エクリチュール - みる会図書館


検索対象: 例外の理論
37件見つかりました。

1. 例外の理論

(homisexualité) が、いわば人類という種を指す総称的、普遍的呼び名になるのだ。性欲や性 差をオミ トして、無性化の目的を推進するという点でも、〈殺人と背中合わせの人間の性〉 は人類の総称にふさわしい。となれば、社会もまた、俗にいわれるように現実態におかれた女 性化の動きにほかならないことになる。社会が存在するのは、原抑圧が「殺人」にその根をも つからにほかならないわけだが、もう一方で、「殺人」は父親の関数 ( 「虚偽の父」 ) にもなっ ている。したがって、〈父〉とか〈名ーのー父〉の相のもとに真理を見出そうと思うならば、 聖書のエクリチュールを受け人れるしかない。、 とんなエクリチュールでも、聖書のエクリチュ ールとの関係性において展開されるものたからである。それ以外のエクリチュールを法とその 侵犯の枠にくくるのも、やはり聖書のエクリチュールなのである。 エスの審級にとって、どうしても誘惑したい相手は誰たろう。それは、昔ならソクラテスの ような人物か聖人だった。それが神父や修道女にかわる。つぎは精神分析医。そしていま、こ れまで以上に誘惑の標的にされるのが、太古から続くエクリチュールの機能がなけかける挑戦 に応じる人物だろう。文章を書くためには、誘惑に身をゆだねなければならない。しかし、書 きはじめる瞬間は状況が逆転する地点に位置づけられるわけだから、そのための代価が支払わ れても当然なのだ。ェクリチュールを読むすべをこころえた者のために誘惑の秘密をあばくの は、エクリチュールそのものなのである。もっとも、そんなことをしても、ます誰の利益にも ならないだろうね。

2. 例外の理論

逆説に聞こえるかもしれませんね。ぼくも初期の本では複数のことばを道具だてに使って演出 をおこなっていた、そうほのめかしているようにも聞こえますからね。ぼくもそうだけど、あ の頃だったら誰でもこんなふうに言うことができたわけです。ェクリチュールのエクリチュー レど、自分がエクリチュールだということを発見しつつあるエクリチュールだ、書かれたもの の上に重ね書きしたものだ、エクリチュールの主体た、なんてね。まったくどうしようもない ね。仮面の陰に隠れて先に進むのではない、なんてぼくが一度でも言ったことがありますか ? だからといって、ぼくは文章を書く男だと考えてくれる哲学者は多くなかったということにも ならない。でも、ぼくが文章を書く男だったことは一度もないのです。ぼくは、最初から、 ろいろなものを利用するけれども、なかでも特にエクリチュールを利用する男だったにすぎな いのです。それでも度を越していたとは思いません。いや、やはり度を越していたかな。こん なことは、どれもこれも、ぼくにとっては外見や、形而上学的意味での「劇場」に属すること にすぎないのです。ぼくは文学をやっているのではない。ぼくの本は、いすれも、どこかから 失敬してぎたことばのなかに、できるたけ効率よく人り込むための方法なのです。ですから、 ぼくのやっていることには全面的な連続性があり、断絶などは存在しないし、また同様にして、 意見の宣誓とでも呼べるレベルをみても、まったく変化がないのです。決まった路線の乗客や 球体に乗っているひとたちは、ぼくが変化して、すぐに意見をひるがえすと思っています。で も、それは違うな。まったくそんなことはないのです。メールシュトレームですからね。重要 392

