ごとく、超自我がひかえていたところで、〈わたし〉が〈それ〉から脱出するのが容易になる わけではない。 ともかく、ここで指摘しておきたいのは、 ( また翻訳の話になりますが ) 英語 は、フロイトの第二期局所論で用いられた用語 ( エス、イッヒ、スー ・イッヒ ) をラテン 語と対応させ、イド、エゴ、スー エゴに変えるほかに何もできなかったということです。 この「 = ゴ」というのは、発音を聞くと、フランス語の「間抜け」に似た音になっているでし よう ? ヘブライ語の特有語法をさけるために、プロテスタント的な英語はラテン語にたよっ たというわけですが、このラテン語には抑圧された神学のにおいがしみついている。これは道必 徳の問題です。さて、このような〈 = ゴ〉を使 0 ていると、性にかんする考察のレベルでは矼 知 ( ぼくらの身近にあるなまなましい行為のことをい「ているのではありませんよ ) 、ラテン語へ の郷愁にとじこめられた快楽と五十歩百歩のことしかできません。フランス語でも、「それ」 「自我」「超自我」という用語が誤解をまねいています。しかし、これは例のフランス的心理分 析のせいでそうなるにすぎないのです。フランス人なら、ほぼまちがいなく、存在するために楽 は「 = ゴ・コギト」に根ざす義務があると信じてしまいますからね。われ思う、ゆえにわれ在加 ・目 り、そう考えるわけです。ばかけた考え方ですね。 ぼくはな。せ自分が快楽をおぼえるのか知「ている。ぼくはなぜ自分が死なないのか知 0 てい る。〈わたし〉は、有ろうことによって有るものだからです。ここまでくれば、やっと宗教か ら抜け出すことができます。それができなければ、もうどうしようもない。 409
だが、今でも文学が存在するとしたらどうだろう。今でも文学が生産されているとしたら ? 新しいことを語り続けているとしたら ? 途方もないことを語っているとしたら ? そしてこ いうまでもないだろう。フランスから の変動はどこからやって来るのだろうか。ふうむ : ですよ。だからこそ先手をうつに越したことはないのだ。そもそもある種の症候があらわれて 「フランス的すぎる」・ 憂慮すべぎ事態になりつつあるしね。「フランスでは何も起こらない 、というのはそのせいなんた。 いつでも、どこへ行っても、この文句を繰り返していればいし これじゃあちょっとでも活気のあるイ = シアティヴをとろうとしても、出端をくじかれてしま うよね。それにフランスはいい国だよね、ちがうかな。賭けてもいいけど、アメリカ人作家だ と って、あの誉れ高い先達たちから六十年も経てば、一年の半分はフランスで過ごしてもいし ( 遺憾ながらフランス人 、よ。。、リは祝祭だよ : : ・・それでと : 思うようになるんじゃないカオノ の作家なんて一人もいないし、この美しい国では創造の精神は死んだとのことだから ) 、フラン スに作家が完全に欠落している穴埋めに、アメリカ人作家が、いわばフランス作家の代役とし てやって来るというのは、あたりまえだし、自然たし理にかなっているとは思いませんか。今 までだって、叙勲のためにアメリカ人が招待されているじゃない。なんとも優しい政府だよね 「やあ、御機嫌いかが」。オ目 = カカレテ光栄デス。「きみは何してるの」。ぼくは物書き です。「何を書いてるの」。小説。「フランス語で ? 」。もちろん、母国語ですから。「そりや残 437 T00 French!
