は、この前でお祓いをしてからくぐったと登りきると右側台地に伏拝王子跡がある。 王子跡横には平安時代の歌人、和泉式部の ここから林道を伝い、小鳥のさえずりを供養塔も建 0 ている。付近は音無茶の産地 聞きながらの快適な道となる。やがて、天として有名な茶畑で、深い谷が足一兀に開け、 山村内に紀州藩の建立による水呑王子の石その谷の重なりの遙か彼方に、熊野川原の 碑を見つけることが出来る。この後、古道丕呂大社旧社地を見おろし、北に果無山脈・ は新しい石畳に装いを改めて杉・檜の木立玉置山、南に大雲取の峰々を望む。まさに の中に延びている。車道に出て、まっすぐ古道中、最高の風光絶景の地である。険阻 進むと目前に小高い森が見え、左に古道をな山路を踏んで、喘ぎ喘ぎ長い苦行の果て ここにたどり着いた熊野詣での人々は、 思わず土下座し、一」こから熊野の神域を伏 し拝んだという。 三軒茶屋から祓戸王子跡 美しく刈り込んだ茶畑の側を古道はまっ すぐに進む。春のヤマツッジ、秋のリンド ウの花咲く古道は往昔の面影を色濃く残し ている。やがて道の左手傍らに苔むした自 然石の道標があり、「右かうや、左きみい でら , と深く刻まれている。ほどなく目の 前が明るく開け、祓戸団地を見おろす地点 に達する。まっすぐ団地の中を突っきると 《気 ( 、右側に杉・うばめがしの小さな森があり、 野祓戸王子跡である。ここより本宮大社へは、 もうすぐの所である。
て紀州候に献上したのでこの名が る片隅に、近世の熊野街道の道標があり、 あるという。 「東、きみいでら、南、いせかうや、 ここ栖原の海岸から北東に、栖 すはら」と深く彫られている。さらに進む 原の家並を少し登って行った白上 と道幅が少し狭くなり、広川畔にでる。橋 山の麓に、木造二階建ての栖原温 を渡ると広川町で、立春を過ぎたこの付近 泉共同浴場が建っている。脱衣室 の両岸には、四つ手網によるシロウォ漁が から浴室に人ると、浴槽は鍵状を 最盛期となり、季節の味覚として喜ばれて したきれいなタイル張りで、湯け いる。ここでは寺町通りで左折、湯浅町役むりが、もうもうと立ち込めてい る。泉源は建物の裏手、岩盤を掘 場を経て、広い通りを右折、湯浅駅前 り抜いた二つの井戸から湧き出て に出ることにする。 いると言う。 湯浅駅前から南へしばらくいくと、左手 また、共同浴場と棟続きに旅館 傍らに「霊厳寺へ五十町」の標石があり、 もあり、ここでは、三宝柑の実を ゝ道標に従って紀勢本線のガードをくぐると、 くり抜いて作る三宝柑の茶碗蒸し 左側に満願寺を通り過ぎ、道が一一分する。 が好評で、湯上がりには、また格 ここには勝楽寺を示す道標があり、右にと 別の趣向である。 るとゆるやかな登りで右手、白方山勝楽寺■所在 / 有田郡湯浅町栖原 交通 / 紀勢本線湯浅駅から に着く。西山浄土宗の古刹で、一般には パスで十分、「栖原小学校前』下 「別所の薬師」と呼ばれている。また境内 には紀州の名商、紀ノ国屋文左衛門生誕の車、徒歩三分。 ■泉質 / 単純硫黄泉。十七度。 示地を記念して、紀文碑が建てられている。 リューマチ・皮膚病・やけど等に 造 勝楽寺の少し東よりには国道四十二号線 が通っており、国道に沿って南下、ほどな ■問い合わせ / 〇七三七ー六二ー く左側に湯浅上水道へ入る坂があり、入っ 一一一九八「栖原温泉』 くめさき てすぐ、「久米崎王子社趾」の大きな石碑
