だいいち「カナ」という名称そのものが「マナ」に対するもので、劣等意識を伴っている。私た ちの育った時代には漢字のことを「本字」ともよんでいた。漢字たけが本来の文字であって、カ ナは仮りのもの、 = セモノという意識が強かった。 この意識は、文字や語はかりでなく、文章にもひろがっている。漢文だけが正式の文章であっ て、カナ文、または漢字カナまじり文は、一段下等なものと見なされた。それに反逆した平安朝 の貴族も、ついに価値の顛倒をもたらすことはできなかった。 もっと問題をひろげると、学問または教養の体系が、漢文化優先、漢文化第一主義たった。と くに徳川時代にそれが固定した。国学が反逆をこころみたが、反逆はあくまで反逆にすきないこ と、紀貫之と同列である。 しかし、問題は歴史にあるのではない。それが一つの文化的パタンになって絶えずくり返され ており、今日なお生きていることこそ問題なのだ。 漢字ー漢語ー漢文ー漢学、ひ「くるめて漢文化というものが、今日それほど根づよく生き残っ ているといったら、人は不思議がるかもしれない。じつは、その無意識化されていること、した がって自覚的に取り出せないことに問題があると思う。英語文化が風靡しているように見えるが、 そんなものは上っつらで、じつは漢文化依存という日本文化の構造そのものが、それを可能にし
ゆる半封建・半植民地という規定に一括して、この時代をゼロまたはマイナスに評価することに は私は反対である。この時代に形成された、またはされかけた一種の国民文化は、今日の人民中 国にとって貴重な遺産だと思う。 度量衡ばかりではない。弊制にしろ、教育制度にしろ、この時代に統一の基礎ができたものは 多い。度量衡はひとつの例に過きない。 むろん、遺産は自動的に遺産化されるわけではないから、遺産化する主体の問題は大切である。 国民党時代に一種の国民文化が形成されたといっても、その直接延長線上に今日の文化がうまれ たのではない。両者はいわば一面断絶、一面連続の関係にある。あるいは生命と栄養の関係にた とえてもいい 。生命がなけれは栄養は役に立たぬが、栄養がなくては生命は維持できない。 とくに日本人は、この点を強調し、また自戒する必要がある。というのは、日本人の中国認識 にとって、いちばん多く欠陥があり、プランクに近いのが、三十年代だからだ。このことは前に も圭ロいた 0 中国は今なお過渡期にあり、歴史の書きかえが進行中だと考えられるから、その点は同情の余 地がある。イデオロギイから自由になれと言ったって、無理だろう。いや、自由になれと要求す る立場のイデオロギイ性を同時に間題にしなくてはならないだろう。すべての文化活動に教育 164
私の想像でいうと「一衣帯水」は地理的近接感を、「唇歯輔車」のほうは西欧に対する政治的 一体感を、主としてあらわしている。そして「同文同種」は、もっと包括的に、文化的連帯感を あらわしている。 いま起源をしらべるひまがないので、残念ながら勘だけで言うほかないが、ともかく、これら の成語は、明治のかなり早い時期から使われ出したように思う。近代国家の形成とほとんど同時 に「東洋経綸」が中心課題になった、という事情がそうさせたのである。 「同文同種」「一衣帯水ー「唇歯輔車」がいちはんピッタリするのは沖繩 ( 琉球 ) に対してであ って、次は朝鮮に対してだが、沖繩 ( 琉球 ) や朝鮮との関係でそれが使われたか、使われなかっ たか、私の今の知識では何ともいえない。 ともかく私たちの世代では、それらは「日支親善 , の合コトバを修飾する慣用語たった。 たぶん政治的な状況変化と、および漢学の素養の低下によって、「一衣帯水」や「唇歯輔車」の ほうは、だんたん使われなくなった。そして「同文同種」だけが最後まで生き残ったのだろう。 「同文同種」の行きつく先が「同甘共死」なのかもしれない。ただこの成語は日本にはあまり 普及しなかった。それだけ日本人は、汪兆銘政権に冷淡たったのか、それとも、語そのものが耳 に熟さなかったのか、どちらとも言えない。どうやら日本人は「共存共栄」の安直さのほうを好
二十七力のはたらき方 小山さんがそれに触れていないのは残念た。私はそれを切実に知りたい。日本たけが特殊のはず はないので、たぶん同類があるはすた。 力のはたらき方は一例である。別の観点、たとえは坐る文化の観点に立ては、アジアでは中国 だけが特殊で、あとは日本から西アジアのイスラム圏までが共通である。また、食事にハシを使 う習慣でいえは、有名な後藤新平の箸同盟でもわかるように、日本、朝鮮、中国、ヴ = トナムた けが共通項でくくれる。一口に生活文化といったって、けっして単純ではない。 185
でないと断定はくだせない。というのは「扇」 ( アフギ↓オウギ ) のことを一名「扇子」 ( センス ) ともよぶ。そして「センスーは中国から伝わった外来語の呉音よみである。とすると「扇ーと「扇 子ーの関係はどうなるか、という問題がまだ解けていないからだ。 すべて平たいもので、手で風をよぶものを中国では「扇ーと名づける。日本では、おなじもの に「アフギ」・「センス」「ウチワ」の三系列の名辞がある。同一物に複数の名辞系列があるのは扇 にかきらず、一般に日本文化の中国文化とちがう特色だと私は思うが、これはまた別の仮説を立 てることになるので、ここでは除外しておこう。ともかく、「アフギ」と「センス」はどうちがう のだろう。物を物だけで考えないで名辞を入れて考えるから複雑になるのかもしれないが、じっ は名辞の複雑さが、物の複雑さを背景にしているとも考えられる。 扇をめぐる日中関係も、かなり複雑なようだ。
