間榎木峠から千里浜 紺碧の海、緑美し冂海岸林、 貝殻やサンゴの破片が散りしく 近世の熊野街道が開かれるまで、岩代王宮が祀られている。 神社を後に、登ってきた道を少し戻り、 子から千里王子までの熊野古道は浜づたい に延びていた。光る海とまばゆい陽光の向すぐ左手、尾根の中腹を巡る道に入る。 こうに、遠く四国の島影が浮かぶ。熊野へ鳥の声に耳を傾けながら、山間を下ってい の長い旅の中で、ここ千里浜を訪ねた旅人くと、急に前方の景観が開け、紀伊水道の 陽光がまばゆく飛び込む。しばらくは国道 の印象は強烈であったろう。 を下方に望む丘陵地を南下し、ここで国道 と合流する。 榎木峠越え 岩代の浜 国道沿いの西、岩代・ハス停の傍らには、 切目駅下のガードを通り抜けると、 レ」うみようじ 右手に桜の名所光明寺がある。一」こで、道皇位継承の犠牲となり、謀反の名のもとに が二分し、突き当りを左へ、しばらく進む捕えられた有間皇子結松記念碑が建てられ と右に登る坂道があり、中山王子・足の宮ている。古く、旅の往来に草の根を結び、 への道標と出会う。両側に民家の建ち並ぶ松の枝を結んで身の幸いを神に祈る習俗が 急坂を登り詰めたところ、背後に切目平野あったと言うが、その願いも空しく、護送 の途中、皇子は藤白坂に於て絞殺され短い の眺望が開け、中山王子神社に到着する。 竹と檜に囲まれた境内は正面に中山王子跡、生涯を閉じた。 さらに国道を南下、西岩代川を渡って左 右手に足神さんとして親しまれている足の 部 ・交通 ・ r--æ紀勢本線切目駅から光明寺 ま・で、徒歩 2 分。また岩代駅から 岩代王子跡まで徒歩 5 分。 ・帰路は紀勢本線南部駅を利用す るとよい。 ・宿泊 ・紀勢本線南部駅から南へ約 二キロメートルほど行った海岸沿 いに、国民宿舎「紀州路みな・ヘ」 がある。含塩重曹泉の温泉で、太 平洋を眺めながらの朝風呂は快適 そのものだ。問い合わせは、〇七 三九ー七二ー五九三九 ( 国民宿舎 「紀州路みなべ」 ) 。 ・地形図 ・五万分の一 / 印南・田辺 ・二万五千分の一 / 印南・紀伊南 58
みす むろっ ■地形図 ⅱ牟婁津から三栖廃寺跡 ・五万分の一 / 田辺 ・二万五千分の一 / 紀伊南部・紀 大小の錦鯉が群がる会津川畔を辿り、 伊白浜・紀伊田辺 中辺路の山々に分け人る ー交通 あんどうなおっく ・紀勢本線南部駅から熊野古 紀州徳川家篳頭家老安藤直次三万八千八合流、すぐの信号を右にとる。右手はこん はやおうじ 道沿いの南部高校前まで徒歩 5 分。 百石の城下町として栄えた田辺は牟婁津ともりとした森をなす芳養王子跡・大神社の 呼ばれる良港に恵まれ、熊野街道はここで境内である。『紀伊国名所図絵』には「芳また芳養王子跡まで徒歩分。 ・帰路は『下三栖』または「熊野橋』 中辺路と大辺路に分かれる。熊野御幸の一養村にあり、街道右傍也、今若一王子と称 しおごリ パス停より紀伊田辺駅へ、明光バ 行は出立の浜で最後の潮垢離をすませた後、す」とあり、『御幸記』に「次にハヤ王子 スで約分。 にまいる」と記されている所である。 会津川に沿って、いよいよ海岸を離れ、熊 芳養王子跡から出立の浜 ・宿泊 野三千六百峰の山また山に分けいる。 芳養王子跡を出て、旧道を南下、はずれ ・南部駅から国道を南下、鹿島を 近くの右側、榎の木が枝を張っており、芳目の前にする梅香丘温泉、国民宿 舎「紀州路みなべ」がある。黒潮 南部湾に浮かぶ鹿島 養一里塚の道標が祀られている。