のだとすれば、観光においても風景・景観は的客観性があると考える人は少ないように、 て、後者は主観を持った人の体験である現象 重要な主題となるはすである。 フンボルトの後の時代の学間は詩人の立場をとしてそれぞれ景観を位置づけるのが基本的 捨て、科学者に徹して、 しくこととなるが、こ立場だが、現代ではそれぞれの分野の一部が 「景観」という概念 の野望というべきフンボルトの思想に強く惹相互乗り人れもしながら「景観」を使うため、 そこで改めて風景・景観の概念を整理してかれたのが三好であった。三好が植物学者と かなり込み人ったこととなっている。後者を おきたい。そのためには「景観」という語のして、植物の生育の広がりである物的空間 ( 植「風景」とすれば言い分け可能ではあったが、 成り立ちを知ることが助けになる。というの生 ) の総体とその印象を含む眺め ( 風景 ) の風景という一言葉は比喩的表現も含め幅広い意 も「景観」は日本語としてオリジナルに創案双方を合わせてこれに「景観」という名を与味を持っため、また学術的には眺めという主 された近代の造語であり ( 漢語ではない ) 、そえたのが明治年 ( 1902 ) のことである。観的体験にも一定の客観性 ( 間主観性ともいえ こに込められた意味が確認できるからである。フィジオノ、 , 、ーに近いがしかしその訳語としる ) を想定することから、「景観」も多く用い 創案者は植物学者の三好学 ( 1861 ー 193 てではなく、独自に創案した一言葉であった ( 図られる。さらにはこうした二つの立場の系譜 9 ) である。三好は植物生理学を修めにドイ 1 ) 2 とは必すしも関わりなく、新たに「景観」を ツに留学するが、専門を学ぶ傍ら強く感化を これは植物生理学者であった三好の専門と 扱う分野も現れ、「景観」概念は混迷の中に 受けたのはかの近代地理学の祖、アレクサンはやや離れた内容であったためか、三好が「景あるともいえる フォン・フンボルト ( 17 6 9 ー 18 5 観」を必すしも学術用語として規定しなかっ さまざまな立場がそれぞれ同じ「景観」を 9 ) の思想であった。壮大なフンボルトの仕 たことや、後の学者の誤解なども影響し、そ使うことが、結果として三好の意図に適って 事の一つの特徴は、自然を科学者と詩人の双の後の「景観」は三好の意図とは異なる形で しるという見方もあるかもしれないか、実態 使われ現在に至っている。三好が二つ合わせとしては異なる立場の存在に気付くことなく 方の眼で全体的な「 Physiognomy ( 相貌 ) 、と して捉えよ、つとする視点である。 て表現しようとした概念がそれぞれの意味で景観を論じている傾向が強く、特 - フィジオノ 、 , 、ーという語は、辞書にも載っ切り離され、同じ「景観」という言葉で使わ観光学のような多様な分野が集まる学際の場 ているように「人相」 という意味ももつ。あれることとなったのである。すなわち ( 植生 において、景観という言葉が使われながらも くまで人の顔のオモテを観ながらその内面まを一般化した ) 領域的・地域的空間の広がりをその意味が共有されすに話が通じてない事態 で捉えようとする言葉である。フンボルトは 「景観」と称する地理学や生態学と、眺め ( 風にもなる。景観に関わる諸分野において現状 人の人相に相当する、自然のいわば「地相」景 ) を「景観」と称する土木・造園等の工学としては三好の視点自体が知られていないに を捉えようとしていた。現在「人相」に科学分野である。前者は客観的かつ物的存在とし等しいが、当面は景観には二つの立場による
ミ拙政園における北寺塔の借景 ( 写真 1 ) 。 = 人工與自然的聯繋 , = 周峵俊 一「。邉 ~ 園の外側ある山などの風景を取り入れて、 園内かあの眺望とする景観を「借景」と呼ぶ。 」」れは造園設計の重要な技法のひとつで、かっ て中国から日本にもたらされたものでもある が、すでに日本にも固有の見方が存在した。日 中の代俵的な「借景」の事例を比較し、共通性
