地形の特性を全体的に捉える「相地」が行わみを見越せば ' 延々と起伏の連なる山々を見 れ、惠山の麓の傾斜を利用し、さらに麓の上ることができる。人工池の堰堤と刈り込みが に大きな築山を建てることによって、山林風その外側近くに広がる上地の風景を遮る一方 景の「意境 ( 注〕「境地」に近い意味 ) 」を強化で、水面は遠景と空を反射して倒景 ( 上下逆 するようなデザインが工夫されていることをさになった景観 ) をなし、絶景が生み出されて いる ( 図 3 ・写真 4 ) 。 窺うことができる。目を転じれば、「嘉樹堂」 円通寺庭園は主要となる建築物に付属する の近くに立ち、「錦匯潸」という池を見越し ながら、「錫山」及び「龍光塔」の借景を目枯山水式の庭園に属し、面積は 600 ' 余 りに過ぎない。やや長方形の形をした庭の中 に人れることができる ( 図 5 ) 。 中国の庭園に対して、日本の借景庭園におに目にすることができるのは、面に生えて いくつかの庭石と刈込だけであ いる緑の苔、 いては、「相地」と「借景」、あるいは「地形」 り、ほかには何もない。直方体に整えられた と「眺望」の関連は、より明確に読みとるこ とが可能である。すなわち、日本庭園の借景低い刈り込みは庭の境界線となり、視覚上の は ' 地形の特性の全体的な把握と検討に基づ見切りとしても非常に目立っているが、力強 く伸びる桧や杉の木とともに、天然の「額縁」 いて設計されていることがわかりやすいた とえば京都の修学院離宮の上御茶屋庭園、円が組み立てられている。その額縁は ' 雄大な 通寺庭園、あるいは奈良の慈光院庭園などは比叡山と向き合い、方丈建築からの借景の鑑 いすれも日本らしい借景の典型であるといえ賞を助ける道具となっている ( 写真 5 ) 。 円通寺周辺を含む全体的な地形の特性を分 る。修学院離宮上御茶屋では比叡山の西麓の 真中腹に、地形に沿って長さ 200 E におよ析してみると、円通寺庭園はなだらかな斜面 景ぶ堰堤が築造され、谷川を堰き止めた「浴の降りていく途中に立地し、これに向き合う 借 の龍池」と呼ばれる広大な人工池が設けられようにして立ち上がる比叡山を眺める構成と た。堰堤の最上部にある大刈込がきれいに整なっている。このように視点と対象の間の地 えられ、高所の視点となる「隣雲亭ーから浴形が凹型になっているところに庭園の境界線 龍池と視覚上の境界 ( 見切り ) となる刈り込を設置することによって、比叡山以外のもの 0
きた人々とは異なる別の外部の他者の視点で眺めに関わる人、主体についての議論が不足覚や景観の議論から離れることよりも、むし ろあくまで観る主体としての人の身体性に着 ある。その外部の視点は新しいまなざしの一していることに気づかされる。 種といってよく、名勝などに加えて新しい文従って文化的景観という概念に沿うならば、目することで、三好の「景観」に近づいてみ 化財の種別として文化的景観を設けることは、人為を与えてきたその人々が自身の面する環ることである。 。本 一例として、観光地という , ) とではないか、 たとえば加藤のいう定住者的審美の態度の登境をどのように観てきたのかということが 場に伴うまなざしの変容に過ぎないという考来間われるべき点であるといえる。そのため海洋沿岸での地域の暮らしと海への眺めの関 えることもできる。三好自身の景観概念には には歴史性を考慮した空間の履歴を踏まえた係を挙げたい。東日本大震災で津波の被害に このまなざしに類する関心が希薄であったが、 上で、眺めの主体である人がその対象となるあった多くの沿岸集落の復興に関して、防潮 先に述べたような観光学等における風景への上地・空間に何らかの形で関わる身体をもっ堤の増強などによって暮らしの場から海が見 まなざし論を経ることで、三好の目指した景た同じ人であること、つまり人の身体性の観えなくなることを懸念する声は小さいもので はない。実際にある沿岸域で海の可視性を地 観概念には上地の広がりに関わり、またその点から景観を考えることである。