ーサプコース 」。道を登ると、道が再び二分し、それぞ れ古坂尾・鹿打坂となり、栖原白神磯 ・糸我王子跡の標石で道を右にと に出て、船で日高の白崎に渡ったと言 り、すぐの分岐を右へ、鹿打坂を 経て ( 峠近くの道がブッシュと 。当一第われている。一」こでは、左手「くまの すはら なっている。 ) 尾根沿いに栖原の 道」の標石に従って左折、すぐに糸我 王子跡となり、これよりみかん畑の中海岸に向かう万葉の道 ( イキング コースが通じている ( 糸我峠で農 を一気に登る。登るほどに周囲の景観 道を西へ、鹿打峠まで徒歩加分 ) 。 が開け、背後にはみかん畑が谷を埋め、 途中には明恵上人、西・東白上史 せむいじ - 三亠一、有田川の流れが陽光に輝く。 跡、施無畏寺などがあり、万葉人 糸我峠は眺望もよく、熊野詣で往来 が通ったであろう白崎への海路を の格好の休憩地として栄え、吉川第冫 思い浮か・ヘながら、目の前に広が る雄大な景観を満喫しよう。コー ・は茶屋跡が残されている。 ス / 紀勢本線紀伊宮原駅 ( 逆川王子跡 分↓ ) 得生寺 ( 分↓ ) 糸我王子 」湯浅の町並みを眼下に望みながら吉 跡 ( 分↓ ) 鹿打峠 ( 分↓ ) 明 川に下るとしよう。十字路に出て、右 恵上人東白上史跡 ( 分↓ ) 西白 手に折れた右側に大きな椎の老樹に覆 さかがわ 上史跡 ( 加分↓ ) 施無畏寺 ( 分 われた逆川王子跡の社殿がある。熊野 ↓ ) 『栖原海岸』 ( 中紀パス分 古道は十字路を更に南へ、アスファル ↓ ) 湯浅駅 : - - ト道となった方津戸峠を越え、山田川 ■メモ に沿って右岸を歩く。やがて、山田川 ・糸我の雲雀山の麓、眠下に有田 にかかる北栄橋を渡り、県道を横断す 川を見おろす小公園に、紀州みか ると、昔ながらの街道筋の家並が続く んの始祖、糸我荘の伊藤孫右衛門 湯浅の「道町通り」となる。 をたたえる記念碑が立っている。
万葉のロマンと悲劇の跡を訪ねて 近世の和歌山城下から通じる熊野街道と合分↓ ) 藤白神社 ( 分↓ ) 藤白峠 浄土寺を後に、三叉路に出て左に三百メー流して藤白王子社に至る。この王子社は藤 ( 加分↓ ) 福勝寺 ( 加分↓ ) 橘本 神社 ( 8 分↓ ) 山路王子神社 ( トル余り、右側が藤白墨製造の跡である。 白神社として現存し、九十九王子の中でも 分↓ ) 拝の峠 ( 分↓ ) 長保寺 往昔、墨辺谷と呼ばれ、松煙に墨を製造し特に格式の高い五体王子として崇敬されて ( 分↓ ) 紀勢本線下津駅 たところである。これより間をおかずして しる 右手に全国の鈴木姓総本家と言われる鈴木藤白神社を出て、民家の中を二百メート ■メモ 屋敷がある。また、この辺りで熊野古道はルほど抜けると藤白坂にさしかかる。右手 ・丁石地蔵 / 海南市の専念寺住職 には皇位継承の争いの犠牲とな 0 て十九歳全長上人が藤白坂の距離を正確に の命を旅路に果てた有間皇子の墓があり、 するとともに、憩いの場、道中の 安全を祈願するためにと、一丁ご 隣には万葉集に有名な歌碑が建てられてい とに藤白坂まで、十七体の地蔵を る。また、その傍らには近年地元の人たち 安置させたのが始まりとされる。 の手で、復元修復された丁石地蔵が祀られ 当時、藤白坂にはかご屋がおり、 ている。ここから峠までに、十七体の可愛 足腰の弱い旅人は、かごを利用し らしい地蔵と歌碑が、一丁ごとに祀られて て峠越えをしたもので、丁石地蔵 しる。 