けることも可能である。 平和記念資料館では , 常設展示のほかに , 企画展が年に数回開催され ている。たとえば , 「サダコと折り鶴 : 時を超えた生命の伝言」「ヒロシ マの証言 : 奪われた街・残されたもの」「焼け野原に人々を助けて : 薬 も食べ物もない中で続けられた救援活動」などをテーマにして , 企画展 が開催されている。 被爆から半世紀以上が経過しているので , 戦争や被爆体験の継承が大 きな課題になっている。平和記念資料館では , 被爆体験を次世代を担う 若い世代に正しく継承し , 平和意識の高揚を図るために , 修学旅行や校 外学習などで訪れた児童や生徒に対して被爆者による被爆体験講話と原 爆記録ビデオの上映を行い , 平和学習の機会を提供している。また , 資 料館では , 原爆展の開催や平和学習に活用できる資料 ( ポスター ・ノヾ不 ル・絵・ビデオ・絵本・熱線を浴びた瓦など ) の貸し出しも行っている。 世界最初の被爆都市となった広島市は , 核兵器の廃絶と世界恒久平和 の実現を求める「ヒロシマの願い」を世界に訴え , 国際世論を強めるた めにさまざまな活動に取り組んでいる。広島市長の秋葉忠利氏は「 2002 年平和宣言」のなかで , つぎのように述べている。 ・『忘れられた歴史は繰り返す』という言葉どおり , 核戦争の危 険性や核兵器の使用される可能性が高まっています。その傾向は , 2()()1 年 9 月 11 日のアメリカ市民に対するテロ攻撃以後 , とくに顕著になり ました。被爆者が訴えてきた『憎しみと暴力 , 報復の連鎖』を断ち切る 和解の道は忘れ去られ , 『今に見ていろ』そして『俺の方が強いのだぞ』 が世界の哲学になりつつあります。 ・・・世界の紛争地でその犠牲になる のは圧倒的に女性・子ども・老人など , 弱い立場の人たちです。ケネディ 大統領は , 地球の未来のためには , すべての人がお互いを愛する必要は 2 8 戦争と平和の博物館
7 110 民族の博物館 1 . 大航海時代と異民族との出会い 15 世紀に始まる大航海時代は , ヨーロッパ人による「地理上の大発 見」を可能にするとともに , 非ヨーロッパ世界の植民地化を促した。そ れによって , ョーロッパを「中心」とする「世界システム」が世界を動 かすようになった。大航海時代は , ョーロッパに限りない富をもたらし ただけでなく , かれらの世界観や人間観の拡大ももたらした。大航海時 代以前には , ヨーロッパの圏外には , 半人半獣のような化け物が住んで いると考えられていたが , 「地理上の大発見」によって , 世界中にさま ざまな人間が住んでいることが発見された。たとえば , 18 世紀のヨー ロッパの探検家は南太平洋で「高貴なる野蛮人」を発見している。 18 世紀中頃に , ヨーロッパの列強は南太平洋における本格的な探検 航海に乗り出した。フランスは , 1766 年に海軍軍人ルイ・プーガンヴィ ル ( 1729 ー 1811 ) を隊長とする探検隊を南太平洋に派遣した。プーガン ヴィルは南太平洋の島々を探検しただけではなく , 約 3 年をかけて世界 一周に成功した。帰国後の 1771 年に『世界周航記』を出版し , 注目さ れた。翌年には , だだちに英訳本が出版されており , 当時のヨーロッパ における南太平洋に対する関心の高さがうかがい知れる。 ついで , イギリスのジャームズ・クック ( 1728 ー 79 ) による探検航海 も有名である。クックは , 1768 年に初めて南太平洋を探検航海した後 , 1779 年にハワイ諸島で不運な最期を遂げるまでのあいだに , 3 回にわ
発見」と「非西洋世界の植民地化」を可能にした。大航海時代に続く「植 民地主義の時代」は , ヨーロッパに膨大な富をもたらしただけでなく , 未知なる世界についての情報や博物コレクション ( 珍しい動植物や鉱物 や諸民族の生活用具など ) をもたらした。ヨーロッパの王侯貴族は「世 界」を所有するという権力の証として , 世界中の稀品や珍品などのコレ クション獲得に力をそそいだ。いわば「世界の縮図」として普遍的なる ものを収集することが , 世界の支配者となりつつあったヨーロッパの王 侯貴族たちにとって大いに意義のあることとなった。 15 世紀から 17 世紀にかけて , ヨーロッパの王侯貴族は , キャビネッ ト (cabinet) と呼ばれた「珍品陳列室」 , クンストカマー (Kunstkammer) と呼ばれた「美術蒐集室」 , ヴンダーカマー (wunderkammer) と呼ばれ た「驚異の部屋」などを競って設けた。 