よばれるような山を遥拝する場合である。大 ての景観ということになる。海だけではなく、特異な身体性とともに体験できる場所がある。 農地などの生産の場や集落など集住の場が相その典型が、日本の場合神社などに代表され抵は眺めとしても特徴ある形の整った山が神 互にどのような「見るー見られる」関係にある信仰に関わる場所である。よく知られるよ体山で、これを背後に拝むように社殿が設け うに、神社のプロトタイプは磐座という言葉られた神社が少なくない ( 写真川 ) 。さらに神 るかなどを調べることで、生活者の視覚体験 もあるように岩、山、瀧、巨樹など自然物を社の場所からの周辺への眺めにも集落を見渡 をその上地の空間的広がりと関連付けること が可能であり、統合的な景観を捉える手法と対象に、これを拝むという身体化とともに成せるなどの局所的特徴がある場合もあり ( 写 り立ってきたものである。特に景観として地真リ、先の沿岸域のケースでは、集落全体 して可能性がある。 としては海が見えにくくても、そのコ、 , 、ユニ さらに , ) うした「景観」を、現代ではやや域的スケールで成り立っているのは神体山と ティの拠点といえる鎮守である神社に行けば 海が良く見えるという例もある ( 写真リ。東 日本大震災で、津波を免れた神社が多数存 在し、その立地の知恵に注目が集まった。し かしこうした神社は単に高台にあるだけでは なく、集落から見えると同時にそこからは自 らの集落に加えて海を見るという、生活者に とっての景観としても特異な存在である。 最後に、観光地における例を紹介したい。 真 写 鳥取県の霊峰、伯耆富士こと大山の中腹に て め 宿ある大山寺および大神山神社は、修験の場に 求 を 県 はじまり天台宗の一拠点としての長い歴史を 島 相 児 鹿 もっ山岳信仰の場である。現在は旅館や上産 土 観 神店が並ぶその参道は当然のように大山を目指 聞 枚 しく。しかし盟 ( 味深いことにそ して上がって、 観 一の反対方向、つまり参道を下る際には、い 5 集 特 摩 離れた美保湾と弓ケ浜の美しい弧を正面 薩
修学院離宮の地形 ( Goog 厄 Earth より ) ( 図 3 ) 修学院離宮の借景 ( 写真 4 ) を視覚的に遮蔽し、山の雄大さをいっそう浮ある。中国的な「眺望」に近い借景の形式は、 「登高眺遠 ( 高いところに登って遠くを眺める ) 」 き彫りする効果を出していることがわかる。 という庭園での体験として表現することが可 ニつの借景の形式【「眺望」と「框景」 能であり、この体験には身体性の変化と視線 拙政園と滄浪亭のような中国の庭園の借景の広がりの関係性がみられる。すなわち、高 は ' まさに『園冶』が述べる「極目所至、俗所の視点に上がっていき、そこに到達して遠 則屏之、嘉則收之、不分町踵、盡為煙景 ( 見景を眺望するようになっているところに特徴 渡せる限り、俗なものであれば遮り、美しければそ があり、ここにいわゆる「小後見大 ( 小さな れをとり人れる。また、田園か町かを分けすに、す べて風景と見なす ) ーという内容に当てはまっ ている。中国では借景を楽しむ方法は大抵の 場合、高い場所あるいは広い場所から遠くの 景色を眺めることである。それに対して、京 都の円通寺庭園のような日本の借景は、小沢 圭次郎のいう「見越し」理論あるいは視覚上 の境界の存在によって成り立っている。視覚 上の境界物によって構成されたいわば額縁の ような存在は、借景の構図に対する重要な要 素となって、画面のように捉えられる景観の 深度と奥行き感に影響している。奈良の慈光 院庭園の借景もそのような要素と特徴を現し ている ( 写真 6 ) 。 これらの借景を成り立たせる庭園空間の構 成とそこにおける鑑賞者の身体の関係に注目 してみると、中国と日本とでは異なる特徴が 円通寺の借景 ( 写真 5 ) 21 特集景観借景人工與自然的聯繋