合流するこの中州に、こんもりと生い茂っ 一」こでは音無川に架かる小橋を渡り、大け「あづまや」は静かな旅館であ おおゆがはら る。庭園には岩を配した露天風呂 た森がある。旧社地の大斎原だ。かっては日越えをして湯の峰温泉へと向かうことに があり、浴室の湯ぶねは檜づくり 幾棟もの社殿が建ち並び、大河に浮かぶ島しよう。石段を登ると、再び国道一六八号 である。 さながらであった旧社地も、今は二つの石線と合流、少し国道を南下、三叉路を右手 にとり、湯の峰温泉方面への国道三一一号 の祠として祀られている。往駄参詣の人々 ・サプコース はこの地の南門より船にて新宮速玉大社へ線を見送って右側、湯の峰温泉に通じる古 ・湯の峰温泉から尾根伝いに柿原 と向かったものである。 道人口を示す道標が立っている。これより宿場・なペわり地蔵を経て、熊野 少し急な道となり、約二十分余り登ると大古道船玉神社に至る湯の峰・船玉 ハイキングコースが設けられてい 社境外社の大日社に着く。 る。 ( 道標完備 ) 大日峠から湯の峰温泉 この道は大日越えと呼ばれ、さらに登る ーメモ と大日峠に出る。峠の古道傍らには左 じんごろう ・湯の蜂温泉は今から一千八百年 甚五郎の物語にまつわる鼻欠け地蔵がひっ ほど前に成務天皇の御代国造大阿 そりとたたずみ、長い歴史を語りかけてい 刀足尼が発見したと伝えられ、熊 る。峠を後に、古道は緑濃い樹林帯の下り野詣での湯垢離場として、古くか 坂となる。やがて、硫黄の匂いが辺り一面ら栄え、日本最古の温泉と言われ ている。湯の谷川の中の岩の上に に漂い湯の峰王子跡の小台地となり、なお 木づくりの湯小屋、壺湯があって、 も道標に沿って下ると東光寺裏手から湯の 日によって色が変わるという湯が 峰温泉郷の中ほどに出る。 くにのみやっこおおあどのすくね 川底から湧いている。ようやく二 その昔熊野の国造、大阿刀足尼が発見し 人くらいが入れる岩風呂で、普通 たと伝えられる湯の峰温泉は熊野詣での人々 は乳白色で、重曹を含んだ、とろ の湯垢離場であり、湯冶宿でもあった。ひっ けそうな濃度の高い硫黄泉である。 、物簽そりと静まり返 0 た街道に沿 0 て流れる湯重曹分は汚れた皮脂をおとして色 白にし、高い硫黄分は皮膚を整え、 の谷川には、一日に七度色を変えるという ひだり
塞の河原から如法山山腹を巡る 新宮川を見おろす、請川へ 道はこれより村界尾根の登り下りとなり、 北へしばらく進むと、過疎化によって廃 北へ僅かで右へ下る道が分かれ、続いて左村となった松畑の集落跡に着く。小広い台 つくら に十九良谷への山道が分岐する。さらに一一地に石垣を残すのみであるが、かっての礎 百メートルほど進んだところにも右に、谷石は雑草の中で整然と屋敷を区画している。 ロへの道標がある。うっそうと茂る樹木は松畑を後に、おだやかな尾根沿いの道を 日の光を遮り、累々と積み重ねた小石は苔辿ると右手に視界が開け、新宮川とその向 をまとい妖気漂う塞の河原を通り過ぎる。 こう果無山脈や大峰山脈玉置山の峰々を望 傍らには地蔵も祀られ、熊野が籠りの、つむ快適な道がしばらく続く。やがて、道は まり霊魂の籠る地とする信仰が、この場所松林の中をくねくねと曲がりながら、徐々 に塞の河原を設けたものであろう。 に高度を下げ、樹々の間に請川付近の新宮 やがて、前方に姿の良い如法山が近づく。 川が見え隠れするようになる。