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検索対象: 中国を知るために 第一集
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1. 中国を知るために 第一集

二十六個と人 の範囲での比較たけた。 個については、それくらいにしよう。次は人だ。 中国語の〈人〉という名詞は ( この点は日本語もほば同様 ) たぶん、ヨーロッパ語には訳しに くいだろう。英語に訳せは man, one, people, person, homo などになるだろうが、そのどれ にも一部しか該当しない。ということは、中国人のいだく〈人〉という観念は、西洋には該当物 がないということだ。 むろん、ドレイ社会では、人の実質内容にはドレイをふくまぬ。また、現代中国語では性別を いう必要のあるとき男人、女人という限定を付けるが、封建時代なら、たとい男人といわなくて も、人の実質内容が男人だった傾向はあるだろう。それにもかかわらす、〈人〉という高度の抽象 語を古くに生み出した中国文明というものは、今でも man が人を代表するヨーロッパ文明とは、 根底において異質性があることにならないか。この辺のことはもっと詳しく考えたい。 179

2. 中国を知るために 第一集

わけだ。 たとえは、最初に助数詞の話がでている。ヨーロッパ語には原則としてないものた。本は一冊、 紙は一枚、ペンは一本、魚は一尾または一匹、鳥は一羽と数えなくてはならない。繁雑でもある し、しかし便利な点もあるので、その功罪が論じられる。 そこで私の連想が中国語の方へはたらく。中国語にも助数詞 ( 量詞という ) がある。そして日 本語とは、かなりちがう。とくに頻度の多いものがちがう。前の例でいうと、冊は本、枚は張、 本は枝または根または管た。これは中国語教科書のごく初歩の段階に出ている。 これはごく簡単なことた。もっとも、歴史の変還を入れてくると、そう簡単でもないが、その ことは今は省く。ともかく、ヨーロッパ語との対比で日本語の助数詞の功と罪としてあけられて いるものは、中国語にもそのまま当てはまるか、というのが当面の間題である。 長所はおいて、短所たけをいうと、助数詞の罪にあげられているのは、一つは物との対応があ まりに多様で、おばえるのに骨が折れること、もう一つは、音韻の変化 ( 連濁 ) である。一羽、 二羽、三羽ときて、ワがバに変る。一本、二本、三本、一匹、二匹、三匹では本や匹のよみ方が みなちがう。外国人に教えるときは、まったく厄介た。 この二つの欠点の , うち、前のほうは、中国語でも事情がおなじだが、後のほうは、日本語に特 170

3. 中国を知るために 第一集

は人の場合とちがって、三以上にも通用する。それだけ二重性がハッキリしている。ただし、日 や年については、中国では個をはさまない ( 日は天、年は年 ) のに、日本では一カ月、二カ月と いう言い方が可能なのは、この点だけは個の多用性が日本語の側にあるわけだ。 月のほかに個でかぞえるものを思いうかべてみると、一カ所、一カ国、一カ条などがある。し かし、汎用性の点では絶対に中国語の個に及ばない。なによりも人を数える単位が、物をかぞえ る単位と共通の個だということが、中国語の強みである。日本語のヒトリ、フタリが半永久的に 消えそうもないとすれば、個の採用はとてもおばっかない。 個の汎用性がもし極限に達すれば、固有の意味での助数詞というものはなくなるわけだ。中国 語が将来、そうなるかどうかは疑問だが、傾向としては、潜在的なものをふくめて、その傾向性 があるといえよう。そしてそのかきりでは、中国語は日本語よりはヨーロッパ語に近いのである。 。ト・シナ ) 語 ヒマラヤを起点にして、インド・ヨーロッパ語族とインド・シナ ( またはチベノ 族とを分ける言語地図があった。今は研究が進んで、学説が変ったかもしれないが、中国とヨー ロツ。ハの近似という私の直感的判断の理由づけには、この言語地図が有利である。そしてウラ ル・アルタイ語族である日本語は、それに遠いことになる。 いま問題にしていることは、文化価値とは無関係である。生活の実態、基本的発想様式の実態 178

