三好 - みる会図書館


検索対象: 交流文化 volume 17
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1. 交流文化 volume 17

のだとすれば、観光においても風景・景観は的客観性があると考える人は少ないように、 て、後者は主観を持った人の体験である現象 重要な主題となるはすである。 フンボルトの後の時代の学間は詩人の立場をとしてそれぞれ景観を位置づけるのが基本的 捨て、科学者に徹して、 しくこととなるが、こ立場だが、現代ではそれぞれの分野の一部が 「景観」という概念 の野望というべきフンボルトの思想に強く惹相互乗り人れもしながら「景観」を使うため、 そこで改めて風景・景観の概念を整理してかれたのが三好であった。三好が植物学者と かなり込み人ったこととなっている。後者を おきたい。そのためには「景観」という語のして、植物の生育の広がりである物的空間 ( 植「風景」とすれば言い分け可能ではあったが、 成り立ちを知ることが助けになる。というの生 ) の総体とその印象を含む眺め ( 風景 ) の風景という一言葉は比喩的表現も含め幅広い意 も「景観」は日本語としてオリジナルに創案双方を合わせてこれに「景観」という名を与味を持っため、また学術的には眺めという主 された近代の造語であり ( 漢語ではない ) 、そえたのが明治年 ( 1902 ) のことである。観的体験にも一定の客観性 ( 間主観性ともいえ こに込められた意味が確認できるからである。フィジオノ、 , 、ーに近いがしかしその訳語としる ) を想定することから、「景観」も多く用い 創案者は植物学者の三好学 ( 1861 ー 193 てではなく、独自に創案した一言葉であった ( 図られる。さらにはこうした二つの立場の系譜 9 ) である。三好は植物生理学を修めにドイ 1 ) 2 とは必すしも関わりなく、新たに「景観」を ツに留学するが、専門を学ぶ傍ら強く感化を これは植物生理学者であった三好の専門と 扱う分野も現れ、「景観」概念は混迷の中に 受けたのはかの近代地理学の祖、アレクサンはやや離れた内容であったためか、三好が「景あるともいえる フォン・フンボルト ( 17 6 9 ー 18 5 観」を必すしも学術用語として規定しなかっ さまざまな立場がそれぞれ同じ「景観」を 9 ) の思想であった。壮大なフンボルトの仕 たことや、後の学者の誤解なども影響し、そ使うことが、結果として三好の意図に適って 事の一つの特徴は、自然を科学者と詩人の双の後の「景観」は三好の意図とは異なる形で しるという見方もあるかもしれないか、実態 使われ現在に至っている。三好が二つ合わせとしては異なる立場の存在に気付くことなく 方の眼で全体的な「 Physiognomy ( 相貌 ) 、と して捉えよ、つとする視点である。 て表現しようとした概念がそれぞれの意味で景観を論じている傾向が強く、特 - フィジオノ 、 , 、ーという語は、辞書にも載っ切り離され、同じ「景観」という言葉で使わ観光学のような多様な分野が集まる学際の場 ているように「人相」 という意味ももつ。あれることとなったのである。すなわち ( 植生 において、景観という言葉が使われながらも くまで人の顔のオモテを観ながらその内面まを一般化した ) 領域的・地域的空間の広がりをその意味が共有されすに話が通じてない事態 で捉えようとする言葉である。フンボルトは 「景観」と称する地理学や生態学と、眺め ( 風にもなる。景観に関わる諸分野において現状 人の人相に相当する、自然のいわば「地相」景 ) を「景観」と称する土木・造園等の工学としては三好の視点自体が知られていないに を捉えようとしていた。現在「人相」に科学分野である。前者は客観的かつ物的存在とし等しいが、当面は景観には二つの立場による