ほどなく の青い海とゆるやかな白い砂浜、 黒潮のいぶきもかぐわしい青い海と、美国道と合流、ナショナル・トラスト運動の てんじんざき 前方には「万葉集』にも詠われた しい砂浜、右手には万葉にも詠われた鹿島先駆けとして知られる県立自然公園天神崎 鹿島を望み、右に大きく開けた南 を望みながら、国道を南下する。しばらく への入り口を右手に見送り、少し行ったと 部湾から目津崎、左は田辺湾の先 して一本松・ハス停を左に人って堺へ抜け、 ころで、右へ田辺漁港方面に足を進める。 に白浜温泉が見える大パノラマの さらに国道を進む。やがて、右手正面に浮ゆるやかな坂を越え、いくつかの辻を過ぎ 展望風呂が名物。問い合わせは、 かぶ元島、その向こうに広がる白浜の景観ると右側に児童公園があり、その昔潮后離〇七三九ー七二ー三九三九 ( 国民 宿舎「紀州路みなべ」 ) 。泉質 / を眺めながら、ロ熊野、田辺市街に入る。 が行われた場所として、自然石の記念碑が はや 含食塩重曹泉、三十三度。効能 / 井原の旧街に入って芳養川を越え、国道と建てられている。熊野御幸の一行は、ここ でたっ
8 高家王子跡から道成寺 日高平野を見おろしながら、 安珍・清姫のロマンを追う 鹿ケ瀬峠を越えてきた人々は、広大な日 高平野を見おろしながら、山裾を縫って、 日高の渡河へと向かう。長い歴史に彩られ た道筋には数々の史跡や古墳群が点在し、 牧歌的風景が展開する。 高家王子跡から山麓を巡る 『源平盛衰記』に「権亮維盛は蕪坂をう ち下り、鹿ケ瀬山を越えて、高家の王子を 伏し拝み・ : 」とある高家王子跡は、紀伊内 原駅の北西約五百メートルの距離にある。 社歴は相当古く、現在は内原王子神社とし て、常緑の樹木の茂る境内に、瑞垣をめぐ らした本殿と拝殿が建つ。これより西川に 架かる王子橋を渡り、白馬山系の麓を巡っ て萩原に向かったとされる 旧国道に出て、すぐ東商店の前を左に、 イッ ゞ内原王子神社 ■地形図 ・五万分の一 / 御坊 ・二万五千分の一 / 高家・御坊 ・交通 ・紀勢本線紀伊内原駅から高 家王子跡まで徒歩分。 ・帰路は天田橋南詰めで、御坊南 海パスに乗車。印南または和歌山 方面に向かう。紀勢本線御坊駅ま で、パスで約分。 ・岩内王子跡から天田橋を渡ると 徒歩分で、紀州鉄道日高川駅に 着く ・アド八イス ・岩内王子跡周辺には岩内三号墳、 有間皇子の墓といわれる岩内一号 墳、また悪病の守護神として知ら れていたという熊野神社、野口城 跡など、見るべきものが多い。 ーメモ ・天田橋付近の河口一帯の干潟は 県下随一のもので、シギ・カモ・ チドリなど野鳥の休憩地として特
・地形図 9 垣屋から切目王子跡 ・五万分の一 / 御坊・印南 ・二万五千分の一 / 御坊・印南 青冂海、磯の香り、 ・交通 鰹節のルーツ・印南を訪ねる ・御坊南海パス『王子川』から塩 山また山を越えてきた道は塩屋でようや盛んで、浜辺に塩を焼く煙がゆらゆらと立屋王子神社まで徒歩 5 分。または く海と出会う。青い海・磯の香り漂う丘陵ち登る風景を眺めて、大宮人が幾多の歌を紀州鉄道終点、日高川駅から塩屋 王子神社まで徒歩分。 地を国道と交錯しながら南に進む。昔、旅残している。 ・国道四十二号線沿いには南海和 清姫草履塚から仏井戸 人が必す足をとめた切目王子、そして祈っ みや 歌山市駅から紀勢本線印南駅 た旅の無事とわが身のゆく末、雅びな和歌南塩屋をぬけて国道と合流。