しる。 るが樹々の間から有田川が望める。 右手に山路王子神社、一の壺王子跡がある。 名物行事「泣き相撲」の土俵もあり、秋祭さらに進むと、左手に蕪坂王子跡の標柱 ・メモ りには赤いふんどしを締めた幼児の取り組が立てられており、これより古道は農道と しらくらやま ・蕪坂峠と白倉山 / 古道が下津町 みが行われ無事の成長を祈るという。また交差しながら、最短距離で南に延びている。 の下沓掛から上沓掛を通り、白倉 笛や太鼓に合わせて、獅子舞も奉納され、所々古道として分かりにくい箇所もあるが、 山に登る途中、拝の峠を越えると、 ともかく細い方の急坂の道を選ぶ。両側は 共に民族無形文化財に指定されている。 白倉山の西側山腹をめぐる平坦な みかん畑で、道も昔のままであり、五月の 拝の峠から蕪坂 道となる。ここを横手、または蕪 市坪を過ぎ、家並が途切れると、もう人みかんの花咲く頃は、あたかも花のトンネ 坂峠と言う。白倉山は有田・海草 ルのようである。そして、甘酸つばい香り の郡境で、『紀伊続風土記』には 影もなく、みかん畑の中をゆるやかな登り 「高さ三丈、幅六十間の大岩あり、 となる。市坪川の水量も少なくなり、ゆるが辺り一面に漂い、まるで桃源郷を思わせ くつかけ やかな道も後しばらく、沓掛の集落に入るるものがある。また十一月、十二月の収穫白倉明神をまつる森があり、土地 のものは戦所と恐れて近づかない」 と古道は急勾配の坂道となり、拝の峠にかの時期には、色づいたみかんが太陽にまば とある。昭和の初期、白倉山に白 かっていく。みかん畑が段々とつらなり、ゆく感じられる。 い岩肌を高々と突き出していた巨 爪書地蔵から宮原渡し 道はようやく草の生い茂った山道となり、 岩は二十数年に渡って硅石の採取 やがて、坂の中腹、弘法大師爪書地蔵で 右手に頂上部を見るように登りつめ、拝の が行なわれ、現在では廃坑となり、 峠に出る。東西にパイロット農道が通じ、 知られる金剛寺に到着する。堂内の岩に弘今では大きな水溜りや取り荒され た残骸が残されているだけである。 右手に一一十メートルほどで熊野古道の道標法大師が彫ったという阿弥陀尊と、地蔵尊 たじまのかみ ・橘本神初 / みかんの祖、田道間守 の二体が刻まれている。周囲は明るい展望 があり、道標に従って蕪坂に下る。 を祀り、菓子の神社として信仰さ 白倉山の西側山腹を水平に巻き、海草・が開け、正面前方、有田川を目指して、な れている。 有田の郡界を経て宮原へと向かう。右手前おも急坂を下る。 ・歴史民族資料館 / 長保寺境内の 方には、和歌山県内一の良港、下津湾が手坂を下り終えた谷間、山口王子跡を過ぎ、 一角にあり、生活民具・古文書・ に取るように広がる快適なコースとなる。宮原商店街入口で左折すると、四百メート 考古資料などを収集保存している。 途中、下津町最古の供養塔三基、徳本上人ルほどで有田川に突き当たり、この地が宮 問い合わせは、〇七三四九ー二ー の名号石、石地蔵が並び、往時を偲ばせて原渡し場跡とされている。
て紀州候に献上したのでこの名が る片隅に、近世の熊野街道の道標があり、 あるという。 「東、きみいでら、南、いせかうや、 ここ栖原の海岸から北東に、栖 すはら」と深く彫られている。さらに進む 原の家並を少し登って行った白上 と道幅が少し狭くなり、広川畔にでる。橋 山の麓に、木造二階建ての栖原温 を渡ると広川町で、立春を過ぎたこの付近 泉共同浴場が建っている。脱衣室 の両岸には、四つ手網によるシロウォ漁が から浴室に人ると、浴槽は鍵状を 最盛期となり、季節の味覚として喜ばれて したきれいなタイル張りで、湯け いる。ここでは寺町通りで左折、湯浅町役むりが、もうもうと立ち込めてい る。