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PRUNUS PSEtJDO ・ CERASUS, LINDL. VIEW OF TIIE MOUNTAIN FOREST OF VOS 日一 NO. ( 27 ) 観景ノ林ニ井らくざまや 野吉和大 三好学『日本植物景観』 1905 より「やまざくら並に森林の景観大和吉野」 ( 図 1 ) 意味の違いがあることを常に留意した議論が 求められる。なお、現在の「景観」に対応す る英語の landscape や独語の landschaft は、概 ね景観と同等に「上地の領域ーと「風景」 の二つの意味を古くから持ち、使う立場によ る意味の相違は日本と同じような状況である。 しかし二つの意味があることと、それらにあ えてまとめた意味を与えることは異なり、そ れを試みたフンボルト・三好的視点はその後 避けられてきたとはいえ、日本語の「景観」 がそのためにあえて創案されたユニークさを もっていたことは、いに留めておきたい。 以上の前提のうえで、以下では観光におけ る景観や風景を切り口とした議論の可能性に ついて、三好の思いに多少とも届くことも意 識しつつ考えていきたい。 まなざし論と景観 今や観光学の基本図書の一つといえる、社 会学者の—・アーリによる『観光のまなざ し』 ( 原著 1990 ) 3 は、観光学においては必 すしも景観や風景を主題としたものとは位観 置づけられていないが、基本的に視覚の間題観 を扱った本書の内容は、景観論といって差し 支えない。冒頭部に引用もあるためか、本書

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きた人々とは異なる別の外部の他者の視点で眺めに関わる人、主体についての議論が不足覚や景観の議論から離れることよりも、むし ろあくまで観る主体としての人の身体性に着 ある。その外部の視点は新しいまなざしの一していることに気づかされる。 種といってよく、名勝などに加えて新しい文従って文化的景観という概念に沿うならば、目することで、三好の「景観」に近づいてみ 化財の種別として文化的景観を設けることは、人為を与えてきたその人々が自身の面する環ることである。 。本 一例として、観光地という , ) とではないか、 たとえば加藤のいう定住者的審美の態度の登境をどのように観てきたのかということが 場に伴うまなざしの変容に過ぎないという考来間われるべき点であるといえる。そのため海洋沿岸での地域の暮らしと海への眺めの関 えることもできる。三好自身の景観概念には には歴史性を考慮した空間の履歴を踏まえた係を挙げたい。東日本大震災で津波の被害に このまなざしに類する関心が希薄であったが、 上で、眺めの主体である人がその対象となるあった多くの沿岸集落の復興に関して、防潮 先に述べたような観光学等における風景への上地・空間に何らかの形で関わる身体をもっ堤の増強などによって暮らしの場から海が見 まなざし論を経ることで、三好の目指した景た同じ人であること、つまり人の身体性の観えなくなることを懸念する声は小さいもので はない。実際にある沿岸域で海の可視性を地 観概念には上地の広がりに関わり、またその点から景観を考えることである。先のアーリ の『観光のまな形情報をもとに網羅的に調べてみると、海岸 から離れた高台に立地する集落やそれらを結 ざし』においても、 文 要 重 その増補改訂版にぶ道は、海の可視性の高い上地に特異的・限 下 おいては、視覚中定的に立地していることがわかる ( 図 3 、写真 さらにこれは海が生業の場である漁業 心主義への批判な どにも応するかた集落はもちろん、沿岸域の農業集落において 曲市 ちで、身体性を考も一定度みられる特徴である ( 写真 9 ) 料 八 県 て め 慮した新たな考察まり沿岸域で暮らしを営む棲み処を定める 求 田賀 か加えられている。 ( 身を置く ) にあたって、海が見えるという単貌 棚は の の まさに先の中 しかしここで考え純な体験が生活に欠かせない、 地 土 の 観 たいのは、視覚以村の「生命の実存的不安を解消する」条件で 八 的江外の感覚と体験もあったと考えられる。そうした海を見ながら 観 化近 数重要であることは生業を続け暮らしてきた人々の営為の履歴の 集 特 当然とはいえ、視表れが、その上地のそこに暮らす人々にとっ 上化

