( 一九六四年 ) 戦争中に出した『支那人の古典とその生活』という本を岩波書店から再刊した。そ の序文の末尾にこうある。 題名および本文中の「支那」の語もそのままにした。念のためにいえば、「支那、とは、中 国の仏教者が自国を呼ぶ言葉である。例としては、中国版の「大蔵経」も、中国人仏教者によ る著述の部分を、「支那選述」と総括しているのをあけるたけで、充分であろう。明治のはじ めから、私がこの書物を書いたころまでの日本人また、それによって中国を呼んたのであった。 吉川さんは、青木さんの後輩に当る京都大学の先生である。というような紹介は不要であるほ ど、すでに今日出海さんに肩を並べる天下の名士だ。青木さんは戦後の略字がきらいだったし、 カナヅカイがきらいだったが、吉川さんはどちらも避けていない。そして私は、吉川さんの足も とにもよれない無学の徒だが、おなじ専門につらなる末輩として、この吉川さんの見識に賛成で ある。また吉川さんは、青木さんが「支那」に恋々としていたのとちがって、戦後は敢然として 「中国ーに踏み切った。 その吉川さんが、旧著の再刊に当って「支那」をそのままにした、というのも一見識である。 118
われわれの「中国新書」でもこの方針を採用している。 たた気になるのは「念のためにいえは」以下の記述である。なぜ、こう言わなければならぬの か、これだけを言う必要があるのか、その含みが私にはわからない。 「支那」が中国の仏教者の自称だというのは、そのとおりた。吉川さんは中国版『大蔵経』を 例にあげているが、もっと手近かなところでいっても、日本人の「支那ーをあれほどきらった国 民政府の時代に、お膝もとの南京に「支那内学院」という仏教研究所があって、出版活動をおこ なっていたほどだ。私など、最初はうかつにも日本人のつくった機関かと思っていた。 竹山さんは台湾へ行って「支那」をやめた。吉川さんも同じころ、日華協力なにやら会議で台 ん湾へ行ったはずだが、そのことと「念のためにいえは」とは、関係があるのだろうか、ないのだ さ ろうか。 と文章そのものからは判断がっかない。ただ、私の印象からすれば吉川さんは、政治的感覚の鋭 さい人だから、一見非政治的な、さりげない表現の底に、政治的意図を秘めているような気がする。 大竹山さんとちがって吉川さんは専門家だ。何もかもわかっていて、とばけているとしか考えられ 七ない。 十 青木さんに噛みついた劉さんは、大養さんや吉川さんの発言をどう思うだろうか。もしも一九 119
十七大養さんと吉川さん 青木さんは答えなかったが、青木さんに代って大養さんなり吉川さんなりが劉さんに答えたろ うか。いや、竹山さんさえもが、答えたろうか。 二月十日の中国の会例会で、日本人の中国侮辱感ということが話題になった。自分には侮辱感 がない、と断言する若い人がいた。ああ、幸福な人た、と私はききながら思った。 侮辱が問題になるのは、主観の意図においてではなくて、受け取り手の反応においてなのた。 しかも、その反応を測定することは、きわめて困難だ。 今からでもよいから、劉さん ( 複数 ) との会話を再開すべきではないのか。
侮辱したという憤慨である。夢醒さんはいま中共政府で活躍している廖承志さんの姉さんで革 命家の娘らしい熱情家である。私はそれ以来恐れをなしてシナという言葉を避けるようになっ た。ところが昨今のラジオやテレビの広告を見聞きしていると、「中華酒」という言葉に毎日 のように出会う。紹興酒 ( 老酒 ) のことらしい。これで私はだんだんイヤ気がさして来た。そ れほどまで卑下する必要もあるまいと考え直した。それで、私は一日一日華事変と書いた本文中 の文字をすべてシナ事変と書き変えた。勿論中国を侮辱する気は毛頭ない。フランスには「シ ナの絹」という名の香水がある。しかしこの名前から起る想像には少しも侮辱感はない。それ どころか、遠い「絹の道」ーー所謂シルク・ロードを旅する駱駝の隊商の鈴の音が聞える思い がする。夢醒女史に叱られてから早くも三十年経つが、女史も今では笑って黙過してくれると ん さ 田 5 う。 と さ人間の心理の反応は微妙なものだ。竹山道雄さんのように、台湾を訪れたことによって「支那」 犬の使用を断念した人もいれば、犬養健さんのように、三十年前に「恐れをなして」使用をさしひ 七かえていた「シナ」を復活する人もいる ( ここでは「支那」と「シナ」をかりに等価としておく ) 。 ことのついでに、もう一つだけ例をあげておこう。吉川幸次郎さんの場合た。吉川さんは去年 117