泉源は建物の裏手、岩盤を掘 場を経て、広い通りを右折、湯浅駅前 り抜いた二つの井戸から湧き出て に出ることにする。 いると言う。 湯浅駅前から南へしばらくいくと、左手 また、共同浴場と棟続きに旅館 傍らに「霊厳寺へ五十町」の標石があり、 もあり、ここでは、三宝柑の実を ゝ道標に従って紀勢本線のガードをくぐると、 くり抜いて作る三宝柑の茶碗蒸し 左側に満願寺を通り過ぎ、道が一一分する。 が好評で、湯上がりには、また格 ここには勝楽寺を示す道標があり、右にと 別の趣向である。 るとゆるやかな登りで右手、白方山勝楽寺■所在 / 有田郡湯浅町栖原 交通 / 紀勢本線湯浅駅から に着く。西山浄土宗の古刹で、一般には パスで十分、「栖原小学校前』下 「別所の薬師」と呼ばれている。また境内 には紀州の名商、紀ノ国屋文左衛門生誕の車、徒歩三分。 ■泉質 / 単純硫黄泉。十七度。 示地を記念して、紀文碑が建てられている。 リューマチ・皮膚病・やけど等に 造 勝楽寺の少し東よりには国道四十二号線 が通っており、国道に沿って南下、ほどな ■問い合わせ / 〇七三七ー六二ー く左側に湯浅上水道へ入る坂があり、入っ 一一一九八「栖原温泉』 くめさき てすぐ、「久米崎王子社趾」の大きな石碑
尻王子社を出て約四十分、飯盛山頂上に着悪四郎山山腹から箸折峠 く。これより飯盛山稜線ったい冫 こ、栗栖川 さらに高原坂を十丈峠へとゆるやかな登 の集落を左手眼下に望みながら、ロ熊野随りとなり、今は僅かに宝筐印塔が残る十丈 一の快適なコースとなる。 王子跡に着く。江戸時代に数軒の茶屋があっ たと思えぬほど、あたりは山林化しつつあ 高原の里、ファンタスチックな朝霧 る。これより古道は悪四郎山の中腹を巡り、 やがて、農道と合流、集落に近い辺り、 左上に辿る古道を行くと、平安時代に創建逢坂峠の東ロへと続いている。かって、御 されたものと推察される春日造りで熊野路白河法皇・藤原定家がこの尾根を熊野へと では最も古い建物とされる高原熊野神社に向かったのであろう。この辺りから大阪本 到着する。神社の境内には楠の大か、うつ王子跡・箸折峠へと続く古道は長い道のり そうと茂り、往時の面影を残している。まの中で、最も往時の表情を色濃く残してい た付近一帯は見晴らしの良い高地で、のどる所である。 かな雰囲気が漂い、早朝山々に立ちこめる大阪本王子跡で古道は津毛川沿いの細い 朝霧は何とも言えないファンタスチックな道となり、途中国道を横切ると、右前方の かざんいん 台地に花山院の宝筐印塔、その奥に花山院 気分にさせる。 がモデルと伝えられる牛馬童子像と役の行 大門王子跡 一」こからはゆるやかな登り坂となり、か者像が並び、この地が箸折峠と呼ばれてい っての宿場通り高原の集落を過ぎ、高原坂る。 を大門王子跡へと向かう。古道はその面影 を色濃く見せ始め、右手に高原池を通り過 ぎると、ひっそりと静まりかえった杉木立 の中に「大門王子」と刻んだ緑泥片岩の碑 が立てられている。大門と称するのは、こ こに熊野本宮の鳥居があったからだという。
王子の峰と称したが、今はみかん山となり、南下する なくち その中に奈久知王子跡の小祠が祀られてい やがて、県道と合流、右側に庚中塚があ よしざとずだじ る。これより吉里、頭陀寺と一本道である。 り、この地が松阪王子跡である。江戸時代 3 辻の集落に人り、突き当りを右へ山裾を伝の熊野詣では、和歌山城下から紀三井寺、 資志川線 い阪和高速道路のガード下をくぐる。正面内原、黒江を通り藤白へ出るように改めら はらいど には宿禰さんの俗称で親しまれている武内れたため祓戸王子以北は衰微し、この王子 神社の森が見える。 