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関する議論も既になされている。たとえば先空間の広がりと眺めの統合へとつながる手が 関連する話題として に挙げた勝原と、その考えを踏まえた文芸評かりをつかんでみたい。 論家の加藤典洋による審美的態度の変容に関挙げられるのは「文化的景観」の議論である。 わる考察 9 は、近代以降の風景へのまなざし ( 審農林漁業等に関わって形成された、たとえば 美的態度 ) が、歌詠み的、旅行者的、定住者的棚田などを典型例とする自然と人為の合作と 真 , 態度へと変容してきたことを、具体的風景のされる景観である ( 写真 6 ・ 7 ) 。文化的景観 新対象 ( 来訪地 ) とともに、まなざしの送り手とは戦前期の地理学で既に掲げられていた概念 受け手の関係とメディアの役割も含めつつ大で、自然に対する人為の働きかけの結果とし 賀 、たとて現出している上地・空間の広がりを捉えよ きな仮説として提示している。実際に 滋 堂 1990 年代に世界 えば文化財の種別には昭和年に「伝統的建うとするものであるが、 金 個造物群。が追加されているが、いわゆる歴史遺産の中で改めて着目されるようになり、そ 五 的まちなみを、定住者的審美の態度が注ぐまの後日本国内の文化財の一種別にも追加され 存なざしの対象の一例と理解することは難しくることになった。そもそもの考え方に沿えば 物ない ( 写真 5 ) 。現代においては、ウエプが変えおよそほとんどの環境は文化的景観といえる 造 建た情報社会の影響などを考えればこうした図が、 , ) れが世界遺産そして文化財となるにあ 伝式はもはや有効でない可能性もあるが、そのたって、他から際立った存在とみなし得るに 要 重 ことも含めて風景へのまなざしの動態的な把は眺め・風景としての価値も少なからす求め 握は、その第三者的「観測」から、現場での「制作・ られることとなる。従って文化的景観は一応、 編集」にまで多面的に有用な作業であり、観土地の広がりと眺めの双方の観点で捉える景 を担ってきたが、指定された当時の「現場」光学はその議論にふさわしい場の一つといえる。観であるといえそうである。 ところがこの文化的景観では、その眺め のまなざしがその後の観光者のまなざしを先 統合的な景観論の可能性 こよるものなのかという点は間われな か誰ー 導するとともに、発信者ともいえる現場のま しかし実質的には、ある土地を他から際 以上は三好の「景観」のうち、眺めや風景 なざしは当然ながら変化していく。もちろん 発信者は公的なものに限らす多様にあり得るに関わる議論の観光学における展開可能性を立った眺めをもっ景観として捉えるのは、そ こに現れている上地自然に働きかけを行って が、風景に関わるこうしたまなざしの変容に考察したが、次いでは三好の目指した上地・ 0

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私たちを惹きつける美しい景観や伝統的な生若者や子供たちが集落からいなくなって、「な体感でき、地元住民に触れ合う旅」は、海外 活様式を持続可能なものとして残していくこんとかせないかん。このままでは集落が消滅からの観光客からも注目されている。地域住 と」を掲げている。そのため、宿泊事業のみしてしまう。」という共通の切迫した思いか民の「地域への思い」から生まれる親密で素 ならず、古民家を拠点として地域の方々と訪ら、廃校となった学校を改修し、「楽校の宿朴なもてなしは、心の温まる交流の旅を作り 問者との交流が図れるようなイベント、ワー あるせ」という宿泊施設として蘇らせた。「楽出す。『 National Geog 「 aphic 』からの読者ッ クショップなども開催していることを伺った。校の宿あるせ」の運営主体は、地元に住む地アーも定着してきており、近年は定期的に開 お洒落な隠れ家型の古民家に滞在する観光客域住民でこの小学校の卒業生たちである。ど催されている。ラフティングの国際大会が開 数が増加するだけでは不十分で、そこからどのように地域住民が連携して運営に取り組ん催された際、英国からのチームは「楽校の宿 でいるのか。訪問者にどのようなプログラムあるせ」を宿泊施設として利用した。学生た のように交流・移住人口の拡大につなげてい くかが地域の持続可能な観光のための重要課を企画しているのかなどについてゼミの学生ちは地元の住民たちがいかにして外国人観光 題であることを学生は最終日の発表で取り上たちは、運営スタッフにインタビューを行っ客とコミュニケーションをとるのか、問題は げていた。 2 年ゼミの合宿をきっかけに、地た。宿泊施設ができることにより、都会に移ないのか心配していた。しかし、地元住民は 方への移住という課題に関心を持ち始め、 4 住した人々も家族連れで故郷を訪問すること英語が流暢に話せるわけではないけれど、携 年生の卒業プロジェクトではーターン・が可能になったことは地域住民のつながりを帯電話に翻訳アプリをいれて、それを片手に コミュニケーションをはかっており、親密な ターン、地域おこし協力隊など地方自治体の実質的に保持できるという意味で意義深いこ 移住政策をテーマに選んで取り組む学生も少とがわかった。また、この地域は雲海が頻繁交流が成り立っていることに学生たちは衝撃 なくない に見られる高地で山茶の産地で、「天空の山を受けていた。ある学生のゼミ合宿の感想を 茶」として知られているが、校庭にピザを焼最後に締めくくりたいと思う。 インバウンドと交流人口の増加 「祖谷で過ごした 4 日間は自分のなかで人生 く手作りの釜を完成させ、月に一回くらいの 徳島県三好市の総人口は 7 万 1320 人ペースで「山茶カフェ」というイベントを開の転機ともいえるほど大きなものとなりまし た。首都圏で働いて暮らすことしか頭にな ( 1960 ) から 2 万 6851 人 ( 2015 ) に催し、交流の空間を提供している。 にし阿波地域への外国人宿泊数は、こかった私を立ち止まらせ、今の社会のあり方 減少している。徳島県と高知県の県境にある 山深い地域に位置する「有瀬」小学校は、か こ年間で 9 5 2 人 ( 2 0 0 7 ) から 2 万についても深く考え直させてくれるきっかけ ( 豊田三佳 ) 3 6 81 人 ( 2 016 ) へと大幅に急増してになりました。」 って—oo 人以上の小学生が学んでいたが、 いる。「自然と共存する集落で暮らしぶりを 人口減少の波の中で廃校になってしまった。 41 「交流文化」フィールドノート