る , . ) ともできる 捲簾晴黛遠山低 ( 訳〕戦の鼓や角笛の音は低く、 借景が繋ぐ人工と自然 古い町である蘇州は中国江南平原の水郷地音楽はにぎやかになって、簾を開けて、遠い山の風 たびたび触れた小沢圭次郎が述べているよ帯に位置し、西や西南方向に十数ⅷ離れたと景を取り人れる ) 」など、町から遠い青山を眺 また、同じ古町であ うに、借景は自然と人工の人り交じった景観ころに山が多く存在する。しかし宋代の「平める描写も珍しくない を意味するが、それは庭園のみに存在するだ江圖」をみると、これらの山はまるで町に隣る常熟はより典型的な例であり、山を直にま けではなく、町、特に古い町にもスケールのり合っているように描かれ、非常に近い存在るごと町の一部分として取り人れたような特 大きな借景というべき景観的特徴がみられる。として捉えられている ( 図 4 ) 。詩文で描か徴をもっている。城壁は虞山の地勢に沿って 町に暮らす住民が郊外の山の景を享受する眺れたものを探してみれば、清代徐崧は『百城設置され、「十裡青山半人城 ( 訳〕大きな山の 望を得ることができることは、自然と町を融煙水』に蘇州城内の風景と名勝について詳し半分ほどが城壁に含まれる ) 」と形容されるよう 合しようという念願と理想の表れであるとみ く記述しており、たとえば「鼓角聲況絲管沸 ' な都市のレイアウトが形成された。日本の都 1 拙政園における「晩翠」 ( 写真 7 ) 2 網師園における「浴」 ( 写真 8 ) 3 網師園における框景 ( 写真 9 ) 23 特集景観借景人工與自然的聯繋
庭記』の著者とされる橘俊綱 ( 藤原頼通の子 ) 心を打っ風景というような評価が与えられて きた ( 寄暢園の借景 ( 写真 2 ) 。 が、白河上皇との会話の中で、「地形」と「眺 望」を名園選考の基準としたというようなエ このように、拙政園から北寺塔を眺望する ピソードか記されている。そこに示されてい視点は、ある特定の建築物等に限定されてい るのは、日本の自然環境における山地に富むるのではなく、この意味では借景はそれほど 地形的特徴と、その影響を受けた作庭法の要は重視されなかったようにも思われる。これ 点であるということができる。これを中国庭に対して、滄浪亭という同じ蘇州にある宋代 園の場合に照らして考えれば、「地形」を重の庭園では、町の西南方向にある遠山を眺め んするのは「相地 ( 上地の特性を読みとることこ、るために、園主は明確な意図をもって、築山 「眺望」は「借景」と理解しても良いだろう。 の上に文字通り「看山樓」という名を与えた 中国において現存する庭園の中で最も有名二階建ての楼閣を建てた。残念なことに、そ な借景は、蘇州市の拙政園における北寺塔の「看山」の視線はすでに都市の現代化につ の借景ということができる。明代正徳年間れ、遮られるようになってしまった。 1521 ) に建造された拙政園は これらの二つの庭園の借景は、都市内に立 古くから名園の誉れ高いが、現在みることの地することにより得られた、庭園の外側に できる園内の空間レイアウトと様式は円世ある対象との単なる視覚的繋がりにすぎない 紀末に至ってから形成されたものである ( 図これに対して、郊外に立地し山林に囲まれる 1 ) 。北寺塔は拙政園の西に 1 ほど離れた「寄暢園」の場合は、周辺全体の地形を基本 ところにある。園内の池は東西方向に長く伸 とした環境の特性が把握された上で庭園の借 びており、東側には「吾竹幽居」と「倚虹」景が実現されていると思われる。蘇州の隣町 の二つの亭が立っている。両者の中間に立つである無錫の西郊には、「惠山」と「錫山」 て、広々とした水面を見越すと、北寺塔が見の二つの山が近接して存在するが、明代に建 える ( 寄暢園の借景 ( 写真 1 ) 。このシーンは天造が始められた寄暢園はまさにその両者の中 候に影響されやすく、塔が見えない場合も少間にあたる惠山の麓に、庭園が取り囲まれる なくないため ' そのことによりか , んってより ような形で立地している ( 図 2 ) 。寄暢園では
れは「小中見大」の典景の代表であるといっても過言ではない ( 写 型ということができる。真 7 ) 。晩翠は拙政園枇杷院の白い塀にある 円形洞門の名前である。枇杷院の中に立っ 中国庭園において、 このような日本的な借て、晩翠を通して見れば、ちょうど築山の上 。 0 6. っ 2 り、 景の形式は「框景」呼に立っている「雪香雲蔚亭」と向き合う , ) と ばれる概念から理解すができる。芝圃の「浴鵰」も同じような構 ることも可能である。成で ' 景観として非常に優れた視覚効果が得 「框景」とは庭園内のられる ( 写真 8 ) 。