先のアーリ の『観光のまな形情報をもとに網羅的に調べてみると、海岸 から離れた高台に立地する集落やそれらを結 ざし』においても、 文 要 重 その増補改訂版にぶ道は、海の可視性の高い上地に特異的・限 下 おいては、視覚中定的に立地していることがわかる ( 図 3 、写真 さらにこれは海が生業の場である漁業 心主義への批判な どにも応するかた集落はもちろん、沿岸域の農業集落において 曲市 ちで、身体性を考も一定度みられる特徴である ( 写真 9 ) 料 八 県 て め 慮した新たな考察まり沿岸域で暮らしを営む棲み処を定める 求 田賀 か加えられている。 ( 身を置く ) にあたって、海が見えるという単貌 棚は の の まさに先の中 しかしここで考え純な体験が生活に欠かせない、 地 土 の 観 たいのは、視覚以村の「生命の実存的不安を解消する」条件で 八 的江外の感覚と体験もあったと考えられる。そうした海を見ながら 観 化近 数重要であることは生業を続け暮らしてきた人々の営為の履歴の 集 特 当然とはいえ、視表れが、その上地のそこに暮らす人々にとっ 上化
関する議論も既になされている。たとえば先空間の広がりと眺めの統合へとつながる手が 関連する話題として に挙げた勝原と、その考えを踏まえた文芸評かりをつかんでみたい。 論家の加藤典洋による審美的態度の変容に関挙げられるのは「文化的景観」の議論である。 わる考察 9 は、近代以降の風景へのまなざし ( 審農林漁業等に関わって形成された、たとえば 美的態度 ) が、歌詠み的、旅行者的、定住者的棚田などを典型例とする自然と人為の合作と 真 , 態度へと変容してきたことを、具体的風景のされる景観である ( 写真 6 ・ 7 ) 。文化的景観 新対象 ( 来訪地 ) とともに、まなざしの送り手とは戦前期の地理学で既に掲げられていた概念 受け手の関係とメディアの役割も含めつつ大で、自然に対する人為の働きかけの結果とし 賀 、たとて現出している上地・空間の広がりを捉えよ きな仮説として提示している。実際に 滋 堂 1990 年代に世界 えば文化財の種別には昭和年に「伝統的建うとするものであるが、 金 個造物群。が追加されているが、いわゆる歴史遺産の中で改めて着目されるようになり、そ 五 的まちなみを、定住者的審美の態度が注ぐまの後日本国内の文化財の一種別にも追加され 存なざしの対象の一例と理解することは難しくることになった。そもそもの考え方に沿えば 物ない ( 写真 5 ) 。現代においては、ウエプが変えおよそほとんどの環境は文化的景観といえる 造 建た情報社会の影響などを考えればこうした図が、 , ) れが世界遺産そして文化財となるにあ 伝式はもはや有効でない可能性もあるが、そのたって、他から際立った存在とみなし得るに 要 重 ことも含めて風景へのまなざしの動態的な把は眺め・風景としての価値も少なからす求め 握は、その第三者的「観測」から、現場での「制作・ られることとなる。従って文化的景観は一応、 編集」にまで多面的に有用な作業であり、観土地の広がりと眺めの双方の観点で捉える景 を担ってきたが、指定された当時の「現場」光学はその議論にふさわしい場の一つといえる。観であるといえそうである。 ところがこの文化的景観では、その眺め のまなざしがその後の観光者のまなざしを先 統合的な景観論の可能性 こよるものなのかという点は間われな か誰ー 導するとともに、発信者ともいえる現場のま しかし実質的には、ある土地を他から際 以上は三好の「景観」のうち、眺めや風景 なざしは当然ながら変化していく。もちろん 発信者は公的なものに限らす多様にあり得るに関わる議論の観光学における展開可能性を立った眺めをもっ景観として捉えるのは、そ こに現れている上地自然に働きかけを行って が、風景に関わるこうしたまなざしの変容に考察したが、次いでは三好の目指した上地・ 0
