宗教 - みる会図書館


検索対象: 例外の理論
54件見つかりました。

1. 例外の理論

ドウンス・スコトウス。やっと再検討されはじめたばかりの名前です。しかし、宗教は改革 できるとルターが考えたのは、主としてドウンス・スコトウスという仮想敵があったからだと ようするに、宗教改革とは、宗教の全面的否定に到達すること いうことを忘れてはならない。 を神学の論理がもとめているにもかかわらす、それを無視して宗教を存続させようとする態度 なのです。ひとがカトリシズムを警戒するのはまったくもって正しい。カトリンズムは全宗教 の否定にほかならないわけですからね。この点についてぼくがほんとうに意見を述べることが できるようになり、ぼくの意見が万人に認められたとしたら、そのときは大きな一歩を踏み出 。さて、〈無原罪の御宿り〉という考え方がありますけれど、 したことになるでしようね : あれは生殖を標的にして、特異な否定をこころみているわけです。それからもうひとつ、死の 内側を標的にした、とても重要な否定がある。しかもこれがカトリック教会が発布したなかで はいちばん新しいドグマにほかならないので、今日はそのことを話してみましよう。この否定 が明確に表明されたのはやっと三十年まえのことですから、ドグマとして定式化されるまでに すいぶん長大な時間がかかっているわけで、それがぼくにはとても興味深く思えるのです。 グマが認定されるのは、確実に否定が成り立っための条件がすべて満たされたときだというこ天 これは ( 精神分析のいう ) 否定と正反対ですね。排除の反対。あ とをます強調しておきたい。 聖 るいは倒錯的否認の反対。徹底操作が頂点をきわめ、精神病や倒錯がことごとく乗り越えられ た状態といってもいい ( だから、あの否定をまのあたりにした精神病者と倒錯者は未来永劫に

2. 例外の理論

であるらしい エトセトラ、エトセトラ : つまり、シュ。ヒールラインの役割は、宗教 に一貫している秘術的な面を顕在化させるところにあったわけです。 さて、フロイトに話をもどすと、彼の有名なテクストのひとつに『偉大なるかなエベソびと のダイアナ』という論文がありますから、それを見ておきましよう。この論文が提起している のは、宗教の根本にかかわる地母神崇拝の問題です。そもそも、この女神を語らすして宗教を 語ることなどできはしない。地母神はどこにでも顔をたすし、信奉者の数がいちばん多いのも 地母神なのですからね : ・ そこで、フロイトはしばらくのあいだ目を開いて、死の女神にと ってかわったはすの愛の女神が、かっては死の女神と同体だったのはなぜなのか、考えようと する。こうしてあの有名なエフェソスの信仰に関心をよせていく。 ついでに言っておくと、ア アルト ーの母方の一族はエフェソスからほど遠からぬところの出身です : ・ ーのお母さ ゥーフラシ んはユーフラジーという名前だった : ューフラジーの〈完熟卵〉がひとりの偉大なフラン ス詩人を産み、この詩人が、宗教の根源とはどういうものか、はっきりと実感させてくれたわ けです ( ヴィョンやポードレールやアルトーのような最高の詩人をみればわかるとおり、偉大 なフランス詩人はほんとうに「実感」にうったえてくるものなのですよ ) 。アルト ーの場合、 ゥーフラシ たてつづけに排卵をおこない、流産をくりかえした例の〈完熟卵〉があって、それがアルトー の天才にまで跡をとどめているので、アルトーの書いた電光石火の文章がいくら同時代よりも 先を行き、宗教を料理する鍋を凌駕するものになりおおせているとしても、そこにはいつもユ 0 0 0 0 330