右手にわが 間の御坊南海パスが、また、印南 を詠む声と、大宮人の衣すれの音が、聞こ国始めての人工島に造られた御坊火力発電 駅から紀伊田辺駅間は明光バスが えてくるような : 所を見送り、国道を南下、祓井戸で右に旧 通じている。 街道へ人る。集落の南端、国道との狭い畑 ・帰路は紀勢本線切目駅を利用す るとよい の中に一寸傾いて、清姫草履塚の石碑が立っ 塩屋王子神社 ている。ここで清姫は、履いていた草履を ・アド八イス 塩屋を北と南に分ける王子川の手前左側松の枝に掛け、裸足になって安珍を追った ・このコースは国道四十二号線と に、こんもり茂った樹木を擁して塩屋王子と伝えられている。すぐに国道と合流、磯 平行しながらの道筋で、かっての 神社がある。別名美人王子ともいい、祈願の香り漂う壁崎海岸を通り過ぎ、再び国道 古道を偲ぶべきもない。しかし、 すれば美人の子を授かると言うので子安神とはなれ、旧街道を野島、加尾と進み、上 右手に広がる紀伊水道の青い海と 社として信仰が盛んである。また、大同年野集落に人る。 青い空のコントラストは、かって この道をたどった人々に、強烈な 間に魚屋権兵衛なる者が始めてこの地で塩上野集落の中ほど、龍田自動車商会手前 を焼き、その発展を祈って小祠を祀ったのの路地を人り、まっすぐ国道を横切ると左印象として脳裏に焼き付いたので はないだろうか : に始まるとも言う。当地は古くから製塩が側に、仏井戸と呼ばれる上野旧王子社の本
・地形図 大雲取越え ・五万分の一 / 新宮・那智勝浦 ・二万五千分の一 / 新宮・紀伊勝 深冂杉木立の下に続く静かな古道、 浦・紀伊大野・本宮 流れる雲に手がとどく ・宿泊 えぼしいわ ・紀勢本線紀伊勝浦駅、また 青岸渡寺の横手より北へ、熊野山塊を這右手前方に鳥帽子岩を抱いた烏帽子岳が は那智駅から那智山行き熊野交通 い登って大雲取越えの一筋の道が延びていすっきりとした山容で、印象深く目に止ま ハスに乗り、終点下車 ( 紀伊勝浦 る。古くは雲取を雲鳥とも書き、かってのる。休憩所まで歩き、左手切り立った谷底 駅からパス分 ) 、青岸渡寺まで 熊野詣での難所、流れる雲に手が届くほどに色川の集落を望みながら、ここでしばら 徒歩分。 高い所を行くと言う意味で、この名が付けく休憩することにしよう。 ・帰路は小口・小和瀬から紀勢本 られたとも伝えられている。 雲取越えの山中に出没した怪物に、一つ 線新宮駅まで、熊野交通パスを利 だたらというのがある。身の丈一丈四尺、 用する ( 小口から新宮駅までパス 目が一つで足が一本だが、その行動は神出 分 ) 。 鬼没で風のように素早い。一つだたらは那 那智高原・一つだたらの伝説 ・宿泊 青岸渡寺の苔むした石段に一歩足を踏み権現の神宝を奪い、熊野詣での旅人を襲っ ・小口川と和田川が出会う山峡に 出すと、いよいよ大雲取越えの険路にはい て路銀をかすめることもしばしばであった 「小口自然の家、が開設されてい る。深い杉木立の下に続く静かな古道、険と『紀伊続風土記』に言う。この怪物、と る。施設内にはスポーツ広場、キャ しい山道の所々に苔むした石畳や石段が残いうより巨漢の山男は、後に色川の里に住 かりばぎようぶざえもん ンプ場、研修室等が整備されてい る。しばらくして道が二分し、左は妙法山む弓の名人狩場刑部左衛門に討ちとられる る。ロ 卩い合わせは、〇七三五四ー へ、ここでは右手、木戸平へと再び石段の結末である。 五ー二四三四 ( 小口自然の家 ) 、 登立茶屋跡から舟見峠 急坂を登ってい 。やがて、杉木立の向こ または、〇七三五四ー四ー〇三〇 う、急に視界が明るく開け、全国植樹祭の木戸平を後に林道大雲取線の左手、尾根一 ( 熊野川町役場産業経済課 ) 。 会場となった木戸平 ( 那高原 ) に到着する。沿いの古道に足を踏み人れる。しばらくゆ 114
