わが中国の会としては、この辺で組織づくりの次の段階へ進むべきである。個人的関係にたよ るのでなくて、天下に知己を求めるべきた。会の性格があきらかになり、雑誌の傾向が鮮明にな るにつれて、仕事そのもの、運動そのものへの共感者にもっと精力的にはたらきかけねはならな い。それができれば、一年目の目標達成は困難ではない。 そのためには宜伝も必要だが、外へ向っての宜伝と相まって、内部の自己検討がもっと活漫に なるのが望ましいと私は思う。ある程度会員がふえ、会が会らしく、雑誌が雑誌らしくなったと ころで、将来作られるべき会則のようなものをそろそろ準備したほうがよい。まずこの会は当分 つぶれそうにない、雑誌も定期刊行が維持できそうた、という信頼がうまれたところで、組織固 めをやる必要がある。 この会は、既成のどの会とも対抗するものではない。対抗はしないが、不満はある。日本にと って、中国問題は重要であり、将来もその重要さがおとろえるとは思えないが、日本人として中 国問題を考える姿勢または角度について、何かある根本的な一つのものが欠けている。それを補 う機関が必要ではないか、というのが設立の動機であった。少くとも動機の一つであった。した がって、他の既成集団とは、補完関係には立つが対抗関係には立たない、というのがわれわれの 考えであった。
んだった。そして反対の先鋒は私だった。「中国を知る会」という名は、ひとひねりしてあって、 おもしろい。中国なにやら会とか、なにやら研究会という武骨さがないのがよい。私の反対の理 由は、翻訳不可能ということだった。日本語の「知る」という動詞 ( その連体形 ) は、きわめて 限定がハッキリしない。いま知っているのか、これから知ろうというのか、重みは後者にかかっ ていると思うが、なにしろアイマイだ。中国語にも英語にも訳せないだろう。その訳せないとこ ろがまた、何ともいえぬ妙味なので、未練があって、即決できなかった。 すると雑誌の名の方が先に決った。これもいろんな案があったが、最後に、簡単明瞭、そのも のズバリでいこうじゃないか、という発案が誰かから出されたときは、ほとんど反対がなかった。 小さな図体に名だけが大きすきないか、という懸念もあったが、気宇宏大のほうがよろしい、と いう意見によって押し切られた。気宇宏大派の筆頭はたしか安藤彦太郎さんあたりだった。 立 そこで雑誌の名が『中国』となる。叢書の名が、これも諸案あったが結局『中国新書』に落ち 成 の つく。となれば会名は「中国の会」でもう誰も異存はない。生まれなかった「中国を知る会」は 国 「中国を知るために」というこの欄だけに名ごりを留め、引導役がそれにふさわしい ( ? ) 風采 中 の私に押しつけられた、という次第だ。 往事茫々ーーといっても、まだそれほど日が経っているわけじゃない。計画が本決まりになっ
扇 を発見する。それを複数の意見として提出する。結論はつけない。人が勝手に利用するにまかせ る。そういうものにしたい。いや、この欄だけでなく、雑誌全体をそういうものにしたい。 これは個人の希望で、会員の一致した意見ではない。また意見の一致を要しない。われわれの 会はそんな堅苦しい会ではない。 とはいっても、会が会として成り立っために、最少限の共通了解事項がないわけではない。堅 苦しくいうと「綱領」ということになる。綱領でなく「綱領めいたもの」としておこう。その「綱 領めいたもの」を話しあったことがあった。ついでに紹介しておこう。 その第一は、日中国交回復の実現に賛成するということだ。これは政治的に見えるかもしれな いが、じつはそうではない。政治以上のものである。国交回復をどういう手段で実現するか、と いう政治の領域には踏み込んでいない。政治的立場では会員の意見が一致しないし、意見の一致 を求めぬからた。ただ、日中関係が今の戦争未終結のままでは困る、という点だけはハッキリさ せておかなくてはならない。 第二は、日中の連帯の伝統を見直す、ということである。ここに、われわれの会が歴史を相当 重く見る方針が表明されている。 第三は、中国を日本人の眼で自主的に見る、という項目である。われわれの研究が無国籍では
