でない。 現在、京の「嵯峨」は地名である。峨々たる峻峯を意味するよりも、むしろ風 雅なわび、さびを連想する名勝史跡の地名と言われる。 ロマンを誘う嵯峨野でもある。 それは千年の古都のいとなみが造りあげた情趣なのだが、その滑り出しが、天 皇の離宮境域であることに大きな意義がある。 しかも、その底に日中文化の象徴としての下敷のあることも忘れてはなるまい。
あることを知った。 嵯峨山、嵯峨野がともに崇陵なのである。「紀要」に言う嵯峨山三峯は間違い ではない。地理で言う嵯峨山はその通りなのだろうが、徳宗皇帝の陵をここに定 め、永貞元年 ( 八〇五 ) 一月より十月十四日のご大葬まで十ヶ月かかって準備さ れた嵯峨山は、もはや地理上の嵯峨山ではなく、崇陵嵯峨山となっている。 山だけでなく、平野も含め、三峯のみならず右の二峯を加え、五峯を眺める中 心の位置に闕が置かれたのである。 崇陵嵯峨山は徳宗皇帝の永久の宮城である。その上には五峯の山容が、その前 が大平原であり、中央に陵を配するが故に五智の宝冠となっている。 後日、嵯峨天皇が離宮の名称をと仰せになったとき、空海が、「嵯峨山」は如 何でございましようと言上し、ご嘉納になったと推察する理由はここにある。 嵯峨天皇も空海もともに当代を代表する大詩人であり、嵯峨のもっ詩情は百も ご承知の上である。 渡辺三男先生は、「嵯峨山院、嵯峨野考」の中で日中文士の嵯峨のある詩文例 をあげておられる。
西域に見つけた心経のルーツ て語るべきなのだが、その先にもう一つ、大師の御修法に大切な祭祀がある。 五社明神の勧請である。 嵯峨の名のルーツは中国の嵯峨山で、それを将来されたのは弘法大師であるこ とは , 請した。 大師のおすすめで天皇は離宮の名を「嵯峨」とされた。即ち、「嵯峨院」である。 おくりな 嵯峨院をこよなく愛された天皇は、ここで崩じられたので、「嵯峨」を諡し て嵯峨天皇と申し上げる。 嵯峨院の境域が地名となって、現在の嵯峨があり嵯峨野がある。 嵯峨院はその後六十年の後に、嵯峨天皇の皇孫、巨寂親王により寺となり、大 覚寺が生まれた。 昭和六十年の秋、ご開山恒寂親王の一、一〇〇年御忌が大覚寺で厳修された。 大覚寺誕生の機縁とな 0 たのは淳和皇后の発願であるが、その核となるのは、 嵯峨天皇と弘法大師の鎮護国家の祈念である。 五大堂、五社宮、五覚院がその霊跡である。五百年の年月を経て後宇多法皇が、 この霊験を感得されたので大覚寺復興の大業をなしとげられた。 107
十一月 嵐山紅葉祭十一月の第二日曜に行う観光行事である。初めは、終戦直後に嵯峨 風土研究会で発足し、現在は嵐山保勝会が主催して毎年行われている。嵐山の渡 月橋のすぐ上で船を浮かべる水上パレードである。小督船の箏曲、今様船の今様 の舞、天竜寺船の画、能舞台船の御能、 大覚寺船の花手前、車折船の芸能、野宮 月行神船など。また河畔の舞台では、大念仏狂言と嵯峨野の神と仏たちの総出 演と一一一口、つかっこうである。 このころから嵯峨野の秋は次第に深まり、しみじみとした嵯峨野の味が、空と 山と野と水にあらわれる。 嵯峨菊「京都大事典」 ( 淡交社刊 ) の解説に依ると、「右京区嵯峨あたりで伝え た菊の一種。一」ハ〇年ほどの歴史がある。明治中期、新宿御苑で品種が改良され た」と言い、現在は大覚寺の庭の花壇で栽培されると解説している。 昭和二十四年十一月二十五、六の両日、東京の三越で、大覚寺の宝物と花展を 行った折、嵯峨菊を新宿御苑から戴き、正面の嵯峨天皇御影の前へ、漢代の古銅 222
嵯峨の名の由来 私はかなり前から、嵯峨と言う地名の起源について疑問をもっていた。 昭和の初めに発刊された「嵯峨誌」が、郷土史を綴る唯一のしるべである。 には次の如く述べられている。 その「嵯峨誌」 「嵯峨の名称起源は、確実に断定し難けれども、蓋しこの地はその背面に高山 ありて険しき ( さがしき ) が故に、単に「さか」と呼びしを、冾も好し、そのさ がしきを形容する漢字に嵯峨のあるを以て、之を使用するに至りしものならん」、 らと言っている。 これによると、愛宕の山が険し 石いので「さが」と言い、嵯峨の文 の字を当てたと一言うことになる。 しかし、愛宕山のような山々が 呂 野嵯峨野の周囲をとり巻いているな 鈴らいざ知らず、嵐山、小倉山、ま んだら山、朝原山等の低いやわら かな感じの山脈が、三方を囲んで