ほどなく古 小雲取山と言うのは際だったピークではな道は石段となり、民家の前を通り抜けると く、この辺りの山稜を総称しての呼び名で国道一六八号線、下地橋・ハス停に到着する。 ある。ほどなく古道は如法山の西面、七合これより、新宮川を辿ること四十分で、本 目辺りを大きく迂回する。西方、樹々の間宮という地点である。また大塔川をさかの から、野竹法師、大塔山、法師山の峰々が ばること三十分で川湯温泉に到着する。 くつきりと浮かび上がる。山腹をからみ終 えて、如法山の北方へ出ると、如法山への 登路を一小す道標が見つかる。志古の如法山 しきんう を定家は「紫金峰」と書いている。志古は 紫金の鈍ったものだという説もあるが、こ の街道を代表する山だ。 によほう 120
てはいきがたし、御幸の時此所にて馬を留きくカープした道と出会 い、この地点が鹿 ■メモ められしという、故に馬留の名あり」と記ケ瀬峠への登り口となっている。なお、こ ・愛子の渕 / 高家王子から南へ、 されており、熊野詣での人々はここで馬をの三叉路には道標がないので、ここだけは 五十メートルほどの西川の下流域、 留め、草履の緒を締め直してから登った一」見逃さないように注意しよう。 川の中央部が大きな岩場をなし、 とだろう。 これよりいよいよ「シシノセ山をよち昇この付近を愛子の渕と呼び、この ような話が語り伝えられている。 「シシノセ山をよち昇る」 る」と『御幸記』に書かれた鹿ケ瀬峠越え 昔、この付近の豪族に寵愛の一 すぐに追分で、「右くまの道、左かみつ にかかる。みかん畑の中、ジグザグの急登 子が授かった。しかし、寵愛を一 ぎーの道標石に従い、右に道を選ぶ。右手、となり、ほどよく汗をかく頃には、谷を隔 心に集めた千代は生まれついて 谷を隔てた上部に国道四十二号線を望みなてて国道四十二号線が下方に見えるように の盲目であった。不幸を嘆いた家 がら足を進める。やがて、左手に急坂で大なる。しばらくして、所々に石畳が残る昼族は、円応寺 ( 現廃寺 ) の観音様 でも暗い古道となり、しばし に願いをかけてみたが、いっこう 古道の面影に浸りながら一歩に験がない。そこで、大悲加護な きを悲しみ、川へ身を投げた。人々 一歩足を進める。 は驚いて救い上げたところ、早こ やがて、峠に近い左手、 と切れていた。しかし、不思議な 高いところに痔に霊験ある地 ことに死体は温味が増し、ロを開 ノ立 ( き、「今、地獄へ落ちるところを ケ瀬峠に到着する。黒竹や篠 観音様の御救いによってかくも助 かった」という。見れば両眼開し い峠であるが、付近には旅籠ている。一家は愁雲変わって、祝 ・茶屋跡かと思われる石垣が 気となったと喜んだ。このことか ら、ここを愛子の渕と呼ばれるよ 残されている。峠を越え、すぐ うになったという。 右手に細道を登ると、鹿ケ瀬 城跡となり、遙か遠くに生石 山や霊厳寺山の峰々を望む。 鹿ヶ瀬 ' 、