4. 中国を知るために 第一集

まわりまわって、いよいよ本題、数の話である。 はじめに結論を出しておく。数観念の点では、中国民族 ( というのは、ここでは漢民族を指す ) が世界でいちはん進歩しているのではないか。進歩の指標は、単純性と合理性である。中国ほど 徹底した十進法を採用している民族は、ほかにいないらしい。 少くともヨーロッパよりは数等進 んでいる。そのほか、単位観念の明確さ、標示の単純化の点なども、中国がすぐれているように 思う。 一から百までの自然数のかぞえ方でいえば、十一から十九までの間が英語では泣きどころであ る。とくに十六と六十とをよく聞きまちがえるそうだ。これは十六が、表記は】 0 たが、言うとき は 6 十さの形に変えなくてはならないから、音が似ているし、アクセントも似ているからた。 専門家の説によると、これは二十進法のなごりだそうな。 ニ十八九九とソロバン 186

5. 中国を知るために 第一集

もう少し助数詞の話をつづけよう。中国語の助数詞 ( 量詞 ) の〈個〉には汎用性があるが、日 本語のそれは、たとい将来、今より多用化されるにせよ、汎用性は期待できない、というところ まで書いた。この意味を少し考えてみたい。 日本人の言語生活は、原則として二重である。ヤマトコトバ系統と、漢語系統の、異る語系の 使い分けが必要た。 言語の二重生活は、日本人だけの特徴ではない。文化のまざりあった歴史をもっている民族は、 大なり少なり、二重生活または三重生活をしている。英語、フランス語など、ヨーロッパ語の諸 方言にしろ、例外ではない。 ただ、二重性がきわ立っているという点で、日本語は、世界の有力な言語の中では横綱格では ないたろうか。横綱でないまでも、小結は下るまい。 ニ + 六個と人 174

6. 中国を知るために 第一集

数観念の単純度とならんで、単位観念の明確度も、中国がすぐれているように思う。 英語では十から二十の間が混乱していること、フランス語はもっと二十進法のなごりが強くて、 九十九までそれがつづいていることは前に書いた。単位の観念がはっきりしてくるのは百からで ある。そして千が区切りになる。 日本人の数観念は、中国の影響で形成されたのだから、ヨーロッパ語に見るような混乱は日本 語にはない。となえ方の点で中国語ほど単純化していないだけであって、単位の点でいえば、す でに十から秩序整然と進行する。もっとも、われわれの場合は万が区切りになるので、大きな数 をあっかう場合、表記のとき三ケタで切るか四ケタで切るかの問題が生じて、その優劣がしよっ ちゅう争われる。これは派生的な問題なので、ここではあっかわないことにする。 十進法が徹底していて、単位の観念が明確なのは、われわれの長所である。西洋よりは上た。 三 + 単位の明確度 198

7. 中国を知るために 第一集

今年 ( 一九六四年 ) の三月、日本の文学代表団が中国を訪問した。一行は、団長が亀井勝一郎氏、 ほかに大岡昇平、由起しけ子、武田泰淳、白土吾夫の四氏とい 0 た顔ぶれたった。安岡章太郎氏 も参加するはずだったが、病気でとりやめたという。 以上は、大岡昇平さんの書いている文章から写した。訪中文学代表なるものが、ちかごろでは ーのことは、私はこの大岡さ 年中行事みたいになっているので、あまり記事にならない。メンバ んの文ではじめて知った。「文学的中国紀行」という題で書かれ、『中央公論』五月号と六月号に のっている。 今回は、この大岡さんにサカナになってもらう。 大岡さんは、十年前にヨーロッパ旅行の帰りに香港に立ちょっただけで、中国は今度がはじめ てだという。一行中、大岡さんと由起さんがはじめて、他の三人ははじめてでない。念のために + 大岡さんの場合

