いわたて かんむら 日本書紀に熊野神邑の天ノ磐盾と呼んだそぐに国道四十二号線を横切って進むと、突 ■サプコース の絶壁の上にゴトビキ岩が鎮まり小さな社き当りが佐藤春夫生育の家跡である。丹鶴 ・神倉神社から東に延びる尾根を 殿が祀られている。眼下に熊野の都、新宮、城跡の石垣に沿って左に折れ、緩やかな登千穂ケ峰と呼び、ここから熊野速 その向こうに熊野灘が広がり、悠久の歴史り坂を越えると、家並の向こうに霊峰蓬茱玉大社に向かってハイキングコー スが整備されている。コースは頂 をかいま見るひとときである。 山の小さな森が見えてくる。不老長寿の霊 霊峰・蓬莢山 薬を求めて斉 ( 中国 ) を出航した徐福は、長上コースと中腹コースの二コース に分かれ、新宮市街を足元に新宮 再び熊野速玉大社まで戻り、東へまっすい航海の果て、ここ蓬茱山にたどり着いた 、遠く熊野灘を望む景観に恵ま と言う。まっすぐに下り山麓を右・左と巻 れた縦走路である。県のふるさと くと阿須賀神社の正面に出る。 歩道・熊野神邑めぐりコースに指 阿須賀神社は古来、飛鳥社とも称し、三 定されている。コース / 新宮駅 山に次ぐ社格を持っ由緒の深い神社で、境 ( 分↓ ) 浮島の森信分↓ ) 神 内からは多くの弥生式土器が出土し、歴史倉神社 ( 牛の背頂上コース分、 中腹コース分 ) 熊野速玉大社 民族資料館が併設されている。 ( 分↓ ) 登坂橋 ( 5 分↓ ) 新宮 浜王子跡から王子ケ浜 神社を出て左・右と進み、ほぼまっすぐ に、新宮駅からの広い道を横切る。な おもまっすぐにとり、市田川に架かる第一 王子橋を渡って右折、すぐ左、左と進み、 王子町にはいる。次の三叉路を右へ、やが て左前方に王子神社の森が見えてくる。か ってこの社を浜王子と呼び、神武天皇東征 の際、荒れ狂う熊野灘に身を投じて、軍船 の危急を救った皇兄稲飯命と三毛人野命の 二柱を祭っている。 王子ケ浜 川 3
き ) 、塩屋王子神社 . 、祓井司 王子川パス停 鰹島 塩屋王子神社 1 : 00 1 : 00 清姫草履塚 〇 : 50 〇 : 50 仏井戸 〇 : 10 〇 : 10 上野王子跏 い扣陋ー可引 ぞ第 壁崎海岸 を当 37 第 1 : 00 1 : 00 津井王子跡 〇 : 30 〇 : 30 斑鳩王子跡 〇 : 10 〇 : 10 切 目 駅 1.•50,000 ー 000 m 0 いカるカ 斑鳩王子跡 富王子と言われ、明治 41 年まで光川にまつられ ていたが、同年 9 月に 宇杉八幡神社に合祠され た。しかしその後祭礼の 関係で再び光川に移し現 在小社が祀られている。
・裏見の滝 / 福勝寺の境内にあり、 あり、「この地、熊野第一の 美景なり、と『紀伊国名所図高さ二十メートル、幅三十メート ルの滝で、水が岩窟の上から落下 絵』の言葉のままに、遠く四 するため、この滝を見る人は滝の 国、紀伊水道、眼下に和歌浦 裏側より眺めることになる。岩窟 を望む大パノラマとなる。お には石の不動尊が祀られている。 そらく熊野御幸された各上皇 ・一の鳥居、藤白神社 / 藤白神社 は、ここに休まれて、眼下に は六五七年、斉明天皇が牟婁の湯 広がる青い海と緑に包まれた に御幸されたとき、小刺を建立し たのが、始まりとされる。また、 静かな人り江を眺められたこ とだろう。