のおかげで、旅人は楽しい道中と 、筆捨松・藤白坂 なり、かご屋もすぐに賃金をはじ き出すことができた。 舗装された農道が続く中、四丁目地蔵の ・有間皇子の歌碑 / 藤白神社の南、 、、分岐で左上の山道に人ると、もう草深い古 、をゝ、 ' 道のたたずまいとなる。しばらくして、右藤白坂の上り口に有間皇子の墓と 歌碑がある。この地で皇子が絞殺 手に海南港が開け、この辺りの海景の素晴 されたと伝えられており、皇子が つらしさに幾人かが歌を残している。やがて、 詠まれた「家にあれば笥に盛る 第藤白坂の中腹には、巨勢金岡が熊野権現の 飯を草枕旅にしあれば椎の葉に 化身である童子と絵比べをして、慢心を戒盛る」の歌は、今なお人々に口ず められ、絵筆を投げたと言う伝説の地、筆さまれている。 1
ぐらし、その外に流水をひく大庄屋中筋家 ーサプコース の旧邸がある。すぐ横の道が熊野古道で、 わさおおじ ・中筋家旧邸の手前を左折、ふも 別名和佐大路とも呼ばれ、道幅が急に狭く との下の宮の遙拝所から千本桜の なる。 並木道を抜けて急坂を分ほど登っ しばらくして、県道海南・船戸線の新道て行くと上の宮、高積神社がある。 とまつひめ いそたける 祭神は都麻都比売命・五十猛命・ と合流、すぐ左手の柿の木の根元に苔むし おおやつひめ 大屋都比売命をまつる高三所明神 た石碑を見ることが出来る。緑泥片岩のそ で、山頂からは眠下に紀ノ川がゆっ れには「和佐王子ーと彫られている。和佐 たりと流れ、その向こうに和泉山 王子跡を左に新道を少し行くと養水池のほ 脈、手前には紀ノ川平野の田園地 とり、左上に和佐家の墓所がある。一」こは 帯が広がる。また、この南の城ケ 紀州藩弓術指南役で、一一十四歳の時、京都烽は南北時代の古戦場としても知 三十三間堂において、通し矢日本一の記録られている。 をうちたてた和佐大八郎の墓所でもある。 ・海南市にある五ヶ所の王子跡を 一一説に、一万三千五十三本中、通し矢八千訪ねる散歩。ースが王子めぐり。ー スとして指定されている。コース / 紀勢本線黒江駅 ( 分↓ ) 松 を粤、得て、田辺に幽閉され、五年後、田辺城下 阪王子跡 ( 分↓ ) 松代王子跡 で没した。そのため墓地は田辺の浄恩寺に ( 分↓ ) 菩提房王子跡 ( 加分↓ ) もあり、遺愛の弓と言うのも同時に納めら 祓戸王子跡 ( 分↓ ) 藤白神社 れている。 ( 分↓ ) 紀勢本線海南駅 矢田峠越え これより矢田峠に向かう。現在では県道 海南・船戸線のトンネルが開通している。 一」こで古道を辿るとすれば、トンネルの手 前左側を登り口としてみかん畑の中を急登、 矢田峠
その昔、熊野詣での一行は、岩代の浜を望 ・アド八イス んで建つ、ここ岩代王子の拝殿の板壁に人 ・千里ヶ丘球場駐車場横手の て数や名前を書きつけたと言う。一説では岩紀勢本線の線路が本。ースを遮断 した形となっているため、横切る ふ代駅東方の天神社が旧地の王子社だという。 ときには充分注意すること。 千里浜・遠く四国の島影か浮かぶ 岩代王子跡を出て、先ほどの三叉路まで ・サプコース 戻り、右に取って紀勢本線岩代駅を右に見 ・本コースでは、千里海岸目津の 送る。東岩代川を渡り十字路をまっすぐ山 浜から防波堤に上がることになっ 道に人る。曲がりくねりながらも、ほぼ一 ているが、サプコースとして千里 直線に峠を越え、すぐに出会う広い車道を 観音からパンガローの横手を通り、 右に折れる。