当 ) となっていた。『和泉名所図絵』に雄ノ山峠に到着する。明るい陽光と共に紀 ーメモ 「平家物語に平清盛同じく重盛、熊野詣けノ川平野の田園風景が目前に迫る。 ・京都から熊野への平安時代の熊 らくよう るとき、洛陽の兵乱を聴いて、切り目の宿 野古道は、京都から淀川を下り、 摂津・和泉を経て、雄の山峠から より紀泉の境の於の中山に到って京使に遇熊野へ参るには紀伊路と伊勢路の 紀州にはいる。道は峠を南下し、 、六波羅の安否を問う」とあるのもこのどれ近しどれ遠し 湯屋谷の山口王子、黒谷を経て、 広大慈悲の道なれば 地であろう。 こうなみ 上野の月、 ー辺王子 ( 県史跡 ) 、神波 紀伊路も伊勢路も遠からず 王子跡前をまっすぐ南に百メートル、ト わ′ようじんひしよう から楠本の中村王子がある。カ侍 梁塵秘抄 橋を渡り、踏切を越えて再び県道に出て、 神社を通り過ぎ川辺から紀ノ川渡 はんざき これよりゆるやかな登りの雄ノ山峠越えに しで、対岸、吐前王子と続くが、 かっての熊野御幸に思いを馳せながら峠 かかる。やがて数基の石仏が迎えてくれる すべてカ侍神社に合祀されている。 を後にする。しばらくして道 「池の川』パス停からすぐ南に ゅやたに が二分し、左手、湯屋谷に足見える集落が近世の宿駅、山口の 里。雄山谷川の小流に沿って下り、 ~ にを進める。 橋を渡ると宿場町特有の道がカギ 白鳥の関・万葉の 状に続く。郵便局付近の旅籠「ぜ ロマンを求めて にや」など家並は古い。突き当り 昔、この辺りの山越えの道 に古井戸、ここから石折れすると に、紀の関・白鳥の関とも呼 現山口小学校が旧本陣跡。近くに へんしようじ す、み : 第ばれる和泉から紀州に人る関 は小野小町木像を安置した遍照寺 があり、ロマン漂う「白鳥の もある。熊野詣での帰り、小野小 町はこの里で病に倒れた。小町八 「 ( 嫁、民話が語り継がれている。 十余歳の恐ろしい形相である。 ま一を現在山口王子跡の石碑の立っ 辺りがそれで、戦前まで大き 、一一 ( ) 」な叢林を成していたと」われ
7 井関から鹿ケ瀬峠越え 昼乙も暗冂石畳道に 遠冂歴史をか冂まる ふじわらのていか さんかいけんそ 昔、藤原定家をして「崖巍の験岨」と嘆 かせた鹿ケ瀬峠越えは、今もなお山険しく、 昼でも暗い古道となり、所々に石畳が残る。 このせ 河瀬王子跡 広川に架かる河瀬橋を渡り、さらに少し 進み、河瀬の細流に架かる橋を渡ると、正 面に小さな森があり、河瀬王子跡を示す石 垣が残されている。また、民家の門前には 「右ハきみいでら、大水にはひだりへ」の 道標石があり、大水の際には広川が渡れず、 左の山手の方に迂回をやむなくされた事が うかがえる。 谷に沿って南下、ゆるやかな登り坂が続 うまどめ き、民家も疎らとなった左手傍らに馬留王 子跡の石碑が立っている。『紀伊国名所図 けんそ 絵』には「比辺より坂道嶮岨にして馬上に ごのせ 、ト 西の馬留 ・地形図 ・五万分の一 / 海南 ・二万五千分の一 / 湯浅・高家 ・交通 ・御坊南海パス「井関』下車。 ごのせ 河瀬王子跡まで、徒歩 2 分。 ・帰路は高家王子跡から紀勢 本線紀伊内原駅まで、徒歩巧分。 国道四十二号線沿いには御坊南海 パスが通じている。 ■アド八イス ・鹿ケ瀬峠への登り口を見逃さな いように注意すること。三叉路を まっすぐに取ると、水越トンネル 手前の国道四十二号線に出る。 ・なめら橋を見落とさないように 歩く。橋を渡ってから内の畑王子 跡への道は少し足場が悪いので、 注意すること。