社も寛文の頃、すでに八幡神社の末社とし 境内の右手、長寿殿という小さな建物のて退転していたという。 たけのうちすくね 中に武内宿禰誕生の井戸がある。宿禰井戸 さらに南へ、県道に沿って小野坂を登り キ歌 と呼び習わし、江戸時代には紀州徳川家の蜘蛛池を巡ると池畔に徳本上人名号磚が立っ 世子の産湯用として一般のくみ取りを禁じている。これより少しで汐見峠である。雄 ていたという。 の山峠を越えて紀州路に人り、初めて海を 古道は高速道路に沿って二ッ池の東側を眺めることが出来たので、この名がある。 通り、徳本上人碑の三叉路を左へ、古道はその頃の海は、日方側にずっと人り込んで その面影を色濃くみせはじめる。左手、 いたのだろう。 さく盛り上がった竹藪の中に小祠が祀られ坂を下り、四ッ辻をなおも南下、春日山 ており、ここが『紀伊続風土記』にいう奈の西麓、日方側沿いに、松代王子跡がある おくずさ 久知王子跡である。なお前述の奥須佐にあっ緑泥片岩の髀石は春日神社の参道を約百メー たのが定説となっており、『紀伊国名所図トル余り登った左側に祀られている。 絵』も「奈久知の王子社、奥須佐村にあり」 とある。 松阪王子跡から汐見峠越え 和歌山市から海南市に入り、整然と区画 ただ ねぎ された多田・且来の家並を、ほば一直線に 伊太祈曽駅 至和歌山 旧社地 ( 亥の森 ) 賢伊太祁円神社 県道和歌山・野上線 和はヴ池 調冠山大 - ・大池遊園 下池 大谷 全長 5.2 朝 海南市 ガこ池
ー地形図 5 藤白神社から藤白峠越え ・五万分の一 / 海南 ・二万五千分の一 / 海南 万葉のロマン、藤自坂、 ■交通 遠く淡路・四国の島影がかすむ ・紀勢本線海南駅から野上電 鉄に乗り換え、春日前駅下車、県 かって、熊野詣での往還として賑わった 道を西へ 5 分、古道と十字に交差 藤白坂も、今は路傍の石仏や石塔だけがひっ する。左にとると 5 分で菩提房王 そりと落葉の中にたたすんでいる。藤白神 子跡に着く。 社から古道を歩いて藤白峠に出る。「この ・海南駅下車、旧国道を南下、藤 地、熊野第一の美景なり」と『紀伊国名所 白神社まで徒歩分。または海南 図絵』の言葉のままに、遠く淡路、四国の 駅で、和歌山パスに乗り継ぎ、 島影がかすみ、和歌浦は一望のもとである。 「藤白神社前』にて下車、徒歩 2 分。 ・帰路は和歌山・ハスで、『橘本』 より紀勢本線加茂郷駅に向かう 松代王子跡から祓戸王子跡 ( パス分 ) 。 春日神社を後にした熊野詣での道は野上 電鉄の踏切を渡り、県道海南・高野線を横 ・サフコース 切ってなおも南へ進む。しばらくして、鉄 ・熊野古道コースは橘本の集落を これより熊野古道は西へ方向をかえる。 鋼所と民家の間を通り抜け、山田川を越え まっすぐ南下するが、途中古道を ると左手、民家の軒を借るように小さな石十五分ほど行くと一遍上人の開基で知られ 左手に見送り、福勝寺を経由、阿 ひぎりじぞう 仏が祀られている。この地が鎌倉時代のもる浄土寺 ( 日限地蔵 ) があり、西隣には、鳥弥陀寺に至るコースが県のふるさ ぼだいぼう のと推定できる遺物が出土した菩提房王子居王子とも呼ばれている祓戸王子跡がある。 と歩道コースに指定されている。 コース / 紀勢本線海南駅 ( 8 石碑は裏山の中腹に立てられている。 跡である。 畆第第