千里ヶ丘球場の前を通り過ぎ 尾根づたいに国道四十二号線経由 のコースもある。 駐車場横手から線路を横切ると千里海岸の ・南部川沿いの丘陵地に広がる南 砂浜に降り立つ。 いわしろ 歌枕として有名な千里浜は、今では岩代部梅林はその規模の大きさと、収 めづさき 穫される梅の実の質の良さで、全 の東のはずれ高磯から目津崎突端迄の一キ 国に知られる梅どころ。青い海の ロメートル余りを言うが、往古は何倍も広 彼方には白浜、入り江には鹿島が く切目付近まで続いていたらしい。『枕草 浮かぶ・ : 。梅林からアカウミガメ 子』には「浜はそと浜、吹上の浜、長浜、 の産卵地として知られる千里海岸 打出の浜、・ : 千里の浜こそ広う思いやれ , へ、県のふるさと歩道に指定され と記されている。熊野古道唯一の景観と詠 ている。コース / 紀勢本線南 手に小道を登り、すぐに国道のガードをくわれたこの往還をどれだけ多くの人々が通部駅 ( 分↓ ) 梅総合実験農場 ( 梅めぐり分 ) ( 分↓ ) 山内 ぐる。三叉路を右に取って紀勢本線の踏切り過ぎたことだろう。まばゆい陽光の向こ ( 分↓ ) 千里王子跡 ( 巧分↓ ) を渡ると、松の木立に囲まれた岩代王子神うに、遠く四国の島影が浮かぶ。熊野への 目津 ( 分↓ ) 南部橋 ( 分↓ ) 社が祀られている。『御幸記』によると、長い旅の中で砂浜づたいの道はここだけで 南部駅
ー地形図 5 藤白神社から藤白峠越え ・五万分の一 / 海南 ・二万五千分の一 / 海南 万葉のロマン、藤自坂、 ■交通 遠く淡路・四国の島影がかすむ ・紀勢本線海南駅から野上電 鉄に乗り換え、春日前駅下車、県 かって、熊野詣での往還として賑わった 道を西へ 5 分、古道と十字に交差 藤白坂も、今は路傍の石仏や石塔だけがひっ する。左にとると 5 分で菩提房王 そりと落葉の中にたたすんでいる。藤白神 子跡に着く。 社から古道を歩いて藤白峠に出る。「この ・海南駅下車、旧国道を南下、藤 地、熊野第一の美景なり」と『紀伊国名所 白神社まで徒歩分。または海南 図絵』の言葉のままに、遠く淡路、四国の 駅で、和歌山パスに乗り継ぎ、 島影がかすみ、和歌浦は一望のもとである。 「藤白神社前』にて下車、徒歩 2 分。 ・帰路は和歌山・ハスで、『橘本』 より紀勢本線加茂郷駅に向かう 松代王子跡から祓戸王子跡 ( パス分 ) 。 春日神社を後にした熊野詣での道は野上 電鉄の踏切を渡り、県道海南・高野線を横 ・サフコース 切ってなおも南へ進む。しばらくして、鉄 ・熊野古道コースは橘本の集落を これより熊野古道は西へ方向をかえる。 鋼所と民家の間を通り抜け、山田川を越え まっすぐ南下するが、途中古道を ると左手、民家の軒を借るように小さな石十五分ほど行くと一遍上人の開基で知られ 左手に見送り、福勝寺を経由、阿 ひぎりじぞう 仏が祀られている。この地が鎌倉時代のもる浄土寺 ( 日限地蔵 ) があり、西隣には、鳥弥陀寺に至るコースが県のふるさ ぼだいぼう のと推定できる遺物が出土した菩提房王子居王子とも呼ばれている祓戸王子跡がある。 と歩道コースに指定されている。 コース / 紀勢本線海南駅 ( 8 石碑は裏山の中腹に立てられている。 跡である。 畆第第