8. 中国を知るために 第一集

いつまでも助数詞にかかずらっていると先へ進めない。この辺で数の本体に入ろうと思う。だ が、その前に、言い残したことを一つだけつけ加えておく。 おなじ助数詞 ( 量詞 ) といっても、それは品詞分類の上だけであって、実際の使われ方は、日 本語と中国語とでは非常にちがう。簡単にいうと、日本語では副詞的用法が原則であり、中国語 は形容詞的用法が原則である。この点でも中国語はヨーロッパ語に近いわけだ。 〈人ひとり〉〈本一冊〉が通常型であって〈ひとり人〉〈一冊本〉とはいわない。〈ひとりの人〉 〈一冊の本〉は可能だが、意味が変ってくる。これに反して中国語は〈一個人〉〈一本書〉が通常 型である。助字を入れると〈本が一冊〉または〈本を一冊〉の形になり、 buy a book は〈本を一 冊買う〉だが、これが中国語だと〈買一本書〉で、英語とまったく語順がおなじである。 かりに助数詞を省いてしまえは、英語と中国語に差はなくなる。そして中国語の助数詞は、前 ニ + 七力のはたらき方

9. 中国を知るために 第一集

議会答弁に似ている。相手は事実をあけて「敵視」たと言う。こちらは事実には触れないで、主 観の意図たけで答える手口が似ている。 この答弁をかりに額面で受けとって、主観的には敵視する「つもり」がなかったとしても、そ れが相手に敵視と受けとられたとすれは、まずその事実を認めるべきだ。それが常識というもの だ。もし誤解にもとづくなら、誤解をとくことこそ大切ではないか。 誤解するのは誤解するやつがわるい、敵視しないとオレが言うんたから信じろーーこれではコ こ = ニケーションは成立しない。これこそ最大の侮辱た。 侮辱するそ、と言って侮辱するのは、まだ罪が浅い。おれは侮辱していないそ、と口に出して 言うほうが、相手に与える傷はいっそう深い。 支那 ( またはシナ ) は語源的には美称である、とか、中国の仏教者の自称である、とか、フラ んンス語がどうのこうのと弁解するのは、かえって相手を深く傷つけることにならないたろうか。 正私の言いたいのは、傷つけるか傷つけないかの事実判断ではない。傷つけるのではないか、と を 名いう惻隠の情があれは、そういうことはロに出せないはずだ、という点た。そしてこの惻隠の情 八なしには対人関係において、正確な認識は得られぬのではないか、という点た。 語源は美称であり、中国の仏数者にとっては自称であり、ヨーロッパ語では反感をもたれない、

10. 中国を知るために 第一集

これを読んたときは耳が痛かった。この文章は一九五一一年の作で、これが陶さんの絶筆である。 十三年後のいま読み返してみても、この文は古くなっていない。陶さんの死は、われわれにも損 失だった。 中国人で日本文の書ける人は、何人もいるが、陶さんほどの名手は、ちょっと少いのではない か。文章を書くためにはます思想がなくてはならぬが、思想たけではうまい文章は書けない。あ る程度の生活感情の共有が必要である。それなしには日本人の感性に訴えてこない。 日本の近代文学史には、台湾出身の作家が何人か登録されている。ちょうど朝鮮人の作家が登 録されているように。けれども、大ざっぱにいうと、かれらは思想なり生活感情なりが、日本に 同化されすきているきらいがある。中国人であることから遠ざかることによって日本文の巧みさ を購った気味がある。それがない、という点で陶晶孫さんには稀少価値があった。 日本に陶さんのような人がいるか。つまり、中国の文壇に登録されるだけのカ倆をそなえた中 国文の書き手がいるか。まず、ひとりもいないといっていいだろう。これはある意味で当然であ る。読む人口さえ、ヨーロッパ語にくらべて圧倒的に少いのだから。 中国人には日本文の書ける人がいるが、日本人には、中国文の書ける人がいない、ということ は、「中国を知るために」考えに入れておいていい前提の一つである。 132