、猛烈な反論をのせた。この応酬をよみ直してみて、いささかセンチメンタルめくが、隔世の 感に打たれた。 青木さんは去年なくなった。京都大学を定年でやめてから、郷里の山口大学に赴任し、この文 を書いたときは文学部長だったが、のちに学長になられた。その後、山口大学をやめて京都に帰 られ、立命館大学に出講していた。その晩年に私は一度たけお目にかかった。青木正児さんは、 私たちが中国文学研究会をはじめたころ、すでに鬱然たる大家であったが、無名の書生のあっか ましい依頼をしりそけずに、タダ原稿を書いてくれて、私たちを感激させたことがある。青木さ んは私たちにとって、尊敬できる少数の先輩の一人であった。 劉勝光さんにはお目にかかったことがない。いま、どうしていられるかも知らない。青木さん の文は、青木さんとして出来のよいものではなく、また事実の誤りもあり、往年の文学革命の紹 介者としての青木さんを知るものにとっては、いささか幻滅を感じさせるところがないわけでは ないが、これに反論した劉さんの文は、さらに輪をかけた事実の誤りと、独断とをふくんでいた。 たた、この二つの文は、中国ナショナリズムへの日本人の理解の欠如を典型的に示している点で 今でも興味深いものがある。まだ戦火消えて日の浅いころの時代色を帯びた貴重な史料である。 もし論争に発展していたら、相互理解に資するところがあったと思うが、たしか論争にはならな 106
青木正児さんと劉勝光さんのやりとりを書き写しながら、なんともやりきれぬ気がしてならな い。これは今から十三年前の出来事だった。いったいこの十三年間に、この問題についての相互 理解が少しでも深まったといえるだろうか。 青木さんの筆は、私から見て、いくらか軽すきる。「支那」について考証することはよいとし て、その前おきに、日清戦争のころの俗謡をもち出したのはまずかった。それから「反感も、も うよい加減にして」という結論への飛躍も、相手の心の傷を素通りした心なしの業だった。劉さ んがいきり立ったのは無理ない。 「支那」の発生は、青木さんの考証のとおりだろう。けれども、発生がそうだからといって 「何等悪意の無いことは明明白白である」と結論するのは、青木さんにすれは主観的善意のあら われなのだろうが、短兵急にすきる。いや、善意がかえって認識をくもらせているというべきで + 七大養さんと吉川さん 114
あろう。青木さんは善意の人であり、その発言は主観的に非政治的なのだが、それが逆に政治的 に受けとられる。 そもそも中国人が「支那ーをきらうようになったのが、日清戦争の結果であるように青木さん が勘ちがいしていることに間題があるだろう。日清戦争から太平洋戦争までを連続してとらえて いる青木さんの史観が問題である。そしてこれは青木さんたけではない。 事実は逆であって、「支那」が中国で公民権をもつようになったのが、日清戦争の後である。 そのころの中国のインテリは、好んで自分から「支那」ということばを使った。厳復しかり、梁 啓超しかり、章炳しかり、魯迅しかりだ。かれらは「支那」に悪意を感じなかった。 「日本語を知らない中国人は支那という名詞を知らないのである。また中国の書物の中にその ん さ ような名詞を載せたものは絶対にないとはっきりいえるのである。これは日本の書物以外にみら とれない名詞である」と劉さんが書いているのは事実にもとる。せひ劉さんに『新民叢報』なり ん さ『民報』なりを見てもらいたい。いや、直接それを見なくても、たとえば実藤恵秀さんの『近代 犬日支文化論』 ( 昭和十六年、大東出版社 ) を見てもらいたい。そこには「支那Ⅱ中国」という項目が 七あって、清末の中国人による「支那ー自用の例がたくさん出ているし、巻頭には写真版の実例も 5 示されている。