以上は内部の塀にある円形 各スポットや建築の間洞門を利用した框景の例であるが、「網師園」 に相互に「見る一見らの「濯纓水閣」のように建築本来の一部分が れる」の視覚関係が築額縁とみなされるような框景の類型もある。 かれ、さらに建築物と「濯纓水閣」の内部から外を望めば、建築の の組み合わせによって障子、屋根と手すりが完全な額縁を組み立て、 窓枠のような存在が介「月到風来亭」と「竹外一枝軒」とともに美 空間を経てその後に広大な眺めを得るこの空間在することで、額縁に人った絵画を見るようしい画面的な景観が構成されている ( 写真 9 ) 。 理念を見出すことができる。たとえば滄浪亭な効果とともに捉えられる景観である。蘇州「濯纓水閣」の框景は円通寺庭園と同じよう の「看山楼」は築山に建てられており、「小庭園のような中国庭園は都市内に立地するのに視線を精確にコントロールする原理から成 後見大」の典型例という , ) とができる。それ で、庭園外の風景は多くは取り込める存在でり立っている。ただしもちろん日本の借景庭 に対して、日本型の借景にはいわゆる「小中 また庭園内部の空間は常に いくつか園の場合、これまでに述べたように框を構成 見大」という造園理念がみられ、すなわち「小」の部分に区画される。さらに、その空間を区するものは建築の軒などの一部や刈込であっ さな空間の中に身体を置き、そこから「大」画する主要手段あるいは重要な景観要素はま たり樹林であったり、框を通して見る対象は きな自然を望む意匠ということができる。円 さに建築物そのものである。このような庭園庭園の外の自然である点など、中国庭園とは 通寺庭園でみれば、、 さな庭園を前にした小 構成上の要因もあって中国庭園では框景の構異なる点も少なくない さな方丈から視線を遠くまで渡し、雄大な比造が形成されやすい 叡山を借景するという構成になっており、こ 拙政園の「晩翠」は蘇州庭園における框 慈光院の借景 ( 写真 6 )
美保湾方面 山寺 神山神社 大山山頂 1 広島県世羅町・和理比売神社から見る世羅町 ( 旧大田庄 ) ( 写真 11 ) 2 宮城県気仙沼市・本吉寺沢愛宕神社からみ見る海 ( 写真 12 ) 3 鳥 取県大山寺門前より美保湾と弓ケ浜 ( 写真 13 ) 4 鳥取県大山寺門前付近における地形より解析した大山山頂および美保湾 ( 弓ケ浜 ) への可視性 ( 青色の濃度が、大山と美保湾への同時可視性の高さを示す ) ( 図 4 ) に望むことができる ( 写真リ。これを周辺一 帯の地形から解析してみると、大山山頂部と 弓ケ浜の双方を眺めることができるのは、こ の参道の付近に限られていることがわかる ( 図 4 ) 。つまり坂を上り下し、その重力を感じっ っ山と海の双方を眺め、堂宇に詣でるという 濃密な身体性を伴った信仰を空間化している のがこの霊場であり、それがそこ以外には成 り立ち得ない場所に存在している。現代では ここを登山者、ハイカーも通って大山に向か う。このようにこの社寺をその一帯に留まら す、視覚的に繋がれた山さらには遠く離れた 海まで含めた関係の中で、その門前に暮らす 人々が日常的に、参詣や登山に訪れる人々等 が非日常的に、それぞれに身を置いて体験す る空間のまとまりとして理解するのが、景観 としての捉え方といえる。 観光地においても、景観の保全などが取り 組まれるべき課題とされることは多い。しか しその具体策として挙がる、建物の保存や高 さ規制あるいは自然の保護に加えて看板や電 線の処理などの、環境の表層部を整えること は景観保全の一部には違いないとはいえ、そ れだけであれば景観という概念はさほど必要