ぼくも、『法』 ( 一九七二年 ) ではヘーゲルの『大論理学』をとりあけ、それを文学の用語で処 理するとどうなるのか、ためしてみました。とまあ、検討の対象になる成層はいくつも考える ことができるわけです : : : 。さて、こんなことを説明したのは、『天国』という題名を重視す れば、抑圧の序列に帰属するものを指摘できると思ったからです。そしてここでいう抑圧とは、 はっきり特定するなら、フランス語の詩的言語が神学や聖書のデータ処理を欠いているという こ—\ 」にほか、なり , きません。 3 こうした抑圧の底には、たぶん、つぎのような事実が隠されているんでしようね。つま り、歴史の記憶からこぼれおちてしまったのは、 ( つかわれた言葉がラテン語だったため、フ ランス語には影響しなかったとはいえ ) 神学上の論争においてはパリとフランスが極度の重要 性をもっていたという事実なのです。ェックハルト師がサンジャック街に住んでいたくらい ですからね。ところがフランス語はきわめて迅速に成立し、しかもそのときの波長が神学のテ クストから分離してしまった。こうして行き着くさきは、けつきよく、 いつもながらの物語と いうことになる。おおまかに言うなら、フランス語の成立としてのモンテーニュにたどりつく レ わけです。いわゆる文芸復興やヨーロツ。ハ的ュマニスムの成立は、神学とはまったく違った波ポ ク 長にもとづいている。だから、神学者とか、。ハスカルや。ホンユ工のように宗教の問題に真正面 からとりくむ機会をつかんだひとたちは、きわめて特異できわめて孤立した、またきわめて個 性的な冒険に身を投じることになったのです。そして、ぼくの考えでは、一九世紀も末になっ
、、まんとうに何もない、思想もなければ文学も芸術もない。ア フランスでは何も起こらなしを メリカ人からさんざんそう言われたので、耳を傾けてもみるわけたけど、あれは ( 彼らが固く 信じこんでいるように ) 自明のことを確認するというのではなく、じつはひとつの願望を表現 しているのだということがわか 0 てくる。「フランスでは何も起こらない」ではなくて、「フラ ンスで何も起こらなければいいのだが : : : 」と言 0 ているのだ。奇妙だと思う。気がかりだ。 面白い。アメリカ人は権勢も頂点に達しているし、ドルが満足した猫のようにごろごろ喉を鳴 らす慚進的持続音に身をくるんでいるのはたしかだ。しかし、じつをいうと不安をふりきるこ とができす、不快な眩暈をおこしているのではないか。そう思えてくるのだ。それに、何かが 起こ 0 たらどうするのか。フランス語で書かれた一冊の小説が重大な作品だということが、突 いや、そんなことはありえない。そんなことがあっ 如、明らかになったとしたらどうだろう。 てはならない : アメリカ人の面前であれこれ人名をあけたり、作品の題名をひとっふたっ引いてみると、間 T00 French 一 432
る。それが子孫には高くつくことになるわけだ。国王には螺旋や円蓋や押し流すような激しい 運動感がまったく理解できない。つまり自分の帰依する宗教がまったく理解できないのである。 象徴体系に固執する連中が活発にたちまわる。自分たちの親しんだ窮屈な幾何学性がみあたら ないから、あの獰猛で鋭敏な男が怖くてたまらないのだ。そして、恐れてみせるだけで、もう エジプトからギリシアに戻ったも同然だと思いこんでいる。彼らの目のまえに生身の偉大な建 築家がいる、それも史上最大の建築家がいるというのに、抽象的概念のほうが好ましいと考え ているのだ。だから兵舎のようなルーヴル宮が残されたのである。だからフランス人は騎士べ ーニによって拉致され、人里離れたヴェルサイユで罰を受けることになったのである。あ とはフランス式の簡略化が、裏返しのカトリシズムと陰気な虚栄心の苛立ちを持ちだして、現 在の状況をつくりあけてしまった。つまり、ぼくたちフランス人がいま置かれた惨憺たる状況 ができあがったわけで、このぼくはもうローマに行くしかない。 ローマに着くとすぐにサン・ 。ヒエトロ大聖堂に駆けつける、そしてサン・。ヒエトロに着いたときはじめて、慢心の中枢器官 のせいで化石化したフランス語のなかでは久しい以前から禁じられていた空気を吸いこむこと一 ができるというありさまなのだ。 四大河川の噴水が、ぼくのからたからコンコルド広場のおそましい儀礼を洗い流してくれる。士 ミサのなかのミサがおこなわれる場所の上にかかった天蓋は、饒舌で平板な哲学からぼくを解 放してくれる。数字の四。ベルニ ーニは、「汝ケ。 ( ( 釋けばペテロ石〕 ) と称えらるべし、明