の 中国の会の「とりきめ」について私見を述べたところ、さっそく小田切秀雄から、共感と同時 に疑間をふくめた意見の開陳があった。言い出しつべの責任上、答えないわけにはいかないが、 さ をいささか当惑の思いでもある。 ロ なぜ当惑するかというと、中国の会はおおせいでやっている会であって、私は代表者でも責任 斑者でもないことが一つ、また「とりきめ。は暫定案 ( 小田切の用語では「さしあたり , 案 ) であ びって、決定ではないことが一つ、あるからた。私だけが独走するわけにはゆかない。けんに会員 たから第一一項について反対意見が寄せられていて、この意見は七月に出る雑誌「中国、の九号にの ふ ることになっている。 ふたたび「政治に口を出さない」の弁 233
国の意味を、今回にかきって、本物の中国ではなくて、会および雑誌の意味だと了解していたた きたい。 お蔭さまで会員数が三百近くなった。半年間の成績としては、まあまあかもしれない。一年か かって千から二千というのが当初の目算だったので、成功とはいえないが、さりとて悲観するほ どでもない。なにしろ宣伝力のない会であり雑誌である。会員数そのものがほとんど唯一の宜伝 力の源泉なのだ。三百という数字はありがたいと思わなくてはならない。 どんな会でもそうだが、設立してまた日が浅いうちは、エタイが知れないから、なかなか会員 の増加が思うにまかせないものた。「中国の会」などといってみたって、世間には通用しない。 通用するところまでもっていくには、相当の歳月を要するだろう。 これまでに入会してくれた人たちは、多かれ少かれ、われわれ運営メンバーとの個人的つなが しりのある人が大部分である。あいつがやっているから、というので、半分は同情または義理で参 は加してくれたのだと思う。そしてその同情に、私は感謝しなければならぬと思っている。むろん、 内そんな個人的感情たけでなく、この運動の必要性を認め、激励の気持ちからわざわざ送金してく 四ださった方も非常に多いとは思うが、たた、運営メンバ ーとしては、それに甘えてはならない、 十 ということを自戒すべきだ。
ない、ということだ。この点は在来のいろいろの学会や団体に対して、いくらかひかえめな批判 の意味がこもっていると受けとってもらってさしつかえないだろう。 第四は、この表現は私個人に気にいらぬのだが、暫定的に決った形を紹介すると「生きている 中国認識をわたしたち共通のものにしよう」という文句で記録されているものた。言わんとする 内容はわかるが、この表現には私は反対だ。「綱領委員会、 ( よくない冗談たが ) に再考を求める。 こういう申し合わせが、これも何となく決った。何となくといっても、実際に討論はしたのだ。 しかし正式決定というのではない。何しろ会とはいっても、会名がやっとこのごろ決っただけで、 規約もなければ、会員も正式に登録されているわけじゃない。将来あるいは規約や綱領をもった 会に成長するかもしれないし、そうならないかもしれない。現状はまったくの未知数である。私 個人は、もっとサロン的なものにしたい考えがないではない。 これも時の勢いで決ってゆくだろうと思う。雑誌とおなじようにアレョアレョになるかならな いか、今のところ何ともいえない。 そんなわけだから、この欄で政治談義をする考えは毛頭ない。政治は政治の場所で、評論は評 論の場所でやれはよいので、だからこの雑誌はできるだけ非政治性を特色にした方がよいと私は 思う。けれども、それが維持できるかどうか、これは何ともいえない。京都で出すならともかく、
うな気がする。私は首を切られるわけではないから、この比喩はいささか大げさだが、たとえば きらいな色紙を無理強いに書かされるときなどは、よくこの阿哲学を思い出す。未来は未知で あって、未知の世界はおそろしい。どんな智者だって、おそれの感覚は阿 a とそう変わらないだ ろう。いわんや私においておやである。 私は今では売文渡世なので、注文のあるのはありがたい。何を書いてもよろしい、という注文 ほどありがたいものはない。リクツはそうだ。しかし、リクッどおりにはゆかない。注文の前に おそれおののくこと、阿のごとくであるのを、いかんともしがたい。 ところで「中国を知るために」である。何となく決まった、と私は書いたが、何となくには何 となくなりの事情がある。その事情を述べることで書き出しの弁としよう。 われわれの研究会には、名がない。いや、最近までなかった。名がないのは不便だから、名を つけようということで、何度か相談をし、いくつか候補はあがったが、その都度決定に至らなか った。世話役の書店側が困って、案内には勝手な名をつけていた。仲間うちでは「普通社の会」 とよびならわしていた。候補にあがった名を列挙するのもおもしろいが、いまは省いて、ただ候 補中の最有力名が「中国を知る会」だったことだけを記しておこう。 結局は採用されなかったが、一時はきわどく採用されかけたこの会名の発案者は、新島淳良さ