父流文化 17 立教大学観光学部編集表紙写真 / 周宏俊、松村公明 特集 上地の相貌を求めて 小野良平 人工與自然的聯繋 周宏俊 バリの景観観察ノート 松村公明 「交流文化」フィールドノートの 「体験交流型観光」に取り組む 現場から学ぶ 豊田三佳研究室 読書案内 『フンホルトの冒険自然というく生命の網〉の発明』 『出来事と写真』 在外研究通信 10 ヴァーへニンゲン大学と ゲストハウスての日常生活 韓志昊 C 0 N T E N T S 02 04 26 34 42 44
PRUNUS PSEtJDO ・ CERASUS, LINDL. VIEW OF TIIE MOUNTAIN FOREST OF VOS 日一 NO. ( 27 ) 観景ノ林ニ井らくざまや 野吉和大 三好学『日本植物景観』 1905 より「やまざくら並に森林の景観大和吉野」 ( 図 1 ) 意味の違いがあることを常に留意した議論が 求められる。なお、現在の「景観」に対応す る英語の landscape や独語の landschaft は、概 ね景観と同等に「上地の領域ーと「風景」 の二つの意味を古くから持ち、使う立場によ る意味の相違は日本と同じような状況である。 しかし二つの意味があることと、それらにあ えてまとめた意味を与えることは異なり、そ れを試みたフンボルト・三好的視点はその後 避けられてきたとはいえ、日本語の「景観」 がそのためにあえて創案されたユニークさを もっていたことは、いに留めておきたい。 以上の前提のうえで、以下では観光におけ る景観や風景を切り口とした議論の可能性に ついて、三好の思いに多少とも届くことも意 識しつつ考えていきたい。 まなざし論と景観 今や観光学の基本図書の一つといえる、社 会学者の—・アーリによる『観光のまなざ し』 ( 原著 1990 ) 3 は、観光学においては必 すしも景観や風景を主題としたものとは位観 置づけられていないが、基本的に視覚の間題観 を扱った本書の内容は、景観論といって差し 支えない。冒頭部に引用もあるためか、本書
観上地の相貌を求めて 文・写真小野良平 近年「絶景」という言葉がメディアにあふれ、「インスタ映え」は 2017 年の流行語大賞にまで なった。これらは「観る」ことに関わる流行の断片であるが、観光の本質にも関わる、 「観る」ことを通した体験を概念化した「風景」や「景観」の、 その原義は広く共有されているわけではない。このことをふまえたうえで、 人の体験や身体性を含めた総合的な景観論の可能性を考察する。 スツーリズムを省みる中で、オルれらの中には従来知られる観光地も少なくな タナテイプ / サステナプル・ツー いか、あれもこれも絶景というのは景色の安 リズムが唱えられるようになって売りであろうし ( 実際に番組制作の低予算化とも 久しい。その具体的形態はきわめて多様化し関わるように思われる ) 、ウエプや印刷の写真は ているが、総じてはモノからコトへ、一方的彩度などをドーピング気味に持上げた加工が 施され、風景は「盛られ」ている。 体験から双方向のコ、 , 、ユニケーションへなど、 さらには 2017 年の流行語となった「イ 体験の質を重視し地域をじっくり味わうよう な観光への志向が続いている。その中では当ンスタ映え」に加え、「フォトジェニックな景 然ながら、景色を一瞥して写真を撮って済ま色」という表現もよく耳にする。「フォトジェ ニックといえば従来は人に対して用いられ せるような観光は、表面的に風景を消費する、 旧態の遅れた観光として捉えられがちであるる表現であったのが、インスタグラムなどの よ , つに思われる に上げるのに適した写真映えのする風 その一方で、これとは対照的に思われる動景、というニュアンスも持つようになったよ 向も見受けられる。近年「絶景」という言葉うである。スマートフォンの台頭でカメラの が少なくもメディア上にはあふれ、番組使われ方が変容し、風景に限ったことではな 表をみれば毎日必すどこかの番組で使われて いが、写真を通して瞬時に自己を表現し他者 とつなかることかできそ、つとい , つ、コ、 , 、ユニ おり、また「死ぬまでに行きたい絶景〇〇選」 のような出版物も多数世に出されている。そケーションの道具としての写真の意味が増し みばら 4