3. 例外の理論

ほかにどんな題をつけたら「ぼくはなぜ自分が快楽をおぼえるのか知っている」というのと おなじことを表現できるか考えてみたとき頭にうかんだ文は、「ぼくはなぜ自分が死なないの か知っている」、でした。ご覧のとおり、ぼくは皆さんから不合理だと思ってもらいたかった わけです。 2 よく考えなおしてみたら、この題によって、ぼくは粗削りな、そしてつかの間の直観を 表示したかったのだということがわかったのですが、この直観が教えてくれるのは、ぼくたち必 て 人間は自分の肉体と訣別できるという展望をたよりにして無意識的に快楽をおぼえているが、 知 これをやめるならば、死ぬのを避けることができるはすた、ということです。これがぼくたち をとらえてはなさない。ぼくたち人間の内実。ぼくたちは自分のことを熱烈に愛している。ぼる くたちは自分のことを熱烈に憎悪している。けれども、主体、つまり〈わたし〉が「わたし」 を を名のるときに「わたし」と言っているもの 「わたし , と「我」は別のものですからね楽 この主体は自分の肉体たけを生きているのではないのです。主体は到達しえぬ不死を約加 東され、宗教の神話だけがこの不死を保証するのだ、そう主張してもかまいません。いちばん 筋のとおった神話。 よ、ぼくの見るところではやはり、死者の復活であり、これがたとえばイン ドや仏教など、ほかのすべての神話にたいして、 ( 空白とか、空間や意識の消去、あるいは無 限といったものを考慮するのではなく ) 欲望をその根源にある言葉と声においてあっかうとい 407

4. 例外の理論

を考えることが禁じられるわけでもない。考えてみることによってドグマの正しさに気づくこ とになるわけたから、禁止する必要はないのです。ドグマに賛同するひとも、ドグマを拒絶す るひともおなじような怠惰にとらわれているわけですが、それでも、両者の怠惰が完璧に一致 するとはいえない。賛同するひとは、まさに賛同することによって、自分にはものを考える能 力がないということ、あるいは考える時間すらないということを認めてしまうわけですが、こ うして表明される謙虚さには見るべきところがある。逆に、ドグマを拒絶するひとは、自分に は問題の核心がわかっていると思いこみ、たいていの場合、すさまじい虚栄心におちいってし まう。そしてこの虚栄心のせいで、自分と同類のひとたちがつどう地獄に落ちるのです。ソク ラテスは人間である、ではなくて、たったひとりだけれど、死ぬことのない女がいる、そう措 定すべきなのです。そしてこの女を送りかえすのです。名前のなかに。そうすれば、三段論法 ばかりか、人類の宗教すら転覆させることができる。神学とは、つぎのような特性をもった論 理にほかなりません。①ます、宗教なき人類など存在しない、そしてそれが自覚できない人類 は最低たということを指摘するのが第一の特性。②どうしたら宗教を否定できるのか、その方 法を示すのが第二の特性。宗教の否定を徹底させるためには、ひとりの女がいて、しかもそれ が「唯一絶対の」女ではなく、名をあたえられた「ひとりの」女た、という奇妙な措定をおこ なわなければならない。そしてこの女こそ、罪なくして懐胎されたがゆえに死ぬことのないマ フ リアにほかならないのです。さきほどフロイトの盲目性のことを話していましたよね : 324

5. 例外の理論

れの状態をとらえ、おどろに乱れるたてがみをとらえなければならなかったということ。チェ スでビショップを使ってキングを詰めるようなものた、そう、えま、 しをしし 4 にろ一つカ A 」にか ) 、 今度ばかりは真正なる宗教の正当性をきちんと証明しなければならなかったのである。いつも のように四方八方からの攻撃にさらされた宗教のことを「真正」だと言ったのは、宗教は何ひ とつおのれの埒外に排除しない、天国と地獄、キリスト者の神と異教の神々、また神々の不在 と絶対神の不在など、どれひとっ排除することがないからである。空間を建築に作りあけても いいが、この空間には穴をあけてやるとしよう。空間の存在を批准してもいいけれども、同時 に空間の無効性を宣言してやろう。宗教の核心について手ほどきしてやってもいいが、秘術の ほうは完全に荒廃させてやる。ひとつ、問題の核心をあっかってみるとしよう。ただし、それ を舌足らすな文に綴ってェアシュートで送りつけてやろう。すこしばかり渦巻を披露してもか まわないが、それは、あらゆるものに気息がかよい、本来なら存在すべきはすの虚無の上には さらなる虚無がかさねあわされているということを教えてやろうと思うからだ。存在を通して 〈非ー在〉を投けつけてやろう。権力はその効力を失い、栄光には署名がほどこされ、すべて が馬のギャロツ。フのようなス。ヒードで進行する。だが、羽毛のような軽やかさも忘れてはなら よい。単一なるものも、多なるものも存在しない。何もないのだ。ああ、だからベルニーニを 見るたびに、どうしても泣けてくるのた。ベルニーニを見ていると頭が変になる。ぼくはベル ーニに夢中なのだ。 192