この辺りで、弁当熊野三山の一の鳥居のあった所で、 まさに熊野の玄関口であり、熊野 を広げ、往昔の藤白峠の絶景 街道の要所であった。熊野本宮に を想像してみるのも面白い は本宮参拝の準備としての発心門、 きつもと 祓戸王子が本社手前にあり、ここ 橘本王子跡 捨松がある。 藤白神社の場合にも、こうした御 峠に戻ると古道は舗装された農道と交差 御所の芝・大バノラマ 祓い所があったと考えられる。い しながら、谷沿いにまっすぐ南下する。みわゆる本社の東方、約一キロ足ら ここから十分ほど急坂を登りつめると、 かん畑の中を通り、路傍の地蔵に長い歴史ず、熊野古道と近世の熊野街道と 藤白峠で、数軒の民家と地蔵峰寺があり、 地蔵峰寺本堂には、峠の地蔵さんと呼ばれをかいま見るひとときである。やがて、民の合流点に、熊野一の鳥居の碑石 があったとされる。祓戸王子社跡 る巨大な一石造りの石仏が安置されている。家の間の急な坂道途中で、右手に細い路地 あみだ がその現れであろう。 ( この王子 また、この境内には搭下王子社が在り、明を入ると阿弥陀寺があり、境内には、橘本 は昭和四十二年、藤白神社に合祀 治の末に橘本神社に合祠したため、その跡王子跡が祀られている。これより古道は、 されている ) 加茂川を渡り、土橋の石碑を右手に見送っ 地に石碑が建てられている。 地蔵峰寺の右手から少し登ると御所の芝、て支流、市坪川沿いの道となる。 さらに一分ほどで、大きく開けたビークが 福勝寺
ー地形図 熊野速玉大社から王子ケ浜 ・五万分の一 / 新宮・阿多和 ・二万五千分の一 / 新宮・鵜殿 南国の空の下に映える朱塗りの ・交通 熊野速玉大社、歴史が今も生きイ冂る ・紀勢本線新宮駅下車、熊野 速玉大社まで、徒歩分。 熊野速玉大社は本宮・那智と共に熊野三 熊野川を背にして、杉・楠の大樹が繁茂 ・帰路は佐野王子跡から紀勢本線 する。緑の神域に朱色の新社殿が映え、訪山に数えられ、かっては熊野権現の名で一 紀伊佐野駅まで、徒歩巧分。 大宗教王国を構成し、元神倉山に祀られた れる人々を暖かく迎える。ここが本宮・那 ・パス利用の場合は、新宮駅を起 智と共に熊野三山の一つに数えられる熊野神を現在の社地に移して以来、神倉山の元 点に国道四十二号線沿いに熊野交 速玉大社である。熊野は聖なるところ、古宮に対し、ここを新宮と呼んだと言う。境 通パスが通じている。 代よりどれほど多くの人々が祈りをこめて内には国宝・重要文化財など約一千点余り を展示している神宝館をはじめ、平清盛の 訪れたことだろう。 ■宿泊 長男、重盛お手植えと伝えられるなぎの大 ・新宮市内にはビシネスホテル・ 木、佐藤春夫の望郷五月歌の詩碑などがあ旅館・民宿をはじめ、各種の宿泊 が望める。問い合わせは、新宮市 り、訪れる人々を暖かく迎え人れる。 熊野速玉大社 観光協会へ ( 〇七三五ー一三ー 熊野三山の参詣順路は、まず熊野本宮大熊野三山の元宮、神倉神社 八四〇 ) 、他に新熊野体験センター 熊野速玉大社の大鳥居から南へ、千穂ケ 社に詣り、その後熊野川を下って熊野速玉 ( 〇七三五ー二九ー〇三二一 ) も 大社へ、そして那智大社へ向かうというの峰の山麓、家並を辿ると、その南端に熊野 ある。 が普通のコースである。熊野本宮の参詣を三山の元宮と言われる神倉神社がある。鳥 済ませた熊野御幸の一行が、早朝、九里八居をくぐると自然石を敷き詰めた五百三十ーアド八イス 丁 ( 約三十五キロメートル ) を舟に乗って流八段の石段が御神体ゴトビキ岩に向けて続 ・王子ケ浜を後に高野坂への登り 口を注意すること。季節により線 れを下ると、昼にはもう河口の新宮速玉大いている。一気に上り詰めると、地上から のとりつきが藪となっている。 六十メートルの高さに岸壁がそそり立ち、 社横の川州に着く。 102