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れているそうである。ダ ムが建設され下流域の洪 水被害が軽減される以 前、湧き水が豊富なこの 地域における山の尾根は、 人々が移動するための重 要な交通経路の役割を果 たしてきたため、山の高 地斜面に集落が形成され たと言われている。 東洋文化研究家のア レックス・カーは、この 地域の山里の景観に魅了 され、「悠久の時を閉じ込 めた『桃源郷』のようだ。」 と表現しており、空き家 となった古民家を茅葺民 家型の宿泊施設として再 生させる「桃源郷祖谷の 山里」プロジェクトに携 わった。三好市の公共事 立っ美しい渓谷を流れる翡翠色の吉野川の清日本三大暴れ川の一つでもあり、「四国三郎」業で改修された落合集落に点在する 8 棟の茅 流は、ラフティングのメッカとして知られての異名を持つほど数多くの水害をもたらした葺き民家の施設をアレックス・カーが取締役 おり日本で初めてのラフティングの世界選手歴史があり、江戸時代の 2 0 0 年間に 10 0 を務めている「ちいおりアライアンストラス 権が行われた。しかしその一方で、吉野川は回ほどの洪水に見舞われたという記録が残さト」が運営管理している。外装はこの地域の . 員サ金 上郷土料理の「でこまわし」下農家民泊の経験を伺う

