ッ林から檜の植林帯に変わる椎の木茶屋跡呼ばれ、熊野街道屈指の景観を誇る。また、 〇七三五四ー一一ー〇七三五 ( 本宮 町観光協会 ) 、〇七三五四ー二ー に羽 ~ 、。 『紀伊国名所図絵』には、「桜茶屋、坂口 尾根をつたっていた道がこれより山腹をより五十丁目にあり、前に大木のさくらあ〇〇七〇 ( 本宮町産業観光課 ) からむようになり、背後には小口川の蛇行り、故に号く、一軒家なり」とあり、その ■メモ した流れと大雲取の山並が広がる。しばらさくらも二、三株の古木であったようだ。 川湯温泉から大塔川をさかのばっ くして、杉林の中に石垣の残る桜茶屋跡に石堂茶屋跡 て三十分ほどのところに、大塔渓 着く ちょ 0 とした下りの後、谷の源頭で尾根谷とも呼ばれる静川峡谷がある。 小口から桜茶屋跡までの間は、堂の坂とに向けて登り始める。途中で右に赤木への 約八キロメートルに渡って、険し い岩山が両岸にそそり立ち、春は 道が分かれる。四百 六十六メートルの独白いこぶしの花が咲き見られ、夏 はほたるが飛び交い、秋には紅葉 標を小さくからみ終 がすばらし、。 えると、道は西に方 向を変え、やせ尾根 上を辿ることになる。 付近はアセビに混じ ってつつじの類が多 くなる。やがて薄暗 い杉・檜の林の中に 、入り、道がおだやか になると、左手に休 憩所と石垣跡が目に 止まる。石堂茶屋跡 で、水場を示す道標 もある。 4
いにしえ人たちの叱をとらえた野 : ・。今もなお、いロマンをかきた てる 野は文化の中地であった大和・摂・河国から山と海で隔てられ、 ここに至る交通路はいずれも国難を極めた。しかし、それ故に古くより聖 地とされ、野街迫は宗教饐色彩の濃い性格をもっていたものとわれる その中で、東野街道 ( 伊勢路 ) と西野街道 ( 紀伊路 ) は東西から態野 三山に入る信仰道に利用され、『塵秘』に「野へまいるには紀伊路 と伊勢路のどれしどれし広大菎韭 ~ の道なれば紀伊路も伊勢路 もからず」と詠んでいる こうした背のもと、平安、鎌倉期の中でも院制期に栄えた本宮・那智 ・新宮のいわゆる野三山に対する野詣では、紀伊路が利用されるよう になり、竓喜モ ( 九〇モ ) 年の宝多皇に始まり、以来、皇、上皇の熊 野御幸は白河院の十ニ度、羽院のニ十三度、後白河院の三十三度、後島 羽院のニ十え度にもおよんでいる 京都から往復約六百キメートル、およそ一グ月をかけて、実に百三十 年にわたって行なわれた都を出て、船で淀川を下り、今の天満橋の川べ 時りに上陸。まず野九十え王子の第一王子、窪津王子を参拝し、それから , 第、先は街道 ( 肋に点々とある王子社をたどり、和泉から雄の山峠を越え、ノ 藤由坂、鹿ケ瀬峠越えを経て、ようやく野の玄関口である田之につ く。田辺からは中路の山中の迫を越えて本宮に出、そこから壟野川を舟 野杳道を歩く
・裏見の滝 / 福勝寺の境内にあり、 あり、「この地、熊野第一の 美景なり、と『紀伊国名所図高さ二十メートル、幅三十メート ルの滝で、水が岩窟の上から落下 絵』の言葉のままに、遠く四 するため、この滝を見る人は滝の 国、紀伊水道、眼下に和歌浦 裏側より眺めることになる。岩窟 を望む大パノラマとなる。お には石の不動尊が祀られている。 そらく熊野御幸された各上皇 ・一の鳥居、藤白神社 / 藤白神社 は、ここに休まれて、眼下に は六五七年、斉明天皇が牟婁の湯 広がる青い海と緑に包まれた に御幸されたとき、小刺を建立し たのが、始まりとされる。