の、それほど重要でない作品には、当時のフランス美術の最も尖端的な、すぐに消えてし まうような一時的な流行の影響が、わずかながら認められるようだ。『サロメ』に即して 一一一口えば、『黒いケー・フ』のデザインに見られるような大胆不敵な「いたずら。ヒェロ」的性 格が、『舞姫の褒美』の厳粛かっ悽惨なデザインや、『孔雀のスカート』の華麗かっ強烈な デザインに見られるような、気品のある線描家としての性格と入れかわって現われてい る。そこにはまた、扉絵に見られるような純粋な輪廓だけのデザインもあるし、ダイトル ・。ヘージや目次の枠のなかのそれのような、複雑に混み入った神秘的なデザインもあり、 また『サロメの化粧』におけるような、単なる我儘のように見えて、じつはその意味やロ 実や絵画的な弁明を備えている、一種の我儘の逆説的な美しさをもったデザインもある。 「イエロオ・ブック」の挿絵も同じ手法の上に粉飾されたものであるが、同誌のために描 いた最後の絵と、「サヴォイ」のために描いた最初の絵とのあいだの期間には、彼の仕事 に新らしい影響、十八世紀フランスの影響が入ってきている。この影響は、いわば人為的 な影響であったが、何か不安のうちにも彼を自然に近づけている。「サヴォイ」の第一号 に発表された『果物を運ぶ召使たち』のような絵には、堅実に念入りに仕上げられた豪 華な装飾性があり、第三号に発表された『髪結い』のような絵には、繊細かっ入念な品の
一 = = 一一頁ロセッティ ( 一八二八ー八一 ) イギリスの画家、詩人。ダンテ・ゲイプリエルという名が 示す通り、父はイタリア人でダンテ学者であった。一八四八年、ハントやミレーなどと「ラ ファエル前派」を結成し、『マリアの少女時代』を発表してラスキンの後援を得た。他方で は詩も作り、『祝福された乙女』や『手と魂』を書いて、同派の機関誌「ジャーム」に発表、 六一年には、ダンテの『新生』の訳をふくむ訳詩集『初期イタリア詩人集』を出版した。愛 妻の死を悲しみ、その棺とともに詩稿を埋めたが、のちにそれが掘り出されて『ロセッティ 詩集』 ( 一八七〇年 ) となった。晩年は神経衰弱のため隠遁的となったが、みずみずしい官 能的情感にみちた彼の詩は、スウイイハアンその他の熱烈な追随者をもった。 マックニイ 一ホイッスラー ( 一・八三四ー一九〇三 ) アメリカの画家ジェイムズ・アポット・ ル・ホイッスラー。イギリスに渡り、一時。ハリでグレールに師事し、当時のフランスの画家 クウルべ、マネ、モネ、ドガらと知り合い、のちにイギリスに定住した。印象派の画家と同 じように、彼も日本の浮世絵、とくに北斎の影響を大きく受けた。ロンドンの自宅の居間を 「孔雀の間」と名づけ、その扉に、天井にまで及ぶ巨大な青と金箔の孔雀の装飾を用いた が、一八九一年、これを見た若いビアズレーは深い印象を受けたという。ホイッスラーの作 風は情緒的、文学的であり、交友範囲もラファエル前派の画家たちゃ、ロセッティ兄妹、ワ ー 97
したが、とくにデイドロのそれが知られている。デュクロやプウシェの素描を下絵にして、 銅版画で書物の挿絵を描いたりもした。一七九三年、。ハリ国立図書館の版画家に任命され た。 一当頁『捲毛を奪う』イギリス十八世紀初期の代表的詩人アレグザンダア・ポオプが一七一一一 年、二十四歳当時に書いた諷刺詩。一七一四年に手が加えられている。『捲毛を奪う』は、 当時社交界に起った実際の事件を素材にしたもので、ピイタア卿という男がアラベラ・ファ ーマアという令嬢の髪の毛を無理やり切り取ったことから、両家のあいだに争いが生じると いう筋の、滑稽かっ巧妙な叙事詩風の作品であり 、非常な好評を博した。片々たる日常の瑣。 事を武勇伝風に壮大に描くという、滑稽の正道をねらった作品として、ボワロオの『リュト ラン」の影響をここに見て取ることもできる。ビアズレ 1 の挿絵入り本は一八九六年、レオ ナ 1 ド・スミザ 1 スによって ( のちにはジョン・レインによって ) 刊行されたもので、表紙 デザインのほかに挿絵九枚をふくんでいる。なおビアズレ 1 の作品中には、この「捲毛を奪 う」のほかに气理髪師の唄』および『丘の麓で』のコスメのエピソオドなど、髪の毛を扱っ たものが多数あり、彼のフ = ティシスティックな性的願望がここに反映していると解するこ とができる。