そのような博物コレクションの蓄積は , 自然に存在する動植物・鉱物 の分類とその体系化をめざす「博物学」の発展を促すとともに , 「博物 館」の確立に大いに貢献した。たとえば , オランダは植民地の拡大に伴っ て , 植物類の収集に力を入れ , 1587 年にはライデン植物園を創立して いる。また , 1683 年に創設されたオックスフォード大学附属のアシュ モリアン博物館は , プラントハンターであった J ・トラデスカント父子 のコレクションを中心にしている。 18 世紀に入ると , 1748 年にウィーンで自然史博物館が設立され , 1753 年には大英博物館が博物学者であった H ・スローンのコレクションを中 心にして設立されている。スローンが園長を務めた王室薬草園は , 1759 年に王立植物園 ( キュー植物園 ) になった。 このように , 植民地の拡大に伴って , 博物コレクションがヨーロッパ 諸国で蓄積されるなかで , 博物学プームが生じるとともに , 博物コレク ションを中心にした博物館が各地で設立された。 33 2 博物館の歴史
んに研究されるようになった。王立熱帯研究所が研究対象としてきた熱 帯地域は「南の世界」であり , また「第三世界」でもあるので , 博物館 における展示の面でも , グローバル・トレンド ( 世界の大潮流 ) の変化 に応じて大幅な改革を断行する必要に迫られた。その結果 , 1976 年に 展示の大幅な改革を実施するために , 3 年間にわたって博物館を全面閉 鎖して準備が整えられることになった。 1979 年に再開された熱帯博物館は , まったく新しい展示手法が取り 入れられており , 世界中の民族博物館の注目を浴びることになった。従 来の熱帯博物館では , 世界の他の民族博物館と同様に , 諸民族の「過去 の遺物」もしくは「死んだモノ」が民族文化を代表する資料として静態 的に展示がなされていた。ところが , 現実には「南の世界」もしくは「第 三世界」に属する諸民族を取り巻く , 社会的・文化的・経済的・政治的・ 生態的状況は劇的に変化しており , そのような諸民族の動態を展示に取 り入れる工夫がなされていた。また , マルチメディアを活用して , でき るだけ五感をとおして民族文化が理解できるような仕掛けもなされてい た。現代アフリカのマーケット , ジャワ島の農村 , フィリピンのマニラ における交通渋滞をみてから , アフリカのサバンナにおける雷雨やアラ ブ世界の街の喧騒を実感し , 南アメリカのジュークポックスの民族音楽 を楽しんだ後に , 熱帯降雨林に住む人たちの厳しい生活の話に耳を傾け る , などの展示が展開されている。また , 1979 年からは新たに「子ど も博物館」が附属施設として併設され , そのユニークな博物館活動が世 界的に注目されている ( 附属の「子ども博物館」については , 第 13 章 の「生涯教育と博物館」を参照 ) 。 このように , 熱帯地域の諸民族の大きな変化に対応して , 1970 年代 末に展示の刷新を行った熱帯博物館は現在 , 21 世紀を視野に入れてふ たたび常設展示の刷新を行いつつある。熱帯地域の諸民族も , 情報化時 122
3 自然と生態の博物館 1 . 博物学と博物館 15 世紀に始まる大航海時代は , ヨーロッパ諸国による「地理上の大 発見」と「非西洋世界の植民地化」を可能にした。大航海時代に続く「植 民地主義の時代」は , ヨーロッパに膨大な富をもたらしただけでなく , 未知なる世界についての情報や博物コレクション ( 珍しい動植物や鉱物 や諸民族の生活用具など ) をもたらした。ヨーロッパの王侯貴族は , 「世 界」を所有するという権力の証として , 世界中の稀品や珍品などのコレ クション獲得に力をそそいだ。そのようなコレクションの収集を可能に したのは , 探検家やプラントハンターたちの存在であった。 博物コレクションの蓄積は , 自然に存在する動植物・鉱物の分類とそ の体系化をめざす博物学の発展を促した。たとえば , 世界最初の公共博 物館とみなされているオックスフォード大学附属のアシュモリアン博物 館は , J ・トラデスカントというプラントハンターのコレクションを中 心にして , 1683 年に創設されている。トラデスカントは貴族の庭園の 庭師をしていたが , 庭園を飾る珍しい植物を入手するためにヨーロッパ 大陸に派遣された。当時のオランダは東インド会社の活動などをとおし て , 東方の珍しい植物を収集していたので , トラデスカントは数多くの 珍しい植物を購入し , イギリスに持ち帰った。その後も , プラントハン トラデスカント ターとして旅行を重ね , 博物収集を行った。最終的に は王室の植物管理人になったが , 自宅に相当な量の博物コレクションを 44
