わが中国の会としては、この辺で組織づくりの次の段階へ進むべきである。個人的関係にたよ るのでなくて、天下に知己を求めるべきた。会の性格があきらかになり、雑誌の傾向が鮮明にな るにつれて、仕事そのもの、運動そのものへの共感者にもっと精力的にはたらきかけねはならな い。それができれば、一年目の目標達成は困難ではない。 そのためには宜伝も必要だが、外へ向っての宜伝と相まって、内部の自己検討がもっと活漫に なるのが望ましいと私は思う。ある程度会員がふえ、会が会らしく、雑誌が雑誌らしくなったと ころで、将来作られるべき会則のようなものをそろそろ準備したほうがよい。まずこの会は当分 つぶれそうにない、雑誌も定期刊行が維持できそうた、という信頼がうまれたところで、組織固 めをやる必要がある。 この会は、既成のどの会とも対抗するものではない。対抗はしないが、不満はある。日本にと って、中国問題は重要であり、将来もその重要さがおとろえるとは思えないが、日本人として中 国問題を考える姿勢または角度について、何かある根本的な一つのものが欠けている。それを補 う機関が必要ではないか、というのが設立の動機であった。少くとも動機の一つであった。した がって、他の既成集団とは、補完関係には立つが対抗関係には立たない、というのがわれわれの 考えであった。
以上があらましの経過である。もっと詳しく紹介したいが、いまは省く。 私はもう一度『六法全書』を出してきて計量法をさがしたが、載っていなかった。あまり重要 な法律ではない、という認定で載せないのたろう。 訂正と補足の重なものは、ほば以上につきる。ここでもう一度、最初の問題提起にもどって、 自分の出した仮説を検討してみたが、撤回または訂正の必要を認めなかった。 中国では、度量衡の近代化がおくれたが、そのことが同時に〈市制〉という中間単位系をつく り出すことを可能にし、漸進的だが不可逆な改革の型をここにも示した。そして日本は、型とし てはこの反対である。これが私の仮説だ。 中国の度量衡は、民衆の自治を基礎にした〈市制〉と国際単位系の併用の方向が決定された。 法的にはともかく、慣習上どこまで〈市制〉が貫徹したか、これは『人民中国』の記事たけから はわからない。想像するに、まだ全国規模には及んでいないだろう。しかし、いずれ及ぶことは、 土地改革の漸進性と不可逆性の先例に徴しても、ほとんど疑えない。 日本はメートル法一本に統一する方向を歩んでいる。国際商品などにはヤード・ポンド法の表 記を認めるが、ほかは一切の例外を認めぬ方針だ。地積に関しても、公簿の書きかえが進められ ていて、昭和四十一年三月末日までに完了する予定たと前記の本には書いてある。 160
ばかりでなく、不正確なはずだ。おまけに非能率だ。このことは、日本語の数が、耳できき分け にくいことと関係があるのではないか。 ちかごろ電話がむやみにふえ、局番までが数字化されるようになって、ようやく単位との絶縁 の傾向がうまれた。とっくに意識的にやっていなければならない社会生活の合理化が、物のほう からの圧力で否応なくなされている恰好である。 そこで当然に、数のとなえ方の問題が改めて重要性を帯びてくる。発音が容易で、相互の区別 が明瞭な、できれば複雑でない数のとなえ方がますます必要になる。とくに一、四、七、九に問 題が多いが、そのほかに、〇をどうするかの問題がある。現状では〇は、レイとよんだり、ゼロ とよんだり、ときにはマルとよんだりしているが、これも何とかせねばなるまい。なん千なん百 をやめれば、当然、〇の役割りは重くなるのだ。中国では〇は零、一音だけである。 電話番号だけでなく、年号のよみ方でも、中国のほうが数歩先に出ている。年号はむろん、単 純な数字の組み合わせではないが、実用的観点に立てば、つまり相互区別のための符号としてあ つかう場合は、単位はいらない。英語でも、二ケタの数字の二組の組み合わせとしてあっかって いる。中国では、一ヶタの数字の四組の組み合わせとしてあっかうので、このほうがいっそう便 利である。しかし日本では、まだ単位をつけたとなえ方が一般的である。 リン 196
支那ー中国ー中共の間題を一回だけ休みにして、別のことを書く。といっても、まんざら無関 係のことではないが。 小学館の『日本百科大事典』第九巻の「中国」という項目を私は書いた。その最初の「語義の 沿革と歴史背景ーの部分を、当面の必要から引用したが、この際残りも一括紹介しておきたい。 そのほうがあとの都合によいから。 この執筆の依頼があったのは、去年 ( 一九六三年 ) の秋たった。項目の立て方をきくと「中華人 民共和国」と「中華民国」とが両立てになっているという。それはおかしい、と私が意見を述べ た。中華民国を歴史の項目であっかうのは必要である。しかし今では、国土と住民の実体をそな えていないのだから、たといそれを名乗る政権があっても、独立項目にすべきではない。かりに 「中華民国」という項目の下に、台湾たけの自然地理や住民や産業をあっかったら、中華民国を + 三一回休み