日高平野を見おろす高台の道に人る。県道るが当時の古道はこの辺りを通 0 ていたの に有名である。 藤井・日高線の橋の下をくぐり『御幸記』であろう : ・はま・ほう群生地 / 北塩屋の王子 に「眺望甚だ幽なり、とある景観を楽しみ ほのぼの日高、安珍清姫の寺 川畔に、御坊市の木に指定されて ながら足を進める。日高平野は県下有数の いるはま・ほう ( ほうのき ) が群生 元の道に戻り、八幡山の山麓を巻いて進 している。七月ごろには愛らしい 古墳群が広範囲にわた 0 て分布しており、むと、背後に堂塔の屋根瓦が高く光る天音 黄色の花が咲き乱れる。市の文化 熊野古道の道中にも、その牧歌的な景観が山道成寺が建 0 ているのが見える。道成寺 財に指定されている。 遠く遙かな歴史を物語っている。 といえば安珍・清姫の寺として、あまりに ・御坊の名の起こり / 亀岡城主湯 やがて、左手に片山古墳、右手に満々とも有名で、歌舞伎の舞台や娘道成寺の踊り 水をたたえた大池を見送り、御坊市内に人等に取り人れられた悲しい伝説が語り伝え戦「たおり、苦し」戦」を強」ら る。富安川の流れに沿 0 て南下すると、宮られている。しばらくして、吉田橋のたも れ、危ういところを石山本願寺の 前橋のたもと右手、山懐に抱かれるように、 と、右手木立の中に海士王子跡の小祠が祀証如上人に助けられた。その後、 善童子王子跡の社殿がひ 0 そりと祀られてられている。道成寺の本尊を担ぎ上げた海直光はこの恩にむくいるため、美 しる。 浜町の吉原浦に吉原坊舎を建て、 士を祀ったとも言われ、道成寺の伝説に取 次子信春を仏門に帰依させた。こ 愛徳山王子跡 り入れられて、九海士王子、『御幸記』で れが日高別院の前身であり、その しばらくして道が二分し、徳本上人の名はク ( 「王子、『聖蹟』にはクリ「王子と 後戦火に見舞われたが、浅野家の 号石と「左、道成寺 . の道標が立っており、ある。 庇護によって現在地に移され、土 道成寺道に人る。左〈富安橋を渡り、民家ついで道成寺の門前から日高川を渡り、 地の人々が尊崇し、御坊さまと呼 に沿い右に曲が 0 て狭い道を抜けると、道岩内〈向か 0 たことが、『中右記』『名月 んだというところから、御坊とい 成寺がたんぼを隔てて眼の前である。更に記』に記されているが、ここでは海士王子 う地名になったという。当地に移 されたイチョウは高さ三十メート 進むと吉田の集落で、徳山王子跡〈の道跡から少し西進し、広い車道を左折、五木 幹周り約四十六メートルにも 標が民家の壁に取り付けられている。標識橋・紀勢本線の踏切を渡り、紀南の豪 および、県の天然記念物に指定さ に従 0 て右、左、右と進むと、小高いみか族湯河氏館跡を訪ねることにしよう。湯川 れている。 ( 紀州鉄道西御坊駅下 ん畑のまん中に、説明板と新しい碑、自然中学校を右手に見送ると、ほどなく、湯川 車、徒歩 5 分 ) 石の碑が並んでいる。随分と人り込んでい神社・湯河氏館跡のこんもり茂 0 た小さな
しる。 るが樹々の間から有田川が望める。 右手に山路王子神社、一の壺王子跡がある。 名物行事「泣き相撲」の土俵もあり、秋祭さらに進むと、左手に蕪坂王子跡の標柱 ・メモ りには赤いふんどしを締めた幼児の取り組が立てられており、これより古道は農道と しらくらやま ・蕪坂峠と白倉山 / 古道が下津町 みが行われ無事の成長を祈るという。また交差しながら、最短距離で南に延びている。 の下沓掛から上沓掛を通り、白倉 笛や太鼓に合わせて、獅子舞も奉納され、所々古道として分かりにくい箇所もあるが、 山に登る途中、拝の峠を越えると、 ともかく細い方の急坂の道を選ぶ。両側は 共に民族無形文化財に指定されている。 白倉山の西側山腹をめぐる平坦な みかん畑で、道も昔のままであり、五月の 拝の峠から蕪坂 道となる。