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ないか、あったとしてもまさに余剰価値を扱とはいうまでもないが、観光の多様化ととも当に捉えることが可能なのかどうかは未だわ , つにすぎない しかし時には、人々が風景を前に しかし改めて景観について原 に、いわゆる観光地とそうでない地域との違からない 義に立ち返ることで、誰かがそこに身を置き いは区別がなくなりつつある中で、環境の価しながらも必すしもインスタジェニックさに 体験をする場としての環境を広く捉えてその値をそこにおける人の体験も含めて統合的に捕らわれているばかりではない場に出会うこ 価値を考え、それらの関係体の維持のあり方捉えることは観光学としても取り組むべき課ともある ( 写真当。そこで人々が体験してい る風景・景観は、「相貌」に少しばかり近づ を議論することの意義に気が付かされる。観題ではないだろうか フンボルトや三好の目指した「相貌」は本いているのかもしれない 光資源や観光地の価値が自明のものでないこ 0 明治神宮外苑 2016 年 2 月 11 日。旧国立競技場が取り壊され、新競技場の建設までの束 の間に姿を現した富士山を見に集まる人々。写真を撮る人が少ないわけではないが、富 士山の景観は SNS の先よりも、現場に居合わせた人々の間で共有されていた。 ( 写真 14 ) 参考文献 中村良夫 ( 1982 ) : 『風景学入門』 : 中公新書 2 小野良平 (2008) : 三好学による用語「景観」の意味と導入意図 : ランドスケープ研 究 71 ( 5 ) , 433 ー 438 3 ジョン・アーリ ( 1995 ) : 『観光のまなざし一一現代社会におけるレジャーと旅行』加太宏 邦訳 : 法政大学出版局 ( 増補改訂版 2014 ) ( 原著 Urry, J. "The Tourist Gaze " , 1990 , ) 4 ジョン・バージャー ( 1986 ) : 『イメージ Ways 0f Seeing 視覚とメディア』伊藤俊治 訳 :PARCO 出版局 ( 原著 Berger, J. "Ways of Seeing" , 1972 , Penguin Books) 5 スザンヌ・シーモア (2005) : 「風景の歴史地理学」、プライン・グレアム他『モダ ニティの歴史地理・下巻』米家泰作他訳 : 古今書院 ( 原著 Graham, B. and Nash, C. " Modern Historical Geographies" ,2000) 6 勝原文夫 ( 1979 ) : 『農の美学』 : 論創社 7 柄谷行人 ( 1980 ) : 『日本文学の起源』 : 講談社 8 S. Whitfield ( 1992 ) : Magritte: Metropolitan M useum of Art 9 加藤典洋 (2000) : 「武蔵野の消滅」『日本風景論』 : 講談社 10 小野良平 ( 2012 ) : 「生活の基盤となる景観の再生」『復興の風景像』ランドスケー プの再生を通じた復興支援のためのコンセプトブック : マルモ出版 11 小野良平 ( 2017 ) : 三陸沿岸域における集落と海の視覚的つながり : ランドスケープ 研究 80 ( 5 ) , 585-588 0 15 特集景観景観土地の相貌を求めて

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がモダンな芸術としての写真論であるが、その写 たのか疑わしいところもあるが、ともかく近代たものである。写真家とは一般には「芸術」と しての写真を扱う表現者ということになるだろ真を見て「きれいな人ですね」と感じること、そ 科学はフンポルトの志向とは逆に進んでいった、 うか。少なくとも本書ではそれを一つの前提とれを伝えることも写真の立派な役割であると。 というかこれに抗ったのがフンポルトであった。 これはフンポルトから 2 0 0 年を経て、科学 こうしたフンポルトの視線は、今でいう自然している。畠山氏は大学で写真を学んだ「正統」 環境にのみ注がれていたわけではなかった。南な写真家であるが、そこで教えられた写真とは、や社会から分離されてきた芸術に対する芸術側 からの問いかけとして読むこともできるであろ 米を 5 年以上も旅行できたのはスペインの支援そこに写っている内容や出来事とは関わりなく、 う。もちろんこれまでこうした動きがなかった を受けながら当時のスペイン領を訪ねたからで純に写真としての作品性が問われるものだった あったが、そのことは植民地化による奴隷問題という。タイトルやキャプションもつけない言わけではなかったが、特に畠山氏のいう「具体 や環境への負の影響を考えさせる契機にもなり、葉に頼ることのないただの写真がすべてである性から逃れられない」という性質を持っ写真は、 それが環境を全体として捉える視点にも繋がっと。芸術というものの独立性に価値が置かれてフンポルトが自然を絵画のように捉えようとし た科学の方法にもなじみやすいと思われ、当 きた、ここしばらくの流れの一例であるという ていることを本書は教える。 こともできる。 時写真技術が実用化されていたならばフンボル 本書はダーウインを始めフンポルトに強く影 トがどのように活用したか想像してみたくなる。 それが大きく揺さぶられることになったのが、 響を受けた人物も紹介するが、そこには登場し ないものの、フンポルトの没後間もなく生まれ東日本大震災である。陸前高田出身の畠山氏は、実際、三好学は自然の景観の写真集を出してい る ( 特集参照 ) 。 た日本の植物学者三好学もその一人である。そ「見渡す限りの瓦礫の中で、自分や家族や知り 大竹氏はいう。「人間の歴史が進めば進むほ して科学者と芸術家の立場をあわせて自然を相合いのことを思うとき、そしてそれが写真には ど、物事は複雑になり、それぞれの分野に専門 貌的に捉える概念として三好が創案した言葉が、もう写せないと覚悟をするとき、『いい写真』 「景観」である ( 特集参照 ) 。 は空疎な響きしか持たない言葉のように思えて家が生まれ、細い鉛筆のようなビルのなかで隣 なお本書はフンポルトの南米やロシアへの旅くる」体験をし、「『私』をテーマにしたくはなの管轄には手を出さずに専門に勤しむようにな ります。 ( 中略 ) 写真家とはそのような鉛筆のビ 、にもかかわらず、出来事が生じたときにそこ 行記にもなっているが、今時は Goog 一 e street し view などを活用しながら読むのも一興である。 に巻き込まれる決断」をしたという。この過程ルの密林に踏み込んでいき、互いを隔てる壁を 壊し、見晴らしをよくする人のことだと思いま CNOO 年前の超人フンポルトの大旅行に、現代を大竹氏が対話によって引き出していく。 ただ畠山氏はそれ以前から、写真における形す。」写真だけでなく、フンポルト以降の歴史 技術の助けを得ながらわずかでも近づくことが における科学・芸術等の状況に加えて、「景観」 可能かもしれない。 式と内容の分離には違和感を覚えつつあったよう 次に紹介するのは、写真家の畠山直哉氏と写だ。たとえばある人物モデルを撮影した写真をという概念の意義についての説明にもそのまま ( 小野良平 ) 真・文筆家の大竹昭子氏の一連の対談をまとめその人物とは切り離して「写真として」論ずるの適用可能な至言に思われる。 43 読書案内

