ドウンス・スコトウス。やっと再検討されはじめたばかりの名前です。しかし、宗教は改革 できるとルターが考えたのは、主としてドウンス・スコトウスという仮想敵があったからだと ようするに、宗教改革とは、宗教の全面的否定に到達すること いうことを忘れてはならない。 を神学の論理がもとめているにもかかわらす、それを無視して宗教を存続させようとする態度 なのです。ひとがカトリシズムを警戒するのはまったくもって正しい。カトリンズムは全宗教 の否定にほかならないわけですからね。この点についてぼくがほんとうに意見を述べることが できるようになり、ぼくの意見が万人に認められたとしたら、そのときは大きな一歩を踏み出 。さて、〈無原罪の御宿り〉という考え方がありますけれど、 したことになるでしようね : あれは生殖を標的にして、特異な否定をこころみているわけです。それからもうひとつ、死の 内側を標的にした、とても重要な否定がある。しかもこれがカトリック教会が発布したなかで はいちばん新しいドグマにほかならないので、今日はそのことを話してみましよう。この否定 が明確に表明されたのはやっと三十年まえのことですから、ドグマとして定式化されるまでに すいぶん長大な時間がかかっているわけで、それがぼくにはとても興味深く思えるのです。 グマが認定されるのは、確実に否定が成り立っための条件がすべて満たされたときだというこ天 これは ( 精神分析のいう ) 否定と正反対ですね。排除の反対。あ とをます強調しておきたい。 聖 るいは倒錯的否認の反対。徹底操作が頂点をきわめ、精神病や倒錯がことごとく乗り越えられ た状態といってもいい ( だから、あの否定をまのあたりにした精神病者と倒錯者は未来永劫に
ありません。地平が崩れたとき、それを接合する役をはたすのは女なのですから。では、これ ほどの錯覚が可能となるのはなぜなのか、これほど重症の健忘症が起こるのはどうしてなのか。 何十万年も昔の人骨が発見されているのにくらべると、例の聖。ハウロの話、それから、これよ り少しばかり古いモーセの話などは、まるで昨日の出来事のように新しい話なのであって、何 千年ものあいだ、始原の多産女 ( つまり中心部に埋められたグレート マザー ) のまわりを堂々 めぐりしたあけくに、やっと何人かのひとたちが、突如として、「それにしてもばかけてるそ、 いつまでもこんなふうに堂々めぐりをしてはいられない」と考えるようになり、深みに沈む魚 のように朦朧とした頭のなかで、因果率の前後関係を逆転させることはできないのかと自問す るのです。「否定を押し進めてみようじゃないか」、彼らはそう考えた、「そうしたらどうなる だろうか [ 、とね。否定とは審判のことであり、審判とはひとつの希望にほかならない。だか ら否定をつかみとり、それをしつかりと握りしめ、必要とあれば明白な事実にたいしても否定 をつきつけてみよう ( だって、男が女から生まれたというのは明白な事実だし、まさか、聖。ハ ウロはあれをその目で見たことがないなんて仮定はまさか成り立たないでしよう ? これはあ まりにも明白な事実だからこそ、偽りでなければならないのです ) 。そうすれば、少しは風通 しがよくなるかもしれない。つまり、文章を書くとは、否定を押し進めるのとおなじことなの です。 ぼくは黙示録の地平のことを話してきました : 黙示録は、ヘブライ語で「ガラーといし 396
を考えることが禁じられるわけでもない。考えてみることによってドグマの正しさに気づくこ とになるわけたから、禁止する必要はないのです。ドグマに賛同するひとも、ドグマを拒絶す るひともおなじような怠惰にとらわれているわけですが、それでも、両者の怠惰が完璧に一致 するとはいえない。賛同するひとは、まさに賛同することによって、自分にはものを考える能 力がないということ、あるいは考える時間すらないということを認めてしまうわけですが、こ うして表明される謙虚さには見るべきところがある。逆に、ドグマを拒絶するひとは、自分に は問題の核心がわかっていると思いこみ、たいていの場合、すさまじい虚栄心におちいってし まう。