3. 例外の理論

あわせになっているところからすれば、フィネガンは復活させなければならない死せる先祖に 相当するたろうし、そこにはあの特異な神の記述をつくるもとになった原初の父の記憶が埋も れていることにもなる。抑圧されたものの回帰。死せる父親が回帰して、さまざまな国語のな かで、おい茂る雑草さながらに、あちこちにふたたび芽をふくのである。 ジョイスはアンチ・シュレ しハーである。 ( 一九〇三年という意味深長な年に出版された ) 『神経病患者の回想』をとりあけてみると、フロイトとラカンが分析したこの男性パラノイア にかんする偉大な記録は、きわめて古典的な書かれ方をしていることがわかるだろうと思う。 シュレ いかにも法律家らしく、言語内の幻想以外のもの ーバーは法の臣下主体なのであり、 なら、どんなことでも文章に書く。シュレー ーの場合、幻想はいわば現実のなかで起こるか ヾ、 ーの文章は「読みやすい。 ( だがそれは理解しやす ら、書く必要がないのである。シュレー いという意味ではない ) 。ェクリチュールの荒れ狂う場所が自分の内部にあっても、外部にあ ーバーはこのエクリチュールを主題にして、官僚的な文章を書く ってもおなじことだ。シュレ のである。男性。ハラノイアとは何か。すべての男の妻になる ( そしてすべての男の妻という座 についてあらたに男を生みだす ) という、男ともあろう者が考えるとは思われない、常軌を逸商 したこころみである。シュレー ーの場合には、期待し、待ち望むと同時に恐れてもいた男性 ットがあるがために、彼自身が現実のなかで行 トを形成し、一」のリミ 器除去がひとつのリ 動することができないのだ。シュレ ー。ハーは、裏工作がおこなわれ、根本的言語からは複数の

4. 例外の理論

りの女と、〈ジョイス〉って奴はいったい何だったのだろうか、と自問するひとりの精神分析 家を足したもの。この図式は、文章にそなわった心的外傷を与える機能の間近に接近するのを 可能にしてくれる。女性の登場人物がいう。「これはわたしのものよ」。精神分析家が答える。 「それが何を意味しているか、わしにはわかっておるそ」。ジョイスのほうはだんまりをきめこ こうして、精神分析家でもないのに精神分析 むか、話をそらすだけで、ほかには何もしない。 家の能力をもっていたために、ジョイスは精神分析家の位置につくことになるのだ。ジョイス は、貨幣の流通と意味の流通のはざまにとらえられていながらも、意味と快楽の過剰によって、 貨幣と意味の流通を越えているのだ。多国語使用による増殖作用としてのエクリチュールは、 ショイスの立場は最大限に父性的だった ただひとつの国語の小切手に帰属するものではない。。 ということは明白だ。だからこそ、「死せる父」という神経症にまつわる謎にたちいる特権者 というたてまえになっている人たち、つまりヒステリー患者と精神分析家にたいして、ジョイ スのエクリチュールが合図を送るようになったのは、ジョイスが死んで不在になったあとの現 ショイスはこの世で生きたことがある 象だとしても、それは当然だといわなければならない。。 のか。ジョイスは生身の人間だったのか。あるいはまた、ジョイスのエクリチュールはほんと うに彼の死後に残されたものなのか。あるいはまた : ヒステリー患者や精神分析家が疑わ なければならず、問いただしてみなければならないのは、こうしたことがらなのである。 シュールレアリスムがジョイスとフロイトをとらえそこない、アングロサクソン系の国々 116

5. 例外の理論

スは熱烈なコント崇拝者だったでしょ ? だから、この人はラテンアメリカにおけるコント思 想について何度も講演をするくらい強い関心をコントにたいしていだいていたのです。それに、 コント思想も実証主義哲学一般も、『ポエジー』の問題に深くしみこんでいるし、しかもそれ が、表面下に隠れているとはいえ、みごとに転覆させられているわけですからね : そうし たら、オーギュスト・コントはただたんにオーギュスト・コントというだけの名前ではなかっ たということがわかったのです。のちに著作を世に問うにあたってコントが放棄したファース ・ネームが、こともあろうに〈イジドール〉だった。きちんと辞典をくってみると、〈イジ ドールオーギュスト・コント〉と書かれているというわけ。お気づきのように、〈イジドー オーギュスト・コント ル〉のすぐあとにコンマをうつこともできますから〈イジドール〉は〈いかめしき伯爵〉にな ってしまうのです。ならば、〈いかめしきロートレアモン伯爵〉と言ってもいっこうにかまい ませんよね。それから、エクリチュールの操作は同時に思考の操作にも相当するわけだし、ま た、それが合理主義と合理主義的宗教の諸原理を哲学的に壊乱させることにもなるのだけれど、 このエクリチュールの操作のなかで : ロートレアモンほどの男なら : ・ : ・宗教色を失った父 オーギュス 性の神話をくまなく横断しつくしたという確信が得られたとき、〈いかめしき伯爵〉を通りぬ けて〈イジドール〉と〈デュカス〉をとりもどすことができるようになる。すると名前はもは ゃいかなる重要性ももたなくなってしまいます。な。せなら、名前がとりもどされるのと同時に、 文章を書いたありとあらゆる人の名が、どこかで判断を誤ってしまい、自分たちの書いたはす ト・コント