川期にはいって、紀州藩主が熊野 孫で、画家であった野長瀬晩花の歌碑が据くが、その左側を古道は通じている。なお、 三山の復興に意を用い、道路整備 えられている。 この地点左側に曲がる急坂の方を登ると、 や荒廃した社寺の修復に努め、一 左手に野長瀬一族の墓がある。ここからさ 里塚や駅制の整備などを行なった。 ふるさとは山重畳と日に映えて らに少し行くと国民宿舎「ちかっゅ」が近 こうしたことにより再び、熊野へ 麓をめぐる川の瀬の唄 露の里を見おろす丘の上に建っている。 の信仰が高まり、「蟻の熊野詣で」 継桜王子跡 と呼ばれるほどの活況を呈した。 国道沿いに近露の町並みが続く。近露は国民宿舎を後に、斉藤茂吉の歌碑の前を そしてこの道を通ったのが名もな 御幸の頓宮の地でもあり、古い旅館や雑貨通って登ると、先ほど別れた茶屋の坂から い廻国巡礼の人々であり、これこ そ近世の中辺路を賑わせた主役で 店などに街道筋の面影を残している。しばの古道と出会い、すぐ国道とも合流する。 あった。 らくして、国道が右に大きくカープして行国道を左へ近野神社、一里石を過ぎて近野 ・野長瀬一族の墓 / 近露王子跡を 公民館の前を左に人ると右 経て宿場だった在所の中心地を通 に登る細い古道があり、大 り抜けると左手の高台に県指定文 畑の集落へと続く。 化財、野長瀬一族の墓がある。こ 再び国道と合流、国道沿 の一族が南北朝時代、熊野へ来ら れた大塔宮護良親王を助けた話は ス一 ' ・」 0 左側山腹に比曽原王子 の石碑が立っている。『紀有名で、整然たる五十四基の五輪 伊続風土記』には「比曽原塔が近露の里を見守るごとくたた ずんでいる。 王子碑、村の小名比曽原に ・コース中の「旅のスタンプ」設 あり、御幸記に見えたり、 置個所は、継桜王子と秀衡桜の二 境内に手枕松といふ名木あ ヶ所。 りしか枯れしといふーとあ り、往昔は碑のあるあたり に拝所があり、その上段に 社祠があったとされている ッ 85
ッ林から檜の植林帯に変わる椎の木茶屋跡呼ばれ、熊野街道屈指の景観を誇る。また、 〇七三五四ー一一ー〇七三五 ( 本宮 町観光協会 ) 、〇七三五四ー二ー に羽 ~ 、。 『紀伊国名所図絵』には、「桜茶屋、坂口 尾根をつたっていた道がこれより山腹をより五十丁目にあり、前に大木のさくらあ〇〇七〇 ( 本宮町産業観光課 ) からむようになり、背後には小口川の蛇行り、故に号く、一軒家なり」とあり、その ■メモ した流れと大雲取の山並が広がる。しばらさくらも二、三株の古木であったようだ。 川湯温泉から大塔川をさかのばっ くして、杉林の中に石垣の残る桜茶屋跡に石堂茶屋跡 て三十分ほどのところに、大塔渓 着く ちょ 0 とした下りの後、谷の源頭で尾根谷とも呼ばれる静川峡谷がある。 小口から桜茶屋跡までの間は、堂の坂とに向けて登り始める。途中で右に赤木への 約八キロメートルに渡って、険し い岩山が両岸にそそり立ち、春は 道が分かれる。四百 六十六メートルの独白いこぶしの花が咲き見られ、夏 はほたるが飛び交い、秋には紅葉 標を小さくからみ終 がすばらし、。 えると、道は西に方 向を変え、やせ尾根 上を辿ることになる。 付近はアセビに混じ ってつつじの類が多 くなる。やがて薄暗 い杉・檜の林の中に 、入り、道がおだやか になると、左手に休 憩所と石垣跡が目に 止まる。石堂茶屋跡 で、水場を示す道標 もある。 4
7 井関から鹿ケ瀬峠越え 昼乙も暗冂石畳道に 遠冂歴史をか冂まる ふじわらのていか さんかいけんそ 昔、藤原定家をして「崖巍の験岨」と嘆 かせた鹿ケ瀬峠越えは、今もなお山険しく、 昼でも暗い古道となり、所々に石畳が残る。 このせ 河瀬王子跡 広川に架かる河瀬橋を渡り、さらに少し 進み、河瀬の細流に架かる橋を渡ると、正 面に小さな森があり、河瀬王子跡を示す石 垣が残されている。また、民家の門前には 「右ハきみいでら、大水にはひだりへ」の 道標石があり、大水の際には広川が渡れず、 左の山手の方に迂回をやむなくされた事が うかがえる。 谷に沿って南下、ゆるやかな登り坂が続 うまどめ き、民家も疎らとなった左手傍らに馬留王 子跡の石碑が立っている。