ここを横手、または蕪 市坪を過ぎ、家並が途切れると、もう人みかんの花咲く頃は、あたかも花のトンネ 坂峠と言う。白倉山は有田・海草 ルのようである。そして、甘酸つばい香り の郡境で、『紀伊続風土記』には 影もなく、みかん畑の中をゆるやかな登り 「高さ三丈、幅六十間の大岩あり、 となる。市坪川の水量も少なくなり、ゆるが辺り一面に漂い、まるで桃源郷を思わせ くつかけ やかな道も後しばらく、沓掛の集落に入るるものがある。また十一月、十二月の収穫白倉明神をまつる森があり、土地 のものは戦所と恐れて近づかない」 と古道は急勾配の坂道となり、拝の峠にかの時期には、色づいたみかんが太陽にまば とある。昭和の初期、白倉山に白 かっていく。みかん畑が段々とつらなり、ゆく感じられる。 い岩肌を高々と突き出していた巨 爪書地蔵から宮原渡し 道はようやく草の生い茂った山道となり、 岩は二十数年に渡って硅石の採取 やがて、坂の中腹、弘法大師爪書地蔵で 右手に頂上部を見るように登りつめ、拝の が行なわれ、現在では廃坑となり、 峠に出る。東西にパイロット農道が通じ、 知られる金剛寺に到着する。堂内の岩に弘今では大きな水溜りや取り荒され た残骸が残されているだけである。 右手に一一十メートルほどで熊野古道の道標法大師が彫ったという阿弥陀尊と、地蔵尊 たじまのかみ ・橘本神初 / みかんの祖、田道間守 の二体が刻まれている。周囲は明るい展望 があり、道標に従って蕪坂に下る。 を祀り、菓子の神社として信仰さ 白倉山の西側山腹を水平に巻き、海草・が開け、正面前方、有田川を目指して、な れている。 有田の郡界を経て宮原へと向かう。右手前おも急坂を下る。 ・歴史民族資料館 / 長保寺境内の 方には、和歌山県内一の良港、下津湾が手坂を下り終えた谷間、山口王子跡を過ぎ、 一角にあり、生活民具・古文書・ に取るように広がる快適なコースとなる。宮原商店街入口で左折すると、四百メート 考古資料などを収集保存している。 途中、下津町最古の供養塔三基、徳本上人ルほどで有田川に突き当たり、この地が宮 問い合わせは、〇七三四九ー二ー の名号石、石地蔵が並び、往時を偲ばせて原渡し場跡とされている。
ッ林から檜の植林帯に変わる椎の木茶屋跡呼ばれ、熊野街道屈指の景観を誇る。また、 〇七三五四ー一一ー〇七三五 ( 本宮 町観光協会 ) 、〇七三五四ー二ー に羽 ~ 、。 『紀伊国名所図絵』には、「桜茶屋、坂口 尾根をつたっていた道がこれより山腹をより五十丁目にあり、前に大木のさくらあ〇〇七〇 ( 本宮町産業観光課 ) からむようになり、背後には小口川の蛇行り、故に号く、一軒家なり」とあり、その ■メモ した流れと大雲取の山並が広がる。しばらさくらも二、三株の古木であったようだ。 川湯温泉から大塔川をさかのばっ くして、杉林の中に石垣の残る桜茶屋跡に石堂茶屋跡 て三十分ほどのところに、大塔渓 着く ちょ 0 とした下りの後、谷の源頭で尾根谷とも呼ばれる静川峡谷がある。 小口から桜茶屋跡までの間は、堂の坂とに向けて登り始める。途中で右に赤木への 約八キロメートルに渡って、険し い岩山が両岸にそそり立ち、春は 道が分かれる。四百 六十六メートルの独白いこぶしの花が咲き見られ、夏 はほたるが飛び交い、秋には紅葉 標を小さくからみ終 がすばらし、。 えると、道は西に方 向を変え、やせ尾根 上を辿ることになる。 付近はアセビに混じ ってつつじの類が多 くなる。やがて薄暗 い杉・檜の林の中に 、入り、道がおだやか になると、左手に休 憩所と石垣跡が目に 止まる。石堂茶屋跡 で、水場を示す道標 もある。 4