二、政治に口を出さない。 三、真理において自他を差別しない。 四、世界の大勢から説きおこさない。 五、良識、公正、不偏不党を信用しない。 六、日中問題を日本人の立場で考える。 ただしこれは暫定案であって、また本決りになったわけではない。第二項に関しては内部でも 異論があるので、誌上で討論して、追って決定するはずである。 中国の会は、正式発足に先立っ数年間、十人あまりのメンバーで研究会を重ねてきた。主とし て明治以後の、日中両国の関係史を、政治史や外交史の観点からでなく、思想史の観点から、あ つかう意図であった。この共同研究はまた完成していないが、研究の過程で、研究と平行しなが ら対社会的な活動をおこなう必要が痛感されるようになった。「中国新書」や雑誌「中国」は、そ の必要によって生れたものである。 中国の会のメンノ。 ヾーま、それそれ思想や専門を異にしているけれども、日中関係の不自然な状 態を打開したい、という願望の点では一致しているし、その願望が自分たちの学問研究と不可欠 の一体関係にあるという認識の点でも一致している。また、けんにある各種の日中国交回復の運 230
の「中国を知るためにーだけが旧態依然であるのは、そぐわぬのではないか。少しは化粧を直し た方がよくはないのか。 いくら呉下の旧阿蒙にしても、それくらいの知恵ははたらく。で、しからば新出発にふさわし い新項目を立てて出直そう、と決めた。 一度は決めた。決めた上で、また考えた。新項目を立てるにしても、そのいわれを断っておか ねばなるまい。同文観の是非は、まだ話が中途までしか行っていない。もし打ち切るなら、打ち 切ると宣言する必要があるだろう。じつは私は打ち切るつもりはないので、ただ、別の道をたど って、いっかまた同文観の問題にもどりたいのである。それならはいっそう断り書きの必要があ る。この話はまたおわっていないんですよ。またもどって来ますからね。忘れないでくださいよ。 こ読者にそう念を押しておきたい。 の 氏読者の期待をつなぐためには、サスペンスという手を使わなくてはならない。そこで田中慶太 太郎氏を小出しにしてみたが、結果は、われながら成功したとは思えない。どうやら私は、連載読 中物の作者たるべく、あまり正直 ( バカがつくかもしれない ) すきるのだろう。 いったい、なぜ漢和字典が悪なのか、なぜ中国認識にマイナスになるか、その肝心の点がまだ 説明してない。このまま別の話題に移るというのは、賢いやり方ではないかもしれない。せつか
三十一数の表記 底してョコ書き、ヨコ組みを採用した中国が文字はあくまで文字あっかいしているのと、好対照 である。 このことを、どう考えたらいいのか。文字の記号化が進歩の方向なら、日本のほうが進んでい るというべきだろうか。しかし私は、この説には賛成できない。私個人は、もっとヨコ書きを推 進したい念願をもっているのだが、そのためには活字を変えるといった技術的な問題、また日本 文字の字体を変える技術以上の問題を解決しなければならぬし、それよりまず、文字感覚に反省 を加える必要があるように思う。 209
ここには文学研究の心がまえといったことで私の持論めいたものが述べられているわけだが、 それをもう少し拡大して、歴史や政治や社会機構についても同一原則が適用できないか、という のが私の予想なのである。われわれはじつに中国のことを知らない。それはもう驚くほど知らな い。そして知らないことを十分には自覚していない。まず知らないことを自覚することが「知る ために」何よりも必要である。 中国を知らないということは、日本を知らないということと、かなりの分量で重なるだろうと 思う。これは中国とかきらず、どの外国でもいいし、とりわけ朝鮮についてそう言えると思うが、 朝鮮についてはここではさしおいて、まず中国について考えてみることにしよう。われわれが中 国をどのように知らないか、というのが問題のから N までだ。 「知らざるを知らず」となすまでに至ることが、そもそも容易ではないのだ。
杉浦明平さんから ( ガキをもら 0 た。例によ 0 て細字でギ , シリ書いてある。その必要部分だ けを引用する。 「〈中国〉にメートル法のことを書いておられるので、ご参考までに私の知「ていること をお知らせします。 〈日本では : ・ : 旧来のものは廃止する方針た〉というより〈すでに廃止した〉というべきでし よう。というのはこの = 「四年前 ( 調べてみれば正確な年がわかりますが、めんどうなので、 漠然と書いておきます ) 尺貫法の使用容認期間が切れていらい、物さし、はかり、桝について は尺貫法たけのものはもちろん、メートル法と尺貫法の両方の目盛りを併記したものの販売ど ころか、使用も厳禁されました。商店その他公共物の物さし、はかり、桝は一年に一回検査が おこなわれていますが、そのほかにも、不意に度量衡検査員が店などに検査にあらわれ、その ニ十ニ玉を引く 148
もう少し助数詞の話をつづけよう。中国語の助数詞 ( 量詞 ) の〈個〉には汎用性があるが、日 本語のそれは、たとい将来、今より多用化されるにせよ、汎用性は期待できない、というところ まで書いた。この意味を少し考えてみたい。 日本人の言語生活は、原則として二重である。ヤマトコトバ系統と、漢語系統の、異る語系の 使い分けが必要た。 言語の二重生活は、日本人だけの特徴ではない。文化のまざりあった歴史をもっている民族は、 大なり少なり、二重生活または三重生活をしている。英語、フランス語など、ヨーロッパ語の諸 方言にしろ、例外ではない。 ただ、二重性がきわ立っているという点で、日本語は、世界の有力な言語の中では横綱格では ないたろうか。横綱でないまでも、小結は下るまい。 ニ + 六個と人 174