また、 静かな人り江を眺められたこ とだろう。この辺りで、弁当熊野三山の一の鳥居のあった所で、 まさに熊野の玄関口であり、熊野 を広げ、往昔の藤白峠の絶景 街道の要所であった。熊野本宮に を想像してみるのも面白い は本宮参拝の準備としての発心門、 きつもと 祓戸王子が本社手前にあり、ここ 橘本王子跡 捨松がある。 藤白神社の場合にも、こうした御 峠に戻ると古道は舗装された農道と交差 御所の芝・大バノラマ 祓い所があったと考えられる。い しながら、谷沿いにまっすぐ南下する。みわゆる本社の東方、約一キロ足ら ここから十分ほど急坂を登りつめると、 かん畑の中を通り、路傍の地蔵に長い歴史ず、熊野古道と近世の熊野街道と 藤白峠で、数軒の民家と地蔵峰寺があり、 地蔵峰寺本堂には、峠の地蔵さんと呼ばれをかいま見るひとときである。やがて、民の合流点に、熊野一の鳥居の碑石 があったとされる。祓戸王子社跡 る巨大な一石造りの石仏が安置されている。家の間の急な坂道途中で、右手に細い路地 あみだ がその現れであろう。 ( この王子 また、この境内には搭下王子社が在り、明を入ると阿弥陀寺があり、境内には、橘本 は昭和四十二年、藤白神社に合祀 治の末に橘本神社に合祠したため、その跡王子跡が祀られている。これより古道は、 されている ) 加茂川を渡り、土橋の石碑を右手に見送っ 地に石碑が建てられている。 地蔵峰寺の右手から少し登ると御所の芝、て支流、市坪川沿いの道となる。 さらに一分ほどで、大きく開けたビークが 福勝寺
辺路町と本宮町との境界に なっており、中世にはここを′ に関所があり、熊野参詣の 往来改め、関銭の徴収をし たという。江戸時代になる と茶店が設けられ、大正の 始めまで続いており、旅人一 を望むと、遙か遠くに奥熊イに ( , 。」イ " ~ 「 野の山並が開ける。 左右山に挟まれた深い谷 道を一気に下ると音無川の 源流の村、道川となるが、一」こも廃村の憂えてきた旅人に一時の安らぎを与えたこと だろう。 き目にさらされている。ここからしばらく 「深山樹木多し」発心門王子跡 林道をつたい、途中で右に降りると、この 元の道に戻り、しばらくして右手古道に ほど修復された古道が続いている。ほどな く左手に船玉神社の赤い鳥居が見え、鳥居足を踏み人れる。この道は藤原定家が「深 をくぐった正面に船玉稲荷、右側に玉姫稲山樹木多し , と記し、十二人の力車の担ぐ 荷が祀られている。これより三百メートル輿に揺られてい「たという山険しい原生林 ほど進み、右手の細い道に人ると猪ノ鼻王の中の道であ 0 た。やがて赤い鳥居が視界 子跡を示す石碑が草むらの中に埋もれるよに人り、発心門王子跡である。昔はここに うに立 0 ている。音無川のせせらぎと、の熊野聖域入口の大鳥居があり、五体王子の どかな山辺の風情は、遠く険しい山路を越一つとして格別の崇敬を受け熊野詣での人々