・地形図 本宮大社から湯の蜂温泉 ・五万分の一 / 新宮・十津川 ・二万五千分の一 / 伏拝・本宮 峠を越えると古冂歴史をもっ ■交通 奥熊野の静かな温泉郷 ・紀勢本線紀伊田辺駅より国 熊野本宮旧社地から大日越えと呼ばれるを祀る社殿がある。うつ蒼と茂る杉林に囲鉄パスで 2 時間分、『湯の峰温 小さな峠を越すと、行く手の谷間に湯煙がまれた檜皮葺きの社殿には、一種独得の荘泉』『川湯温泉』経由、『本宮』 に至る 0 たちのぼる。小栗判官と照手姫の伝説で名厳さが漂い、今も昔も変わらぬ願いが蘇っ ・紀勢本線新宮駅または和歌山線 高いここ湯の峰温泉は、古くから開けた熊てくる・ : 。現大社は熊野川の中州にあった 五条駅より、ス・奈良交通 野詣での湯垢離場であり、湯治宿でもあつ大社が大洪水で流された後、一九八一年に ハスにて本宮に至る。 移されてきたものである。また建造物の規 ・帰路は湯の峰温泉より、紀伊田 模は以前の八分の一と言うことで、定家卿 辺駅・新宮駅・五条駅へ、それぞ が「・ : 感涙禁じがたし、と記し、もとの大れ熊野交通パス・奈良交通パス・ 熊野本宮大社 社がいかに豪壮森厳であったか伺い知れよ パスが通じている。 熊野本宮大社は新宮速玉大社・那智大社う。 ■宿泊 これより百三十段に近い石段の参道を下 と共に熊野三山を構成し、全国熊野信仰の ・本宮周辺には川湯温泉・湯の蜂 総本宮の位置をしめる。崇神天皇六十五年ることになるが、石段を下って、右に少し けつみこの 温泉・渡瀬温泉があり、宿には事 に社殿が創建されたと伝えられ、家都御子それると往昔の古道がひっそりと、そのま かみすさのおのみこと 欠かない。門い ロ合わせは、〇七三 神 ( 須佐之男尊 ) を主神とし、十二柱の神々まの面影を残し、長い歴史の重みを感じさ 五四ー一一ー〇七三五 ( 本宮町観光 せてくれる。 が祀られている。 協会 ) 、〇七三五四ー一一ー〇〇七 祓戸王子跡を出て、車道を少し進み、右熊野本宮旧社地から大日社 〇 ( 本宮町産業観光課 ) 。 手にとると本宮大社境内に足を踏み込む。 本宮大社の大鳥居を後に、国道一六八号 ・湯の谷川沿いに建つ湯の峰温泉 正面に神門、左手に拝殿、奥に十一一柱の神々線を横切って徒歩十分、音無川と岩田川が宿のほとんどが日本調で、とりわ
王子の峰と称したが、今はみかん山となり、南下する なくち その中に奈久知王子跡の小祠が祀られてい やがて、県道と合流、右側に庚中塚があ よしざとずだじ る。これより吉里、頭陀寺と一本道である。 り、この地が松阪王子跡である。江戸時代 3 辻の集落に人り、突き当りを右へ山裾を伝の熊野詣では、和歌山城下から紀三井寺、 資志川線 い阪和高速道路のガード下をくぐる。正面内原、黒江を通り藤白へ出るように改めら はらいど には宿禰さんの俗称で親しまれている武内れたため祓戸王子以北は衰微し、この王子 神社の森が見える。 社も寛文の頃、すでに八幡神社の末社とし 境内の右手、長寿殿という小さな建物のて退転していたという。 たけのうちすくね 中に武内宿禰誕生の井戸がある。宿禰井戸 さらに南へ、県道に沿って小野坂を登り キ歌 と呼び習わし、江戸時代には紀州徳川家の蜘蛛池を巡ると池畔に徳本上人名号磚が立っ 世子の産湯用として一般のくみ取りを禁じている。