クリスマスを諦め、帰国した。未だに家族にをいただき、オランダのヴァーへニンゲン大 最初のヨーロッパ訪問の思い出は暗い冬 笑われる事件だった。 学で VisitingSchola 「として滞在することに 初めて訪れたヨーロッパの国は、大学の卒その時の辛い記憶が理由ではないが、そのした。立教大学観光学部で長年兼任講師とし 業旅行で行ったドイツだった。ドイツで駐在後、観光の研究者になってからも、ヨーロッて、夏の集中講義を担当してくださったクラ していた従兄弟の家族が住んでいたデュッ ハのどの国にも行かないまま長い年月が経っウディオ・、 , 、ンカ教授が Ch 斗 Head を務め セルドルフという町で 3 週間を過、 ) す予定で、た。そして、 2013 年の夏にヨーロッパのる Cu1tura1Geog 「 aphyChai 「 G 「 oup でお世話 クリスマス前後はパリに行くことを楽しみに主要観光地を訪れることができた。囲年ふり 渡航した。しかし、到着した次の日になって、に訪れたドイツで感じた夏のヨーロッパの魅新学期始めは、大学が主催する新しい外 朝は 9 時過ぎにうっすら明るくなり、午後 3 力は、以前の暗い記憶を忘れさせてくれた。 国人教職員向けのワークショップに参加した。 、こよ真っ暗になるドイツの冬の気候 lntroduction to the Netherlands. とい・つタイ オランダのヴァーへニンケン大学へ のことを知った。それから川日後、お日さま トルで、異文化を専門とする教員がオランダ を見ない日が続くことに耐えられす、 ハリの 2015 年秋学期に長期海外研究の機会の社会や文化について講義をし、参加者もそ 在外研究通信 1 0 Nethe ands ウアーへニンゲン 大学とゲストハウス での日常生活 韓志昊 2015 年秋から長期海外研究のためにオ ランダのヴァーへニンゲン大学に赴いた 韓志昊教授によるレポートは、現地で滞 在した大学とゲストハウスでの生活の思 い出を綴る。写真は、ガラス張りで作ら れた中庭のある研究棟。 4 4 "
関する議論も既になされている。たとえば先空間の広がりと眺めの統合へとつながる手が 関連する話題として に挙げた勝原と、その考えを踏まえた文芸評かりをつかんでみたい。 論家の加藤典洋による審美的態度の変容に関挙げられるのは「文化的景観」の議論である。 わる考察 9 は、近代以降の風景へのまなざし ( 審農林漁業等に関わって形成された、たとえば 美的態度 ) が、歌詠み的、旅行者的、定住者的棚田などを典型例とする自然と人為の合作と 真 , 態度へと変容してきたことを、具体的風景のされる景観である ( 写真 6 ・ 7 ) 。文化的景観 新対象 ( 来訪地 ) とともに、まなざしの送り手とは戦前期の地理学で既に掲げられていた概念 受け手の関係とメディアの役割も含めつつ大で、自然に対する人為の働きかけの結果とし 賀 、たとて現出している上地・空間の広がりを捉えよ きな仮説として提示している。実際に 滋 堂 1990 年代に世界 えば文化財の種別には昭和年に「伝統的建うとするものであるが、 金 個造物群。が追加されているが、いわゆる歴史遺産の中で改めて着目されるようになり、そ 五 的まちなみを、定住者的審美の態度が注ぐまの後日本国内の文化財の一種別にも追加され 存なざしの対象の一例と理解することは難しくることになった。そもそもの考え方に沿えば 物ない ( 写真 5 ) 。現代においては、ウエプが変えおよそほとんどの環境は文化的景観といえる 造 建た情報社会の影響などを考えればこうした図が、 , ) れが世界遺産そして文化財となるにあ 伝式はもはや有効でない可能性もあるが、そのたって、他から際立った存在とみなし得るに 要 重 ことも含めて風景へのまなざしの動態的な把は眺め・風景としての価値も少なからす求め 握は、その第三者的「観測」から、現場での「制作・ られることとなる。従って文化的景観は一応、 編集」にまで多面的に有用な作業であり、観土地の広がりと眺めの双方の観点で捉える景 を担ってきたが、指定された当時の「現場」光学はその議論にふさわしい場の一つといえる。観であるといえそうである。 ところがこの文化的景観では、その眺め のまなざしがその後の観光者のまなざしを先 統合的な景観論の可能性 こよるものなのかという点は間われな か誰ー 導するとともに、発信者ともいえる現場のま しかし実質的には、ある土地を他から際 以上は三好の「景観」のうち、眺めや風景 なざしは当然ながら変化していく。もちろん 発信者は公的なものに限らす多様にあり得るに関わる議論の観光学における展開可能性を立った眺めをもっ景観として捉えるのは、そ こに現れている上地自然に働きかけを行って が、風景に関わるこうしたまなざしの変容に考察したが、次いでは三好の目指した上地・ 0