それはどういう特色であり、どういう独自性か、という点では、人おのおの考えが一様ではな いだろうが、かりに私がそれを要約すると、まず第一に、「とりきめ」暫定案の第六項にあるよ うに「日本人の立場から」の強調である。第二は、組織原則において、政党をふくめて一切の他 集団の支配を排する点である。中国の会は、他を支配せず、他に支配されない自律的存在である。 しかし、こういうことは、ロで何といってみたところで、そのまま世間には認められない。名 と実とは一致しないのが常た。世間の信用を得るためには、ゴタクをならべるのでなくて、実質 を示さなくてはならない。そして再出発から今日までの半年間は、ある程度は実質を示すのに役 立ったかと思う。この信用を前提にしてはじめて、組織づくりの第二段階説が意味をもってくる わけた。 私の本心をいうと、友人が会にはいってくれるのは、まことにありがたいが、ただ、それによ しって会の構成が、文筆業者や学者に偏るのは、かならすしもよいことではないと思う。知識人た ばけの会にはしたくないのた。なるべく生活人、つまり実務家の比率を多くしたい。これは今後の 内課題である。 四 ここで財政間題にふれておこう。最初に予想したように、今のところ、月の経常費は十万円弱 十 である。これを全部会費で賄うためには、会員一千人が必要なわけだが、現状はそれに程遠い
こう言ったからとて、なにも『中国』を『あまカラ』になぞらえ、自分を小島政二郎さんにな ぞらえようというのではない。私にはとても小島さんの才筆は及びもっかない。小島政一一郎とい う人は、むかし芥川竜之介を書いた『眼中の人』という名作があって、私も愛読したが、そのこ ろから私とは世界がちがう人だという気がしている。私が小島さんのマネをしたところで、マネ できるものではなく、滑稽なだけである。私はただ「食ひしん坊」の愛読者の一人であるにとど まる。 ただ、こういう書きぶりもあるんだ、と思うことで前途の不安をまきらすことはできる。これ が学術論文なら、とても今の材料不足、思考不足のままで出発することは、冒険すきて、いかな 私にもその勇気はない。何を書いてもいいんた、制約は一切ないんだ、というのは不安ではある が、たのしみもまたないわけではない。あえて小島さんほど洛陽の紙価を高からしめることを望 まぬとすれば、また望んで得られることでないとすれば、このほうがいっそ気は楽である。 われわれ仲間のものが集まって、この数年研究会をやっている。ごく小規模な研究会である。 いずれこの研究会のことは別に紹介するつもりだが、ともかく、その研究会をつづけているうち に、何となく、こういう形で出版をはじめようということになった。こういう形というのは、新 書判のシリーズを出して、それに挿み込みの雑誌を入れていこうというプランである。推誌とい
中国の会の「とりきめ」の一項目に「政治に口を出さない」とあるのは、その真意いかん、と いう出題である。 まず中国の会のことを簡単に説明しておこう。この会は昨年 ( 一九六三年 ) 正式に発足して、 弁「中国新書」六冊を出し、その付録として小冊子「中国」を六冊刊行した。ところが出版元がっ の ぶれて、この事業は停頓した。昨年の秋から再建案を練り、今年になってから「中国新書」の継 な続出版は勁草書房に引きつぐ案が本決りになると同時に、雑誌「中国」は月刊にして自主刊行す 出ることになり、五月に七号を出した。その七号に「とりきめー六項目を発表した。近く出る第八 3 号では、この「とりきめ」を巻頭にかかける手はずになっている。 治 六項目は次のとおりである。 政 一、民主主義に反対はしない。 「政治に口を出さない」の弁 229