共」、中華民国のことは「中国ーと略称する慣例ができているのではないか。もっとも『朝日』は、 文化記事については ( たとへは囲碁など ) なるべく「中国」を使うように配慮しているかに見え る。それだけ「中国」を文化的あるいは民族的範疇でとらえているらしく、この点は『毎日』の 「中共」一辺倒とは、きわ立って対蹠的である。もっとも、この区別は程度の差に過きないとい えはそれまでである。 『中共』が中国共産党の略称だという「読売」の主張は、そのかきりではまったく正しい。そ こには他紙が「中共」を中華人民共和国の略称にしたがっていることへの対抗姿勢さえ出ている かのようだ。反面、用語法についての統一の配慮はうかがわれない。値上げのときは統一戦線を 張るが、日本語の混乱については責任を負わない、というのが日本の新聞の美点であるらしい。 擬似アカデこイは所詮アカデこイではない。 「中共」は中華人民共和国の略称、「中国ーは中華民国の略称であるという説を、十年ほど前、 ラジオの著名な解説者 ( たしか加瀬俊一さんではなかったかと思う。まちがっていたら訂正しま す ) から私ははじめてきいた。そのとき私は愕然とした。事ここに至ったかと思った。ちょうど 「中共」というコトバがはやり出した少し後である。そういう意図で使っていたのか。なるほど、 うまく考えたものだ。そう思った。ひょっとすると、外務省あたりの指し金ではないか、と思っ
「政治に口を出さない」というのは、政治からの逃避の意味にとられるから、不適当だという のが反対論者のおもな言い分らしい。だが、私の考えは、いささかちがう。政治は人をカで律す るものであるが、人間の精神の全領域を支配することはできない。もし政治が、人間を全的に支 配すべく企てるときは、人間が窒息するばかりでなく、政治もまた衰弱する。今日、平和運動や 文化運動に、その弊害がいちじるしくあらわれている。日中問題も例外ではない。 文化運動は、みずからの自律のために、政治の不当な支配を拒まねばならぬ。これは逃避では なく、逆に政治にケジメをつけさせる道である。そのためには、みずから直接の政治効果は禁欲 せねばならない。カイゼルのものはカイゼルに。それが間接に政治効果を生み出すゆえんである。 政治そのものは不可避の悪であるが、政治主義は不可避ならぬ悪である。その悪をしめ出した 。これが私の理解する第二項の意味である。だから、もし肯定形に書き直せば、「政治主義に 反対する」とでもなるだろうが、こういうムクッケキ表現はわれわれの美的感覚に合わなかった。 ちなみに、この否定形は胡適および林語堂の先例から学んだ ( ソラ見ロ ! ダカラ反動ダ ! と 政治主義者はほざくだろう ) 。 この私の解釈は、むろん、多様のなかの一つだ。われわれは反論を歓迎するし、そのために誌 ( 東京新聞六四年六月十八日夕刊 ) 面を開放する用意もある。 232
もう少し助数詞の話をつづけよう。中国語の助数詞 ( 量詞 ) の〈個〉には汎用性があるが、日 本語のそれは、たとい将来、今より多用化されるにせよ、汎用性は期待できない、というところ まで書いた。この意味を少し考えてみたい。 日本人の言語生活は、原則として二重である。ヤマトコトバ系統と、漢語系統の、異る語系の 使い分けが必要た。 言語の二重生活は、日本人だけの特徴ではない。文化のまざりあった歴史をもっている民族は、 大なり少なり、二重生活または三重生活をしている。英語、フランス語など、ヨーロッパ語の諸 方言にしろ、例外ではない。 ただ、二重性がきわ立っているという点で、日本語は、世界の有力な言語の中では横綱格では ないたろうか。横綱でないまでも、小結は下るまい。 ニ + 六個と人 174
九九のとなえ方は、中国と日本がほばおなじで、西洋はまだるい。一方、ソロバンの改良は、 日本が中国より先に出ている。あわせて、計算能力では日本人が世界一ではないか、と前回に書 、こ 0 もう一つ、徹底した十進法の採用ということが、日中の共通の強みであることも書いた。これ は前に度量衡のところでも触れておいたが 次は、数観念およびその表現方法の単純度の問題と、単位観念の明確度の問題である。この点 になると、日中の比較では、日本のほうに分がわるい。 われわれは言語の二重生活を強いられている。これもすでに何べんか書いたことである。日本 文化の成立事情からして、これは不可避であって、半永久的なものである。とすれば、その長所 と短所を認識して、なるべく長所を生かし、短所を矯めるべく地道な改革を進めていくのが賢明 ニ + 尢数の単純度 192
扇の話はまたおわっていない。おわっていないが、この辺で話題を変えようと思う。一回よみ 切りの連作のほうが、読者にも親切になるだろう。扇の話は、もし機会があったら、つづきとい うことでなしに、改めて書くことにしよう。 どこまでが序説で、どこからが本題という形はとりたくない。そのことは最初にことわってお 文さて、今回は何をサカナまたはダシに使おうか。考えているときに、たまたまぶつかったのが、 ん谷崎潤一郎さんの短い文章である。 崎朝日新聞にときどき版というのがくつついて配達されてくる。文化は花さかりで、わ が家にも手紙の来ぬ日はあっても印刷物の舞い込まぬ日はない。お蔭でそれを口実にして郵 四 ・コこ」業者が大打撃をくったのが、 便代が実質一一倍から三倍の値上けになって、われわれ「ミ = 四谷崎さんの文章