6. 例外の理論

章を書くのは、ひとりの「宗教的な」作家、ソルジェニーツインだということを予測すること ができただろうか。抑圧をおこなう国家にとって、精神分析は危険どころか、手助けにすらな るとみなされる日が来るということを、フロイトは想像することができただろうか。そして、 精神分析が抑圧の補助手段になりさがった場合、その仮想敵はなんだろう。それは、かりに宗 教のシニフィアンに同意してみたところで、やはり宗教のシニフィアンをおびやかさすには、 られないような〈なにものか〉である。はっきり言ってしまうなら、いまおびやかされている 宗教は科学信奉にほかならない。 そしていま、死後四十年になろうかというジョイスのことを、ラカンが症候だと述べている。 だが、ラカンは、はやくも一九三四年のモスクワで、ジョイスが精神薄弱の診断をくだされて いたということを知っているのだろうか。さらに、これから先、ジョイスがもしモスクワで息 をふきかえすようなことがあったなら、あの作家は奇怪な症例だから精神医学的に研究する必 要がある、それもラカン流に研究してもいいじゃないか、そんな事態が明日にでも到来するか もしれないということに、はたしてラカンは気づいているのたろうか。いまたからこそ、この 種の問題を明確なかたちで提起して、議論してみるべきだと思う。 なかでも重要な問題がこれだ。科学信奉としての国家理性、そしてあらゆる「例外」の科学 になりうる精神分析 ( 無意識は例外の状態にひとしいから ) 、このふたつがどうしても手にい れたいとひそかに望んでいるものは、けつきよく、カトリック教会のモデルなのではないか、

7. 例外の理論

こっても驚くな。特にばかけたことが起きても驚くな。四、誤謬を犯さないための唯一の方法 は、自分はつねに誤謬を犯していると考えてみることである。事前に予測できなかったケース よ、 いうまでもなく、ポーのような超文学的態度であり、それが仲間を置き去りにするための 助けになるというかぎりにおいて、この態度は時として自分が誤謬を犯しているふりをすると よ解けないままになる ころにつながっていくわけです。これは優れて反宗教的な態度です。謎ク のですから。いちばん宗教的なひとたちが、自分は宗教的ではないと考えているのはなぜなの か。これは謎ですね。セックスのせいた、と言われてしまうでしようね。ええ、もちろんそう なのです。彼らは自分たちの性は自然であると信じている。それにたいして何ができるでしょ うか。残骸たちは落ちていぎ、それが自然だと信じている。ポーは、こうした自然の混乱の渦 中における奇跡のことまで語ってくれています : 。ひとりの男が円柱をつかみ、そのおかけ で助かったという話。もっといいのは、。、 ノスカルのように、ルーレットやサイクロイドに興味 をもっことですけどね。なぜなら、そう、こうしたことはすべて、賭にかかわっているからで ノスカル す。「世界はお前のことを知らなかったが、わたしはお前のことを知っていた : : : 」。。、 はこの文書を衣服に縫いつけて隠しておいた。仰々しいことば遣いで、パスカルの「回心覚 書」と呼ばれているものがそれです。衣服に縫いこまれたこのちっぽけな紙きれは、ソクラテ A 」 スの鶏に似ています : : : 。ああ、いまは亡きメールシュトレームの夜、嬉し涙を流し : かなんとか言っちゃって : 。。ハスカルが肌身はなさすあれを縫いつけたのは、肉体は忘れて 402