( 一九六四年 ) 戦争中に出した『支那人の古典とその生活』という本を岩波書店から再刊した。そ の序文の末尾にこうある。 題名および本文中の「支那」の語もそのままにした。念のためにいえば、「支那、とは、中 国の仏教者が自国を呼ぶ言葉である。例としては、中国版の「大蔵経」も、中国人仏教者によ る著述の部分を、「支那選述」と総括しているのをあけるたけで、充分であろう。明治のはじ めから、私がこの書物を書いたころまでの日本人また、それによって中国を呼んたのであった。 吉川さんは、青木さんの後輩に当る京都大学の先生である。というような紹介は不要であるほ ど、すでに今日出海さんに肩を並べる天下の名士だ。青木さんは戦後の略字がきらいだったし、 カナヅカイがきらいだったが、吉川さんはどちらも避けていない。そして私は、吉川さんの足も とにもよれない無学の徒だが、おなじ専門につらなる末輩として、この吉川さんの見識に賛成で ある。また吉川さんは、青木さんが「支那」に恋々としていたのとちがって、戦後は敢然として 「中国ーに踏み切った。 その吉川さんが、旧著の再刊に当って「支那」をそのままにした、というのも一見識である。 118
十七大養さんと吉川さん 青木さんは答えなかったが、青木さんに代って大養さんなり吉川さんなりが劉さんに答えたろ うか。いや、竹山さんさえもが、答えたろうか。 二月十日の中国の会例会で、日本人の中国侮辱感ということが話題になった。自分には侮辱感 がない、と断言する若い人がいた。ああ、幸福な人た、と私はききながら思った。 侮辱が問題になるのは、主観の意図においてではなくて、受け取り手の反応においてなのた。 しかも、その反応を測定することは、きわめて困難だ。 今からでもよいから、劉さん ( 複数 ) との会話を再開すべきではないのか。
ある。また廿三年狩野良知は支那教学史略を著してその凡例に、支那には国号は有っても一定 の国名が無く、外国人はこれを「支那」と称するから本書にもこれを用いると断わっているの も、それが我が学界に認められてきたことを物語っている。見来れば「支那 . という名称が用 いられたのに何等悪意の無いことは明々白々である。それが一朝にして彼国の人に侮辱の語と 受取られるに至ったのは、これを言う者の心と、これを聞く者の心とが相反発したためである。 反感も、もうよい加減にして、お互いに虚心平気になりたいものである。近ごろ議会で吉田首 相がしばしば支那という名称を用いたために、野党の非難を被ったとか。どうか、もうこんな 事は間題にしないでほしい。 ( 山口大学文学部長 ) 以上が青木正児さんの文である。以下が劉勝光さんの反論である。「中国にはない言葉ーー支 那について反論ーという題がついている。 『日清役直後 ( 中略 ) かの大国人は、日本人から「支那人」といわれると、うんぬん』 ( 十七 日学芸欄 ) これは山口大学青木文学部長の一文中の章句であるが、ここにいわゆる思い上った昔の日本 110
青木さんが「支那、の発生起源だけを説いて、その後の史実の追跡に及ばなかったのは残念な ことであるし、劉さんがごく近い過去の歴史の検討を怠ったのも残念なことである。 たぶん劉さんは、国民革命の成長過程で教育を受けた世代なのだろう。「支那」に対する反応は、 この世代の前と後とではまったくちがう。わずか数年の差で一変する。それほど中国革命のテン ポは早いのだ。 青木さんにしろ、そのほか多数の日本人にしろ、主観的には善意なのだ。しかし劉さんの世代 の中国人にとっては「支那なる文字を見たり聞いたりすれば、吾人はすぐ日本の軍閥、帝国主義 が想起されるのである」というところに問題があるわけだ。 これが劉さんだけではない、という証拠を、くどいようだが、もう一つ挙けておこう。大養健 さんの『揚子江は今も流れている』 ( 昭和三十五年、文芸春秋新社 ) の序文の一節にこうある。 なお、一言付け加えるが、それはシナという言葉である。私は本書ではじめ日華事変という 言葉を使った。しかしそんな言葉は実は当時どこにもなかったのである。事の起りは遠い過去 になるが、昭和のはじめに雑誌「改造」がシナ特別号というものを出版した。その時に私と交 りのある故廖仲愷氏の娘さんの夢醒さんから私に宛てて烈しい抗議の手紙がとどいた。中国を 116
