前回は「同文同種」という題で書いた。同文同種観念はよくない。歴史的な意味は認めるが、 福よりも禍が多い。そろそろ同文同種観念から脱却すべきではないか、という意味のことを書い こ 0 この項も、例によって未完である。そのつづきを書きたい。いや、書くつもりでいた。 と 何を書くかというと、じつは話を故文求堂主・田中慶太郎氏のほうへもっていくつもりだった こ 氏のである。 太『支那文を読む為の漢字典』という字引きがある。これは田中慶太郎氏が発案したもので、一 中九四〇年に文求堂から売り出された。田中氏は亡くなり、文求堂はつぶれたが、紙型を使って別 田 の出版社が出しているので、今でも手にはいる。 八 この字引きは便利なので、私は今でも常用している。いちはん使用頻度の多い字引きである。 八田中慶太郎氏のこと
目次 一『中国』の成り立ち : ・ 二代用品「開講の辞」・ 四谷崎さんの文章・ : 五造語法について : 六他山の石 : ・ 七同文同種 : ・ 八田中慶太郎氏のこと : ・ 九支那と中国・ 十大岡さんの場合 : ・ 十一幽霊の説 : ・
ここで図らずも連想がまた田中慶太郎氏のことにもどる。かれは漢籍を売る商人だった。かれ の中国に関する知識は該博たった。にもかかわらず、漢学者流の「支那崇拝」が日本人の中国認 識を毒することを知っていた。かれの見識は『支那文を読む為の漢字典』の巻末につけた「贅語」 ( のちの版ではみずから削った ) にあきらかた。 ここの「にもかかわらす」は「であるからこそ . と改めるべきかもしれない。漢学者、支那学 者、中国研究者の罪をせめることにおいて、故田中翁の衣鉢をつぐ人があらわれないものか。 どうやら支離滅裂のまま、この項はおわりに近づいたらしい。私はやはり、えらぶ項目を変え たほうがよいと思うようになった。
く話が田中慶太郎氏まで来たのなら、そのまま延長したほうがよくはないのか。 いま、書きながら気の迷いが生じている。 「中国を知るために」の連載をはじめるとき、読み切り連載のスタイルをどうしようかと思案 して、小島政一一郎氏の「食いしん坊」に範を取るべく決めたことは前に書いた。範を取るといっ ても、私には小島さんほどの文才はないから、似もっかぬものになるだろうが、とも書いた。 まだ連載百回どころか十回にもならぬのに、すでに息切れがはじまっている。範を取るも取ら ぬもあったもんじゃない。 思うに、小島流の文体には、俳諧の妙味があるらしい。即いて離れ、離れてまた即くところが、 じつに俳諧的た。そして私には、俳諧の心得がない。これが失敗の原因かもしれない。 俳諧の心得はないが、俳諧の世界は心情的に理解できそうな気がする。というよりも、われわ れの文体は、どうもがいても、俳諧のリズムとテンボから脱却できぬように思う。 この文体が日本人の認識構造を規定しているのではないか。あるいは、認識構造が逆に文体を 生み出すのではないか。 そしてこの認識構造なり文体なりが、中国人のそれと、まったく相反するのではないか。その ため日本人は、中国を理解することができぬのではないか。
事情は先刻ご承知のとおりである。一時はつぶれかけた雑誌だが、一年目にやっと息をふき返 した。いや、息をふき返した、などと言ったんでは、熱心な仲間の諸君に申しわけがない。今度 は書店におんぶするのではなくて、自前でやる。金集めだって、自分でやらなくてはならない。 さしずめ私など、老骨に鞭うって、ぐらいの口上は義理でも述べぬことには、恰好のつかぬ場面 である。 けれども、正直のところ、どうもあまり悲壮にはなれない。阿蒙の阿蒙たるゆえんだろう。こ の「中国を知るために」も、つづけたほうがいいと人が言うので、おたてに乗って、よかろう、 つづけましよう、ということになったまでた。読んでくれる人がいるなら、書かなくてはならな い。まして、お金を出して買ってくれる人がいるからには。 たとい一年が二年、中絶したって、書き継ぐことはできる。阿蒙である私には、もうそれほど 進歩というものは望めないことは、わかりきっている。一年前の中絶した時点へ思考や文体を引 きもどすのは、苦もない業だ。幸不幸は別にして。 そして実際、書きはじめてみたら、筆がやはり田中慶太郎氏の思い出のところにとどこおった。 これ、進歩のない証拠であろう。一年を一瞬と観するのも、停滞の証明なのだ。 けれども私は、それではまずい、という気が一方ではする。雑誌が新出発するというのに、こ