7 井関から鹿ケ瀬峠越え 昼乙も暗冂石畳道に 遠冂歴史をか冂まる ふじわらのていか さんかいけんそ 昔、藤原定家をして「崖巍の験岨」と嘆 かせた鹿ケ瀬峠越えは、今もなお山険しく、 昼でも暗い古道となり、所々に石畳が残る。 このせ 河瀬王子跡 広川に架かる河瀬橋を渡り、さらに少し 進み、河瀬の細流に架かる橋を渡ると、正 面に小さな森があり、河瀬王子跡を示す石 垣が残されている。また、民家の門前には 「右ハきみいでら、大水にはひだりへ」の 道標石があり、大水の際には広川が渡れず、 左の山手の方に迂回をやむなくされた事が うかがえる。 谷に沿って南下、ゆるやかな登り坂が続 うまどめ き、民家も疎らとなった左手傍らに馬留王 子跡の石碑が立っている。『紀伊国名所図 けんそ 絵』には「比辺より坂道嶮岨にして馬上に ごのせ 、ト 西の馬留 ・地形図 ・五万分の一 / 海南 ・二万五千分の一 / 湯浅・高家 ・交通 ・御坊南海パス「井関』下車。 ごのせ 河瀬王子跡まで、徒歩 2 分。 ・帰路は高家王子跡から紀勢 本線紀伊内原駅まで、徒歩巧分。 国道四十二号線沿いには御坊南海 パスが通じている。 ■アド八イス ・鹿ケ瀬峠への登り口を見逃さな いように注意すること。三叉路を まっすぐに取ると、水越トンネル 手前の国道四十二号線に出る。 ・なめら橋を見落とさないように 歩く。橋を渡ってから内の畑王子 跡への道は少し足場が悪いので、 注意すること。
1 で潮を浴び身を清めた後、中辺創傷、火傷、婦人病。 路の山々に分けいる。出立の浜 ・アド八イス は最後の潮垢離場であり、旅の ・本コースの出立王子から高山寺 0 三」無事を祈 0 て特に重要な儀礼と への古道は田辺市北新町の三栖ロ され、厳格を極めたとされる。 道標を経由すると思われるが、こ 公園を出て東へ、旧国道を右 こでは簡略化するために最短の会 にとって、田辺第三小学校へ登津川右岸沿いの道をとることにす ~ ニる坂道の中ほどに、その出立王る。また、本文でもふれているよ 」巻子跡がある。王子社の位置は、歴うに、古道がどのあたりを通 0 て いたのかが不明瞭であるため、こ 史の変遷の中で、幾度と場所を こではひとつのコースとして紹介 変えたと推察されるが、今では するにとどめている。 鳥居と塀に囲まれた小祠と、「出 立神社之跡 , と刻まれた石碑に ・メモ よって、いにしえを偲ぶばかり ・出立王子から秋津王子への御幸 である。これより旧国道に引き 道は、長い歳月の間にその付近一 円が変貌しているのでまったく不 返し、左折すれば会津川畔へ、 明である。しかしながら御幸道は、 - ~ もう少しである。 秋津平野に残っている条里制の地 高山寺から秋津王子跡 割りに沿って開かれたと考えられ 会津橋手前を左折、会津川右 る。出立王子のある会津川北側の 岸をさかのばる。やがて、聖徳 上野山を下って稲荷平地の会津川 、三三太子開創と伝えられる真言宗の こうせんじ 沿いの南端を通り、高山寺の麓の 寺リ、高山寺の山門に出る。木 糸田付近から会津川を渡り、秋津 平野の南端に至るコースに、御幸 一。一島立の間の長い石段を登り詰める と、多宝塔が美しい姿を現す。 道が設けられていたのではなかろ