の指定とは、実際にはその上地・環境の保護間が関わって文化財という価値が与えられるる。日本の自然環境の中でどのようなところ であるが、本質はそのまなざしの再定義と公のである。この現場における当事者達 ( アクを国立公園として定めるかは、まなざしの間 的認証にほかならない。名勝に限らす文化財 ターともいえる ) が、自身の議論がまなざしの題そのものである。その際に、文化財は先に に政治性、権力性をみるのはたやすい、がし再定義であることを自覚しているかどうかは述べた通り従前のまなざしを再定義するのに かし一方で何も記念物を欲しない社会集団も議論の深度にかかわることで、そうであれば対し、国立公園は国を代表する自然の風景と 珍しいであろう。そして実際には国家なる抽彼ら自身がまなざし論に自覚的であることにして新しいまなざしが求められた。実際に当 ー 9 世紀の西欧 象的な主体が指定するのではなく、名勝の場は大きな意義があり、まなざし論は実践の場初選定された国立公園は、 で登場した「崇高 (sublime こな風景に価値を 合その対象に既に与えられている社会的評価にも活かし得る。 をもとに、地元の自治体から文化庁までの行観光に関わり、文化財に続き昭和初期に制置くまなざしに影響を受けたと考えられ、火 政やそれぞれに関係する団体や審議会等の人度化されたものとして、国立公園が挙げられ山系の山岳を中心としたエリアが多く選定さ れた ( 写真 3 ・ 4 ) 。例えば、 松島は名勝には指定された 立 光 が国立公園とはならなかっ た。これはその選定にあ 真 たったまなざしの差にほか 写 ならない。そして国立公園 園 公 立 もまた文化財同様、多様な 国 伊 人の関わりによりその指定 根 箱 や追加変更などが現在も行 士 富 われており、その現場への 関わりの可能性は同じこと 真 写 かい ' んる 島 松 こうした名勝や国立公園 勝真 格写 は、観光地として戦前から 特園 1 公戦後にかけての観光の一翼 9 特集景観景観土地の相貌を求めて
よばれるような山を遥拝する場合である。大 ての景観ということになる。海だけではなく、特異な身体性とともに体験できる場所がある。 農地などの生産の場や集落など集住の場が相その典型が、日本の場合神社などに代表され抵は眺めとしても特徴ある形の整った山が神 互にどのような「見るー見られる」関係にある信仰に関わる場所である。よく知られるよ体山で、これを背後に拝むように社殿が設け うに、神社のプロトタイプは磐座という言葉られた神社が少なくない ( 写真川 ) 。さらに神 るかなどを調べることで、生活者の視覚体験 もあるように岩、山、瀧、巨樹など自然物を社の場所からの周辺への眺めにも集落を見渡 をその上地の空間的広がりと関連付けること が可能であり、統合的な景観を捉える手法と対象に、これを拝むという身体化とともに成せるなどの局所的特徴がある場合もあり ( 写 り立ってきたものである。特に景観として地真リ、先の沿岸域のケースでは、集落全体 して可能性がある。 としては海が見えにくくても、そのコ、 , 、ユニ さらに , ) うした「景観」を、現代ではやや域的スケールで成り立っているのは神体山と ティの拠点といえる鎮守である神社に行けば 海が良く見えるという例もある ( 写真リ。東 日本大震災で、津波を免れた神社が多数存 在し、その立地の知恵に注目が集まった。し かしこうした神社は単に高台にあるだけでは なく、集落から見えると同時にそこからは自 らの集落に加えて海を見るという、生活者に とっての景観としても特異な存在である。 最後に、観光地における例を紹介したい。 真 写 鳥取県の霊峰、伯耆富士こと大山の中腹に て め 宿ある大山寺および大神山神社は、修験の場に 求 を 県 はじまり天台宗の一拠点としての長い歴史を 島 相 児 鹿 もっ山岳信仰の場である。現在は旅館や上産 土 観 神店が並ぶその参道は当然のように大山を目指 聞 枚 しく。しかし盟 ( 味深いことにそ して上がって、 観 一の反対方向、つまり参道を下る際には、い 5 集 特 摩 離れた美保湾と弓ケ浜の美しい弧を正面 薩