8. 例外の理論

人間集団のナルシスティックな容認のさなかで炸裂する。そう、ジョイスがすべてのナショナ リズムを終焉させようと決意したのは、 ( ヨーロ ツ。ハにファシズムが勃興したように ) 国家主 義的危機がいちばん厳しい局面をむかえたときなのである。そして、ナショナリズムは、無意 識と国際社会のフィールドを標的にした二重の閉塞をその特質とすると考えて、 しい。だからこ そ、 ( 「マルクス主義、の旗印をかかけているときですら ) ナショナリズムは根本的に退行性な のであり、人種差別にもとづくありとあらゆる排他性に向けて開かれているのだ。 ジョイスは、ナショナリズムの解体をめざすたけでなく、 ( カトリック教会のラテン語、「マ ルクス日レーニン主義」の紋切型、ファシズム的妄想などがなければ耐えることのできない ) 抽象的で「万国公会議型」のインターナショナリズムよりも、はるかに遠い地点まで足をのば す。一九二一年から一九三九年にかけて、ジョイスが『フィネガンズ・ウェイク』によって作 りあけようとしていたのは、国家の枠を越えた活発な横断性た。ジョイスは、言語・歴史・神 話・宗教の痕跡をできるかぎり大量にかきあつめ、分解し、組み立てなおすと同時に、それを こう - 無効なものにしてしまう。ジョイスの書くもののなかには、もはや差異しか存在しない。 してジョイスはいかなる共同体にたいしても疑問符をたたきつけるのだ ( そして、ひとはそれ をジョイスの「判読不可能性」と呼ぶ ) 。 宗教の現象を探ろうとする執拗さが、たふんジョイスのいちばん重要な「政治的」動作なの だろう。全人類にいきわたった宗教という神経症的基盤からほんとうにぬけだした者が、はた 1 12

9. 例外の理論

1 なぜこの題をつけたのか。なぜ『天国』なのか。いろいろなレベルを想定して説明しな ければなりませんが、ます目につくのは西欧の文化伝統に対応するレベルでしようね。ぼくが 最初に注目したのは、フランス語では「天国。 (paradis) という語がまともに処理されたため しがないということです。ダンテの『神曲』には『天国篇』 (paradiso) があるし、スペイン 系キューパ人の作家レサマ ・リマも『天国』 (Paradiso) を書いている ( スペイン語をつかっ て <<Paraiso>> にしなかったのは不思議ですけどね ) 。そして英語ならミルトンの詩に『失楽園』 (ParadiseLost) がある。ところがフランス語では作品の題に「天国ーがっかわれたことがな 。そこでます最初に考えてみるべきなのは、フランス語が「天国」のひとつも産み出しえな かったのはなぜなのか、という問題です。その背景には宗教や神学の問題があるのだろうか。 フランス語は、失墜以前の世界に罪が侵人したということ、あるいは失墜と罪をへたあとの世 界には贖罪がもたらされたということをとりあけなかった。それはなぜなのか。こんなふうに 考えてみると、フランス語は、どうやって宗教の多重的成層とおりあいをつけているのか、と ラ・クーポル 286

10. 例外の理論

器用貧乏について匂いについて。 用件はあしたにしよう良心について。 書物について残酷について。 おのれの意志を節約することについて跛について。 人相について経験について。 さあ、これで調音は終わりだ。機械が動きはじめる。時間をさかのぼり、時間を溶解させる 柱時計のように。さまざまな意見や立場、体系と観点。人名。哲学や逸話や詩作品。そして偏 見。 こうしたものをひとつのこらすのみこんで、数をかそえ、かみくたく数字の運動が、 いま始まろうとしている。題材が広大できりがないだって ? そんなことはもう怖くもなんと もない。判断がくりひろけられる場とは輝ける空虚の場なのたということをわきまえ、この空 虚の場を占拠するという重要目的が達せられたからである。喜劇はあくまでも喜劇であり、こ れからは、。 とんなことでも喜劇と関連づけられる。小説と演劇。哲学と宗教が誹謗してやまな いのはほかならぬ小説と演劇なのだし、このふたつの形態があるからこそ、哲学と宗教のいた く怨恨がいつまでも更新されていくのだ。自由意志による屈従とは、た「たいま「わたし」自 身のなかで中心の力がこわされ、その結果おなじ力が「わたし」の外側でもこわされたという のに、そのこわれたはすの中心に向かっていこうとする磁カ以外のなにものでもない。モンテ