『紀伊国名所図 けんそ 絵』には「比辺より坂道嶮岨にして馬上に ごのせ 、ト 西の馬留 ・地形図 ・五万分の一 / 海南 ・二万五千分の一 / 湯浅・高家 ・交通 ・御坊南海パス「井関』下車。 ごのせ 河瀬王子跡まで、徒歩 2 分。 ・帰路は高家王子跡から紀勢 本線紀伊内原駅まで、徒歩巧分。 国道四十二号線沿いには御坊南海 パスが通じている。 ■アド八イス ・鹿ケ瀬峠への登り口を見逃さな いように注意すること。三叉路を まっすぐに取ると、水越トンネル 手前の国道四十二号線に出る。 ・なめら橋を見落とさないように 歩く。橋を渡ってから内の畑王子 跡への道は少し足場が悪いので、 注意すること。
は、この前でお祓いをしてからくぐったと登りきると右側台地に伏拝王子跡がある。 王子跡横には平安時代の歌人、和泉式部の ここから林道を伝い、小鳥のさえずりを供養塔も建 0 ている。付近は音無茶の産地 聞きながらの快適な道となる。やがて、天として有名な茶畑で、深い谷が足一兀に開け、 山村内に紀州藩の建立による水呑王子の石その谷の重なりの遙か彼方に、熊野川原の 碑を見つけることが出来る。この後、古道丕呂大社旧社地を見おろし、北に果無山脈・ は新しい石畳に装いを改めて杉・檜の木立玉置山、南に大雲取の峰々を望む。まさに の中に延びている。車道に出て、まっすぐ古道中、最高の風光絶景の地である。険阻 進むと目前に小高い森が見え、左に古道をな山路を踏んで、喘ぎ喘ぎ長い苦行の果て ここにたどり着いた熊野詣での人々は、 思わず土下座し、一」こから熊野の神域を伏 し拝んだという。 三軒茶屋から祓戸王子跡 美しく刈り込んだ茶畑の側を古道はまっ すぐに進む。春のヤマツッジ、秋のリンド ウの花咲く古道は往昔の面影を色濃く残し ている。やがて道の左手傍らに苔むした自 然石の道標があり、「右かうや、左きみい でら , と深く刻まれている。ほどなく目の 前が明るく開け、祓戸団地を見おろす地点 に達する。まっすぐ団地の中を突っきると 《気 ( 、右側に杉・うばめがしの小さな森があり、 野祓戸王子跡である。ここより本宮大社へは、 もうすぐの所である。
ノスタルジアあふれる近露 箸折峠を後に古道を下ると、日置川の流 れと大搭山系の峰々を背景に近露の里が絵 のようにのどかな広がりをみせる。国道を 横切り、日置川に架かる北野橋を渡ると、 すぐ左手に小さな森があり、「近露王子之 跡」と彫られた大きな石碑が建っている。 また、この王子跡の敷地の人口には、この のながせ 地で活躍した南朝方の豪族、野長瀬氏の子 ■地形図 近露の里から小広峠 ・五万分の一 / 栗栖川 ・二万五千分の一 / 栗栖川・皆地 杉の巨本に囲まれた ・交通 昼なお暗冂継桜王子に心を浸す ・紀勢本線紀伊田辺駅から本 田辺から本宮を結ぶ中辺路往還の丁度、 宮行きのパスに乗り、約 1 時 まん中辺りに位置する近露の里は、熊野詣 間加分「牛馬童子像前』下車、箸 折峠まで徒歩 2 分。 での宿駅として開けたところで、山また山 ・帰路は、『小広峠』からパ の中辺路を眺めてきた目に、近露の風光は スで紀伊田辺駅へ、約 2 時間。 別天地のように明るい。ノスタルジア溢れ つぎざくら る近露の里を訪ね、継桜王子へと、遠い昔 ■宿泊 にロマンを馳せてみよう。 ・古道の中心、近露には国民宿舎 「ちかっゅ」 ( 〇七三九ー六五ー 〇三三一 ) 、とがのき茶屋民宿 ( 〇七三九ー六五ー〇一二七 ) な どがある。 ■メモ ・承久の変以後、熊野は次第に勢 一力を失い、一二八一年、亀山上皇 をもって、熊野御幸は百三十年に わたる歴史の終末をつげる。それ 以来、時代によって熊野信仰の形 態は幾多の変遷盛衰をたどり、徳