屋」における洗練された会話や社交的遊戯、さては当時の新文学にも影響を及ぼした・フレシ オジテ ( 衒学趣味 ) などを思い出すが、ここでビアズレ 1 が使っている名前は、これとは直 接の関係はないようである。 ミルリトンはフランス語で、ふつう「児童の弄 究頁ミルリトン神父こんな人物は実在しない。 ぶ蘆で作られた横笛」の意味であるが、前記のデルヴォ 1 の『近代ェロティック辞典』によ れば男根あるいは女陰の意味であり、この陰語は俗謡などできわめて広く用いられている という。ピアズレ 1 の悪戯である。 男レシャル侯爵これも架空の人物であろう。「貴族人名辞典』 ( 一八七〇 ) にも出ていない 名前である。 第肆章 ジョリイ・ジャンプル卿『孤児』『救われたヴェニス』などの作者として知られるイギリ ス王政復古時代の劇作家トマス・オトウェイ ( 一六五一一ー八五 ) の悲劇「兵士の運命』の主 人公。第一幕第二場に次のような台詞がある。「彼はいつも御婦人に卑猥な話ばかりしてい
第伍章 六 0 頁カトオ catau, Cathos. Catin はいずれも Catherine の短縮形ないし俗称で、尻軽女とか 娼婦とかを意味する。 ・ベルジ = ラック ( 一六一九ー五五 ) フランス十七世紀の自由思想家、劇作家、小説家 7 ベルジ = ラックのこと。近衛隊に入り、数知れぬ決闘事件 たるサヴィニアン・シラノ・ド・ で勇名を馳せたが、アラスの攻略で重傷を負い退役。ガッサンディの哲学に親しむととも に、放蕩無頼な文筆生活に入った。十八世紀唯物論の先駆ともいうべき思想の持主で、当時 の宗教や政治を大胆に諷刺した。主著には、いわゆるピ = ルレスク趣味の抒情詩や劇作品 1 トピア小説「月世界旅行 『衒学者をからかう』『アグリッピーヌの死』のほか、不朽のユ 記』および『太陽世界旅行記』がある。彼の生涯は伝説化され、ロスタンの戯曲によって世 界中に知れ渡った。 る。テ 1 プルに御婦人と向き合って坐っている時には、ナ。フキンで変な形をつくって見せ る」と。
『美神の館』は、イギリス世紀末の独特なイラストレイターとして名高いオしフリ・ヴィ ンセント・ビアズレーの唯一の小説作品である。 この小説は最初、その一部が雑誌「サヴォイ」に発表されたとき『丘の麓で』と題され ていたが、のちに大きく改変されて『ウ = ヌスとタンホイザーの物語』という題名になり、 ド・スミザースによって一九〇七年に刊行された。未完成のままで 作者の死後、レオナー ・シモンズの文章と、その ある。そのあたりの事情については、本書に併録したアーサ 1 訳註を参照していただきたい。『美神の館』という題名は、邦訳名として私の選んだもの にすぎない。 翻訳のテキストとして用いたのは・・ウォ 1 カ 1 編の『ビアズレー雑録』 ( 一九四 〈ッド社刊 ) であるが、これには削除された部分があるので、 九年、ロンドン、ポドリー・ 別に私家版のドイツ語訳本 ( 訳者名も刊行年も不詳 ) と、オディル・コロンナ訳のフラン ス語訳本 ( 一九六三年、テラン・ヴァーグ社刊 ) の二冊を利用して、その欠けた部分を補 った。現在ではテキストも決して入手しがたいものではないが、私が翻訳していた当時は、 おいそれとは手に入れにくかったのである。その理由は申すまでもなく、この作品のポル
あるまいという噂であった。私も、部屋に入って、寝椅子の上にぐったり寝そべってい る、おそろしいほど蒼ざめた彼の顔を見た時には、私の来るのが遅すぎたか、と思ったも つばいであった。彼が「サヴォイ」 つばい、熱意がい のである。しかし彼の頭は創意がい という名前を思いっき、幾度も変更したり逡巡したりした挙句に、ようやくこの名前を採 用することに決めたのは、この時のことだったと思う。 その後まもなく、私たちはディエッ。フで再会し、ここで約一カ月、毎日のように顔を合 わせた。「サヴォイ」の計画が本格的に進められたのは、このディエッ。フにおいてであり、 私が創刊号で多くの敵をつくった、いささか気短かで挑戦的な「編集者の言葉」を執筆し 2 たのも、シッカートが何度も絵に描いている、あのディエッ・フのカフェーにおいてであっ た。その頃のディエッ。フは、ヤンガ ー・ジェネレーションの溜り場となっていた。のらく らと、しかも有意義に、ここで一夏を過ごす若者もあれば、足繁く行ったり来たりする若 者もあった。ビアズレーは当時、ロンドン以外の場所では絵が描けないと思いこんでいた。 現在私たちの手もとに残っている見事な彼の肖像画を描いたジャック・プランシ = が、親 切に自分のア トリエを提供してくれたが、ビアズレーは不承不承、二三度絵を描いてみよ うという気になっただけで、カンヴァスまで用意しても結局絵は描かずじまいだった。し