十一一支那から中共へ : 十三一回休み・ : 十四内輪ばなし : ・ 十五朝日のこと、竹山さんのこと : ・ 十六流れた「支那」論争 : 十七大養さんと吉川さん・ 十八名を正さんかな・ 十九日本文の名手 : 二十度量衡のはなし・ 二十一度量衡のはなし ( 続 ) 二十二玉を引く・ 二十三訂正と補足 : 二十四人民のカ : 二十五まず助数詞から・ 一一十六個と人 : : 一五四
青木正児さんと劉勝光さんのやりとりを書き写しながら、なんともやりきれぬ気がしてならな い。これは今から十三年前の出来事だった。いったいこの十三年間に、この問題についての相互 理解が少しでも深まったといえるだろうか。 青木さんの筆は、私から見て、いくらか軽すきる。「支那」について考証することはよいとし て、その前おきに、日清戦争のころの俗謡をもち出したのはまずかった。それから「反感も、も うよい加減にして」という結論への飛躍も、相手の心の傷を素通りした心なしの業だった。劉さ んがいきり立ったのは無理ない。 「支那」の発生は、青木さんの考証のとおりだろう。けれども、発生がそうだからといって 「何等悪意の無いことは明明白白である」と結論するのは、青木さんにすれは主観的善意のあら われなのだろうが、短兵急にすきる。いや、善意がかえって認識をくもらせているというべきで + 七大養さんと吉川さん 114
十 ニ一口 「閑話休題」という成語は、日本にも輸入されて、講釈の筆記などにも「あだしごとはさてお き」といったルビをふって使われたし、硬派の文章でも、これはルビなしに割によく使われた。 詳しくいうと「閑話休題」は「言帰正伝」につづくので、軟派にしろ硬派にしろ、話を本筋にも どすときの常套句だ。つまり「休題」は「不提」とおなじで、題は動詞、休はその否定詞である。 連載物の途中に「閑話」をはさむのは吉川英治大先生もやっていることたし、わるくはないが、 閑話がおわって本題にもどるとき「閑話休題」と書くのが常識ではないたろうか。それとも意味 が逆になるのが現代風なのだろか。 そう疑っているとき、実例にぶつかった。福田恆存さんである。 福田さんは『潮』という雑誌に、大臣諸公へ向っての進言を連載しておられるが、八月に病気 で一回休んだ。そして私のような補足を談話筆記でのせた。そのときの題が、なんと「閑話休題」 た。アレョアレョである。 文化大革命や紅衛兵は「休題」にしてもらってもいいが、私の「閑話」のほうは当分まだ休題 にはしたくない。 215
ことになる。残念たがそういうことになる。 それでは日本人はダメなのか。そうは思いたくないし、そう思わない立証の材料はある。先人 には中川忠英や井上陳政がいるからだ。けれどもこの数十年、一つとして推称できる概説書があ らわれないのをいかんせんやた。 加藤的方法から学ぶべきものは、一つは見識、一つは遠近法たろうと思う。この二つは、私を ふくめて中国の専門家にとかく欠けやすいのではないかと思う。加藤さんには加藤さん流の見識 があって、その全部に私は賛成ではないが、ともかく見識つまり文明観をもって世界を解釈しょ うとする態度は、もって範とすべきだ。遠近法にいたっては独壇場である。 加藤論文は西側の世界をあっかっているが、それを通して彷彿として中国の重みがあらわれて いる。西まわりが東まわりに一致する一つの例になる。かれはこの文の最初に、「子貢問政」か ら「民不信不立ーまでの有名な『論語』の一節を引用しているが、これも加藤趣味だけでは片づ けられない暗示的な意味をもっている。こういう『論語』の活用法を、われわれはどう考えたら いいのだろう。 エピソードのつもりが、一回分になった。コト バの話は次回おくりとしよう。