滝尻王子社から近露 熊野霊域の人り口・滝尻、 杉木立の中を逢坂峠へ 田辺から滝尻を通って熊野本宮に至る中 辺路は、中世に盛んに行われた熊野詣での 要路として栄えた道である。輿に乗った殿 上人や、白衣の熊野巡礼が引きもきらすに 続いたという往時を偲びながら、滝尻から 近露までの古道を辿ってみよう。 熊野霊域入り口、滝尻王子社 富田川と石船川が合流する地点、背後に 剣の山を擁して「滝尻王子社 , が幾多の歴 史を経て、熊野霊域の入口にふさわしい雰 囲気を漂わせて鎮まっている。杉木立に囲 まれた静かな境内には小さな社殿があり、 鎌倉期のものと云われる宝筺印塔や石碑が 建っている。 滝尻王子社の左脇から熊野古道の面影が 残る石段を登り、急な坂道を十五分ほど行 をー ・地形図 ・五万分の一 / 栗栖川 ・二万五千分の一 / 栗栖川 ■交通 ・紀勢本線紀伊田辺駅から本 宮行きのパスに乗り、約分、 『滝尻』下車。 ・帰路は「大阪本王子前』『牛馬 童子像前』より、スで、紀 伊田辺駅に向かう。 ■宿泊 ・滝尻王子社から高原熊野神社に 向かうハイキングコース沿いに、 グリーンセンター「古道ヶ丘」が 開設されている。山の斜面にキャ ンプ場・芝生公園・フィールドア スレチック・体育館・テニスコー ・展望台などを完備。宿泊設備 として管理棟やマッシュルームキャ ピン等、百名程度の宿泊が可能。 問い合わせは、〇七三九六ー四ー 一五九〇 ( 古道ヶ丘管理事務所 ) 、 〇七三九六ー四ー〇五〇〇 ( 中辺 路町役場企画室 ) 。
ノスタルジアあふれる近露 箸折峠を後に古道を下ると、日置川の流 れと大搭山系の峰々を背景に近露の里が絵 のようにのどかな広がりをみせる。国道を 横切り、日置川に架かる北野橋を渡ると、 すぐ左手に小さな森があり、「近露王子之 跡」と彫られた大きな石碑が建っている。 また、この王子跡の敷地の人口には、この のながせ 地で活躍した南朝方の豪族、野長瀬氏の子 ■地形図 近露の里から小広峠 ・五万分の一 / 栗栖川 ・二万五千分の一 / 栗栖川・皆地 杉の巨本に囲まれた ・交通 昼なお暗冂継桜王子に心を浸す ・紀勢本線紀伊田辺駅から本 田辺から本宮を結ぶ中辺路往還の丁度、 宮行きのパスに乗り、約 1 時 まん中辺りに位置する近露の里は、熊野詣 間加分「牛馬童子像前』下車、箸 折峠まで徒歩 2 分。 での宿駅として開けたところで、山また山 ・帰路は、『小広峠』からパ の中辺路を眺めてきた目に、近露の風光は スで紀伊田辺駅へ、約 2 時間。 別天地のように明るい。ノスタルジア溢れ つぎざくら る近露の里を訪ね、継桜王子へと、遠い昔 ■宿泊 にロマンを馳せてみよう。 ・古道の中心、近露には国民宿舎 「ちかっゅ」 ( 〇七三九ー六五ー 〇三三一 ) 、とがのき茶屋民宿 ( 〇七三九ー六五ー〇一二七 ) な どがある。 ■メモ ・承久の変以後、熊野は次第に勢 一力を失い、一二八一年、亀山上皇 をもって、熊野御幸は百三十年に わたる歴史の終末をつげる。それ 以来、時代によって熊野信仰の形 態は幾多の変遷盛衰をたどり、徳
で下って新宮ら凧智に詣 0 て山に登リ、人雲取、小雲取の険路を踏ん で本宮に戻ツ、再び中辺路を通って都に帰っていく、という順路になっ ていた。 野で」は皇の参詣によっていっそう盛んになり、道中に王チ社か てられ休や会が行なわれた九十尢王予というのは数が多いことか ら当・プ呼ばれた。しかし 3 安四二 ニへ【 ) 年三月、亀い上皇の御幸を もって終末をつげ、承久の以 ~ 来、野は次第に勢力を矢らそいった。し ↓、ユ戸期に入ったえ和入 ( 一六【九 ) 年、耙州主川頼宣が野三 囀の復興に童を用い、社寺の修復や、駅制の整備などに力を注ぐことによ り、年の蟻の壟野詣でとわれる最盛期を迎え・る三とになる 宝多皇 . に始まった野御幸からおよそ【世耙余リがすぎ、多くの人々 【洋 ) ・が壟野を訪れた。