除夜の鐘大覚寺、釈迦堂、念仏寺、天竜寺など、嵯峨野に響く除夜の鐘は、遠 く近く往く年、来る年の想いを込めて鳴り渡る。 近頃は若い人達で鐘を撞く希望者が増えている。それぞれの寺でその作法があ るから寺の方の指導を受けると良い。 若水正月の若水には、古くから嵯峨の霊水として尊ばれている仙翁水がある。 嵯峨御所の若水として宝前に供えるしきたりであったと言う。 おロ祝い嵯峨御所大覚寺では、修正会の後、午前五時より正寝殿で「おロ祝い の儀」をとり行う。神盃についで、小判型の昆布とみかんを戴く。みかんは弘法 嵯峨野の十二ヶ月 一月
嵯峨野を生ける 嵯峨天皇と菊ヶ島のこと 文政十二年二八二九 ) 十二月二十二日、華道未生流の開祖未生斎一甫の二代 目広甫が、嵯峨御所より法橋 ( 後に法眼 ) に任ぜられて、御花方華務職に補せら れた。 これが今日の大覚寺華道の始まりであるが、大覚寺華道では、嵯峨天皇を嵯峨 御流華道の始祖と仰いでいる。 未生斎広甫が華務職になって十三年目、天保十三年二八四一 l) には嵯峨天皇 千年忌がいとなまれ、広甫は嵯峨天皇奉賛の大花展を催して報恩のまことを捧げ ている ロ 6
嵯峨野を生ける 大覚寺の華道はどうしても嵯峨天皇に始まらないと納まりかっかない。 嵯峨天皇の故事とはどんなことかと言うと、次の通りである。 ある良く晴れた秋の一日、嵯峨天皇は庭に船を浮かべて船遊びの催しをされ 庭湖の中に菊ヶ島がある。島には菊が美しく咲いていた。その菊の枝を手折ら れた天皇は御殿の瓶にお挿しになった。ところがその姿が美しく見事に天地人三 才の風格を備えていた。天皇は大変喜ばれて、「花を生けるもの爾今これをもっ て範とすべし」と仰せになったと言う。 嵯峨の華道はこの故事に則して嵯峨天皇を華道の始祖と仰いでいる。 しかし嵯峨天皇いらい一千年、大覚寺の中で華道を伝承した記録はない。 江戸時代の初めに、 嵯峨御所でお花会がも 甫 広たれた記録はあるが、 歴代の門主が華道家で あろうはずもない塔 ロ 7
はじめに ではない。 この風光の美は、その底に天皇と大師 風光とロマンの嵯峨野はいつも美しい。 お二方の御願がある。 それが大覚寺を生み、後宇多法皇の再興をうながし、広沢の法脈となっていま も生きているのである。 「嵯峨の名の由来」がこの旅路の始発駅であった。その後、五大堂、五覚院を 鬼と神のルーツまで 嵯峨野に求め、最後に五社宮の祭神には時間がかかったが、 溯ってやがて五大の神に辿り着いた。そしてこの神と仏の融合薬に、般若、い経の あることを教えて戴いた。 神威と言い、仏徳と言うも、それはつまり大智慧と、大慈悲の裏表である。般 若菩薩と五大明王がこれであることを、中国のトルファンで私は教えられた。こ ばんのう の智慧と慈悲が三毒、五欲の煩悩を制御し浄化して幸せを招く。 この図式を嵯峨の風光は美しい彩りに宿している。 「一鳥声あり、人心あり、声心雲水ともに了了」である。 ともあれ、嵯峨天皇と弘法大師お二方の出会いは、千百余年の昔のことではあ
しかし私は、洞庭湖を模して庭湖と呼ぶと伝承している背景と同じように、千 年前の日本へどっと流れ込んだ中国文化の一隅に、嵯峨山もあるに違いないと想 、つよ、つになった。 そんな或る日のこと、私が大覚寺について講演したとき、嵯峨のルーツは中国 の嵯峨山であろうと話したところ、聴衆の中の一人が、「そうだ、その通りだ、 自分は戦時中に中国の戦場にいたが、 その奥に嵯峨山があると聞いた」と、私の 話の裏付けをしてくれたことがある。 私はそれ以来、ますます自信を深め、中国の嵯峨山と日本の嵯峨野とのつなが りを解明したいと願っていた。 やがて、日中の国交も回復し、日本人が中国を訪ねるようになったころ、私の 願いに応じてくれた人が二人現われた。一人は高野山南院の住職内海有昭師であ り、もう一人は駒沢大学の渡辺三男教授であった。 内海さんは私の学友で、中日友好協会の関係で中国へ行くと言う。私は西安へ 行ったら嵯峨山のことを調べて来て欲しいとお願いしておいた。そうしたところ、 昭和五十四年十一月三日付の消印で、内海師から中国の絵葉書が届いた。