ノ谷を通り抜け、右へ山裾 ・南海貴志川線伊太祁曽駅を起点 に東へ、竹の里から大池遊園を訪 をつたい県道に合流する。 沿って少し行くと右側へ切ねるファミリー向きハイキングコー れ込む旧道があり、それをスが整備されている。コース / 伊 太祁曽駅 ( 分↓ ) 伊太祁曽神社 右に進むと十字路、その右 ( 分↓ ) ハス池 ( 8 分↓ ) 下池 側に平緒王寺跡の説明板が ( 8 分↓ ) 大谷池 ( 分↓ ) 大池 立てられている。 ごこうき ふじわら 遊園 ( 浦分↓ ) 貴志川線大池遊園 『御幸記』の筆者、藤原 のていか 定家は日前宮に詣でている ■メモ ため「和佐王子・平緒王子 ・熊野古道が且来から日方に越え は道次にあらざるの間参ら る山あいにくも池と呼ばれる池が ず、先達ばかり奉弊す」と ある。この池には古くから天狗に 田記している。 脅された話、狐にだまされた話、 伊太祁曽神社から竹の里 おいはぎに出会った話等が語り伝 雑木を分け入り、トンネルのほば真上、矢十字路を南下、少しであぜ道となる。広えられている。この池の坂を小野 田峠に出る道が考えられる。かって熊野御い道に出て小栗橋を渡り、南海貴志川線の 坂というのは大野へ越える坂、す なわち大野坂の転化であろう。ま 幸で賑わった古道も、いっしか荒れるにま踏切を越えて口須佐に達する。ロ須佐で変 とくもと た日方側の峠を汐見峠と呼ぶのは かせ、今では徳本上人名号石の他、二、三則四差路を左、右と取り、奥須佐へと足を 急に視界が開け、海を見ることが の石地蔵のみが、往時を偲ばせている。 進める。左側には木の神様として知られる だきそ できたので、この名がある。 峠の南側は竹林の中にあり、追分となっ伊太祁曽神社の森が細長く延び、先ほどの ている。右手は南に直下する道で、明王寺変則四差路を左、左と取れば、県道に面す の矢田峠への登り口に役の行者像が祀られる鳥居前に通じている。 ている。ここでは左手に道をとり、矢田集古道に戻り、ほどなく奥須佐の人り口近 落の西端に降り立つ。ここを右にとって塩く右手に奥本氏の住居があり、裏山を昔は
いわたて かんむら 日本書紀に熊野神邑の天ノ磐盾と呼んだそぐに国道四十二号線を横切って進むと、突 ■サプコース の絶壁の上にゴトビキ岩が鎮まり小さな社き当りが佐藤春夫生育の家跡である。丹鶴 ・神倉神社から東に延びる尾根を 殿が祀られている。眼下に熊野の都、新宮、城跡の石垣に沿って左に折れ、緩やかな登千穂ケ峰と呼び、ここから熊野速 その向こうに熊野灘が広がり、悠久の歴史り坂を越えると、家並の向こうに霊峰蓬茱玉大社に向かってハイキングコー スが整備されている。コースは頂 をかいま見るひとときである。 山の小さな森が見えてくる。不老長寿の霊 霊峰・蓬莢山 薬を求めて斉 ( 中国 ) を出航した徐福は、長上コースと中腹コースの二コース に分かれ、新宮市街を足元に新宮 再び熊野速玉大社まで戻り、東へまっすい航海の果て、ここ蓬茱山にたどり着いた 、遠く熊野灘を望む景観に恵ま と言う。まっすぐに下り山麓を右・左と巻 れた縦走路である。県のふるさと くと阿須賀神社の正面に出る。 歩道・熊野神邑めぐりコースに指 阿須賀神社は古来、飛鳥社とも称し、三 定されている。コース / 新宮駅 山に次ぐ社格を持っ由緒の深い神社で、境 ( 分↓ ) 浮島の森信分↓ ) 神 内からは多くの弥生式土器が出土し、歴史倉神社 ( 牛の背頂上コース分、 中腹コース分 ) 熊野速玉大社 民族資料館が併設されている。 ( 分↓ ) 登坂橋 ( 5 分↓ ) 新宮 浜王子跡から王子ケ浜 神社を出て左・右と進み、ほぼまっすぐ に、新宮駅からの広い道を横切る。な おもまっすぐにとり、市田川に架かる第一 王子橋を渡って右折、すぐ左、左と進み、 王子町にはいる。次の三叉路を右へ、やが て左前方に王子神社の森が見えてくる。か ってこの社を浜王子と呼び、神武天皇東征 の際、荒れ狂う熊野灘に身を投じて、軍船 の危急を救った皇兄稲飯命と三毛人野命の 二柱を祭っている。 王子ケ浜 川 3
■地形図 ー和泉から紀伊国、雄ノ山峠越え ・五万分の一 / 粉河 ・二万五千分の一 / 岩出 和泉から紀伊国へ、「自鳥の嫁」と ■交通 小野小町伝説を訪ねる ・阪和線山中渓駅下車。山中 平安時代の熊野詣での道は、京都を起点踏切を渡る紀泉アルプス雲山峰方面への登宿まで徒歩五分。 ・帰路は和歌山・ハスで、『川辺』 に淀川を下り、摂津、和泉を経て山中渓温山道を見送る。 泉に着く。ここは鉱泉を沸かした温泉場で山中渓温泉の旅館脇を抜けた辺りから左より和歌山駅に向かう ( パス 分 ) 。または、川辺橋を渡り、 もあり、古い家並が今に古道の面影を残し手、山中川を間に阪和高速自動車道が平行 櫞しゃ 和歌山線布施屋駅に出る。紀 ている。 ) ( れより、和泉山脈雄ノ山峠を越に走るゆるやかな登り坂となり、ほどなく きいのくに ノ川堤防 ( 恥分↓ ) 布施屋駅。 え紀伊国に入り「紀伊の母」紀ノ川の渡河大阪・和歌山の府県境、境橋に着く。この ・県道粉河・加太線沿いは、和歌 へとかかる。 橋を渡ると和歌山市滝畑である。 山パス路線道となっており、和歌 中山王子跡から雄ノ山峠越え 山線岩出駅と阪和線紀伊駅間を連 やがて、府県境をはなれ、右手に滝畑第絡している。紀伊駅から『池の川』 一踏切を渡ると、すぐ民家の傍らに和歌山までパスで 7 分。 昔なからの家並か続く山中宿 ・阪和線紀伊駅から川辺王子跡ま 阪和線山中渓駅から北へ百メートル余り、 県最初の王子社である中山王子跡がある。 で徒歩分。 かっての宿場通りとして栄えた山中宿の家かっては王子跡を一小す碑と自然の台石もあっ 並が古道の面影を今に伝えている。宿場通たといわれるが、阪和線の開通により大き へんぼう ■宿泊 りを後に南へ、山中渓駅前を通り過ぎると、 く変貌し、現在では教育委員会の立てた説 ・阪和線山中渓駅から徒歩浦分の すぐ左手の民家の脇に関所跡と銘のある小 明板があるのみである。中山とは雄ノ中山 ところ、熊野街道沿いに古くから さな石標が見つかる。ここは足利三代将軍と呼ぶ地名から由来している。雄ノ山とは 開けた温泉宿山中渓温泉宿がある。 義満時代からの山中関所のあった所と伝えこの辺りから山口に至る間をいい、雄ノ山 問い合わせは、〇七二四ー七一 られている。しばらくして右手、阪和線の道といって古くから官道 ( 現在の国道に相五六七八 ( 阪和町産業課 )