そしてこの虚栄心のせいで、自分と同類のひとたちがつどう地獄に落ちるのです。ソク ラテスは人間である、ではなくて、たったひとりだけれど、死ぬことのない女がいる、そう措 定すべきなのです。そしてこの女を送りかえすのです。名前のなかに。そうすれば、三段論法 ばかりか、人類の宗教すら転覆させることができる。神学とは、つぎのような特性をもった論 理にほかなりません。①ます、宗教なき人類など存在しない、そしてそれが自覚できない人類 は最低たということを指摘するのが第一の特性。②どうしたら宗教を否定できるのか、その方 法を示すのが第二の特性。宗教の否定を徹底させるためには、ひとりの女がいて、しかもそれ が「唯一絶対の」女ではなく、名をあたえられた「ひとりの」女た、という奇妙な措定をおこ なわなければならない。そしてこの女こそ、罪なくして懐胎されたがゆえに死ぬことのないマ フ リアにほかならないのです。さきほどフロイトの盲目性のことを話していましたよね : 324
Ⅲ 『フィネガンズ・ウ , イク』。目覚めにして終末の否定。終末の否定が後に残した航跡であり、 夜を徹して終末の否定を見まもること。何の終末なのか。そして何がふたたびはじまろうとし ているのか ? それは、生殖が眠りにつき、ことばを話す人間を夢のなかに運び去る動きが一 段落したあとで、この眠りが終末をむかえ、そしてふたたびはじめられるということた。あら ゆる目的論の積極的否定にして、現在分詞。ジョイスはこう述べた。「歴史はひとつの悪夢で ある。ぼくはその悪夢から目覚めようと努めているのだ」、と。文章は複数の国語と、複数の国 語内で複数の主体が占める複数の発話位置とを通底させる最大公約数であり、またその最小共 通乗数にもなるというところから、緊急に新たな時制が必要になってくる。大現在 ( 現在以上 の現在 ) である。 ん、一 , ( 世紀に世界の無限性と多元性が考えられなかったのとおなじくらい考えがたいし、お なじくらい不敬なことなのだろう。『フィネガンズ・ウイク』のなかで頻繁にその名が引力 れているジョルダーノ・プル ーノは、そのせいで一六〇 0 年に火刑に処せられたくらいだ。だ が、火刑の理由はそれだけだろうか。もちろんそうではない。あろうことか、プルー ノは、聖 母が処女だったということを認めなかったのた。 126
たし、ローマがそれを恐れ、ロンドンはそう言明した。ニューヨークでもたびたび話題にのぼ るようになったし、それを嘆く声も聞かれる。神が、競争にたえるだけの力を回復したという のであります。神といっても、むろん、在来の宗教が語っているような、脅したりすかしたり の至上命令をあらわす古典的な神ではなく、狡猾で陰険で、ほとんど悪魔のような無意識の神 なのであります。われわれ人間は幻想にすぎないばかりか、自分の居場所と信じたところに身 を置いているのですらないということを、いつなんどき証明してしまうかわからないような神。 つまり、一応は性的といえる、とらえどころのない神ということなのでありますが、そうした 神が、わたしたちの身分を示す紙きれがきちんと貼り合わされていないところを突いて、その 暗黒面の真実を告けるという不意打ちを食わせてくるのであります。ですから、あの有名なジ ャリの一文を、このまえの教皇選挙会議にそった路線に修正しておかなければなりますまい すなわち、これからはポーランドが舞台になる、つまりどんなところでも舞台になるのだ、と いうわけであります。 よう一がない : 。奇怪で混沌とした運場 精神分析がたどった歴史はどうみても奇怪としかいし 相 ム叩とし力いし 、ようがない ( 否定と否認をへて回復にたどりつくわけだから ) ・ 。もうそろそ 9 : 。なにしろ、時 ろ、誰かが詳細な精神分析発達史を書いてみてもいいのではないだろうか : ・ 代はインフレの段階にさしかかっているのだし、そこには大暴落を告ける悪しき前兆がただよ っているかもしれないのだ : 。出版業界はあいかわらすの加熱ぶりだ。昨今の市場で抜群の