王子の峰と称したが、今はみかん山となり、南下する なくち その中に奈久知王子跡の小祠が祀られてい やがて、県道と合流、右側に庚中塚があ よしざとずだじ る。これより吉里、頭陀寺と一本道である。 り、この地が松阪王子跡である。江戸時代 3 辻の集落に人り、突き当りを右へ山裾を伝の熊野詣では、和歌山城下から紀三井寺、 資志川線 い阪和高速道路のガード下をくぐる。正面内原、黒江を通り藤白へ出るように改めら はらいど には宿禰さんの俗称で親しまれている武内れたため祓戸王子以北は衰微し、この王子 神社の森が見える。 社も寛文の頃、すでに八幡神社の末社とし 境内の右手、長寿殿という小さな建物のて退転していたという。 たけのうちすくね 中に武内宿禰誕生の井戸がある。宿禰井戸 さらに南へ、県道に沿って小野坂を登り キ歌 と呼び習わし、江戸時代には紀州徳川家の蜘蛛池を巡ると池畔に徳本上人名号磚が立っ 世子の産湯用として一般のくみ取りを禁じている。これより少しで汐見峠である。雄 ていたという。 の山峠を越えて紀州路に人り、初めて海を 古道は高速道路に沿って二ッ池の東側を眺めることが出来たので、この名がある。 通り、徳本上人碑の三叉路を左へ、古道はその頃の海は、日方側にずっと人り込んで その面影を色濃くみせはじめる。左手、 いたのだろう。 さく盛り上がった竹藪の中に小祠が祀られ坂を下り、四ッ辻をなおも南下、春日山 ており、ここが『紀伊続風土記』にいう奈の西麓、日方側沿いに、松代王子跡がある おくずさ 久知王子跡である。なお前述の奥須佐にあっ緑泥片岩の髀石は春日神社の参道を約百メー たのが定説となっており、『紀伊国名所図トル余り登った左側に祀られている。 絵』も「奈久知の王子社、奥須佐村にあり」 とある。 松阪王子跡から汐見峠越え 和歌山市から海南市に入り、整然と区画 ただ ねぎ された多田・且来の家並を、ほば一直線に 伊太祈曽駅 至和歌山 旧社地 ( 亥の森 ) 賢伊太祁円神社 県道和歌山・野上線 和はヴ池 調冠山大 - ・大池遊園 下池 大谷 全長 5.2 朝 海南市 ガこ池
地仏とみられる仏像三体が井戸の中に積み一本釣りや鰹節の発祥地として栄え、その ■メモ 込まれている。この井戸は、どんなに日照技術が世に有名な土佐の一本釣りの漁法へ ・『太平記』には「大塔宮の熊野 りが続いても減ることはなく、・ とんなに雨と受け継がれていった。しかし、なぜ、 落ち」として、ここ切目王子の社 が降っても増水することもないと言う不思っ鰹船が、この印南港から姿を消してしまっ 前で逆臣討減を終夜祈念する。早 朝少しまどろんだ霧の中に、髪を 議な井戸である。 たのだろうか。その一つの理由に鰹節で世 古代風に結った童子が現れて、 古道に戻り再び南下、三百メートルほどに聞こえた角屋の一人息子と、角屋に仕え 「熊野三山を目指すことは危ない、 で上野王子跡に達する。