ー地形図 4 拝の峠から有田川渉 ・五万分の一 / 海南 ・二万五千分の一 / 海南・湯浅 下津湾を眼下に、 ー交通 かんの花に彩られた桃源郷を歩く ・紀勢本線加茂郷駅から仁義 旅は歩くこと以外方法のなかった中世・ 行の和歌山パスに乗り、「橘本』 下車。橘本神社まで徒歩分。 近世まで、街道は山坂をいとわす近道をと ・帰路は宮原渡し場跡から紀勢本 り、まっすく北から南へ延びていた。下津 線宮原駅まで徒歩分。 町橘本の集落から市坪川を南下し、拝の峠・ 蕪坂を越えて宮原へと入る。宮原は全国有 ・アド八イス かぶらざか 数のみかん主産地で、花の季節には、沿道 ・蕪坂王子跡から山口王子跡まで に甘酸っぱい香りが漂う。 の間は所々で農道と交差するため 迷いやすいので、注意すること。 ・拝の峠から長保寺に至るコース は県のふるさと歩道コースに指定 市坪川に沿って されており、道標等が整備されて 加茂川に架かる第一一橘本橋を渡り、すぐ いる。長保寺は、春の桜、秋の紅 左手に折れると、支流市坪川の道となる。 葉と訪れる人も多い スリバチの底のように山に取り囲まれた加 茂谷、約五百メートルほどで、右手に森が ■サプコース あり、灯籠と鳥居が一段と高く仰がれ、橘 ・拝の峠から南へ、蕪坂を右下に 本神社に到着する。橘の神、田道間守の神 望みながら、まっすぐ尾根を登る を祀り、みかん神の神様として、春の菓子再び、民家が続く川沿いのなだらかな坂と加分ほどで、四等一一一角点、白倉 山に登り着く。雑木に囲まれてい 祭り・秋のみかん祭りが名高い 道を三十分も歩けば市坪。宮前橋の手前、 ←第を一洋 み きつもと
■地形図 2 矢田峠から汐見峠 ・五万分の一 / 粉河・和歌山・海 南 のどかな丘陵地に、満々と水を ・二万五千分の一 / 丸栖・海南・ おもむき たたえた湖水が風景に趣を添える和歌山 しおみ ー交通 やがて、集落の中央部、両側に家が建ち 紀ノ川渡しを経て、矢田峠・汐見峠へ、 ・和歌山線布施屋駅下車、 熊野詣での上皇や女官達が踏みしめた古道込んだ狭い道筋の右側三角地に、川端王子 はんざき 吐前王子跡まで、徒歩分。 が今も里びとの生活の道として息づいてい跡を示す説明板と、神殿造りの祠が祀られ ・途中、コースをエスケープする る。なだらかな丘陵地を縫うように、至るている。『寛文記』に「和佐王子一一社、一 まだけ もうそうちく 場合は、東西に走る南海貴志川線 ところで孟宗竹や真竹が茂り、のどかな里つは坂本にあり、一つは川端にあり」と記 を利用するとよい。平緒王子跡か されている。これより布施屋の町並みを抜 の風景に趣を添える。 ら貴志川線伊太祁曽駅まで徒歩 け出て矢田峠に向かう。この間、左手にそ分。 びえる高積山の裾野を巻くように進む。 ・帰路は松代王子跡から野上電鉄 はんざき 春日前駅へ徒歩分。 高積山・和佐王子跡 吐前王子・川端王子跡 紀ノ川渡しの南岸は、現在の和歌山市高積山は龍門山脈の西端の山で、山頂に 椒しゃ ・アド八イス 布施屋、明楽ダンポールと大和プロックの高積神社があり、和佐王子・川端王子を合 ・矢田峠の北側は部分的に藪となっ 間付近と思われる。国道一一十四号線を後に祠している。時間が許せばこの山に登るの ているため、山なれない人は峠の 南へ、県道海南・船戸線、さらに和歌も一興だ。千本桜の並木道を抜けて登って 下の矢田トンネルを利用した方が 山線の踏切を渡る。しばらくして、たんぼ行くと、四十分足らずで頂上に着く。山頂 はんさき の中の一軒家の隣に吐前王子跡を示す説明からは紀ノ川の流れと共に、紀ノ川平野の ・コースのほとんどが集落の中を 板が立てられている。そのまま南下し、吐雄大な景観が広がる。 通っており、古道をはずれないよ うに注意すること。 前集落に入り、字路を右折、一本道を右井ノロの三叉路で左に道をとり、なおも ねぎ 進むと、前方禰宜の集落人り口に土塀をめ に辿って布施屋の集落に人る。