のふたつが多種多様な面で同等におこなわれうるということだ。そして性的快楽は暗号ででき ているのが明かされるということた。性的快楽が行為されると同時に語られ、しかも暗号文の かたちをとるとなれば、性的快楽は市場に流通しているという事実が、かならすや暴露されて しまうからである。ところが、あらゆる性の取引は交換価値によって成立するとはいえ、交換 価値が使用価値に転するのは、それが否定された交換の関数になるときにかぎられている。セ ックスは使用価値であり、この使用価値が交換価値をあらわにするという考え方には、セック スそのものに場所をゆする言説が内包されている。そしてこの言説は、否認や置換や「セック スについての言説」であることをやめ、分裂した取引操作自体の直接構成要素になるのた。 性的快楽を感じるのと同時に語ること。これこそ、いかなる人でも実感せざるをえないのに、 容認するのは禁じられていることなのだ。 だからエクリチュールは牢獄につながれる。そして、サドはこの事実が知れわたることを希 望している。七月十四日には、。 ( スチーユ監獄から民衆に訴えかけるという暴挙に出ているで 。なしか。ところで、獄中のサドが手紙を書き送るだけでなく、自分の著作をひとつのこらす 送りつけた相手は誰たったのか。あの法律家の妻である。サドにはこの女が暗黒面の力を隠し もっていることがわかっていたのだ。そして、この相手はでたらめな「女性のオルガスムーの 彼岸にも相当する。「女性のオルガスム、という幻想を保っためには男性同性愛とその。 ( ラノ ィアックな補整具の助けが必要だからである。けつきよく、サドは社会の秘密に封印をほどこ
な発見を明かしているのだ。じっさい、「ソドム」は、昆虫学者や解剖学者が得意とする詳細 かっ正確な描写に、じつによく適合する。プルーストは、男色を仮定すると見えてくる斜行の 身振り、ジェスチャー、動作、呼びかけ、誤解などの場面に何度も何度もたちもどる。。フルー ストが男色の所在をわりだしてから男色について考察をめぐらせるとき、そこにはかならす批 判的な面が見られる。しかし、否定的な判断をくだしているとはいっても、そこにはどちらか というと同情と寛大の響きがたたえられている。男色は自然の欲求であり、天理に反するとは いえ自然の法則にはちがいないし、社会がある以上は避けることのできない反ー社会性の法則 なのだ、そう述べているくらいなのた。ほとんどの場合、男色の状況はヴォードヴィルのよう に滑稽であるか、グロテスクであるかのいすれかである ( たとえば、ゲルマント公爵とモレル の遭遇 ) 。男色の肉体にあらわれるものは奇形性か醜悪性のいすれかなのた ( 「初老の男爵の太 鼓腹」、「うぬぼれて怠慢なうえに滑稽な態度」 ) 。男色の肉体がある種の美しさに達することが あったとしても、それは催眠状態で踊るときにあらわれてくるある種の決定要因によって、こ の肉体が支配されているときにかぎられる。「昆虫たち」は催眠現象の磁力にとらえられて、 ほかにどうすることもできないのである。昆虫は花にやとわれた使用人なのた。ところて ス のほうはどうなっているのか、考えてみなければ片手落ちになる。。フルーストの大胆な試みが← その斬新さを発揮する場はここにあるのだし、ぼくたちとしてはこの大胆な試みをさらに深め て過激なものにしなければならないからだ。 ( 女性的要素としての、あるいはプルーストの好 105
わたって仰天しつづけるしかないのです ) 。ドウンス・スコトウスによってものの見事に定式 化されたにもかかわらす、〈無原罪の御宿り〉はドグマのかたちにまとめられるまでに六百年 もの歳月を要した。そして〈無原罪の御宿り〉から必然的に帰結するはすの〈聖母被昇天〉が 決定的な飛翔をとけるまでにはさらに百年の歳月が必要だった。西洋文化があれだけの時間を ついやしたのは、〈聖母被昇天〉の否定を定式化できるようになるために、とりわけ厳しい治 療を必要とした、そういうことになるでしようか。ぼくが証明してみたいのは、このあたりの 事情をすこしでも理解したければ、 いうまでもなくフロイトが必要だ、というか、凡百の信仰 などよりもはるかに有益なフロイトの盲目性がなくてはならないのだ、ということです。 