6. 例外の理論

ことはおわかりいたたけると思います。 もっとも人類の枷が一度でも開かれたことがあ ればの話ですけどね ( まあ変てこな幻想にはちがいありません ) 。 とにかく、その枷がと じられ、冒険の単一性をしめつけようとしている。で、結局のところ、文学がこのことについ て語るのでないとしたら、文学なんて何の役にたつでしようか。 ド・アスいままでに話していただいたこと全体に関係する質問があります。『天国』を読んでいて感 銘をうけるのは これだけは言っておかなければならないと思いますがーー・ああしたことを実行し、 あのような文章を書くために必要な勇気と、傍若無人ともいえるかろやかさです。ほかの人たちは日々 あなたのことを葬りさろうとしているように思われますが、いくつかの場所に出入りしていて気づくの は、あの人たちの望みはたたひとつ、つまりあなたがあれをやめて、もうソレルスやソレルスの変節に ついては何も一言わないでほしい、まったくあん畜生め、ということなのです。そして、とりあえす、彼 モ らはあなたを剽窃しています。「読めるという事実は動かしがたい」ということに対抗して、彼らは「読レ むにたえない」ものをつくりつづけているわけです。で、あなたのほうは、ご自分でも書いておられる一 ように、「あんなことを書くおじさん」「ざわめきにのぼせあがり罠にかかった男」の立場から、あなた 自身のテクストがひきおこす論評や反応を、ひとっ残らすテクストのなかにとりいれつづけておられる 強い不安を感じることもあるのではないかと思うのですが。 ソレルスそりやどうしてもね : : 。ぼくがやったように国語や言語活動の次元、ディスク ールやエクリチュールの次元をつくりだし、言語活動やエクリチュールのなかに運動を導人し いかめしき伯爵 ( ロ

7. 例外の理論

自分の立場に固執するうちに、自分にはたったひとつのことが求められているにすぎないとい うこと、つまり作家を包囲せすにはおかない数々の魅力的、あるいは威嚇的な粉飾の下にすけ て見えるのは、書くのをやめよという命令に集約されるということを理解するはすだ。そこで 述べられていること、それも時として公然と語られていることは、女を抱け ! 語るんじゃな という命令だ。あるいは、セックスをしろ ! 書くんじゃないそ ! あるいはまた、セ ックスのことを書け ! あとはもう黙ってろ ! そんなわけで、けつきよく、作家は自分の節 制についてたえす弁明しなければならなかったソクラテスとおなじように、ややもすれば滑稽 な立場にはまりこむか、あの聖アントニウスの誘惑さながらの、ほとんど幻覚に近い輪舞に まきこまれるしかないのだ ( フローベールが聖アントニウスの誘惑から引き出した効果は有名 だ ) 。ェクリチュールのなかには誘惑性の痙攣を加速させる力があって、このカのせいで歓喜 が恐怖に変わり、にこやかな叫びかけは渋面に、熱烈な誘いかけは死の冷笑に変わると一一一口えば いいだろうか。ェクリチュールは憑依のはたらきをさまたける。ェクリチュールとは一次的ナ ルシシズムのなかに口をひらいた裂け目のことなのたから、誘惑の外面から、いっ現実性を奪 ってしまうかもしれないばかりか、いつ、そこに隠された生殖の計略をあばいてしまうかもし王 マ れないのだ。一般にいきわたったナイーブな信念とは反対に、同性愛志向もまた、生殖のダン スにすぎないからである。生殖を「拒みすぎるーところがあるため、同性愛志向も生殖の道具 になりさがり、生殖の力を強化してしまうのだ。だからこそ、〈殺人と背中合わせの人間の性〉 3 巧