上野橋を渡り楠井る女中の悲恋話が語り継がれている。 これより行き先を十津川に入れ」 野の集落をぬけて印南町に人る。この辺り やがて、こんもり茂った森の中に斑鳩王 とさとす。宮はこれを熊野のお告 からの道は街道随一の景観を謳われたと一」子神社の小社が祀られている。 げと大変喜び、これより十三日を ろで、おだやかな丘陵地帯のあちこちに海王子神社の石段を降り立ち、再び国道と かけて、日高の奥へと山に分け入 岸段丘が発達し、海の広がりに目を奪われ合流、六百メートルほど進んだところで、 る。飢えをしのぎ、悪路に耐え、 る。やがて、道が左に大きくカープし、左手左に折れると切目神社の森がすぐ目の前と ようやく危難を逃れる。その運命 道標に従って、坂道を登ると右手に石段が、 なる。この森の中に切目王子が鎮まる。祭の岐路がここ切目となっている。 それを登ると法華堂と呼ばれる小さな広場神が五体あることから五体王子、五所王子 があり、ここ印南浦を一望できる景勝の地とも呼ばれ、熊野九十九王子の中でも特に に、津井王子、別名叶王子跡がある。こ一」大きな王子の一つとされる。歌会なども催 を出ると印南の町はもうすぐである。 されることもしばしばで、熊野落ちの大塔 印南港から斑鳩王子神社 宮、『太平記』『平治物語』『梁塵秘抄』 印南湾に沿った国道から左手、細い路地など、古い歴史を静かに語りかけてくれる。 が家並の間に通じており、小栗街道と呼ば切目神社を後に豆坂を下り、家並を縫っ れている。印南川の左岸に沿って国道と合て切目川を渡る。なおも小栗街道と呼ばれ 流、左に大きくカープし、光橋を渡ってする古い家並を進むと紀勢本線切目駅に ぐ左手に小径を人る。背後に印南港、紀伊突き当たる。古道は切目駅下のガードをく ぐり抜け、これより榎峠越えにかかる。 水道の景観が広がる。印南港はかって鰹の 55
旁いさのあ / ・ ふだらく 補陀洛山寺 熊野三山を現世の浄土と みなした当時の人々は那 智の浜からそのまま観音 浄土に続くと考えた。補 陀洛山寺の住僧は死に直 面すると、船を造り、わ ずかの食料を乗せ、風波 井関の石示 - ・ にまかせて沖へ向かった。 これが補陀洛渡海だ。裏 山には渡海僧や信者の墓 、石が並んでいる。大悲殿 い。のなげしには文武天皇の 筆と伝えられる「日本第 一補陀洛寺」の額が掲げ られている。 川わ 佐野王 ・ 49 .2 ・ 色岸岸 , 狗子の浦 根子島 。赤色 5 2 匚 25 , 0 面 500m 佐野王子跡 ナキワノ鼻 浜の宮王子跡 夫婦杉 多畠気王子跡 王子神社 那智大社 胃岸渡寺 0:20 0:05 0 : 30 0 : 02 4.0 0:20 よ 02
防小広峠から本宮 はっしんもん 熊野本宮旧社地 発心門王子跡 こより熊野聖域の入口 熊野三社を分祀する神社 で、昔は大鳥居が在り、 が全国に分布、その信仰 ⅱ 五体王子の一つとして格 の総本宮で、その数 308 別の崇敬を受けていた。 という。明治 22 年、大水 現在は社殿もなく王子神 害に流失するまで、熊野 意跡と刻んだ石碑が立っ 川の中州に鎖座していた。 ている。 音茶 伏拝王子跡付近の丘陵の ぉ 47 あちこちに茶園がある。 のどかな山里に続く茶畑 はきらきらと陽光に輝き 味も香りよく、本宮名 産・音無茶として人気が ある。 ふしおがみ 形地蔵 ・岩神王子跡 \ 、、草鞋峠 。 ( ゼ「、一岩神王子跡 猪ノ鼻王子跡 発悪門王子跡 水呑王子跡 伏拝王子跡 祓戸王子跡 熊野本宮大社 広峠 1 : 00