〈「も野には人々を魅きつける不議な力が宿 0 ている 権力との戦いを企てたものたち、深 い悩みを抱いた民衆。彼らは〃皆 / 壟野 権現の力を信じ、様々ないと祈りを持ってこの道を通ったのであろう 遒は文化の根底をなすもあ ) いや道こそ文化そのものである。そこに生 活する人たちの汗と脂のいの歳月がにじみ良んでいる。点から線へ、王 子社跡から壟野古道へ、本書は野古道を歩いてみたいとった人に、ナ しでもに立てばと趁い ハイキングコースガイドとしての構成を試みた。 そのため、厳宋には壟野古道と、 しいめたい部分もあるかとうかご容妝願 しオし 種やかな表情の歴央と自然に出会うクイムトンネルの入口・ 野詣での人々の哀感や歴央のを知るなら、まず、自分の足で、き始 めることをお効めする。 ~ 合むした石畳や野仏に出会う野への道に光八の 跡をびなから :
レ 0 レ レレ 亳四自 1 レ 熊野古道中辺路を滝尻から本宮へ向た。しかし、人間離れした話に呆れて かう道筋、十丈峠の右手に、悪四郎山本気にせず腰を下ろしていたため、悪 ( 海抜七八二メートル ) という烽がそ四郎が幹から腰を上げると同時にはじ びえ、この山の名にゆかりを持っ悪四き飛ばされて、山の彼方へと行方知ら 郎について、こんな話が伝えられていずになってしまったという。 この悪四郎は、十丈悪四郎、南北時 もっとも、悪四郎といっても悪人で代の人とも言うが、生没年はもとより はない。悪とは強いという意味。悪ら事蹟は一切不明である。十丈峠から西 へ悪四郎山の山腹沿いに延びる熊野古 しいほど強い男の悪四郎が、ある日、 熊野古道の路傍で、その怪力でねじ曲道の道筋に悪四郎が母と住んだと伝え げて横倒しにした大木に腰をおろしてられる悪四郎屋敷跡 ( または、彼を祭っ 休んでいた。そこへたまたま熊野詣でた宮跡とも言う ) がある。親孝行で機 の為に通りかかった数名の旅人が、ひ知に富み、強力無双は理想の熊野伝説 と休みするのにちょうどおあえつらえの人物であろう。また彼は熊野古道筋 一 , 、向きとばかりに、悪四郎とならんで大の籠かきであ 0 たとも伝えられている。 なお、悪四郎山へは悪四郎屋敷跡から 木に腰をおろした。 やがて、悪四郎の方は休息もとれて、西へ熊野古道を左手に見送り、尾根づ こ、こ低木樹の中を登る。山頂には共 立ち去ろうと思い、旅人達に対して、ナもを 「私は旅の疲れもとれたので出かけよ同テレピアンテナが立つ。 うと思うが、旅の皆さんは私よりも先 に腰を上げないと、無理にねじ曲げた 幹なので、私が腰を上げた途端に、幹 が元どおりになり、皆さんははじき飛 ばされることになりますよ」と警告し
尻王子社を出て約四十分、飯盛山頂上に着悪四郎山山腹から箸折峠 く。これより飯盛山稜線ったい冫 こ、栗栖川 さらに高原坂を十丈峠へとゆるやかな登 の集落を左手眼下に望みながら、ロ熊野随りとなり、今は僅かに宝筐印塔が残る十丈 一の快適なコースとなる。 王子跡に着く。江戸時代に数軒の茶屋があっ たと思えぬほど、あたりは山林化しつつあ 高原の里、ファンタスチックな朝霧 る。これより古道は悪四郎山の中腹を巡り、 やがて、農道と合流、集落に近い辺り、 左上に辿る古道を行くと、平安時代に創建逢坂峠の東ロへと続いている。かって、御 されたものと推察される春日造りで熊野路白河法皇・藤原定家がこの尾根を熊野へと では最も古い建物とされる高原熊野神社に向かったのであろう。