なぜ便利か、ということは本題からそれるので、ここには書かない。おことわりしておくが、 この字引きは漢和字典ではないのた。元は中国で出ている『学生字典』を、そのまま訳したもの である。だから日本語のなかの漢語なり漢字なりを調べるには、この字引きは役に立たない。 その漢和字典ならぬ「漢字典」であることが、この字引きの身上である。それを発案した田中 慶太郎氏の見識を、私はえらいと思う。 そのことを書きたかった。田中さんの遺徳を顕彰したかった。かれの見識に、われわれ後輩は 学ぶところがなくてはならぬ、と言いたかったのだ。 もし私の推量にして誤なければ、田中さんは、日本から漢和字典 ( または辞典 ) というヌエ的 なものを追放することを、日本文化の自立のために、目標とすべきたと考えていたと思う。その 自立の基礎の上にでなければ、言いかえると、同文観を追放する過程からでなけれは、中国認識 は正されす、日中両国の真の対等の友交関係も打ち立てられないと考えていたろうと思う。 同文観にもたれかかった親善論を打ち破るために、そのころの時局便乗の漢学者どもの鼻をあ かすために、かれは『支那文を読む為の漢字典』の出版を思い立ったのではあるまいか。 そういう皮肉なところのあるオヤジだった。根っからの京都商人で、粋人たった。帝国大学を クソこンにこきおろした。そして私たちのちつばけな中国文学研究会にはかなりの好意を示し、
物心両面で援助してくれたことも一再でなかった。客がすきで、行くときまって上等の茶を御馳 走してくれて、とるに足りぬわれわれ無学な書生を相手に、よく議論をふつかけてきた。徳田秋 声の『縮図』に出てくる芸者を、ありや芸者じゃないよ、と評したり、某大先生の文章を、あり や大阪落語たね、と警句を吐いたりした。 田中さんの思い出を書くとキリがない。また別の機会にしよう。武田泰淳はわれわれ仲間でい ちはん田中翁にかわいがられたから、きっとタネがたくさんあるにちがいない。かれからもいっ か話をききたい。私としては、今日、岩波書店が出版界の王者にのしあがったのにくらべて、文 求堂がアッという間に姿を消したのを、栄枯盛衰世のならいとはいいながら、なんとも気の毒に 思えてならない。 と こ そこで頌徳をかねて、思い出を語るつもりだった。あるいは、田中慶太郎という人物をダシに 氏使って、同文観の誤り ( と自分が思うもの ) について引きつづき意見を述べるつもりだった。 太ところが、これもアッという間に、日がたってしまった。「同文同種」の項を書いてから、ま 中る一年になる。一年の空白はおそろしいが、かえりみて一年を一瞬に感じるのは、もっとおそろ しい。ついに呉下の旧阿蒙であったのか、という気がしきりにする。今度はこれまで以上に筆が しぶった。
客からめずらしい話題の一つも引き出す楽しみがないではない。 数の話を思いついたのは、前に書いたように、『言語生活』六五年七月号の特集「数と日本語」 に触発されたからた。数となると、度量衡よりもまた一段と抽象度が高い。それたけに思考の基 本を規定する力が強いにちがいない。何回分かを当てる価値は十分にあるたろう。 じつは度量衡の話が出たついでに、郵便とか、通貨とか、日常生活に関係の深い類似のもろも ろの制度の方へ話題を展開することも考えてみたのたが、当面、あまり魅力を感じなかった。お いっそ気の向いた方をえらんだ。 まけに調べるのがおっくうでもある。どのみち鈍行旅行たから、 『言語生活』の座談会は、なにしろ当代の物知りが集っているので、話題が多岐にわたって、 じつにおもしろい。この連載の最初に紹介した京都の賢人たちの知的遊戯におとらぬほど、おも ら しろい。『言語生活』の座談会は、どの号もたいていおもしろいが、「数と日本語」はとくにおも 数しろかった。もっとも、私は数というものが昔からすきで、矢野健太郎さんの随筆など、柄にも すなく珍重しているという妙な癖があるのだが。 ここでその内容をくわしく紹介するわけにはいかない。その一部を勝手に使わせてもらうたけ 十た。出席者が物知りたとい 0 ても、さすがに中国のことでは手薄である。比較はも 0 ばらヨーロ ッパ語に傾いている。で、私がそれを受けて、中国との比較の方へ連想をはたらかす余地はある 1 ロ 三ロ