かし娯楽館や海岸の生き生きとした情景には、多くの画材を発見したらしく、後に彼はそ のなかの幾つかを作品にしている。彼は一度も散歩をせず、彼が海を眺めているところを 私は一度も見たことがなかった。しかし夜になると、ほとんど欠かさず豆競馬の勝負をし ている連中を見物しに出かけ、まるで魅せられたように、まじまじと彼らを眺めているビ アズレーの姿が見られるのだった。例の「豆競馬」という絵を描くためだったが、この絵 も未完成に終った。彼は、誰もそこにいないとき、広いがらんとした部屋に一人でいるの が好きだった。くつろいでいるとき、つまり部屋着を着ている時の彼には、軽口を飛ばし たりする才能もあった。時折り音楽室で、舞踊、とくに子供の舞踊をぼんやり見ていた 2 : 、いかにもじれったい思いで見ているといった様子だった。しかし音楽会に出ないこと はめったになく、いつも午後になると、音楽室にすっと入ってきて、傍の高い席に腰をお ろした。そしていつも抱えている、赤線入りの古い贅沢な二つ折判の紙のしまってある、 大きな金色の革の紙挾みをひらいては、鉛筆で何かの線を描いていた。 ビアズレーは当時、ほとんど悲壮なほどの執着をもって、決して完結するはずのない物 語、また事実ついに完結されなかったところの物語を書くことに熱中していた。それは『丘 ロディ ( ラフォ の麓で』と題された、ウ = ヌスとタンホイザーの物語の新解釈であり、
よさと、警抜な線の集中力とが見られるけれども、これらの絵と『捲毛を奪う』の挿絵の ような作品は、他の作品にくらべていずれも奇矯なところが少なく、また苦しげな知的努 力が少なく、まだ装飾的効果と線の本能とにとらわれているとはいえ、自然からそれほど 遠く離れてはいず、優雅な形式の新らしい洗錬を示すものとなっている。アーネスト・ダ ウソンの『刹那の。ヒェロ』の挿絵では、たまたまェイサンとサン・トオ・ハンへの意識的な 迎合が見られるが、そこにはまだ他の手法もおのずから現われている。『モオ。ハン嬢』の 挿絵を始めて見たとき、そのなかの極度に美しい色刷りのデザインの一枚は別として、私 には、ペンの扱い方に一種のカの衰えのようなもの、当時の衰弱の証拠が現われているよ うな気がした。しかし、これらの大して成功してもいない自然の形の暗中摸索は、のちに 私が発見したように、単なる過渡期をあらわすものにすぎなかったのだ。つまり、現在私 たちの手に残ることになったもの、そして今後も残るであろうもの、ピアズレー最後期の 手法への過渡期である。『ヴォルポオネ』のための四つの頭文字は、その最後の文字が彼 の死のわずか三週間前に完成したものであるが、手法においても精神においても、新らし い一つの特質が認められる。それは鉛筆で描かれたもので、このような絵ではやむを得な いことであるが、縮尺して複製にすると大きな部分が失われるのだ。しかし原画では、純
レエヌが同じ題の詩集を上梓したことは、前項に述べた通り。 頁聖女ウイルジ = フォルト伝説によると、ウイルジ = フォルトは異教徒のポルトガル王の娘 であったが、父親の命令で、やはり異教徒のシチリア王のもとに嫁にやられることになっ た。しかし彼女は純潔の誓いを立てていたので、神に祈って苦境を脱しようとした。すると 夜中に彼女の顔に髯が生えてきて、求婚者は結婚をあきらめ、父親は怒って彼女を十字架に かけた。現在では、この聖女の実在は否定されているが、昔から「厄介払いの聖女」「解放さ れた聖女」などという名で、各地で女たちの尊崇を集めてきた。伝説の起源は、ルッカのサ ント・ヴォルト寺院で行われた、着物を着たキリスト磔刑像の礼拝にあるらしく、そこでは 6 キリストが女と見なされていたのだった。ウ = ストミンスタ 1 寺院のヘンリイ七世礼拝堂に は、この聖女の有名な石造彫刻がある。当時、夫を厄介払いしたくて、この聖女に祈りを捧 げるロンドンの女たちを非難する者もあったが、聖トマス・モアは次のように述べている、 「悪い夫から逃れたいと思うのは、べつだん不都合なことでもないし罪なことでもない」 と。 ランプイエランプイ工といえば、私たちはただちにフランス十七世紀社交界の花形ランプ ー一六六五 ) の主宰する、あの有名な「青い部 イエ侯爵夫人、通称アルテニス ( 一五八