9. 交流文化 volume 17

父流文化 17 立教大学観光学部編集表紙写真 / 周宏俊、松村公明 特集 上地の相貌を求めて 小野良平 人工與自然的聯繋 周宏俊 バリの景観観察ノート 松村公明 「交流文化」フィールドノートの 「体験交流型観光」に取り組む 現場から学ぶ 豊田三佳研究室 読書案内 『フンホルトの冒険自然というく生命の網〉の発明』 『出来事と写真』 在外研究通信 10 ヴァーへニンゲン大学と ゲストハウスての日常生活 韓志昊 C 0 N T E N T S 02 04 26 34 42 44

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Pie し dnote 17 「交流文化」フィールドノート 「体験交流型観光」に 取り組む現場から学ふ 豆田三佳研究室 ( 観光学部交流文化学科 ) 豊田研究室では、 2 年ゼミ合宿で徳島県「にし阿波、剣山・吉野川観光圏」に フィールド調査に出かけている。 こ 10 年間で外国人観光客が大幅に急増した特 徴ある山岳地域の集落を訪ねた学生たちの活動を報告する。 が高 ら地 お集 話落 の お 母 さ ん の 作 お や を た だ き 015 年以来毎年夏休みの 2 年ゼミ合宿で徳島県「にし阿 波、剣山・吉野川観光圏」に フィールド調査に出かけている。著者の専門 は社会学で、国境を越えた人の移動を通して 創出されるコミュニティー・ネットワーク・ 組織が研究対象である。具体的に観光の現場 においては、 1 ) 観光客とホスト社会の関係、 2 ) 地域住民・地方自治体・観光産業の連携 関係、 3 ) 訪日外国人とのコンタクトゾー ンなどに着目している。豊田ゼミでは夏の ゼミ合宿のフィールドワークを中心に据え、 春学期には事前準備として学生はそれぞれの 興味・関心に基づいてテーマを設定し、グ ループに分かれて現地でのインタビュー調査 実習に備える。そして秋学期には夏のフィー ルド調査後のまとめとして、現地調査で得た フィールドデータの整理・分析、レポート集 の作成に取り組む。 フィールドワークは現地集合・現地解散 の 3 泊 4 日の行程で、最終日にはフィールド ワークで学んだこと・考えたことに基づいて グループごとの発表・提案を行う。自治体、 地元の地域の人々が聴衆として聴きに来るた め、調査地でお世話になった地元の人々への 4