これより少しで汐見峠である。雄 ていたという。 の山峠を越えて紀州路に人り、初めて海を 古道は高速道路に沿って二ッ池の東側を眺めることが出来たので、この名がある。 通り、徳本上人碑の三叉路を左へ、古道はその頃の海は、日方側にずっと人り込んで その面影を色濃くみせはじめる。左手、 いたのだろう。 さく盛り上がった竹藪の中に小祠が祀られ坂を下り、四ッ辻をなおも南下、春日山 ており、ここが『紀伊続風土記』にいう奈の西麓、日方側沿いに、松代王子跡がある おくずさ 久知王子跡である。なお前述の奥須佐にあっ緑泥片岩の髀石は春日神社の参道を約百メー たのが定説となっており、『紀伊国名所図トル余り登った左側に祀られている。 絵』も「奈久知の王子社、奥須佐村にあり」 とある。 松阪王子跡から汐見峠越え 和歌山市から海南市に入り、整然と区画 ただ ねぎ された多田・且来の家並を、ほば一直線に 伊太祈曽駅 至和歌山 旧社地 ( 亥の森 ) 賢伊太祁円神社 県道和歌山・野上線 和はヴ池 調冠山大 - ・大池遊園 下池 大谷 全長 5.2 朝 海南市 ガこ池
■地形図 ー和泉から紀伊国、雄ノ山峠越え ・五万分の一 / 粉河 ・二万五千分の一 / 岩出 和泉から紀伊国へ、「自鳥の嫁」と ■交通 小野小町伝説を訪ねる ・阪和線山中渓駅下車。山中 平安時代の熊野詣での道は、京都を起点踏切を渡る紀泉アルプス雲山峰方面への登宿まで徒歩五分。 ・帰路は和歌山・ハスで、『川辺』 に淀川を下り、摂津、和泉を経て山中渓温山道を見送る。 泉に着く。ここは鉱泉を沸かした温泉場で山中渓温泉の旅館脇を抜けた辺りから左より和歌山駅に向かう ( パス 分 ) 。または、川辺橋を渡り、 もあり、古い家並が今に古道の面影を残し手、山中川を間に阪和高速自動車道が平行 櫞しゃ 和歌山線布施屋駅に出る。紀 ている。 ) ( れより、和泉山脈雄ノ山峠を越に走るゆるやかな登り坂となり、ほどなく きいのくに ノ川堤防 ( 恥分↓ ) 布施屋駅。 え紀伊国に入り「紀伊の母」紀ノ川の渡河大阪・和歌山の府県境、境橋に着く。この ・県道粉河・加太線沿いは、和歌 へとかかる。 橋を渡ると和歌山市滝畑である。 山パス路線道となっており、和歌 中山王子跡から雄ノ山峠越え 山線岩出駅と阪和線紀伊駅間を連 やがて、府県境をはなれ、右手に滝畑第絡している。紀伊駅から『池の川』 一踏切を渡ると、すぐ民家の傍らに和歌山までパスで 7 分。 昔なからの家並か続く山中宿 ・阪和線紀伊駅から川辺王子跡ま 阪和線山中渓駅から北へ百メートル余り、 県最初の王子社である中山王子跡がある。 で徒歩分。 かっての宿場通りとして栄えた山中宿の家かっては王子跡を一小す碑と自然の台石もあっ 並が古道の面影を今に伝えている。宿場通たといわれるが、阪和線の開通により大き へんぼう ■宿泊 りを後に南へ、山中渓駅前を通り過ぎると、 く変貌し、現在では教育委員会の立てた説 ・阪和線山中渓駅から徒歩浦分の すぐ左手の民家の脇に関所跡と銘のある小 明板があるのみである。中山とは雄ノ中山 ところ、熊野街道沿いに古くから さな石標が見つかる。ここは足利三代将軍と呼ぶ地名から由来している。雄ノ山とは 開けた温泉宿山中渓温泉宿がある。 義満時代からの山中関所のあった所と伝えこの辺りから山口に至る間をいい、雄ノ山 問い合わせは、〇七二四ー七一 られている。しばらくして右手、阪和線の道といって古くから官道 ( 現在の国道に相五六七八 ( 阪和町産業課 )