途上国の博物館 1 . 植民地主義と博物学 15 世紀に始まる大航海時代は「地理上の発見」の時代とも呼ばれ , ヨーロッパの列強が探検隊を派遣して世界の諸地域を発見していった時 代であった。さらに , 大航海時代に続く植民地主義の時代において , ヨ ーロッパの列強は非西洋世界を支配下に治め , 世界の富を収奪するシス テムを構築した。 ヨーロッパの列強は世界の各地域で植民地統治を行うに当たって , 統 治対象の諸民族の社会と文化について調査を行うとともに , 動植物や鉱 物の資源調査に力を入れた。そのさいに , 重要な役割を果たしたのは , 宣教師と博物学者たちであった。宣教師は植民地の諸民族をキリスト教 に改宗させるために , 現地の宗教や習慣や社会組織などを克明に調べる とともに , 生活用具の収集なども行った。それらのデータは植民地行政 官にとっても統治を効率的に遂行するために貴重な資料になった。 一方 , 博物学者は未知の世界で新しい動植物や鉱物の発見と収集に努 めた。それらの新しい資源は , 重要な「富」としてヨーロッパに送られ , 新しい文明を創造する源となった。ヨーロッパを「中心」とする世界シ ステムは , 非西洋世界の諸地域を「周辺」と位置づけ , そこから富を吸 い上げることによって , ヨーロッパ諸国が世界のヘゲモニー ( 覇権 ) を 握ることを可能ならしめた。 19 世紀に入ると , 植民地の各地で収集された民族資料や動植物・鉱 162
2 . デザインの博物館 ロンドンを流れるテムズ川の下流域は , 19 世紀初頭から多数の埠頭 が整備され , 世界有数の港として繁栄した。しかも , ロンドンの金融街 シティにも隣接するという立地条件の良さがあった。しかし , 1960 年 代後半以降は貨物船の大型化 , 輸送の陸運化が進むなかで荷役が減った ために , 港湾の衰退が進行し , 1981 年には全面閉鎖に追い込まれた。 テムズ川周辺の倉庫街の再開発の一環として , 1989 年に「デザイン 博物館」が設立された。この博物館は , 世界で初めての工業デザインを 専門とする博物館であった。デザイン博物館は , 産業革命から今日にい たるまで , デザインがいかに社会的・文化的・経済的影響を受けてきた かを探究するために設立されている。また , この博物館は , 現代の最重 要課題である「文化」「教育」「産業」「環境」を 1 つ屋根のもとで結び 合わせるための施設ともいわれている。 この博物館には , 3 種類のギャラリーが用意されている。 1 つは「レ ビュー・ギャラリー」であり , 世界中の市場に売り出されたばかりで , 舌題になりたての最新商品の評価を試みる場として機能している。最新 商品のデザイン・コンセプト , 商品化のプロセス , 工ンド・プロダクト のすべてが展示されている。もう 1 つは「コレクション・ギャラリー」 であり , 館所蔵の歴史的なコレクションの展示スペースで , 万年筆 , 電 話機 , カメラ , ラジオ , テレビなどが年代順に展示され , それらのデザ インがいかに変化していったかが問題にされている。最後に , 特別展示 のためのギャラリーがある。 こでは , 年に 2 回 , 特別展が開催されて いる。さらに , 貿易産業省との連携で , 海外でのデザイン展も実施して いる。 デザイン博物館では , とくに教育プログラムの充実が図られている。 233 文化創造と博物館 二 = ロ
んが中心になって , 静岡県浜岡町で「ねむの木子ども美術館」が設立さ れた。さらに , 1980 年代に入ると , 岡崎市世界子ども美術博物館 , 藤 富山県子供未来館 , 福島市遊びと学びのミュ 沢市湘南台文化センター ージアムなど , 子どものための博物館が創られるようになった。 3 . 世界初のチルドレンズ・ミュージアム 世界で最初に創られた子どものための博物館は , ニューヨークのマン ハッタン島の東対岸にあるプルックリンの住宅街のなかにある。「プルッ クリン・チルドレンズ・ミュージアム (Br00klyn Children's Museum) 」 は , 1899 年に世界初の子どものための博物館として創設されている。 