現するだけの用意ができていた。一方、い 0 たん仕事を任されたとなると、その瞬間の気 分を追うことで満足してしまうのだった。しようと思ったことを正確にやりとげる、自分 の実力には自信があった。すなわち、『サロメ』であれ『べリング』であれ、『アリ バ』であれ『レジャース』であれ、『アーサー王の死』であれ『ラインの黄金』であれ『危 険な関係』であれ、また古典の刊本のためのデザインであれ、古本のカタログの表紙のた テザインは、絵の題名とは何の関係 めのデザインであれ、この事情には変りがなかった。・ もないように見えるし、また実際、何の関係もなかったのかもしれない。関係はあくま で、画面の区切られた枠のなかの線と線との関係であって、それ以外のものに対する関係 は何もなかったのである。このようにして彼は、制作方法を五、六年ごとに五、六回、が らりと変えることもできたし、一見、瑣末的な主題に多くの時間を費しているようにも見 えたのであるが、それでも、デザインの極度な美しさと絶対的な確実性のうちに存する、 一種の独自性だけはほとんど損ずることなく、最後までこれを保ちつづけたのであった。 ひと頃、ビアズレーは絵が描けなくなったという風評が伝わったが、それは一般の誤解 であった。たしかに、彼は人体をそっくりそのまま線の表現によ 0 て、あるがままに描 ックに描き出したものと き出そうとしたことはなかった。実際、彼が裸体をリアリスティ
の、それほど重要でない作品には、当時のフランス美術の最も尖端的な、すぐに消えてし まうような一時的な流行の影響が、わずかながら認められるようだ。『サロメ』に即して 一一一口えば、『黒いケー・フ』のデザインに見られるような大胆不敵な「いたずら。ヒェロ」的性 格が、『舞姫の褒美』の厳粛かっ悽惨なデザインや、『孔雀のスカート』の華麗かっ強烈な デザインに見られるような、気品のある線描家としての性格と入れかわって現われてい る。そこにはまた、扉絵に見られるような純粋な輪廓だけのデザインもあるし、ダイトル ・。ヘージや目次の枠のなかのそれのような、複雑に混み入った神秘的なデザインもあり、 また『サロメの化粧』におけるような、単なる我儘のように見えて、じつはその意味やロ 実や絵画的な弁明を備えている、一種の我儘の逆説的な美しさをもったデザインもある。 「イエロオ・ブック」の挿絵も同じ手法の上に粉飾されたものであるが、同誌のために描 いた最後の絵と、「サヴォイ」のために描いた最初の絵とのあいだの期間には、彼の仕事 に新らしい影響、十八世紀フランスの影響が入ってきている。この影響は、いわば人為的 な影響であったが、何か不安のうちにも彼を自然に近づけている。「サヴォイ」の第一号 に発表された『果物を運ぶ召使たち』のような絵には、堅実に念入りに仕上げられた豪 華な装飾性があり、第三号に発表された『髪結い』のような絵には、繊細かっ入念な品の
VENVS ウエヌス『ウエヌスとタンホイザー』の扉のためのデザイン
ノ - 0 00 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4- 『ヒ。工ロ』のための表紙デザイン
′ RO ( ア - くド。 「サヴォイ」予告表紙デザイン
、 0 如 も・ 000 「イエロオ・ブック」二号表紙デザイン
・「一クみゐ一彡を ~ 一クイ・ 一彡一ミーミミミ、ミき 『ヒ。工ロ』のための扉デザイン
挿絵目録 法師。「サヴォイ」一号に発表された『丘の麓で』の挿絵 ヘレンの化粧。「サヴォイ」一号に発表された『丘の麓で』の挿絵 果物を運ぶ召使たち。「サヴォイ」一号に発表された『丘の麓で』の挿絵 『ウエススとタンホイザー』のためのロ絵 ウエススの丘へ帰ったタンホイザー ウ = ヌス。『ウ = ススとタンホイザー』の扉のためのデザイン
た。留金はきわめて高価な宝石で、この上なく奇怪かっ謎めいたデザイン を示していた。リボンは巧緻な形に結ばれ、撚り合わされていた。ボタン はまことに美しく、たぶんボタン孔は、彼らとびったり嵌まり合うまで、 もどかしい思いに堪えられまいと思われた。底はマレシャル香水を薫らせ た柔らかい鞣皮であり、裏張りは、七月の花々の汁液を滲みこませた軽い 羅紗であった。ウエヌスは、しかし、これらのスリッパのどれもがお気に 召さなかったので、取っておきの一足、真珠を菱形模様に嵌めこんだ、血 のように紅いモロッコ革のスリッパを命じて持ってこさせた。それは彼女 の白絹の靴下によく映えて、絶妙の効果を示した。 靴をのせた盆が運び去られるや否や、いたすら者のフロリゼルは、例に よってスリッパの一つを掴むと、そのペニスにこれをうまく嵌めこみ、そ の上、二三度妙な動作をして見せた。これがフロリゼルのいつものいたす
ーン・ジョーンズが役立ち、その影響から脱れるためには日本の美術が役 を描いた時にバ 立ち、また、エイサンとサン・トオバンが彼の『捲毛を奪う』のための導きとなったよう に。彼はあらゆる影響に負けるという独自性の持主だった。負けるといっても吸収するた めであって、吸収されるためではない。この独自性はたえず変化していたが、その中心だ けはつねに一定だった。彼がグラッセ氏やリケツツ氏から何を学ぼうと、一八三〇年の流 ・バタイユの風 行服装画やホガアスの版画から何を学ぼうと、彼の心のなかにアルク・ラ 景がどんな類型を作り上げようと、またディ = 〉。フの楽館で、彼がどんな窓のカーテン のためのデザインの草案を描こうと、つねに彼は、芸術の秩序と自然の事物の混乱とから、 自分の欲するもの、自分で自分のものになし得るものだけを選び、これを自分自身のため に描いていたのである。彼は当代のフランス芸術のなかに、彼自身の気質と境遇とが彼に 提示しようとしていた、一種の悦ばしい悲哀、メフィストフ = レスの神〈の奉仕を発見し たのだった。 「人間はいろんな風に、叛逆天使に犠牲を捧げるものだ」と聖アウグスティススが述べて いる。ビアズレーの犠牲は、あらゆる偉大なデカダン芸術、ロツ。フスやポオドレエルのそ れとともに、まさしく永遠の美のために捧げられたものであって、それが悪の力に捧げら