庭記』の著者とされる橘俊綱 ( 藤原頼通の子 ) 心を打っ風景というような評価が与えられて きた ( 寄暢園の借景 ( 写真 2 ) 。 が、白河上皇との会話の中で、「地形」と「眺 望」を名園選考の基準としたというようなエ このように、拙政園から北寺塔を眺望する ピソードか記されている。そこに示されてい視点は、ある特定の建築物等に限定されてい るのは、日本の自然環境における山地に富むるのではなく、この意味では借景はそれほど 地形的特徴と、その影響を受けた作庭法の要は重視されなかったようにも思われる。これ 点であるということができる。これを中国庭に対して、滄浪亭という同じ蘇州にある宋代 園の場合に照らして考えれば、「地形」を重の庭園では、町の西南方向にある遠山を眺め んするのは「相地 ( 上地の特性を読みとることこ、るために、園主は明確な意図をもって、築山 「眺望」は「借景」と理解しても良いだろう。 の上に文字通り「看山樓」という名を与えた 中国において現存する庭園の中で最も有名二階建ての楼閣を建てた。残念なことに、そ な借景は、蘇州市の拙政園における北寺塔の「看山」の視線はすでに都市の現代化につ の借景ということができる。明代正徳年間れ、遮られるようになってしまった。 1521 ) に建造された拙政園は これらの二つの庭園の借景は、都市内に立 古くから名園の誉れ高いが、現在みることの地することにより得られた、庭園の外側に できる園内の空間レイアウトと様式は円世ある対象との単なる視覚的繋がりにすぎない 紀末に至ってから形成されたものである ( 図これに対して、郊外に立地し山林に囲まれる 1 ) 。北寺塔は拙政園の西に 1 ほど離れた「寄暢園」の場合は、周辺全体の地形を基本 ところにある。園内の池は東西方向に長く伸 とした環境の特性が把握された上で庭園の借 びており、東側には「吾竹幽居」と「倚虹」景が実現されていると思われる。蘇州の隣町 の二つの亭が立っている。両者の中間に立つである無錫の西郊には、「惠山」と「錫山」 て、広々とした水面を見越すと、北寺塔が見の二つの山が近接して存在するが、明代に建 える ( 寄暢園の借景 ( 写真 1 ) 。このシーンは天造が始められた寄暢園はまさにその両者の中 候に影響されやすく、塔が見えない場合も少間にあたる惠山の麓に、庭園が取り囲まれる なくないため ' そのことによりか , んってより ような形で立地している ( 図 2 ) 。寄暢園では
美保湾方面 山寺 神山神社 大山山頂 1 広島県世羅町・和理比売神社から見る世羅町 ( 旧大田庄 ) ( 写真 11 ) 2 宮城県気仙沼市・本吉寺沢愛宕神社からみ見る海 ( 写真 12 ) 3 鳥 取県大山寺門前より美保湾と弓ケ浜 ( 写真 13 ) 4 鳥取県大山寺門前付近における地形より解析した大山山頂および美保湾 ( 弓ケ浜 ) への可視性 ( 青色の濃度が、大山と美保湾への同時可視性の高さを示す ) ( 図 4 ) に望むことができる ( 写真リ。これを周辺一 帯の地形から解析してみると、大山山頂部と 弓ケ浜の双方を眺めることができるのは、こ の参道の付近に限られていることがわかる ( 図 4 ) 。つまり坂を上り下し、その重力を感じっ っ山と海の双方を眺め、堂宇に詣でるという 濃密な身体性を伴った信仰を空間化している のがこの霊場であり、それがそこ以外には成 り立ち得ない場所に存在している。現代では ここを登山者、ハイカーも通って大山に向か う。このようにこの社寺をその一帯に留まら す、視覚的に繋がれた山さらには遠く離れた 海まで含めた関係の中で、その門前に暮らす 人々が日常的に、参詣や登山に訪れる人々等 が非日常的に、それぞれに身を置いて体験す る空間のまとまりとして理解するのが、景観 としての捉え方といえる。 観光地においても、景観の保全などが取り 組まれるべき課題とされることは多い。しか しその具体策として挙がる、建物の保存や高 さ規制あるいは自然の保護に加えて看板や電 線の処理などの、環境の表層部を整えること は景観保全の一部には違いないとはいえ、そ れだけであれば景観という概念はさほど必要