三栖廃寺跡し かっては約 4 万平方メー トルの寺域をもち、法隆 寺形式の伽藍配置であっ たと推定される。白鳳・ 天平期の石製相輪や、風 招・古瓦などが出され国 の史跡に指定されている。 いでたっ 出立王子跡 明治 40 年、八立稲神社に 合祠されたが、その後地 域民の強い要望で、現在 地 ( 田辺第三小学校へ登 る坂道の左手中ほど ) に 分霊が移された。今では 鳥居と塀に囲まれた小祠 と、「出立神社之碑」によっ ていにしえを偲ぶばかり である。出立は古くから のこの地方の地名で、 「出立の松原」「出立の清 きなぎさ」などと万葉集 に詠まれている。 一 - 。、玖保川節 光差当屋みプ 栖 橋 。パ 寺 、闘鶏神社 芳養王子跡 芳養川の河口、南岸にあ る小丘に祀られている大 瓠レー 神社で、『紀伊続風土記』 に記録されている若ー王 子社である。 遺岩 蝦島跡 第 ) ン、上方
十分余りで湯屋谷を抜け、県道粉河・加ある。 太線に出て少し行くと、右側に墓地が見え、 これより楠本集落の北側を通り邁ぎると、 りきし 塀の内側片隅に「右加太淡嶋神社道、左村社カ侍神社の鳥居前に達する。参道脇に 和歌山紀三井寺道」なる道標が残ってい桜の木が植えられ、奥の方でこんもりとし る。一」こを右折、広い車道を横切り西にとた森をなしている。再び曲がりくねった農 る。 道を川辺に向かう。広い車道を横切り集落 上黒谷・山口西の・ハス停を通り過ぎるとに人ると、右手に川辺会館、続いて波切不 右手に地蔵とおぼしき小祠があり、その前動尊を祀る地蔵堂があり、その前の e 字路 うえの を左折、上野集落に人る。十分余りで八王を右にとる。再び十字路で、その辻の左手 かわな・ヘ 子社の鳥居と石の宝殿が残る川辺王子跡に傍らに標石があり、西面には、「左、 着く。古代紀ノ川はこの辺りを流れていた大阪みち」、南面には「新義本山、根来寺、 とされ、その右岸を示す層が、この辺りか三国一錐もみ不動尊」、東面には「右、 ら東にかけて残り、川辺王子の名の起こり大阪みち」と刻まれている。ここを右にとっ とされる。 て、すぐ左手に小道を進み、紀ノ川堤防に 川辺王子跡から紀ノ川渉 出る。秘境・大台ヶ原に源を発する吉野川 川辺王子跡から断層をゆるやかに下り、 が和歌山県に入って紀ノ川とその名を改め すぐに出会う三叉路を左折、農道に沿ってる。有吉佐和子の小説『紀ノ川』で、一躍、 神波集落に入る。集落の中ほど自治会館前その名を有名にし、人は紀ノ川を「紀伊の の四ッ辻で右に折れ、突き当りを左・右・母」と呼ぶ。 左と進む。この間、右手川永団地との境界これより、川辺渡しの紀ノ川渉にかかる。 沿いの道を南下することになる。しばらく ここでは、この位置より下流の川辺橋を渡 して左手に中村王子跡を示す説明板が立てり、対岸に出ることにしよう。 られている。『紀伊国名所図絵』に「今王 子権現といふ、川辺王子社の東になり」と こうなみ おののこまち ・熊野参詣での途中、小野小町は、 ここ山口の里で倒れたという。里 人はこの地に一宇を建て、小野寺 と称した。現在、小町の墓と伝わ る傾いて苔むした一基の墓が残っ ている。