がたらぬ様に思いますので、猶少々申上げます。 一体この湘南地方と言うものは大昔には海の底にあったのか、何丈掘るとも出て来るも のは皆砂ばかり、そこで肥やしさえたんとやれば、大根ののびる事いやが上にも長くそう して太い。その質はいいか悪いか僕にはわからないが決してますい事はない。潮風になぶ られて、変に赤黒く乃至黄黒く紅葉 ? した木々の葉が何処かしらへ消えてなくなり、魚 の骨のような枯木が暖かい陽に照らされてわら葺きやトタン屋根の間から青空に突き立っ 頃・・・・ : 十一一月頃・・・・ : 今日はその十一日である・・・・ : となると大根も熟したという訳であろう、 一斉にひっこぬかれて高い木の股へひっかけられるのである。朝陽があたってから起きて 見ると昨日までなかった木の枝一面にひっかけられてあるからびつくりもする。いやはや どこもかしこもこれになる。これを花と見れば花咲爺でもやけた灰をまいたんではないか と思う様な感じである。大きい木なら千本近くもらさがるのがあるようだ。処でこの大 根を直接に買うと百本で一一円位とは吾吾プロには有難いが肥えびしやくの御百姓の先生方 125