も、それは高価で魅力的な珍品にも劣る。しかもこの珍品というのが浅薄で無用で無根拠で、 装飾品になるのが関の山なんだぜ。慣れてしまえば単純なことなのに、実情を理解するまでに 何年もかかった。そう、ようするに ( ジャーナリズムとか出版業界などにたむろする ) 現代ア メリカの文化官僚は、ちょうど一九世紀のドイツ人とおなじ行動をしているたけなのた。だか ら「フランス的すぎる」ということばは、次のようなことを意味するわけだ。すなわち恋愛沙 汰、淫蕩、機知に富んだ応答、許しがたい軽薄さ、重みと真摯さの欠如、流行、 リのお嬢さ ん、経済上の無能力、。ヒガール、フォリー ・べレジェーレ、ムーラン・ルージュ、 マルヌ川の 岸辺、印象派、一八世紀的伝統など、とにかく軽率すぎるし、うわべだけの泡沫のようなもの だ : : : 時流に遅れた世界。花咲く乙女の陰。これ以上説明する必要もないだろう。ただでさ え宗教的な、超。ヒューリタン的な糾弾が肩にのしかかってくるのが感じられるのたから。アメ リカの大学で、一部の文学科が「伊仏文科気「フレンチ・アンド・イタリアン、と命名され たのはけっして偶然ではない。それこそドイツ的発想そのものだからね。また、本の国際見本 市がフランクフルトで開かれるのも偶然ではない。 フランスは敗戦国か ? もちろんさ。永久 に負けたんた。ある意味ではイタリア以上にね。 「フランス語が読めますか、。いや。「では話すことはできますか、。ほとんど話せないね。フ ランス人は完全に異質なのだ。好感のもてるような異国情緒を発散するかもしれないというこ とですら、あてにはできない。そう、フランス人の異国情緒はその根本に歴史的排斥と道徳的 434
いう問題もからんできます。さらに、フランス語ではこの路線でどのようなものが書かれたの かという問題。たとえば、フランス文学の主要作品集をひらいて、「詩的言語に神学的次元を あたえる試み」という項目をながめてみるなら、やはり、どうしてもヴィクトル・ユゴーの名 前にぶつかります。そこで『神』や『サタンの最期』、あるいは『諸世紀の伝説』といった作 品に目をとおしてみるわけですが、諸宗教の歴史を凝縮してみせようという大仰な十二音節詩 、ようがない。まあ、細かなことはさておき、身を 句がならんでいるばかりで、退屈としかいし もって「天国」をつくる試みを生きたとおぼしき形跡がまったく見当たらないわけです。つぎ に問題になるのは、いわば西欧の枠からはすれた意味がはたらいていて、それが結局はカバラ の伝統に対応するということです。「天国」 ( を d 色というのはカバラの「。 ( ルデス、 ( を「 déし とおなじですからね。つまり、》文〉文〉文》の四文字に注目すればわかるように、 解釈のレベルが四つあって、それが中世の注釈学でいうところの四つの意味レベルに対応する わけです。字義どおりの歴史的意味から「予見」 ( アナゴジア ) にいたる四つの意味を読みと る立場ですね。これを念頭においてみれば、『天国』という題名は言語の特定の状態をあらわ し、言語にしかるべき処置をくわえれば、言語そのものが、リズムからみても、意味の流れかポ らみても、「天国的な」状態におかれるということがわかるのです。以上、『天国』という題名 がもっふたつの局面を説明してみましたが、 <pa 「 adis>> の《 dis> の部分に強勢アクセントをお いて、「言「てしまいなよ、それが述べられる近くには何があるのか教えてくれよ、と読むこ