『外国人はこれを「支那」と称するから ( 中略 ) 何等悪意の無いことは明々白々である』外 国人が支那なる名詞をつく 0 たという事実はなく虚偽もはなはだしいものである。「支那、な る名詞とそのあて字は恐らく日本人の著書以外に絶対にないはずである。それを自らかかる言 葉を製造してこれを他へ責任を転嫁し、あまっさえ、暗々裡に侮中国を再び繰り返そうとはふ に落ちないものがある。 日本人が「支那」なる名詞に対して悪意を含んでいないといっているが、あるいは現在では 悪意を含まず無意識に使っている日本人もいるだろう。 『反感も、もうよい加減にして ( 中略 ) 近ごろ議会で吉田首相がしばしば支那という名称を 用いたために、うんぬん』 虚心平気になりたいのであると青木氏がいっているが、これは一方的で虫のよすきる考えで はないか。次に蒋介石氏の対日言論集の中に『彼等 ( 日本人 ) は中国を支那と呼んでいる。こ の支那とはどういう意味であろうか、これは死にかかった人間の意である、これでも分るよう に彼等の眼中には中国の存在がないため我等を中華民族と呼ばないで始終「支那ーといってい る』。 このように台湾の中国政府蒋主席が対日戦中の言論の中にいっているくらいに「支那」とい
て類推を中国へ及ばすのがよい。 身近かな例としては、在日朝鮮人の問題や、部落問題がある。 朝鮮人がどんなに「鮮人」とよばれることをきらうか、ひいては「日鮮」といった「鮮」の略 称をきらうか、想像もできないほどである。これも理外の理であって、どんなに「鮮」の字の字 義や用例をしらべたところで、わかるわけがないこと「支那」と同様である。 もっと端的な例が部落である。数年前に谷川雁さんが、たまたま「特殊部落」という語を筆に した。それを解放運動の人が非難して、谷川さんとの間に論争がおこった。「特殊部落」という語 は、どんな用法であれ、部落差別を受けている人の心を傷けるのは「支那」や「鮮」と同様であ る。これは正しくは「未解放部落」と言わなくてはならない。ほかの用法で使うときは「特殊部 落」という語は避けなくてはならない。 ん 私の印象では、谷川さんは主観的には善意たった。ちょうど青木さんの「支那」が善意である さ 正ように。うつかり筆をすべらせたのだろう。けれども谷川さんは、非難されると強引に居直った。 を 名「特殊部落」のなにが悪いか。問題は名称ではなくて、差別の存在そのものにあるのだ。そうい 八う論法だった。 これは一理ある。たしかにそうだ。しかし、そうなると同和教育の立場はなくなる。物と名の 127
のは、親の心子知らすというべきではないのか。 もっとも、今日出海さんには今日出海さんなりの言い分があるのだと思う。その言い分をきき たい。今さんがこの雑誌にそれを書いてくれるとありがたいのだが、まさかこちらから今さんほ どの大家にタダで寄稿を求めるわけにはいくまい。 改めて断るまでもないと思うが、私は「支那」が一切いけないという主張は、無理があると考 える。「支那」は歴史に存在したし、民衆レベルでは今日でも残っている。抹殺しようにも抹殺 できないものなのた。しかし一方、日本人の「支那」に中国人が猛烈な反感をもっことも事実な のであって、さすがの竹山さんもシャッポを脱がざるをえなかった。この不幸な関係は、歴史的 争に形成されたものなので、一朝にして改めることはできない。といって、改める努力を怠ること 1 一一一口 ことって、この問題がどういう も、まずいたろう。ここで私がやりたいのは、日本人の中国認識。 支意味をもっているかを究明することであって、個人をャリ玉にあげることではない。 たそのいい材料を一つ見つけたので、今回はそれを紹介しようと思う。 れ 流去年の暮に、必要あって書庫を整理したら、古い新聞の切り抜きが出てきた。一九五一一年十二 六月十七日の朝日学芸欄に青木正児さんが「支那という名称についてーという文を書いている。こ 5 れに対して、おなじ三十日付けの紙面で、「経済貿易新聞社主幹」という紹介のある劉勝光さん