19 世紀末にプルックリン芸術科学研究所は , 所蔵していた自然科学 の標本コレクションの処分を検討したさいに , それらのコレクションを 利用して , 子どものための博物館を創ることを決めた。それまでに存在 していた博物館の展示は難解過ぎるうえに , 子どもの鑑賞に適していな いので , 子ども専用の博物館を創設すべきであると判断された。 研究所が倉庫代わりに使っていたアダムス・マンションと名づけられ たヴィクトリアン調の十数部屋からなる豪邸が , 子どものための博物館 として利用された。部屋の内部が改装されて , 展示室として用いられた。 初期の展示は , 鉱物 , 鳥類 , 昆虫類 , 貝類 , 動植物の標本を並べた自然 史博物館のようなものであったといわれている。当初から展示品に触れ ることが奨励されていたので , 子どもたちは五感をとおして , さまざま なものを学ぶことができた。 20 世紀初め頃には米国への移民が急増し ており , プルックリン地区でも移民が多数居住していたので , 移民の子 どもたちにとって , 言葉を介さずにハンズ・オンで楽しめる博物館は貴 重な施設であった。 218
4 科学と技術の博物館 1 . 産業革命と博覧会 18 世紀のイギリスに端を発した産業革命は , 蒸気機関の応用などに よって工業生産の飛躍的増大をもたらし , ヨーロッパ諸国における産業 構造の根本的変革を促した。それは , 経済革命にとどまらず , 近代市民 社会の成立や都市への人口集中やライフスタイルの変革など , 社会・文 化革命の役割も果たした。さらに , 産業革命は自然科学の急速な発展を 促すとともに , 当時の人々の科学と技術に対する意識の改革にも大きな 影響を与えた。 フランスでは , いち早くフランス革命のさいに国民公会の政令にもと づいて , 1794 年に国立工芸博物館が創設されている。この博物館は工 芸を中心にしているが , 世界で最初の科学技術に関する博物館といえる 内容をもっており , ヨーロッパ各国に大きな影響を与えた。 18 世紀末のパリで世界に先駆けて科学技術に関連する博物館が創設 されたが , 先端的な科学技術の成果を市民に広く知らしめるうえにおい て , 博覧会の方がより重要な役割を果たした。産業革命以降に , ヨーロッ パ諸国で各種の博覧会がさかんに開催されたが , 近代的な博覧会の始ま りは 1761 年にロンドン王立美術工業商業振興会の主催で開かれた工業 品の展示会といわれている。 19 世紀の中頃になると , ヨーロッパ諸国で産業社会が成熟し , 世界 各国の科学技術の枠を一堂に集めて展示する万国博覧会が開催されるよ 62
8 . 自然・生態系博物館の重要性 これまで , 自然と生態の博物館について , 世界と日本のいくっかの具 体的事例にもとづいて概説してきた。 かっては , 未知なる世界の動植物や鉱物を所有するとともに , 自然界 に存在する物を分類し , 体系化することに意義を見いだす時代があった。 19 世紀になると , それらの自然のコレクションを市民に公開するため に , 自然史系博物館が数多く設立されるとともに , 博物館の研究者たち は産業振興のために自然界の有用資源の調査に積極的に参画した。 20 世紀に入ると , 自然の大規模な開発が押し進められる一方で , 新しい自 然系の博物館が設立されることがあまりなかった。 ところが , 1972 年に世界の知識人の集まりであるローマクラブが「成 長の限界」と題する有名な報告書を発表し , 同じ年にはストックホルム で「国連人間環境会議」が開催され , 公害問題 , 天然資源管理 , 人間居 住 , 開発問題など , 広範な環境問題が一挙にグローバルな課題として認 識されるようになった。そのようなグローバル・トレンドのなかで , 世 界中の自然史系博物館も環境問題を取り上げるようになった。日本でも , 1960 年代における深刻な公害問題の発生に伴って , 環境論がさかんに なり , 1970 年代以降に , 自然・生態系の公立博物館が数多く設立され 21 世紀は「環境の世紀」といわれており , これまで以上に環境問題 が重要になる。地球的規模の環境問題を考えることも重要であるが , ま ず第一歩として , 自分の身近な環境について正確な知識と情報を得て , 一人一人が小さなことから行動を起こしていくことが必要である。そう いう意味で , ビオスフェールや滋賀県立琵琶湖博物館や平塚市博物館の ように , 地域の自然や生態と人間とのかかわりをテーマにした博物館は 60