1 なぜこの題をつけたのか。なぜ『天国』なのか。いろいろなレベルを想定して説明しな ければなりませんが、ます目につくのは西欧の文化伝統に対応するレベルでしようね。ぼくが 最初に注目したのは、フランス語では「天国。 (paradis) という語がまともに処理されたため しがないということです。ダンテの『神曲』には『天国篇』 (paradiso) があるし、スペイン 系キューパ人の作家レサマ ・リマも『天国』 (Paradiso) を書いている ( スペイン語をつかっ て <<Paraiso>> にしなかったのは不思議ですけどね ) 。そして英語ならミルトンの詩に『失楽園』 (ParadiseLost) がある。ところがフランス語では作品の題に「天国ーがっかわれたことがな 。そこでます最初に考えてみるべきなのは、フランス語が「天国」のひとつも産み出しえな かったのはなぜなのか、という問題です。その背景には宗教や神学の問題があるのだろうか。 フランス語は、失墜以前の世界に罪が侵人したということ、あるいは失墜と罪をへたあとの世 界には贖罪がもたらされたということをとりあけなかった。それはなぜなのか。こんなふうに 考えてみると、フランス語は、どうやって宗教の多重的成層とおりあいをつけているのか、と ラ・クーポル 286
本日の講演の題目として、最初は「ぼくはな。せ自分が快楽をおぼえるのか知っている」とい うものを予定していました。この題を英語に訳したら、またしても「快楽」 (jouissance) とい う語のむすかしさが露呈するということを、一瞬、わすれてしまっていたのです。事実なんだ から仕方ありませんが、この言葉を、ということはつまりこの物を、英語に置き換えるのに満 足のいく用語は存在しません ( 「エンジョイメントーとか「エクスタシー」というのは乙女チ 、クでいいかもしれませんが、それにはこだわらないことにします ) 。それに、聞くところに よると、ごく単純にフランス語の単語を英語に輸入する習慣が定着しつつあるそうですしね ( フランス語経由で、それもラカンが作ったフランス語経由での、英語におけるフロイトの回 帰とはこのことであり、それ以外のなにものでもないのです ) 。言葉があるから物がある。そ んなわけで、ぼくは、自分の性はフランス語に属すのだ、と言ったのです。マイ・セックス・ イズ・フレンチ。ぼくの性がフランス語に属しているのであって、話をしているぼく自身がフ ランス語に所属するのではありませんよ。ぼくが言いたかったのはね、レイディーズ、ジェン トルメン、自分の性について権利請求をするということではないのです。そんなことをするは すがないじゃないですか。事実はその反対なのです。問題は、この性というやつを放り出すに はどうしたらいいかというところにあるのです。いや、もっと正確な言い方をするなら、どう したら自分を性から脱落させることができるか、つまり自分を死から切り離すにはどうしたら いいのか、それが問題なのです。
学的破産」がささやかれたくらいだ。とよ、 冫しいながらも、ソレルスの敵も迂闊にはロを出せない。中断符 をばらまき、舌足らすな印象すらあたえるほどのス。ヒード感をもった文体が明らかにセリーヌとの類似を 演じているという点からしても『女たち』には近寄る者に火傷をおわせかねない危険な戦略が盛り込まれ ていることだけは誰にも否定できないからである。作品の流通回路のなかでアヴァンギャルドに運命づけ られた党派性、つまりごくひとにぎりのインテリにしか受容されない孤立の状況がもたらす倫理性を公然 と裏切り、アヴァンギャルドの閉鎖性は大衆によっておしつけられたものだと切り返し、大衆的受容の閉 ースペクティヴに据えなおすこと。「読 塞性をあばき、それと同時に『天国』までの小説を開放状態の。ハ みやすい」といわれ、じっさいフランス語を母語とする読者なら楽々と読み通すことのできる『女たち』 の文章には、通読の場合とはちがう、もうひとつのス。ヒードが組み込まれているように思えてくる。つま り『女たち』は、露骨な性描写、ラカンや。ハルトを偽名で登場させて知識階級の年代記を編むのと同時に、 読むこと 宗教、哲学、歴史、文芸批評など、どんな分野にも適応できる小説風ェッセイとして、じっくり のできる本にもなっているのた。 ソレルスの小説がわかりやすくなったということ、そして女性遍歴の告白をふくむ自伝的要素をふんた んに盛りこんでいるということは、現象的にみるなら八〇年代前半以降のフランス小説の動向とみごとに 一致している。なにしろ『女たち』が出た一九八三年頃というのは、ヌーヴォー ・ロマン系の作家たちが こそって「自伝」を発表しはじめた時期なのである (z ・サロートの『幼年時代』が一九八三年、・ロ 。フグリエの『戻ってきた鏡』と・デュラスの『愛人』が一九八四年 ) 。ソレルスが意図的に同調した のか、たまたまそうなってしまったのか、つまびらかにしないが、これがソレルスにとって新たな戦略の