この辺りから大阪本 到着する。神社の境内には楠の大か、うつ王子跡・箸折峠へと続く古道は長い道のり そうと茂り、往時の面影を残している。まの中で、最も往時の表情を色濃く残してい た付近一帯は見晴らしの良い高地で、のどる所である。 かな雰囲気が漂い、早朝山々に立ちこめる大阪本王子跡で古道は津毛川沿いの細い 朝霧は何とも言えないファンタスチックな道となり、途中国道を横切ると、右前方の かざんいん 台地に花山院の宝筐印塔、その奥に花山院 気分にさせる。 がモデルと伝えられる牛馬童子像と役の行 大門王子跡 一」こからはゆるやかな登り坂となり、か者像が並び、この地が箸折峠と呼ばれてい っての宿場通り高原の集落を過ぎ、高原坂る。 を大門王子跡へと向かう。古道はその面影 を色濃く見せ始め、右手に高原池を通り過 ぎると、ひっそりと静まりかえった杉木立 の中に「大門王子」と刻んだ緑泥片岩の碑 が立てられている。大門と称するのは、こ こに熊野本宮の鳥居があったからだという。
に横たわる左会津川に沿っ うか。秋津王子は会津川の氾濫源 て、それそれの王子跡推定にあ。たため、水害をうけやすく、 しばしば移転したようである。 地を訪ねてみよう。 ( くまの文庫「古道と王子社」よ 国道四十一一号線を横切り、 り ) 再び会津川沿いに足を進め ・熊野街道はここ紀伊田辺で海岸 る。やがて右会津川、左会 をたどる大辺路と、山中にわけ入 津川の合流点を通り過ぎ、 る中辺路に分かれる。大辺路はど 田辺・ハイバス道路の手前、 ちらかと言えば生活道路としての 歩道橋を渡る。車道を横切性格が強く、中辺路は神の道、熊 ってしばらくすると左会津野信仰の本質にふれあう祈りの道 としての色合が濃い。近世におけ 川堤防沿いののどかな道と る田辺は安藤氏の城下町であると 寺なり万呂王子へと向かう。 同時に、熊野街道の宿場として発 ここでは、本コースを少し 達した町である。田辺の「三栖ロ」 それ、秋津王子と伝えられ が中辺路の入り口であって、今も この中には聖徳太子が自ら彫「たと伝えらる安小宮地跡に立ち寄 0 てみよう。歩道橋 田辺市の繁華な商店街である北新 れる木像が安置されている。 を渡ってからは左へ、右会津川に沿って、 町に、安政四年 ( 一八五七 ) に設 高山寺を後に東へ参道を下りかけると、 二百メートルほどさかのぼったところ、地けられた「左くまの道、右きみい 木立の間から、かって条理制がしかれてい蔵堂のあるところを右に入り、突き当りを寺」の古めかしい石標が周囲とは 不調和に立っている。ところが、 た秋津平野が目の . 前に広がる。これより右に、あぜ道を辿ると「秋津王子安井宮地」 ここを中辺路の起点とした場合、 秋津王子・ : 万呂王子 = ・三栖山王子へと向かの石碑が立つ。田園風景の中にぼつんと据 終点がどこであるか必ずしも明瞭 うことになるが、この辺り会津川の氾濫なえられた石碑は、私達に何かを語りかけて でない。本宮までを中辺路といっ どのため、所在地は転々と変わったようで、 いるようである。 てみたり、那までをそう呼んで かっての御幸道を辿ることは難しい。一」一」 会津川畔を辿り万呂王子跡へ みたり、さらには大辺路と再会す では、往昔に思いを馳せながら、秋津平野本「ースに戻り、万呂王子跡〈と足を進る浜の宮までを中辺路と称したり する。