〈聖母被昇天 >• : ぼくの発言にふさわしい唯一の絵画として、ヴェネッィアにあるティッイ アーノの『聖母被昇天』を挿絵につかえたら、もちろん理想的です。神学の論理が不屈の論証 能力を発揮しえたのは美術のおかけなのだということが明らかになれば、ほんとうにすばらし いと思いますから。弱々しい哲学的否定とはちがって、神学的否定なら美術には何が賭けられ ているのか明確にしめしてくれる、そんなことができれま、 をしいなと思うわけです。とにかく、 真紅のティッィアーノをもとにして考えるかぎり、言語をその根本において回転させると、か ならす神学の論理を先取りすることになる、つまり実存という幻想を絶っものを先取りするこ とができるのだ、そう断言してかまいません。〈聖母被昇天〉は、フランス語の辞書をみると、 ちょうど「うんざりするほど退屈なもの」 ( a 芻 ommo 一「 ) という語と、「半諧音」 (assonance) 320
、ツラージュみたいに、われは真理なり、なんてことも言いま 8 で罪に問われたスーフィーの ) せん。ぼくには真理なんてわからないし、だからこそ、わからなければわからない分だけ、 「ワレ有ル」の論理をほんの少しでも的確に理解できるようになるのだ、そう言っているので す。行動、癖、挑発、恐怖症、チェスで一局まじえた相手にこのうえなく不合理だと思われて しまうような手を使うというやり方など、どれをとってみても、結局ぼくには真理がわかるよ 、ホク中国人。ぼくは自分の うになるのだ、そう告けるような印はひとつも見あたらない : 空白をひとに見せてやり、ゲームをすればいちばん最後に手を出すけれど、いちばん最初に勝 利をおさめるということですね。相手に、ほくよりは有利だと見せかけておいて、相手をおびき よせたりするわけです : : : 。残骸が渦を巻いているなかで、ぼくにとって重要なのは、自分の 樽をちゃんとっかんでいるということだけです : : : 。ぼくは世界の裂け目にのみこまれないよ うに努力しているたけなのであって、ほかには何もないのですが、そのせいでささやかながら インクの海ができてしまうから、ほかのひとたちは、ぼくのインクのなかで海のようにまとま ったものが存在するということを否定せざるをえなくなるのです。この否定は、先ほど話題に した否定とは別のものであり、信者が自分のいうとおりの信者になってくれないのですっかり 取り乱した女々しい神父の叫び声となんら変わりがないのです。ところがぼくは信者ではない。 ですから、おわかりのことと思いますが、われ偏在す、ということにかんしてなら、ぼく個人 としては、もっと深みのある表現しかっかわないつもりです。かりに聖書の神が「われ偏在
を結びつけてみたいのだけれど ) 。ともあれ、精神分析のあらわれる以前に精神分析の = 。ヒソ ードを語りつくした本があるとしたら、それはまぎれもなく『ドン・キホーテ』だろう。 物語などとるにたりないものだろうか。いや、物語にまつわりついた嘲弄を度外視して物語 そのものを肯定するならば、物語だってけっこう崇高なものになるのだ。これは精神分析のい 〈否定〉とはちがう。「わかってるよ、でもね : ・ : ・」というのとはちがう。物語の肯定にあ らわれているのは、賛嘆の念をわすれすに遍歴しないような者にはなにもわからないという意 いうまでもなく「騎士、つまり〈不可能 味の否定なのだ。そして、遍歴し、感嘆するのは、 なるもの〉の擁護者なのである。諸君、珍妙で不可思議な騎士になりたまえ。それがいやなら 由 。それだけのことなのだ。 死んでしまうがしし の それにしても不思議なのは、『ベルシーレス』があ「さり無視されたということである。『ペ重 ルシーレス』は、 ( セル、 ( ンテスの二年前に世を去った ) = ル・グレコのパロックの錯乱と紙 る ひとえの作品だからそうなったのだろうか。人間中心主義の物語は『ドン・キホーテ』を思慮あ 分別の書物に仕立てあけてしまった。しかし、『ドン・キホーテ』が思慮分別とはまったく無テ ルバンテスはリズミカルな火の馬 縁な、過剰を正当化する書物であるのはいうまでもない。セ セ にまたがって天にのぼっていく。