8. 例外の理論

官夫人のことである。サドに自分の娘たちを誘惑され、法の許容限度を越えられるという憂き 目にあった、例の長官夫人。法律家の妻。これがサド的ェクリチュールの反応をひきだす形象 であり、サド的ェクリチュールを生みだすマ トリックスなのだ。 法律家の妻。それは裁判官、警官、教師、結婚相手、司祭など、衰弱した権威者の妻となっ た女である。そして制度化された父親像が頭痛におそわれ、そこに亀裂がはいる恐れがでてく ると、ひとりの女が、おびやかされた父親像の埋めあわせをするっとめを負うのである。不能 者ではないかと疑われた男を父親にもっ女。どこかに女性効果があらわれてくるのではないか という考えに脅迫的にとりつかれたヒステリー女を娘にもっ母親。これこそサドが白昼堂々と 挑戦をたたきつける相手にふさわしい女だし、また、権威者の背後に隠れているぶんたけ余計 にひねくれてする賢くなるその権力がサドの敵となるのも当然といえる。あなたがい つばしの 男だってことの証を見せてよ、と法にむかって女がいう。つまり、 いかなる男にも、法の範囲 外で性的快楽を得る権利はない、だから女のわたしが性的快楽の退行を一手に引き受けて管理 し、それを合法的生殖の目的にあてるということの証をたててよ、そういっているのだ。性的 快楽をともなう退行や、寸断されてもなお言葉を語る身体、鏡の手前から見た鏡の向こう側と紙 か、幼児性健忘症の解除とか、そんなものはありえないということを保証してちょうだい。単の サ 一の個体になってね、わたしたちが一心同体になるために。 いちばんきびしく禁じられるのは何か。それは性的快楽をおぼえると同時に語る、そしてこの

9. 例外の理論

してジョイスのほかにいるだろうか ( この神経症的基盤はかぎりなく反復されるし、しかもこ れが合理主義を標榜することだってあるのだ ) 。そして、例外となるのがなぜジョイスなのか としう問いにたいしては、エクリチュールを通じて、ジョイスが人類の根本にかかわる性の知 を獲得したからだ、そう考える以外にどんな答えがありうるだろう。ジョイスはフロイトとお なじ野心をもっていた。十年や百年などとケチなことはいわす、人類史二千年の政治を分析し ようというのだから。一神教とは何か。キリスト教とは何か。理性とは何か。『フィネガンズ・ ウェイク』にはこうした問いにたいする「回答」が山と盛り込まれている。しかし、それは科 学的な回答ではない。ジョイスの回答をささえているのは、けっして体系化することができな をいいかねる部類の〈知〉なのである。だから いし、明確な中心ももちえないうえ、真面目とよ こそ、それは政治的。 ( ラノイアにたいしてつきつけられたなかでもいちばん力強い行為になっ ているわけだし、同時に、突出し、死ぬほど退屈でユーモアのかけらもない政治の言説を撃っ こともできるのである。『フィネガンズ・ウェイク』は両次大戦間に生み出されたもののなか で、もっとも見事な反ファシズムの書である、そう言っておきたい。 Ⅱ ジョイスはその生涯を通じて、女からもらった金をもとにして文章を書いたという事実に注 113 ジョイス商会

10. 例外の理論

きみたちはわたしが生きているときはなんらかの形をしていたと思っているようだが、わたし がきみたちの考えるような形を身にまとったことは一度もないのだよ。これだけでも魂の実在 が証明できる。のみならす、わたしは自分の肉体から容易に離脱できるのたから、わたしの死 体は放っておいて、鶏を一羽絞めるのだと考えてくれたまえ : : : 。哲学は全的にこのコケコッ コにその基盤を据えているわけですが、超越的主体を個人的に体験している人物を取り巻く聴 衆にとって、これは非常に危険なことたし、その聴衆を哲学者の集団に変貌させ、めんどりに 変えてしまう危険だってあるのです。 ソクラテスは文章を書かないですって ? いや、書いてますよ。当然でしよう ? それに、 めんどりたちの言う意味では書かれていないものこそ、二千五百年も持続するとはいえないま でも、過去二千五百年をふりかえって元を取る可能性をわすかながらでもたもっているものな のです。 そうしたエクリチュールは、最初のうちは期待はすれなものに見られがちです。簡素で、一 ス 般受けする効果もないから、見すごされることすらあるくらいです。けれども注意深い読者な ~ フ ら、この = クリチ = ールのなかで一個の主体が体系的につくられていく様子を見ることができ〕 で るだろうし、しかもその主体がなにかを語りつつ、〈わたし〉はことばによって表明されてい っ るけれども、ことばの源にあるのはこの〈わたし〉にほかならないということを、いつのまに か証明しているのがわかるはすです。ここで教訓となるのは、ぼくたちが到達した問題は声の